第13話(後):兄弟よ! 自宅警備員!
――――俺も童貞だ。
衝撃の告白が静かな闇夜に吸い込まれると、社樹は溜まらずがなり立てた。
「嘘つけっ! この期に及んで、まだそんな虚言を弄するつもりか!」
宿命の義兄弟は、なおも深い溝を挟んで対峙する。
社樹は動揺の言葉を投げかけながら、頑に心を閉ざすばかりだった。
継嗣が放った言葉とは、それほどまでに重い意味を持つ。
■ ■ ■
『童貞』
一般的に異性との性的交渉経験がない男性を指す言葉であり、かつては宗教的に徳の高さを示す勲章ともされてきた言葉である。
しかし、近代においてその常識は通用しない。
現代において『童貞』とは、人生の落伍者として大いに差別を受ける存在となってしまっていたのである。
いかに社会的成功を収め、偉業を成し遂げた大人物であったとしても、童貞であることがひとたび暴かれようものなら、その人生そのものを否定されかねない。
恐るべきパラダイムシフトである。しかし、キリスト教においても姦淫を原罪としながら、同時に旧約聖書の創世記には「産めよ、増やせよ、地を満たせ」と性交を勧める神の言葉が記し伝えられる矛盾を思えば、やはり現代の価値観の方が正しいのかも知れない。
かくして、地球上の男性は二種類に分けられた。
童貞であるか。
童貞でないか。
それは人の憂き世の悲しみか。
『童貞』とは、全男性に科せられた宿業とも呼ぶべき最大の関心事であり、それは大きな「壁」となって二つの男の間を隔てていた。
■ ■ ■
壁の向こうにいるはずの兄が、こちら側の人間だった。
その言葉はあまりに信じ難く、同時に社樹に天地がくつがえる程の衝撃をもたらしていた。
なればこそ、拳が止まった。
止めてしまった。
どんな言葉が来ようとも打ち抜こうとした拳が、今は行き場を失くし震えている。
見え透いた嘘をちらつかせ、この瀬戸際を切り抜けようと画策する義兄の見苦しさよりも、社樹は己の甘さこそに腹が立って仕方がなかった。
なぜなら継嗣が『童貞』であるなどと、土台があり得ない話であった。
社樹は大きな音を立てて、つばを飲み込んだ。
「……てめえが、『童貞』、なはずがねえだろ」
それは義兄がついた嘘を簡単に切り崩す、言葉の刃を放つ予備動作であった。
「――――だって、自宅警備員には『地巫女』がついてるんだからな!」
『地巫女』とは地鐸に仕える巫女である。
同時に自宅警備協会から派遣される、自宅警備員の伴侶候補とも呼ぶべき存在であり、いわば自宅警備員と地巫女が結ばれる事は半ば公認の成り行きとしてまかり通っていた。
故に、童貞であろうはずがなかった。
継嗣と地巫女の仲がどれだけ進展しているかは知れないが、継嗣が自宅警備員に就任し、はや数ヶ月が経っている。
その間に何度も逢瀬の機会を重ねた成人の男女が、まさか進展していないはずはない。
何しろ全てのお膳立てが整っているのだ。あとは両者の気持ちだけで事は流れていくはずなのである。
社樹はその事実を突きつけながら、ふいにやるせない気持ちがうずいて、目尻からは再び堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
自宅警備員と副自宅警備員の格差。
それこそがまさにいま指摘した『地巫女』の有無に他ならなかったからである。
継嗣には『地巫女』がいる。
社樹には『地巫女』がいない。
その事実が『童貞』という壁になって彼我の境界を分けている。
――――これのどこが平等だ。
なればこそ、社樹はかつて継嗣が語った言葉を「嘘」と断じていた。
長らく騙されていた怨念を刃に変え、その切っ先を今、兄に突きつける。
積年の怨みが、ついに果たされんとしていた。
