その9
私の考える事なんて、シュウちゃんは全てお見通しだったらしい。
日常の中で私の機微を正確に見抜き、その結果選ぶ行動に気付いたシュウちゃんは、早々に松沢さんに事情を説明して私を止めるように頼んでいたそうだ。
迎えに来たシュウちゃんに、私は反射的に帰らない、と拒絶した。私はあの人を決定的に止めなければならない。シュウちゃんに危害を加えられないように。けれど、そんな私に対し、シュウちゃんはやはりあの穏やかな微笑みのまま言うのだ。じゃあ僕も芽依子が帰るまで付き合おう、と。
病院から離れたこんな寒空の下で、シュウちゃんの体調がどんな風に変化するかなんて想像もつかない。私は大人しくシュウちゃんに従うしかなかった。
どうしてシュウちゃんを連れて来たのか、と松沢さんに文句を言えば、この世で完全犯罪を成し遂げられる存在がいるとすればそれは名探偵だと思わないかい?と意味の分からない事を言われた。答えになってない。シュウちゃんはそれに、少し大袈裟に言い過ぎたかな、と何故かのんびりと笑う。
そうして、病室まで戻って来たシュウちゃんは、明らかに体調を崩す事こそなかったものの、疲れた様子で息を吐く。
「久しぶりにパジャマじゃないものを着たけど、普通の服は何だか肩がこるね」
ベッドの上半身側を起こしてもたれるシュウちゃんは、その横で突っ立っている私へ苦笑を向ける。
「どうして、邪魔をするの?」
あの人が何をしようとしたか、もちろんシュウちゃんだって忘れていないはずだ。否、きっと頭の良いシュウちゃんは、私よりも正確に記憶しているに違いない。
それなら、どうして分かってくれないのだ。あの人はシュウちゃんにとって、とても危険な存在だった。
シュウちゃんは、柔らかく微笑んで私を見詰める。
「人を、傷付けてはいけないよ」
「そんなの、分かってる」
人に危害を加えて、のうのうと生きているような人は嫌いだ。報いを受けるべきだと思う。逃げおおせようなど考えず、罪は償うべきなのだ。
けれど、それでも、それがどんな罪だとしても、そんな事でシュウちゃんを守れるのなら私は迷わない。躊躇なんて捨ててしまえば良い。
「でも、だって、あの人が言ってた。殺してやる、って!私の事も、シュウちゃんの事も」
「しばらくは、松沢さんも小まめに様子を見に来てくれるらしいし、何かあればナースコールを押すから、すぐに誰かが駆けつけてくれる。それに、あの人はもう、大丈夫だと思う」
シュウちゃんはベッドサイドにあるチェスター付きの戸棚を引き寄せると、引き出しを開ける。その中には束ねられた、いくつもの白い封筒があった。シュウちゃんはそれを、私へ差し出す。
「一年くらい前からかな。手紙が届いた。家の人が隠しているかもしれないけれど、芽依子にも届いているはずだよ。あの人からの謝罪の手紙」
そう言って、シュウちゃんは封筒の一つから便箋を取り出し、私へ手渡す。食い入るように文字を目で追えば、そこに書かれているのは確かに謝罪だった。
父を失った絶望感で、何もかも憎くて仕方なかった事。その原因となった私の父をどうしても許せなかった事。今も許せた訳では無い事。しかし、それは幼い私には何ら責任のない事であり、暴力を振るい、傷付けようとした事を心から詫びる文面だった。その謝罪は、あのとき暴言を向けられたシュウちゃんへも綴られている。
並ぶのは、胸が痛むほどの真摯な言葉。誠実な人柄を感じさせる文面だった。思わず、ほっと安堵してしまいたくなるような。しかし、だからと言って、
「こんなの、信じられない。嘘かもしれない。油断させようとしてるのかも」
だって私は、忘れてない。喉が裂けそうなほどの声で浴びせられた罵声。割れそうに痛い頭。拘束された全身の軋み。真っ白なリネンに溺れる息苦しさ。
「何も安心出来ない。それならいっそ殺してしまえばいい。そうすれば、不安に感じる必要もなくなる」
人を殺めるという事はけして許される事ではなく、被害者だった私が今度は加害者となる。いくら未成年でも、その罪は重い。
それでも良い。それでシュウちゃんを守れるなら、私は何も怖くない。シュウちゃんを守れないなら、私は何の為にシュウちゃんに命を救われ、今こうして生きているというのだろう?
