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「ああ!? 今なんか言ったか、お前?」
阿呆の騒音は一瞬でガラの悪い騒音へと変貌していた。スロット台に群がっていた学生たちが別のものに集まっている。最近流行っているらしいアイドルのどこか聞き覚えのある曲がやけにその場の雰囲気を乱していた。
「邪魔だと言ったんだ。聞こえなかったのか?」
淡々と挑発染みた言葉を吐くのは先ほどの少年だった。手をズボンのポケットに突っ込み、わずかに頭を垂れている。おそらく上目で睨んでいるのだ。
「あ? なんだぁ、こいつ」
「ガキが。調子にのってんなぁ!」
そんなありきたりな挑発に彼らは当然のように乗っていた。それもそうだろう。相手は自分達より年下で一人だ。そんな者がああいう口の聞き方をしていたら、どう考えても穏便に事は進まない。
礼御は硬直していた身体をほどき、姫菜の方を見た。目を丸くして見るからに焦っている。いくら深夜のバイトであっても、このような争いを見たことがないのだろう。かく言う礼御だってそれは同じだ。礼御が姫菜の方を見たのは特に意味はなかったが、彼はとっさに彼女を巻き込んではいけないと判断し、一人で争いの中に向かう。
「そんな歳で何が迷惑かもわからないのか? 間抜けもいいところだ」
少年はなおも多勢に向かってそんなことを言っていた。スロットを打っていた学生も立ち上がり、全員で少年を取り囲み各々が暴言を吐いている。それでもその中心の少年は言動を改めることない。ただ自分の不満を口に出していた。
おいおい、やめてくれよ。
集団に店員として近づく礼御は何よりも少年が怖いと思った。衝動的にあんなことを口走ってしまったのなら、素直に自分に助けを求めてくれればいいのだ。引っ込みがつかなくなったのか、このままでは暴力を交えたものに発展しかねない。そんな面倒は礼御だって御免だった。
「あの、お客様…ちょっとよろしいですか?」
礼御は営業スマイルでおずおずと下手になり学生の一人に声をかけた。こんなときどうしていいかもわからず、とにかく少年と学生の間に入らなければと思いとった行動である。
しかし話しかけた相手も相当頭に血が上っているらしい。深夜、群れ、一見して判断した弱者。そのような条件が相まって、この状況を無関係の店員に邪魔されたくないのだろう。その学生は一人礼御を連れて離れ、その場のいざこざに礼御を介入させまいとしてくる。
礼御が必死でこの場を解放しようと、何が起こったのか、とりあえず落ち着こうといった話しをしても、その学生は聞いている振りをしてまったく聞く耳持たずであった。場は一層嫌な方向へと盛り上がる。激しい怒りや単純な愉快さは、少年がぼそりぼそりと罵る言葉に反応を起こし燃え上がるのだ。
本当にやばい、と礼御が思い強行して止めに入ろうとしたとき、すでに状況は悪化しきっていた。
「なぁ、ちょっと外にでも行こうぜ? 店の邪魔にもなるしな」
一人の学生のそんな言葉に、少年を取り囲んでいた他の者も笑いを持って賛同する。礼御を集団から引き離した男の顔もあくどい笑みを含んでいた。礼御はいい加減謝ってくれ、と心の中で少年の次の行動を願ったが、そんな想いが通じることはなく、少年は「あぁ」と怖れのまったく現れていない口調で同意してしまった。
「店員さん、騒いでごめんな。俺らもう店の外に出るから、仕事に戻ってもらっていいぞ」
礼御の隣にいた男子学生がそんなことを言って礼御の肩を軽く叩いた。言葉の通り、学生の集団はまるで連行するように少年を囲んで店の外に出て行った。
一人取り残された礼御は追うべきか、これ以上は業務外かと混乱しその場に立ちつくし、真っ当な文句が彼の中に浮かぶ。
なんだってこんなことに巻き込まれなくちゃいけないんだ。やっぱり深夜のアルバイトなんてやるものじゃないな、姫菜の言う通り馬鹿ばかりだ。あの少年も少年だ。何も自ら喧嘩に誘導するような発言をしなくていいじゃないか。変だとは思ったが、やっぱり変だ。あの余裕はなんだ。あんなの普通じゃないぞ、絶対。…普通じゃない?