復讐の達成を間近に向かえ、いよいよ社樹の神経は昂っていく。
だがしかし、真実を突きつけられ逃げ場を失くしたはずの兄は、
「……はっ、あはははっ!」
なぜかひとつ吹きこぼすと、その追求を笑い飛ばした。
大口開けてからからと笑って、継嗣はようやくしみじみと言った。
「社樹、詰めの甘さは相変わらずのようだな」
「……何が、言いたい?」
「そのままの意味だ。お前、今の『地巫女』が誰か、知っているか?」
知るはずがない。
それは知りたくもない事実であった。
「――――んなもん、知るわけねえだろッッ!」
兄がこの自宅で愛をささやき合う相手の事など知りたくもなかった。
とぼけるフリでもしながら女の自慢でも始めるつもりなのか。そう思うと視界がゆらめくほどに理性が茹で上がっていく。
ところが、火花を飛ばす目つきで睨みつけた兄の目は、なぜかその一瞬、光を失っていた。
そして、溜め息でもつくように、ぽつり。
「……鯨波子だ」
女の名をこぼした。
その表情は泥でもこねたように暗い。
「…………はあ? なんで、その人の名前、が出てくるんだよ」
それは社樹もよく知っている女の名前だった。
「鯨波子、なんだよ……」
「だから、何を言って」
「……今の東都圏の『地巫女』は、――――鯨波子なんだよ!」
瞬刻、水を打ったように室内は静まり返った。
眉根を寄せて睨みつけていた社樹の目玉は大きく見開かれたまま、瞬きすら出来ずにいる。
「……」
「……」
沈黙に落ちた義兄弟は顔を見合わせながら、互いに顔色をうかがった。
どちらも鏡合わせたように困惑と呆れを内包した、複雑な表情を浮かべている。
じきに堪りかねて、社樹は己の役割を思い出したように尋ねた。
「……なんで鯨波姉が?」
「分からん。気がついたら奴は『地巫女』の座に収まっていやがった」
「……いつの間に、そんな話に」
「分からん。そもそもあの女の考えを理解できたためしがない」
この剛毅な兄にしては珍しく言葉の終わりが細くかすれた。
もはや現実を再認識するだけでも精神を消耗するらしく、それだけにぐっと真相に肉薄する臭いを感じさせた。
社樹もこの兄と鯨波子の関係性を、間近でよく知っていた。
よく知っているからこそ、あの二人の仲がたった数ヶ月、立場がほんの少し変わっただけで急激に進展するとはどうしても思えなかった。
ならば、兄が語った衝撃の告白は『真実』と言う事になる。
「あ、あ……」
それを認めた途端、社樹のひざが震え始めた。
自らが犯した過ちに気付いた時、その重みは肩に腰に際限なくのしかかってくる。愚かな義弟は足の指先にまで力を入れねば、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
さながら救いでも求めてか、社樹はすがりつくように声を張り上げた。
「じゃ、じゃあ! 兄貴、本当に?」
「ああ、俺は――」
継嗣はうなだれていた上背を起こすと、いっそ胸を張って再び天地に向かって宣誓した。
「――――俺は童貞だ」
この言葉が持つ意味は、筆舌に尽くし難い。
社樹自身、己の胸に湧き上がる感情がどこから来るものなのか判然とせず、心根が虚ろになっていた。
しかし湧き上がる狂おしいまでの激情に身を委ねると、あとは地面に突っ伏して、ただただ乳飲み子のように嗚咽を漏らす事しか出来なくなっていた。
「お……俺は……なんて、こと……」
「……何があったか、話してくれるな?」
継嗣は弱々しく震える義弟の肩に優しく手を置き、努めて声を穏やかに諭すと、その所作にふと何気ない懐かしさが込み上げてきた。
無言でうなづく社樹の姿に、かつて同じように泣きじゃくる義弟を慰めた過去の情景が思い起こされた。
それから社樹はつらつらと物語りを始めた。
