九話 愛し想ひに贄を捧げん(流血、残酷描写注意)
「……あ?」
いつまでも感触の伝わって来ないそれに疑問を覚えたラルドは、怪訝な顔で自分の腕へと視線を移す。
そこでやっと右肘から下、そこに本来あるべきものが無くなっていることに気づいた。
「っ!? 腕がっ、腕がああっっ!?」
噴き出す血を止めようとしたのか残った手を断面に当てがうものの、指の隙間から溢れる液体はまるで止まる気配を見せない。
「ぐぁぁっ……お前っ!?」
痛みに足を縺れさせ尻餅をついたラルドは目を見開く。
その視線の先にいたのは、一人の少年。
銀色の髪を風に靡かせ佇む彼の手には、ラルドから斬り落とした右腕が握られていた。その付け根、断面部から滴る血が地面を濡らし岩面を赤黒く染め上げている。
「とっ、突撃しろォォッ!!」
兵団の中から吶喊が上がった。弾かれたように動き出した兵達は一斉に少年へと刃を向け走り出した。
「お前らっ、早くこいつを……がぁッ!?」
仲間の元へ行かんとしたラルドはしかし、凄まじい力で身体を持ち上げられた。
鼻の先に現れたのは、凍えるような殺気を孕む白銀の瞳。
「……僕はきみ達に謝ったんじゃない。父さんと、母さんに謝ったんだ」
「ひッ……」
ラルドの襟ぐりを掴んで、少年はそう呟いた。
そしてそのまま彼は静かに、嗤う。
「……ははっ」
──自分の中の『何か』が壊れたのが分かった。
今まで必死に押し込め、畏れてきた筈のそれは、溢れてしまえば狂おしい程に渇望する狂喜でしかなくて。もう抑えることなんて出来ないのだと、本能的に理解してしまった。
「…………」
岩の周囲から兵団が迫る中、スイは掴んでいた襟をおもむろに離した。
「がはっ……! はっ、はぁ……」
倒れ込んだラルドを無表情のまま見下ろすと、ゆっくりと足を上げて、一言。
「さようなら」
「ッ!?」
岩下へと突き落とした。
「ぐあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ──」
斜面を勢いよく転がり落ちていくラルド。
その先には岩場を凄まじい勢いで駆け上がる兵の大群があった。
落下してくる隊長に気づいた先頭の兵が直ぐに止まるよう後方へと呼びかけるが、全速力で進んでいる五百もの歩兵が一斉に急停止なんて出来る筈もない。
「おいだめだっ! やめろッ、前進停止だ!! 頼むから止ま──ぐああああぁぁぁぁッ!?」
そんな乞うような叫びも虚しく、次の瞬間には巨大な落石と化したラルドが兵団に直撃。人波の一角が雪崩の如く崩れ始め、雄叫びに包まれていた大群から悲鳴の合唱が上がる。
「止まるなぁっ! 隊長の仇を取るのだ!!」
しかしながら、例え落石の雨中と言え母数が多ければ潜り抜ける者も現れる。
スイは足元に突き刺さる矢を引き抜き、迫り来る兵へ目を向けた。
先鋒の一人が剣を振り上げた玉響、
「ウオオォォッ……!?」
投擲された矢が兵の首を撥ね飛ばした。
「なっ!?」
手首を解して白雷を纏ったかと思えば、次いで突撃した四人が臓物を撒き散らし転げ落ちる。
「嘘、だろ……?」
一人の兵が震える声を洩らした。五百もいた仲間は既に半分程に減っており、その中でも隊の精鋭達が今、目の前で容易く殺されたのだ。
「ぐあぁッ、ぁぁぁ」
恐怖に足を止めた兵達の視線の先で、また一人。
副隊長の腹部が貫かれ、そのまま胴が真っ二つに斬り裂かれた。
薙ぎ捨てられた死体が転がり落ち、巻き込まれた仲間の悲鳴が木霊する。少年に迫っていた大群の士気は、完全に消え失せてしまっていた。
湿った熱気と砂塵、纏わり付くような生臭さが辺りに充満していく。
「…………」
──頭が冴えていき、身体が軽くなるのが分かる。
ひとり佇む少年。
彼は、忘れもしない『あの臭い』を思い出していた。
怒りとも絶望とも言えぬ情動に身を委ね、どこまでも深く狂気に塗りたくられた純白の瞳を、静かに細めた。
***
「……んん?」
耳元で唸る風の音に気づき、目を開けたフウはゆっくり瞬きをすると頭を動かした。
「お兄ちゃん……?」
顔を上げると見慣れた青い輝きを放つ銀髪が目に映った。
「フウッ! 大丈夫? どこか痛いところとかない!?」
フウが起きたことに気づいたスイはそう言ってぺたぺたと肩や腕に手を当ててくる。
いつものテンションであれば、何すんじゃいっ! と叫びながらどつく所だが状況が呑み込めていないフウは疑問符を浮かべながらされるがままになっている。
「あ、うん。大丈夫だけど……竜馬? えっ、と……」
二人は竜馬に乗り、レグヌム山脈付近の隘路を駆けていた。
頭上を覆う空は朱色に染まっていて、かなりの時間気を失っていたと分かる。
「ねぇ、お父さんとお母さんは……? 私たち、軍から逃げて、それで……」
徐々(じょじょ)に起き始めた頭を働かせ、記憶を辿る途中で口をつぐんだ。
スイが居た堪れない程に悲愴な表情をしたからだ。それが示す結果はただひとつ。
「…………」
黙り込むフウにスイが口を開いた。
「ごめん……父さんと母さんを、助けられなかった。僕が見たときにはもう……」
「……っ、いいよ。分かってる。お兄ちゃんのせいじゃない」
両親は言っていた『逃げろ』と。『愛してる』と。
そして、『生きて幸せになって』と。
それはきっと己を犠牲にしてでも二人を守りたかったからなのだろう。だからこそ、逃げろと手紙を残し出て行った。
ならば自分達のせいで彼らが危険を冒すことなど、ましてや道を外すことなど、両親は望まない筈だ。そう思うと、フウはどうしようもないままに歯を食い縛るしかなかった。
──だが、
「……もう、遅いよ」
スイの頬へと手を伸ばし、そこに残る乾いた血痕を指で拭う。
──己の中にある何かが溢れ始めたのが分かった。
「……向かって」
「……え?」
そしてそれは餓えた『彼女』を呑み込んでいく。
「家に、向かって」
スイが目を見開いた。その表情は驚愕に満ちている。
「フウ……? 何言ってるの、僕たちは追われてるんだよ!? 家に戻るなんて自分から捕まりに行くようなものだよ!!」
「…………」
──そんなことは分かっている。
「父さんと母さんは、そんなこと望んでな……」
「分かってるよ!」
スイの言葉を遮って声を荒げる。出来るものならば、フウだってそうしたかった。両親の想いを無駄になどしたくなかったというのに。
「今更、遅いよ……だって──」
血のついた指を差し出す。
それはまるで、スイを指差すように。
「もう、壊れちゃったんだから」
フウの顔には先程まであった幼さがなくなっていた。
「っ……」
虚ろに開かれた碧空の双眸には、底冷えするかのような狂気が蠢いていた。
フウは拭った指の血を燃やすと瞳を細め、笑みを浮かべる。
「家に、向かって?」
「……ッ」
有無を言わさぬ気迫にスイは従わざるを得なかった。
その瞬間、陽が沈んだ。
少女を照らしていた燃えるような朱は陰に溶け、冷たい宵闇が世界を埋め尽くしていく。
──それは静かに、確実に広がり始めた。




