その8
出てきてすぐはダメだ。揉み合えば、取り押さえられるかもしれない。人混みに紛れてひと思いにやってしまうのが、一番向いていると思う。
朝早くに制服を着て家を出ると、目的地の最寄り駅のトイレで地味な私服に着替え、コインロッカーの中に制服を押し込んだ。朝とはいえ、平日の日中に制服を着てフラフラと出歩くと目立ってしまうかもしれない、と考えたのだ。目深に帽子を被りマフラーに口元を埋めて、あの人がこれまで服役してきたらしい、刑務所を目指した。
刑務所の出入り口の対角線上には、古ぼけた洋館のような建物がある。最早誰も住んでいないらしく、人の気配も一切しない。何度も周囲を下見して、その洋館の勝手口の鍵が壊れているのを見付けた。ここならば刑務所の出入り口の様子を窺う事もでき、誰かに見咎められる心配もない。人が住まなくなって随分経つのだろう。敷地内の地面には雑草が生えていた。もう冬なのに、雑草だけはなくならないのだから不思議だ。
勝手口の扉の陰に隠れてしゃがみ込み、出入り口の様子を窺う。
下見を繰り返し、元受刑者らしき人が出所するのは午前八時半から午前九時の間である事は確認していた。少なくとも、私が下見をした中で例外はなかった。
それでも、もしもそれよりも早く出所して見逃してしまったら、と考えると恐ろしくなり、七時からこの場所で待機していた。
あの人が出てきたら、距離を取って、後を付ける。気付かれて抵抗されれば、女で子どもの私の方が不利になる。一息で終わらせられるかどうかが結果を左右するだろう。
緊張から、心臓がバクバクと大きく鼓動し続ける。その余りの鼓動の大きさに、口から心臓が出てしまうのではないかと、冗談みたいな事を思った。朝は緊張の余り何も食べられずに家を出たのに、それでもまだ何かを吐きだしてしまいそうだった。
そうして、監視をし続けてどのくらいの時が経っただろう。時計を確認する一瞬すら惜しく、出来る限り刑務所の出入り口を凝視しているので、正確な時間は分からない。冬であるのに、全身はすでにぐっしょりと冷や汗で濡れていた。
やらないと、やらないと、やらないと、やらないと、やらないと。やらないとやられる。先にやらなければ、大切な物を失うのはこちらとなる。それだけは我慢ならない。
すると、ようやく動きがあった。出入り口から、刑務官らしき一人の男性が出て来た。受刑者らしき人物が出所するときも、今のようにまずは刑務官が外へ出て導いていた。もしかして、ようやくあの人が。
口の中の布の感触を思い起こす。私を押し潰す真っ白なリネン。息が苦しい。憎悪に満ちた目。殺意を込めた言葉。心を凍らせるほどの絶望の中で現われた、救いの手。
『芽依子ちゃん、見付けた』
だから私は、行かないと。
あの人が出てきたら、周囲の様子を確認して、私も外へ出る。距離を保ったまま、その後を追う。手順を確認して、ぐっと足に力を込めた。
「何をしてるんだ」
その、瞬間、両肩をぐっと抑えつけられた。何が起きたのか分からない。聞き覚えのある声。顔を上げ、目だけを動かして確認すれば、私の肩を抑え込む原田がいた。
何で、何で原田がここに?気付かなかった。私の馬鹿。刑務所の方ばかりに意識がいっていた。だってこんな廃屋の敷地内から、人が現われるなんて思わない。どうして二人がこんな所にいる?
原田の後ろでは、松沢さんが困ったように笑っていた。
「ダメだよ、芽依子ちゃん」
ばれてる?どうして、ばれた、待って、まだダメ。まだ何も出来てない。捕まるのは全て遂げてから。安全を確保出来てから。このまま捕まったら、私はシュウちゃんを守れない。―――――――――あいつを、殺せない。
「いってぇえ!」
首を無理矢理捻り、原田の手の甲に噛みつく。肉まで裂けろと思いながら力を込める。ゴツゴツと固い手が一段と憎らしい。反射的に原田は手を離し掛け、ほんの少し距離が広がった所で振り向きざまに足を踏ん張る。そのまま踏み出して、原田の鳩尾を狙って頭突きをした。突然の事に身構える事も出来なかった原田は、その衝撃でよろけ、後ろに立っていた松沢さんにぶつかる。そのとき手が離れた隙を見逃さない。ホームセンターで買った『道具』を詰めた鞄だけを引っ掴んで、勝手口から道路に飛び出す。
あの人はどこ?もう行ってしまったかもしれない。もしまだそこにいたら、危険を冒してでもいっそここで決着を付けてしまった方が良いのだろか。私が松沢さん達に捕まる前に。私が捕まってしまったら、その隙にあの人がシュウちゃんを狙うかもしれない。それだけはダメだ。それなら一か八か、今殺さないといけない。
駆け出しながら考える。今もまだ刑務所の出入り口には、刑務官の姿しか見えない。
「芽依子」
足の力が抜ける。
有り得ない声が聞こえた。ここで聞こえるはずのない声で、ここで聞こえてはいけない声。だって、こんな遠くにまで出てきて、体調を崩したらどうするの?
足は緩やかに動きを止め、声の方を振り返る。
思えば、私服姿なんて初めて見た。どこにも出掛ける事なんてできないから、そんなものは一切必要なかった。いつも似たような色や柄のパジャマに上着を羽織っているくらいで。街中に出れば掃いて捨てるほど存在しそうな、これといった特徴の無いジーンズも、ニットも、温かそうなコートも、何もかもが物珍しい。
そんな格好をしてもどこかちぐはぐで、普通の十代の男の子とは言い難い独特の空気が、こんなときでも私を切なくさせる。むしろ、そうした普通の格好をする事で、余計に違いが際立っているようにも思えた。
「迎えに来たよ、芽依子」
絶対にここにいるはずのない声。シュウちゃんは、やはりいつものようにただ穏やかに微笑んだ。
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