優しい手
いつも優しいシュウちゃんだけど、時々とても厳しい。
「う、ぅー…」
「芽依子」
「うう」
「芽依子」
「んーとぅ」
「芽依子」
ちょうど今みたいに。シュウちゃんはいつものように微笑んでいるし、実際怒っている訳では無いのだろうけれど、私の名前を咎めるように繰り返す。分かってる。シュウちゃんがそういう風に言うときは自覚があるくらい私が悪い事をしたときで、シュウちゃんは私がきちんと反省しなければけして逃がしてはくれない。
「………なさい」
「芽依子」
「…………………」
「芽依子」
「ごめんなさい、原田さん!」
私はとうとう根負けして大きな声でそう叫ぶと、目の前で何故かうろたえ気味に立つ原田に、勢いを付けて頭を下げた。
刑務所付近で殺意を持って息を潜めていたとき、原田に見付かって肩を掴まれた私は、原田の手の甲に噛みついた上に鳩尾に頭突きをしてその拘束から逃れた。あの日から一週間経って再会した原田は、未だに手の甲に絆創膏をしている。
私を止めようと、シュウちゃんが頼み込んで連れ戻しに来てくれた原田の手の甲を、肉を噛み切るくらいの気持ちで歯を立てた記憶がある。謝らないといけないのは分かっている。流石の私でも、申し訳無く思っていた。
けれど、顔を合わせる度に牽制し合っていた原田が相手だと、どうしても妙な意地が邪魔をしてしまった。
「すみませんでした、原田さん。僕からも謝らせて下さい」
「シュ、シュウちゃんが何で謝るの。悪いの私なのに!原田さん、ごめんなさい。噛みついてごめんなさい!」
ベッドの上にいるものの、頭を下げようとするシュウちゃんを抑え、私は慌てて再度謝罪をした。私の事で、シュウちゃんまで謝ってくれるととても申し訳ない気持ちになる。
「いや、いや……もう良いから、頭を上げてくれ」
珍しく険の込められていない原田の言葉に、恐る恐る顔を上げれば、原田はどこか疲れたような、奥歯に物でも挟まったような、中途半端でむず痒そうな顔をしていた。
「それは……卑怯だろう」
溜息交じりに呟いた原田の言葉に、その横で成り行きを見守っていた松沢さんが噴き出して笑い始める。何がそんなに可笑しかったのか、細かい笑い声を上げる松沢さんに疑問を感じながらも、今度は松沢さんに頭を下げた。
「松沢さんも、ごめんなさい」
すると、松沢さんは笑い声を収め、表情を和らげる。
「良いんだよ、芽依子ちゃん。そんな事で犯罪を未然に防げたなら、警察官にとってこんなに嬉しい事はない」
いつだって笑っている松沢さんは、正直いつも何を考えているのか分からない。時々、何かを企んでいるのでは、と邪推する。けれど、その表情と柔らかい言葉を聞いて、それで事件が早期解決出来るなら、とよくシュウちゃんに事件の相談に来るのも、本当にただ、犯罪を無くしたい一心なのかもしれない、と思った。
「原田、それではそろそろお暇しよう」
「あ、はい!」
原田を促して退室しようとする松沢さんは、最後にもう一度私を振り返る。その目には、初めて見る厳しさがあった。
「芽依子ちゃん、いくら周君が心配だったとしても、安易に犯罪に手を染めてはいけない。それはもちろん罪深い事であるし、君にだって君の、人生があるんだから」
松沢さんは思わせぶりに私をじっと見つめ、そうしてシュウちゃんの部屋から原田と共に退室していった。私は、ベッドのそばの椅子に腰かけると、そのまま頭だけを布団の上からシュウちゃんの膝に乗せて脱力する。
「ごめんね、シュウちゃん。シュウちゃんは悪くないのに」
私が最初からきちんと謝罪しておけば良かったのだ。シュウちゃんはそんな私さえやっぱり責める事無く、柔らかく微笑んで私の髪を梳くように撫でる。
「芽依子が僕の為を想ってしてくれた事は、分かっていたから」
シュウちゃんの優しい手に撫でられて、自然とまどろんできだ。この手が私は、世界で一番好きだ。男の人にしては細くてしなやかで、けれど女の人にしては骨っぽい。指先から私に触れるときの仕草で、目を瞑っていてもシュウちゃんだと分かる。
「松沢さんの言っていた事だけど」
うとうとと目を閉じようとしたけれど、シュウちゃんにそんな風に声を掛けられて目を開ける。すると、シュウちゃんが私を覗き込んでいて、しっかりと目が合った。
「芽依子には芽依子の人生があるんだから、もっと先の事も考えないといけないよ」
「いや」
先の事なんて考えたくない。だってそこに、シュウちゃんがいてくれるかどうかも分からない。だから大事なのは、私がシュウちゃんの人生と共に過ごせるかどうかだけだ。
「私は、シュウちゃんが一緒じゃないと、いらない」
シュウちゃんはやっぱり微笑んでいるけれど、そのまま私をじっと見つめる。私は、それがシュウちゃんの真剣な顔だと知っていた。
「じゃあ、芽依子」
言葉が鼓膜を通して、脳に染み渡る。
「一緒に死んでくれる?」
「うん、良いよ」
だから私は心のままに答えた。すると、シュウちゃんは途端に眉尻を下げ、困ったように笑う。悩ましいような、途方にくれたような。もしくは少しだけ満ち足りたような。
「芽依子が即答してくれるから、僕は幸せだと思うけど、実行に移してはダメだよ」
「私が良いよ、って言っても?」
たぶん、そのときがくれば私は怯えると思う。怖くて怖くて仕方なくて、震えて後ずさると思う。それでも、シュウちゃんが手を差し伸べてくれるのなら、私は迷わずその手を取るだろう。
「ダメだ。僕は芽依子から何も奪いたくはないから」
私はそれを奪われるとは思わない。私の事も連れて行ってくれるんだな、と思う。死ぬのは怖くても、それなら平気。けれど、真っ直ぐに私を見詰めるシュウちゃんの目に、私がどんなに言葉を尽くしてそう説明しても、シュウちゃんは絶対に譲らないだろうな、と察して言葉を飲み込む。シュウちゃんは時々、とても頑固だ。
「芽依子はただそばにいて、最期の時にこの手を握っていてくれれば、それで十分だから」
寝返りを打って、私の頭を撫でていた手を掴む。最期のとき、私はどうしているのだろう。何を想っているのだろう。そう想いながらその手に頬を擦り寄せる。
私は何も、十分じゃない。それじゃあ何もかも足りやしない。けれど、シュウちゃんが望んでくれるのがそれで、私に出来る唯一の事がそれならば、必ずシュウちゃんのそのときを私は大切に守る。
その後への想像は、真っ黒に塗り潰して。
番外編ダラダラ書く悪癖を改めようと思いつつも、欲望に負けてしまって更新しました。そんなものを読んで頂きありがとうございます。
別の話を考えながらも纏まらないのは、きっとまだ芽依子がシュウちゃんシュウちゃん、と脳内で言っているからだと思う事にしたのです…
そして、クリスマス前後にも一本だけ書くつもりです。
以下内容について
原田は結構子ども好きです。
シュウちゃんはヤンデレではないので、本気で一緒に死んでほしいとはおもっていないけれど、芽依子が即答してくれると生まれてきて良かったなあ、と思える。