「例え、捕まってしまっても?」
シュウちゃんの問い掛けに、私は大きく頷いた。すると、シュウちゃんは困ったように眉尻を下げる。
「………やっぱりダメだよ。だって、芽依子が捕まってしまったら、僕は寂しい」
シュウちゃんの細く長い指が伸びて、立ちつくす私の手を掴んだ。絡まる指先はやっぱり冷たく、それだけでシュウちゃんがシュウちゃんである事を実感する。
「芽依子が捕まってしまえば、もうここには来られなくなるだろう?死に方に大差なんてないと思っているけれど、最期のときには芽依子がこの手を握ってくれていないと、僕は寂しくて哀しい。だから、芽依子は悪い事をしてはいけない」
初めてだったんだ。シュウちゃんはそう言って、私の手を強く握りしめた。
「僕は、意味もなく死んでいくんだと思っていた。けれど、芽依子をあのとき救えて、泣きながら離れない芽依子を抱きしめて、僕はこの女の子を救う為に生れて来たのかもしれない、と初めて人生に意味を見出せた。―――――――救われたのは、僕の方だ」
私の命を救ってくれたシュウちゃんが、私に救われたと語る。それはなんて、夢物語のように幸せな事だろうか。シュウちゃんの安全を守れなかった私でも、少しは意味があるのだとしたら。
「長生きなんて、最初から期待はしていないよ。そんな事よりも穏やかに過ごしたい。そしてそれには、芽依子が必要なんだ」
切なく微笑んで、けれどどこか私の様子を窺うように、シュウちゃんはじっとこちらを見詰めた。
「芽依子が僕の、意味だから」
不安も消し飛ぶような、感情が湧いてくる。ああ、シュウちゃん。私に意味が、あるのかな。何もできなくて、シュウちゃんの安全一つ守れなかった私だけど、シュウちゃんの最期を守る事は出来るかな。
正直、あの人への恐怖心はまだまだ消えてくれないけれど、シュウちゃんを傷付けられるかもしれない、と思うと今すぐにでも飛び出してその可能性を潰してしまいたくなるけれど。そうする事によって、もしもシュウちゃんに寂しい想いをさせてしまうと言うのなら、本末転倒なのかもしれない。
仕方ないなあ、
呆れたように、もしくは得意げに口にしようとして、失敗した。声は震えて言葉にならず、とめどなく溢れた涙で顔がぐしゃぐしゃになる。何もかも伝えられていないのに、名探偵のシュウちゃんは、きっと全てお見通しなのだ。
形にならない言葉を諦めて、今度は私からシュウちゃんに手を伸ばす。立ったままシュウちゃんの首に腕を回して抱きつけば、シュウちゃんは快くそれに応えてくれた。
私の未来にシュウちゃんはいないかもしれない。けれど、シュウちゃんの未来には、私がずっと寄り添っている。
「ありがとう、芽依子」
いつだって全てを理解している私の安楽椅子探偵は、ベッドの上で穏やかに微笑んだ。
読んで頂きありがとうございました。
これにて完結です。思いつきで生まれた二人でしたが、無事に完結まで辿りつく事が出来ました。
芽依子:懐かない猫のイメージ。しかし、シュウちゃんには全力で甘えている。運動神経は良いが、頭を使う事が苦手。本人もその自覚がある為、自ら思考を働かせようともしない。殺されそうになって以来、真っ白なリネンが苦手で、シュウちゃんのベッドには色物のバスタオルを掛けてもらっている。
シュウちゃん:本名、周。基本的に聞き分けがよく、穏やかな性格だがたまにこれと決めると絶対に譲らない。芽依子を餌付けするのが好き。自分はいつかいなくなるのに芽依子の手を掴んだままでいるのはただのエゴだよなあ、と時々申し訳なく思う。
原田:熱血刑事。肉体派。悪く言えば単純、良く言えば純粋で、捕まえた犯罪者にも親身に接する事が多い。仕事に誇りを持っている為、事件に口を出すシュウちゃんの事が嫌い。芽依子の事をクソガキだと思っているが、何となく危うくて時々心配になる。例え攻撃されても。
松沢さん:腰が低く、愛想も良いが、かなりシビアに物事を見る。事件を早期解決できるなら、と行き詰まればシュウちゃんの所へ相談にやってくる。そこそこ長いものに巻かれ、必要な場合は何かを切り捨てる事も出来る。それを出来ない原田を馬鹿だなあ、と思いつつも自分よりも余程良い刑事になれると内心では期待している。
シュウちゃん兄:『正しさ』を非常に大切にしている半面、融通が利かない。その為、冷酷な人と思われがち。気持ちでは違うと思っていても、ルールなど本来正しいはずの事を無視できず、人知れず苦悩する事も。いつか周がいなくなったときにこの子はどうなってしまうのだろう、と芽依子を心配している。それならいっそ、今の内に離れてしまった方がいいのではないか、と考えている。
こんな所までお読み頂き、誠にありがとうございました。