それは義弟が人知れず自宅警備員の『掟』と対峙し、苦悩し、そしてその果てに凶行に及んだ半生の物語だった。
継嗣はただ黙ってその一部始終を聞いた。
■ ■ ■
事の起こりを手繰ってみれば、それは社樹が自宅へやってきてしばらくの事だったと云う。
同じ年頃の少女と出会い、恋をした。
それはもはや出会いのきっかけすらも覚えていない、陳腐で他愛もない、実にありふれた初恋だった。
だが、そんなありふれた恋路に立ちふさがり、その半生を歪めたものがある。
自宅警備員に課せられた、血族の『掟』である。
――――自宅に仇なすもの、或いはその血縁者にみだりに交わるべからず。
社樹が恋した少女。
その父方の祖父が、かつて自宅を襲撃した一党・強制強盗詐欺集団『告民念禁』の構成員だったのだ。
ある日、事態を知った守宮家家長・守宮順敬は社樹を呼び出し、その『掟』の有り様を語り聞かせ、少女との関わりを断つよう告げた。
社樹は悲嘆に暮れた。しかし、あふれる感情を押さえようとした。
この過酷な通告にも、守宮の一族に連なるものとして必死に涙をこらえようとしたのだ。
その姿があまりに痛ましく、継嗣は自らの立場も忘れ、弟に慰めの言葉をかけた。
社樹はやっと泣いた。
むせび泣いた。
継嗣はその姿に戸惑いながら、あるいは同じく初恋に身を焦がし、苦界に堕ちた者として何か通じるものを感じていたのかも知れない。
にわかに覚えていた社樹の泣き姿の正体は、この時の有り様であった。
ところが数日も経つと周囲の心配をよそに、社樹はけろりと泣くのを止めた。
幼年特有の切り替えの速さなのか。あまりの素早い転身に腹が立ち、継嗣はこの義弟を慰めた事を後悔して、すぐにこの出来事を記憶の彼方に追いやってしまっていた。
だが、そうではなかった。
当人すら気付かぬ心の深層に、深く深く激情を沈めていたに過ぎなかった事。
そしてあの日、慰めてくれた事が何よりの救いになっていた事を社樹の口から告白され、継嗣は自分で自分を殴り飛ばしたい気持ちに駆られた。
しかし継嗣が知るこの一件も、しょせんはのちのち起こる事件の前兆に過ぎず、社樹は心の鬱憤を晴らすように語りを接いだ。
それは継嗣が継承権を回復し、大学に進学する為に自宅を後にしてからの事。
即ち、社樹が自宅警備員の座を降り、副自宅警備員としての宿命を受け入れた頃。
目標である兄が自宅を去り、胸の内に抱えた歪みは思春期特有の反抗心に結びついていた。
悪友に勧められるまま生来の黒髪を金色に染め、一般的とは言い難い高校生になってしまった社樹は、人生で二度目の恋をした。
相手はクラスメイト。話すきっかけは友人の紹介。恋した発端は文化祭の準備作業。
なにもかも月並みな馴れ初めだったが、それでも以前とは天と地ほどに違いがある。
それは幼年の恋とは比較するまでもなく、狂おしく燃え上がる恋だった。
空想に由ってふわふわとした幼児の恋よりも、それは実体を伴うだけ、生涯を賭けるに足る宿命とさえ思う事が出来た。
彼女の名は、絵緯堤有子と云った。
有子を想うだけで足取りは軽く、有子と言葉を交わすだけで心は空でも飛ぶように自由になった気さえした。
告白の機会は何度もあった。しかし、もし断られた時の事を思うと容易にはいかない。今が空を飛ぶ気持ちだけ、失えば地面に叩き付けられる恐怖がよぎった。
何度も何度も。繰り返し勇気を練り、繰り返し練習し、ようやく社樹は有子に告白する段取りを固めつつあった。
そんな日々の折り。帰宅すると、何気なく姿を見せた父・順敬に呼び止められた。
嫌な予感がした。
これまで髪を染め、どれだけ素行が乱れようとも口を挟まなかった父が、いまさら何の用向きがあるというのか。
