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礼御はバイト先の事務所内に来ていた。深夜バイトの日である。
つい数日前まで文字通り死にかけていたのに、入院もせず復帰しアルバイトをしているというのは腑に落ちないというか、楽観者というか、とにかくもう少し自分の身体の心配もするべきたよな、と苦笑いつつの出勤だ。
もう陽が沈んで数時間たつと言うのに辺りは夏らしい熱でいっぱいであった。じっとりと肌にまとわりつく汗を嫌うように、礼御は裏口から店内に入った。
「お疲れ様でーす」
いつものように礼御より早く出勤し、明るく元気な声で迎えてくれたのは、礼御と同じ歳のバイト仲間、姫菜であった。
「今日も面倒な人が多そうですよ」
そう姫菜はぼやきながら勤務時に身につけるエプロンを着ていた。それに礼御も苦笑いし自身のエプロンを取り出して身につける。
ちょうどそのときガチャリという音と共に事務所の扉が開き、男性のアルバイトスタッフが一人入ってきた。途端、姫菜はあくまで自然を装って彼から目を背けた。礼御より二つ年上の平均身長、やせ型でのっぺりとした顔の男である。どうにも彼は姫菜のことを好いているようで、どうにも姫菜は彼のその明らかな態度が苦手なのだそうだ。モテる故の苦悩とはなんとも贅沢な感情である。
そんな姫菜をかばうように礼御はその先輩アルバイトに声をかける。
「お疲れ様です。今日も忙しそうですか?」
すると彼はチラと姫菜を見たあと、つまらなそうな表情になった。姫菜の言うあからさまとは、つまりはこういうことだろう。誰かから耳にしたわけではないものの、礼御はこの男が自分のことを好ましく思っていないことを察しているのだった。自分が行為を寄せる異性が、自分とは別の男と仲良くしているのだ。気に食わないのは理解できるが、それでもバイト仲間には違いなのだから、もう少し上っ面を良くすればいいと礼御は常々感じていた。
「お疲れ。……いつもどおりさ」
素っ気ない口調での返答に、それでも礼御は「そうですか」と愛想笑いで答えて事務所をでた。姫菜もあとに続き、何のために入ってきたのか、その男性アルバイトも一緒に出てきた。狭いカウンターの中で礼御の隣に立った姫菜が目を細めて彼の行動の不可解さに対する不満を礼御に抗議する。
その後、前の時間帯に働いていたもう一人のスタッフが部屋の清掃から帰ってくると、礼御と姫菜の勤務時間の始まりであった。季節は夏。大学生にとって長い休みの半分も終わっていない時分である。顔を赤らめた若者や、テンションを不可思議と思える程に上げた若者がやってくる。そうなったとき姫菜は進んで部屋の掃除に出かけるのであった。
可愛いというのはこの場合ひどく邪魔なようで、深夜にカラオケをやろうと躍起になった男性の――ほとんど年齢は問わない――絡みは彼女を不快にさせるのだ。年齢を聞かれたり、その美麗を褒められるだけなら対応も容易いのだが、連絡先を聞かれたり、交際している異性がいるのかを聞かれたりすると始末が悪いのである。それを嫌って、姫菜はカウンターを離れ接客から逃れようとする。また礼御はどちらかというと掃除より接客の方を楽に思うわけで、そのため彼女と仕事をする際はお互い役割ができているのだった。
それでも姫菜の不満がなくなるわけではなく、こんなエピソードがあった。姫菜が部屋を掃除中、つまりは一人でカラオケ部屋にいるとき、いきなり男子学生二人がその部屋に侵入してきたのである。当然酔っているようでたちが悪く、扉を閉められたそうだ。そのときのいやらしい彼らの笑が、姫菜は忘れられないそうだ。そして彼女は瞬く間に部屋に設置してある内線電話を取り、大声で助けを求める言葉を吐き出したらしい。受話器を上げればすぐに誰かに伝わるわけではないものの、その姫菜の行動に驚いた二人の男子学生は慌てて部屋から出て行ったそうだ。最終的な結末を聞いて礼御は笑ったものの、姫菜が真剣に「ここのバイトは向いていない」と口にしたのを礼御は覚えている。
ようやく客の出入りに落ち着きが出てきた頃、礼御と姫菜はカウンターで小話を始めた。
「今日も相変わらずな客層ですね」
「あまりカウンターでそういうこというなよ。その客に聞かれるぞ」
「いいんですよ。メナだってまだ大学生です。時として間違うこともあるでしょう。大きな世間に知られない限り、多少の過ちは許されます」
「出来る限り過ちなんてしない方がいいに決まっているさ」
それを聞き礼御は強く否定することもできず苦笑した。賃金をもらい働いているのだ。もちろん客の悪口を言ってはいけない。それでも深夜のカラオケ店なんて無礼講が半ば強制的に流行っているのだ。だからこそ粗悪な客の行動も表沙汰にせず、つまりは犯罪として取り扱われないのである。その悪質な特権を客が押し付けてくるのだ。それに対応する側の人間だって、多少の融通は効かせてもらわないと割に合わない。だからこそ礼御は姫菜の当然持つだろう文句を素直に口に出す現状を取り締まろうとは思えないのである。
そもそも大学生とはおおよそ馬鹿をする人種に違いない。それが伝統ある大学生のあり方である。またその行いが多少法律にかすっていても、公にならなければ犯罪ではないのだ。それを重々承知して馬鹿をやらなければならない。
しかし昨今の大学生――彼らに限ったことではないが――の品格というものはどうだろう。やはり馬鹿者ばかりである。礼御も姫菜も彼らに相当な評価を与えるとともに、自ら自分の首を絞めていることは理解しているのである。けれどこの自分が馬鹿者であるということを自覚している者こそ伝統的な大学生なのであって、自覚のないその者たちはただの愚か者である。馬鹿をやって報いを受けるべきなのである。
そんな誰かに洗練されたような独自の考えを持っている礼御はぼんやりと呟く。
「あんまり無茶なことしないでくれよ。客ともめても面倒なだけなんだからさ」
すると姫菜は心外だと言わんばかりの表情で礼御の言葉に反応した。
「わかっていますよ。礼御さんだからこそ、こういうことを口に出して発散してるんです。あいつらは必要ないのに押し付けてきますからね、憂鬱を。出さないとやっていけません」
「そりゃそうだ」
「『あぁ、この店の客、マジくたばれ!』なんてここの店の画像と一緒にどこかのネットに流したりはしませんよ。メナもそこまで愚か者ではありません」
それはまさしくやってはいけないことで、そのように発散すべきではもちろんないのである。
礼御がまたも頬を不器用に緩めていたところで、カウンター横にある階段からコツコツと足音が聞こえてきた。それに姫菜も気がついたようで、背筋を延ばし接客の表情となった。