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玉藻が吐いた。
「おいおい、玉藻。大丈夫かよ?」
そう徳間 礼御は玉藻こと、狐の妖・玉藻前と自称する存在に声をかけた。
『とある一件』より帰宅した礼御が、玉藻を抱いて借りているアパートの一室に戻ったときの話である。帰宅途中もずっと体調の優れていなかった玉藻は、帰宅するやいなや、玄関から続くフローリングの床に嘔吐してしまったのだ。
玉藻は喉を鳴らし、体内に残った異物をまたも吐き出す。
「……気分悪ぃ」
元気の失せた声で礼御の心配に答えた玉藻は、本来三本の尾を持った体長数メートルはあるだろう妖狐である。しかしそこは化かすのを得意とする狐の妖怪。礼御の前では変幻自在な姿に変わり、彼と生活を共にしていた。現に嗚咽を漏らして涙目になっている彼女の姿は、小さなただの狐である。礼御が両腕で抱いて持ち運べる大きさで、尾も一本だった。
「玉藻殿! ほれ、水じゃ」
「すまんな、紅子……」
紅子と呼ばれたモノもまた、現時点では礼御の部屋で寝食を共にする妖怪であった。彼女は赤しゃぐま。人の家に住まい、そこに住むモノを守る、幸せにする存在である。見た目は六、七歳の童女だ。赤い髪に一本の黒い舎熊が伸びているのが特徴的で、またいつも綺麗な紅い着物を着ているのだった。本人曰く、非常に高貴な妖なのだそうだが、その絶対的評価を未だにできていない礼御である。
そんな紅子は先に述べた『とある一件』には参加せず、参加していた礼御と玉藻の帰りを部屋で待っていた。そうしてようやく戻ったかと思うと、いきなり同居人である玉藻が嘔吐したので、「おかえり」と同時に慌てて飲み水を用意した次第である。
金色の毛で覆われた背中を礼御が優しく撫でる。
「本当に大丈夫か、玉藻? なんだかお前らしくもない」
『とある一件』では神々しいまでの――その言葉はほとんど正解である――姿で礼御を助けた彼女である。そんな玉藻が弱っているというのは、なかなかに礼御の心配を加速させる要因でもあった。
「心配、するな。……尾を一本使った、副作用みたいなものだ。寝りゃ治る」
「あれって、そんな危険な行為だったのか?」
今にして極度の不安が礼御の中に流れ込んだ。
「いや……。例えるなら、運動不足なのにいきなり全力疾走したあと、みたいな感じだ」
そのひどく共感できる例えに、礼御は流れ込んできたものをそのまま受け流すことができた。
「本気で走れば、そこらのガキに負けやしないけど……。そんなことをすれば身体があとで悲鳴をあげちゃうさ」
大きく身体を上下させ、玉藻は呼吸していた。どうやら吐くものは全て吐き出したらしい。疲れた表情をしているが、先ほどよりは幾分生気を取り戻している。
「ごめんな、礼御。床、汚しちゃった」
「バカ。そんなの気にしなくていいよ。お前は俺の命の恩人なんだから、もうちょっと図々しく疲れてろよ」
「まぁ、すぐにキレイになるだろうけどな」
礼御が玉藻を思いやる一方、玉藻はよくわからない表現の言葉を口に出した。
礼御がどういう意味だろう、と考えたとき、彼女の言葉の意味は目に映る。
突然、吐瀉物は―――発火したのである。