兄②
逃げた。
あの子が私から逃げた。
ねぇ。
許せないんだ。
怖がって逃げたんだよ?
袖を引く制止に気がつかないふりをした。
名前を呼んで捕まえる。
私から逃げたりしちゃダメだよ。
パニックに思考が乱れてる。
ねぇ。落ち着いて。
怖くないから。
「ダメだよ。落ち着くのは君だ」
友人の声に視線を上げる。
そこはいつの間に移動したのか、チームのスペース。転移させられたことに気がつかなかった事実がチリリと苛立ちを刺激する。
予知を得意とする彼の心は見えにくい。対策用の枷を使っているのもあるのだろう。
「あの区画を精神汚染すれば少々マズイんだよ。犯罪者としてはあそこは怠惰がメインの軽犯罪者ばかりだからね」
揉み消し難いと笑っている。
「今期の管理担当官は父だしねぇ」
足元を掬われるのはごめんだと笑う。
甘言に乗りすぎたのだろうか。
大きな犯罪に巻き込まれることなく、管理された場所ならいつでも弟を見ることができると囁かれた。
養父母が、彼のための税の納付を行うことを止めさせて、追い込んだ。
酷いことにならないよう干渉すると約束して。
縋る眼差しの養父母に反省しているならすくい上げると約束して。
反省するようなことはないと知っていながら。
私は弟を孤立させ理解させたかった。
助けられるのは、受け入れるのは私だけなのだと。
それなのに。
それなのに。
そのために、力の精度を上げ、綺麗に取り繕う人格者として振る舞って、それなのに。
逃げた。
怯えた。
その心は他の誰かへと微笑みかける。
私との距離をただ広げながら。
「許せないんだよ」
弟は恐慌なく意識なく腕の中でまどろむ。
いらない。
他を見る力はいらない。
いらないものは全部その中になくていい。
私の声だけ聞いて。
私のことだけ見て。
私にだけ笑って。
私だけを望んで。
「ねぇ。欲しいのは人形なの?」
友人の声。
意味が届かない。
「僕は僕に都合が良ければ、人形でも構わないんだ」
睨みつければやわらかく微笑まれる。
「それは、人格侵害。犯罪だよ。もちろん、匿える部屋をあげる。君が僕に都合が良い人形でいてくれるなら、トモダチの秘密は守るよ」
私はなにをしてる?
絡みつく鎖が捕らえたのは私を捕まえる餌としての弟?
「自由なんて与えなかったよね」
どこにだって監視干渉カメラはあるしと友人が笑う。
どうしてか自信を持てない弟がゆっくりと本来の色を取り戻していく姿は嬉しかった。
目が離せなくて端末に定期的に情報受信していた。
早く、迎えに行きたかった。
なんて罪深い。
追い込んで逃げ道を潰して逆に囚われた。
「悪い子だ」
弟はまどろみの世界からまだ目覚めない。
いらないものは全部なくそう。
全部私だけでいい。
だって、私がどんなに呼んでも届かないんだろう?
私がこんなにお前だけを望んでるのに。
どんなに呼んでも届かない。
それはどっちの呼び声だったんだろうか?