「あの……礼御さん?」
礼御の後方から声をかけてきたのは姫菜だった。礼御はハッとして彼女の方を向くと、そこには安心と心配が入り乱れた表情があった。礼御が標的に追加されなかったことは喜ばしいが、あの少年がこの後どんな目に会うか想像に難くない。そんな顔をするのも頷ける。
礼御は慌てて行動しないためにも、一旦姫菜を連れてカウンターに戻った。幸いにも騒ぎを聞き付けた客はいないらしい。騒ぎのさった受け付けはずっと静かになっていた。
「警察に連絡した方がいいんですかね?」
それは姫菜からの提案だった。礼御もそれには賛成であるが、警察に連絡するという行動なんて今までの人生でなかったことである。即座にそれを採用することはできず、「そうだな」と呟いた後、一応――この一応というのがとても重要だ――先輩スタッフの意見を聞くことに決めた。事務所に籠っているとはいえ、そんな厚い扉で仕切られてもいないのだ。騒ぎの一部始終くらい筒抜けだろう。
しかし先輩と言っても礼御や姫菜よりいくつか歳が上なだけで、彼もアルバイトの域を出ていなかったのが悩ましい。困った後輩が事務所に入ると、彼は咄嗟に目を逸らし「何だ?」と白々しく聞いてくるのだ。礼御はおいおい、と不安を胸に事のあらすじを粗末に話したのだが、彼は「警察に連絡すればいいんじゃない? 俺勤務終わっているし自分で考えろよ」なんて言うのだった。そのときの姫菜がどんな顔で彼を見たかは説明不要だろう。
この人は当てにしちゃいけない、と礼御は直感し自分の荷物から携帯電話を取り出し姫菜に言う。
「ちょっと見てくるよ。その間カウンターとかお願いしてていいかな?」
「え? ……それは大丈夫ですけど、礼御さん大丈夫ですか? 素直に警察に頼った方がいいんじゃ……」
「こんな時間に呼び出されちゃ警察の人も大変でしょ」
「そんなの気にしててどうするんですか! それが警察の仕事ですよ」
礼御はその通りだ、なんて内心苦笑いしつつ、しかし自分があの少年を追うことをやめようとはせず続ける。
「学生の喧嘩なんかに警察は入らない方がいいさ、たぶん。結局は子供の喧嘩なんだし」
我ながら苦しい言いわけであると思いながらも、勢いに任せに姫菜を説得するには十分だった。
「いざとなったら、携帯で警察に連絡するからさ。大丈夫だよ」
「で、でも……」
「大丈夫、俺だって喧嘩が得意なわけじゃないんだ。争いは絶対遠慮だよ」
そこで礼御はふと例の一件を思い出す。
いまさら一般人が殴りかかってきても、そんなに恐怖じゃないな。あんな人間離れで襲われないと思えば当然か。
姫菜はまだ礼御のしようとしている行動に賛成しかねている。そんな彼女に礼御は再度「大丈夫、大丈夫」と言って出来るだけ自分の身を危険にさらさないことをアピールし店を出ていくのだった。
礼御がいなくなると事務所内の空気が変に和らぎ、姫菜はそれに嫌悪感を持つ。
「警察に連絡すればいいじゃないか、馬鹿な奴だな」
そして残された姫菜は礼御を心配すると同時に、彼を貶す言葉を耳にした。言った本人はあの先輩である。
もしかしたらこの人は礼御さんが少しくらい怪我をすればいいと思っているのかもしれない。
姫菜はそう思うと、隠すこともせず自分の先輩を睨んだ。睨まれた方はわざとらしく視線を姫菜から外し、何やら帰る準備を始めるではないか。
本当に嫌な人!
姫菜はますます膨れる憤りを胸に、しかしカウンターから店員を呼ぶベルが鳴ったため、笑顔を作って表に出るのだった。