ヤサシサ
目を開けると、知らない部屋のベッドに横になっていた。
綺麗に整っていて、おかしなものは何一つない。
ガチャっと音がしてドアが開く。
「あ、起きた?」
入ってきたのは沖草さんだった。
「びっくりしたんだよ。いきなり泣き出してそのまま気を失っちゃうんだから。」
はっきりとは覚えてないけど、海の顔が横切ったような気がした。
「いなくなったのって、海って人?」
沖草さんはベッドに腰掛けて僕の頬に手を当てる。
「…。」
「いなくなったって、どこかに行ったってことかな?気を失う前に言ってた言葉は恋人関係みたいだったけど。」
彼には何もかも見抜かれてしまっているんだ。
「恋人でした…、一週間前までは…。」
僕は声を小さくしていった。
「別れちゃったのかな?」
彼には気づかいというものは無いのだろうか。
「…、沖草さんには関係のない事です…。」
僕はベッドから足を出し、床を歩く。
「どこ行くの?」
「あなたには関係ないです…。」
僕はドアを開け、出て行こうとした。
「もう、関係ないなんて言わせないよ。」
沖草さんの小さく呟いた。
「俺は君を好きになったみたいなんだ。だから君に笑顔を取り戻してもらいたい。その海って人の事を忘れてくれないか?いなくなってしまったのなら、いいタイミングだと思えばいいさ。な、俺を見てくれないか。」
沖草さんはベッドから立ったような感じはない。
全然触れられていないのに、捕まってしまったように動けない。
「その人はいなくなってしまったのだろう?きっと君に愛想を尽かしたんじゃないかな。俺はそんなことはない。絶対に幸せにして見せるよ。」
この人は僕の事も、海の事も何も知らない癖に言いたい事だけ言っている。
「何を知ってるんだ…、あなたは…。」
僕は拳を握って、ドアに向かって言った。
海をひどく言う奴が僕を幸せにできるはずがない。
もう僕の心は誰も信じなくなってるんだ。
だから、誰が何と言おうと僕は海を探し続ける。
この身がボロボロになって、死んでもかまわない。
「海は…、もう、この世界にはいない。僕を守るために消えて行った。だから、海の生きた証を僕の命が尽きるまで探し続ける。この世のすべてから海が忘れ去られないうちに…。」
僕はそれだけ言い残してドアノブを回して、部屋を後にした。
追ってくる様子はなく、少し安堵の息をつく。
沖草さんの家から出ると外は雨だった。
曇天の空からざぁざぁと降り注ぐ天の涙は、世界を洗い流していた。
「やめて…、降らないで…。海を消さないで…。」
僕は雨の中に走った。
海の死んでしまった場所に向かって…。
雨は次第に強くなった。
僕がつくころには服はべしょべしょで肌に張り付いて気持ち悪い。
でもそんな事を言っている場合ではない。
沖草さんの家に長居してしまった。
僕には時間がないというのに…。
「海…、海…。どこにいるの…?どこに行けば、海と出逢えるの…?」
僕は濡れたままの体で路地裏に向かった。
この路地裏はビルとビルの間の道で、普通の人なら通り過ぎてしまうようなところだ。
そんな道を進んで行くと、古びた建物がある。
この建物は老朽化が進み、半年前に立ち入り禁止になったものだ。
僕は迷わず、建物に足を踏み入れ、ギシギシと音を立てる階段を使い、二階の204の札の掛った部屋に行く。
「海、僕も同じ所で逝くね。すぐに海を見つけて、逝く時も、逝った後も、ずっと一緒にいるんだ。」
僕は未だに血の後の残る壁に指を走らせる。
この血は海のものだ。
「海の生きた証は、絶対に見つける。」
僕はそれだけ言って、さっき昇ってきた階段を下っていった。
相変わらず、雨は降りしきっている。
躊躇うことなく街へ飛び出す。
雨の中、傘を差して行きかう人の間をびしょぬれの僕は俯いて進んでいく。
この世は存在する意味を持たない。
そう考えるのは僕だけなんだろう。
もし、少しでも時間が戻せたら、どんな未来が来ただろう。
もう一つの未来の僕の隣には、海はいるのだろうか。
そんな現実逃避は、何の意味もない。
「あれ、川浪くん?」
ふと、後ろから僕の名前を呼ぶ声がした。
「…佐伯、くん?」
「何してるの?」
佐伯くんは同じ高校の生徒だ。
正確には“だった”だが。
「別に…。」
僕は佐伯くんから顔を逸らした。
「傘は?持ってないの?」
佐伯くんは僕に優しくしてくれた。
しかし時に、その優しさが逆にムカつく事があった。
「関わんないでよ。別に何もしてないし、傘だって持って出てなかっただけなんだし、僕が何してようと佐伯くんには関係ないだろ。」
「関係ない訳ないよ、川浪くん。いきなり学校辞めて、みんな心配してたんだからね。何してたの?」
佐伯くんが傘の半分に僕を入れた。
「海のいる世界に行くための準備…。あともう少しで海と同じ世界に行けるんだ…。」
そうだ、僕は海のいる世界に行くんだ。
だからこんなところで時間を割いている場合ではない。
そう思うと、反射的に僕は佐伯くんを突き放していた。
「川浪くん…っ?」
「関わんなっ…!ほっといてくれ!」
そう言うと、僕は走りだしていた。
佐伯くんの呼ぶ声も全く聞こえないフリをした。
まだ行っていない、心当たりのあるあの場所に向かって。
一時間後に最終話を更新しますので、ご覧下さい!