走る
「なっ………!!」
「なぁ、俺と元に戻らないか? また、お互い好き同士に戻ろう」
そこには元婚約者がいた。
ーーー駅から家への帰り道、歩いていたら建物の影へ手を引っ張られた。
ふいの事でそのまま引っ張られると、ついこの間婚約破棄して会わない約束になった元婚約者がいた。
文書で約束して、会ったら罰金という事になったはずだ。弁護士さんにもそういう風に決めてもらったはずだ。万が一という事もあるから、と。
「何言ってんの? 優香さんがいるんでしょ?男女の私より美人で優しくて女らしいんでしょ?」
混乱しながらも元婚約者の新しい恋人を指摘した。
そうじゃない、そうじゃない!
ギリ、と強く奥歯を噛み締めた。
目の前の元婚約者の顔は正直異常だった。目が真っ赤に充血して少し飛び出たようになっている。それでいて真顔で口調は冷静だった。私の腕を掴む手はものすごく力がこもっていて痛い。
怖い。
「俺な、分かったんだ。俺にはお前しかいなかったって事。優香なんてもういらない。あんな俺の金目当ての女。お前との愛が真実の愛だったんだ」
こいつの新しい恋人優香が金目当てなんて知ってた。
というか、私は必死で訴えたのに聞かなかったのはこいつだ。
なんでこんな奴と結婚なんて考えてたんだろう。
勝手な元婚約者の言い分に呆気にとられた。
そのせいで反応が遅れる。
「ちょ、ちょっと!」
キスしてこようとしたのをギリギリで押し返す。
慌てて押し返したから結構強い力になった。
元婚約者が汚い土の上に尻餅をついている。
相手の充血した目がスッと細められた。
「痛いな! おい、男女のお前も俺を拒否すんのか!」
元婚約者が尻餅をついたままポケットから何か取り出し手を左右に引くと…………それはキラリと街灯を反射して暗闇に光った。
鋭い光刃物………?!
「ひっ!」
私は建物の影を飛び出していた。
なにあれ! 刺される!?
なんで何も私は悪いことしていないのに!
「助けて誰か助けて!」
助けを呼びながら、今来た道を駅に向かって走った。
「誰か助けて!」
10分位の道のりだけど、駅まで行けば交番がある。さっき通りかかった時は警察官がいた。
私はとにかく走っていた。
周りの音は聞こえない。
男女と言われた私。
今でこそOLをやっているけれど、陸上部で長距離の選手だった。
「誰か助けて!」
叫びながら走ってもあいつには負けない。
男女と私をバカにしてきたあいつには負けない!
目の前に駅前の大きな交差点が見えた。
正面の青信号が点滅して赤に変わりそうだった。
渡り切れる!
交通の迷惑だけど、ごめんなさい!
私は心の中で謝りながら交差点を駆け抜けた。
「先輩!」
誰か交差点の向こう側から聞きなれた声がする。
「君! 止まりなさい! 刃物を捨てなさい!」
「危ない!」
交差点の喧騒の中、聞きなれた安心する声がする方に駆け寄る。
相手は手を広げて受け止めてくれた。
その瞬間、後ろの方で大きなブレーキ音とドン!という何かぶつかる音がした。
…………すぐ後ろを振り返りたかったけれど、一度抱きとめられて止まってしまうともう動けない。腰も抜けた。
「あ、助けて。警察、助けて。追われて、私!」
整わない息の中でそれだけ告げる。
「大丈夫、先輩。大丈夫ですよ。もう怖いのはいなくなりましたから」
穏やかな落ち着く声にやっとの思いで顔を上げると、そこには高校大学と陸上部の後輩がいた。
「大丈夫。もう心配いらないですよ、麻里香先輩」
「怖かった、怖かった。刺されそうになって」
高校、大学と地元の後輩。年下で男だけど友情を感じていた。元婚約者がいたから、学校を卒業してからは一切連絡をとってなかったけど………。
やっぱり、知った顔は安心する………。
あれ、なんだか目の前がくるくる回る………。
+++
あれから、気を失っていたらしい私は病院で目を覚ました。
傍にはお母さんとお父さんがいた。そして、何故か後輩もいた。
体には特に異常はなかったものの、強いショックを受けたことから何日か念の為入院になった。
後輩はマメにお見舞いに来てくれている。
病室は後輩の持ってくる花とお菓子でいっぱいだ。
「先輩、今度はバウムクーヘンですよ!」
「もう本当にお菓子持ってくるのやめて。太っちゃうから」
病室の扉の陰からお菓子の包みと共にひょっこりと顔を出した後輩に注意する。
このままだとお腹のお肉が半端ないことになりそうだった。
後輩はサッと包みを解くと、器用にベッドのサイドテーブルの上でバウムクーヘンを手で割った。
豪快に大きく分けたものをお皿に載っけて差し出してくる。
「じゃ、次からは花だけにします………」
「うん、まあでも、ありがとう。これ前から食べたかったの。これ、人気だから並んだでしょ?」
結局差し出されたものを食べてしまう私だった。
バウムクーヘンに端からかぶりつくと、外はかりかり中はふわっとした程よい甘さが口いっぱいに広がる。
フォークを使わないのは行儀悪いのだけど、金属の食器やキッチン用品はあのナイフの輝きを思い出して使えなかった。
「あ、そういえばさ」
バウムクーヘンを食べながら、さっき思いついた事を言おうと後輩に首を傾げる。
「なんですか?」
後輩もベッドサイドでバウムクーヘンをかじりながら私と一緒に首を傾げた。
薄茶の髪と目とその雰囲気が相まってワンコな様子が微笑ましい。
「今さらだけど、なんであの時あそこにいたの? 地元だけど、隣の駅だよね?」
さっき顔を洗いながら思い出したのだった。後輩は同じ地元だけど、利用している駅は隣の駅だった。
あの時あんなに都合よく私を受け止めてくれたのはなんでだろう?
友達に会いに来たとか………?
「ああ、それですか。………つい最近引越してきたんです。いい物件が見つかったから。駅近で安かったし」
「へー、良かったね。あの時は本当にありがとう。その、助かった」
あの時、後輩が抱きとめてくれなきゃ、転んでたかもしれないし、振り返って………トラックに轢かれた元婚約者を見ていたかもしれない。
私は軽く頭を振った。
思い出したくない。
「僕も先輩に会えて嬉しかったです。その、あの、気になってた先輩に会えて」
「え………」
誤解しそうな言葉に後輩を見つめると、困ったような顔をして俯いた。
わんこ系男子の顔は真っ赤になっている。
「すみません。こんな時に卑怯ですよね」
「え、ううん。えっと、あの、その」
病室の温度が2、3度一気に上がった気がする。
何か暑い。
後輩が俯いたまま、パッと立ち上がる。
「風みたいに走る先輩の事、ずっとずっと好きでした。走り終わって晴れやかに笑う先輩の笑顔、好きです。好きです! また、来ます!」
一方的に叫んで後輩は自分こそが風のように去っていた。
私は呆然として後輩を見送る。
あんな大事件が起こったのに、もう私の心は後輩で占められ始めていたのだった。




