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「あっ、礼御さん。おかえりなさい! 大丈夫でしたか!?」
カラオケ店に戻った礼御を迎えたのは心配した姫菜の声であった。店の裏口が開く音と共に礼御に駆け寄ってくる。
「え? ……ん、大丈夫だったよ」
ぼんやりとした口調での報告に、姫菜は小さく首を傾げて怪訝な表情になった。
「? 本当ですか? 怪我とか…していないですよね?」
「うん、平気だよ。殴り合いはおろか、言い争いもなかった」
そう言って礼御は軽い笑い声で姫菜を安心させようと努めた。
……そう。何もなかったんだ。俺があいつを追って行き。そして彼らは―――。
「嘘? 本当ですか、それ。信じられません」
戻ってきた礼御を見た姫菜にはどうにも感じてならないギャップに混乱していた。彼女の日常とはかけ離れた、それでもどこにでもある非日常を追った礼御。それなのに戻ってきた礼御はどうだろう。必死に何かをやってきたようには感じられず、何もできずに疲れ果てて戻ってきた風でもなく、彼はただ平然と帰ってきたのだ。
なんだか、礼御さん……。変だ。
その感情から姫菜は礼御にあの後どういった経緯となったのかを尋ねずにはいられなかった。
「礼御さん。あの後、どうなったんですか? あの男の子は大丈夫でした?」
その質問に礼御は一瞬ぽかんとした表情となっていた。
え? 何、その顔?
当然、姫菜も礼御がそのような反応をすると思っていなかったので眉をひそめてしまった。
それを隠すように礼御が慌てて彼女の質問に答える。
「あぁ、あの少年ね。いや、大丈夫だったよ」
「見つかりはしたんですね」
「見つけたよ。陸橋の下でさ、仲直りしてた」
それを聞いて姫菜はまさか、と驚きと疑問を持った。
「喧嘩とか、していなかったんですか?」
「そうなんだよ。意外にもね。俺も…意外でさ。その光景を見たときは、『えっ?』って思ったよ。でもなんだか少年の方が素直に謝ったみたいだね。あの大学生達も、結局は学生なわけで無駄な喧嘩をするほど間抜けじゃあ、なかったみたい」
確かに学生の達の悪さなんて、本当に達の悪い人と比べるとお遊戯みたいなものだ、と姫菜は感じている。謝ったからといって許さない。あの大学生たちはそんな人間の集まりではなかったということだろう。
えぇ、でも。と姫菜は彼らの様子からどういった人の集まりかを想像する。大学生は確かにバカなやんちゃをする生き物だ。でも本当にバカなやんちゃをする学生もいれば、そこにはやはりやってはいけないやんちゃをする奴だっているのだ。ではあの達の悪い学生集団がどちらかというと、恐ろしくグレーゾーンだ。ほとんど黒に染まっていると言っても過言ではないかもしれない。それなのに歳下で一人の少年にあんな口のきき方をされて、そして謝られたからといって穏便にことを済ますだろうか。
姫菜にはどうにもその絵が浮かばなかった。少なくともたこ殴りにして憂さを晴らすくらいはするのではないだろうか。
つまり姫菜から見たあの集団は、馬鹿な喧嘩をするほどの間抜けなのである。
「礼御さん、嘘をついていませんよね?」
すると礼御は「いやいや」と小さな笑みをこぼしながらそれを否定する。
「ついてないよ。それにほら――」
礼御は両手を広げてアピールをしつつ続ける。
「どこにも争った跡なんてないでしょ。それに喧嘩を止めたのだとしても、戻ってくるには早すぎじゃないか?」
そう言われればそうなのである。礼御は姫菜が思った以上に早く帰って来たのだった。その予想との差から、姫菜は礼御が助けを求めて戻ってきたのではないか、と頭によぎらせたほどだった。
そのため礼御の言葉にある信憑性のようなものに姫菜は従いつつあった。
「まぁ、確かに」
「そうだろ。さ、ちょっとサボっちゃったからね。勤務に戻らないと」
そういって礼御は姫菜の視線から逃れ事務所に入っていく。そしてそこに置いてある鏡を覗き、自身が客前に出られる恰好をしているかを確認し始めた。
そのありきたりは動作に姫菜は強引に安心させられているような気分であった。解せない部分はあるのだ。それでも彼がそこで嘘の報告をしても意味がないし、と彼女もまたその経緯を受け止めることにしたのである。
「まったく。今度同じことがあったら、メナはただちに警察へ通報しますからね」
礼御を追って事務所に入りつつ姫菜はそのようにぼやくと、鏡越しに礼御の顔を視界にとらえたのである。
その一瞬の表情。
姫菜は何も声に出さなかった。それほどの驚愕が映り込んだのではないのだ。ただただ、身体が瞬時に強張った。
冷やかな無表情。その目は何も捉えず、その鼻はただの突起であり、その口は力なく閉じられていた。
本当に大丈夫なのか。という想いと共にどうしても大きく主張する怖いという感情。
姫菜はそれを払うように礼御に声をかける。
「れ、礼御さん」
「お、どうした?」
そう言って振り返った彼の表情は、普段となんら変わりない微笑んだような柔らかいものだった。
「い、いえ。別に。…今日はもう、トラブルは御免ですね」
なんて上手く誤魔化せたかどうか姫菜本人にはわからなかったが、礼御は何も気にかけた様子はない。
「本当に。さっさと朝にならないかな」
「今日も一緒に朝食どうです?」
「いいね。ちょっと気疲れしたかも。もう、割と空腹だよ」
そんな会話で二人はカウンターに戻るのだった。
やっぱり見間違いだったんだ。一瞬、無表情になることなんて、誰にでもあるよね。
姫菜はそう思って気持ちを上書きするをした。丁度そのとき店の入り口が開き、またも頬を赤らめた団体客のお出ましである。姫菜はカウンターを礼御に押し付けると、逃げるように使用後の部屋の掃除へと向かった。
その後は二人の希望通り、大したトラブルもなく朝を迎え、礼御と姫菜の勤務が終わるのである。