しかし社樹とて馬鹿ではない。過去の経験から事前に有子の三親等まで調べを済ませていた。
結果はもちろん白である。両親から兄弟、祖父祖母に至るまで犯罪歴のある人間はおらず、『自宅』とは無縁な家族だった。
なのに、滴る冷や汗は止まろうとしなかった。
そして、父の口から、再びあの忌まわしい言葉が告げられた。
――――自宅に仇なすもの、或いはその血縁者にみだりに交わるべからず。
視界は暗転し、そのまま卒倒しそうな目眩が社樹を襲ったが、理不尽への怒りがそれを凌駕した。
社樹はがなり立てるように説明を求めると、父はにべもなく真相を語った。
事実として、有子の親族は黒だった。
かつて神州全土を騒がせた無差別爆破事件の首謀者。通称・『宅配テロ』の主犯が彼女の親族に混じっていたのだ。
ただし彼女の叔父の妻となった女性の兄。つまり、それは有子とは縁もゆかりも面識すらもない、ただの赤の他人だった。
あまりの理不尽に反論しようとしたが、それは父の威圧を前にしては言葉にならなかった。
有無を言わせず、父は去り際に一言。
「時が解決するのを待て」と気休めに近い言葉を投げかけた。
無論、そんな言葉で納得できるはずもなく。
その日から社樹は何かに取り憑かれたように解決策を模索した。
かつて兄が掴んだ『掟』の抜け道を、社樹は単身で探し求めねばならなかった。
『掟』の確認とは、いわば常識の確認に等しい。
当たり前の事を当たり前として書かれている文章、文字を、一言一句と漏らす事なく、確認せねばならない。
手すら繋いだ事のない女の為に心身を削るような日々が続く。
それはもはや狂気に近い。なまじ男女の実体を理解しているだけ、声も掛けられない日々は徐々に、しかし確実に社樹の精神を蝕んでいった。
そして、限界が訪れる。
ある日、いつものように『掟』がまとめられた冊子の山に囲まれ、畳の上に身を投げ出した社樹はふと目の疲れを取ろうとして、まぶたを閉じた。
想い人の顔を暗闇に遊ばせて、しばし心の平穏を取り戻そうとしたのである。
しかし、その顔がうまく掴めない。
思わず起き上がり、再び思想を試みた。だが、やはり上手く像を結ばない。
社樹は『掟』を遵守し、有子には理由も告げる事なく。告げられるはずもなく、接触を断っていた。
当初は戸惑い、社樹の後を追った有子も一月もすれば諦めて、その姿を見せなくなっていた。
社樹は愕然とした。
あれほどまでに恋い焦がれた女の姿を、とうとう忘れてしまっていたのである。
有子の顔を思い出そうとすると、そのあちこちに阻むように掟の文字が張り付いていく。
最後に有子と言葉を交わしてから、早二年の月日が流れていた。
社樹がその生涯において築き上げてきたものが、にわかに音を立てて崩れ落ちていくような感覚を覚えたのはこの時だった。
それからしばらくは何をしていても身に入らない、無為な時間が過ぎていった。
時間を浪費していくような感覚だけが残る日々が続いたが、その中で奇妙な事が起きた。
社樹は元々、顔の造りは整った方であり、何をやらしてもそつなくこなす器用さは密かに人目を惹く魅力があった。
そこに捨て鉢になった心がけの堕落が特有の色気を醸し出したらしい。
ある頃から一人の少女が積極的に社樹の周囲にまとわりつくようになった。
有子とは比べるまでもない。
女がそばで猫撫で声をあげるたび、社樹の耳には有子の涼し気な笑い声が響いていた。
しかし、女の懸命な姿に、一切の情が湧かない訳ではない。
その有り様はありし日の自分である。
有子の周りをうろつき、出来るだけ彼女の興味を惹く話題や仕種を努めてしぼりだしていた日々の事を思い出す事が出来た。
社樹もすでに高校三年。辺りを見渡すと早熟な友人たちは皆、すでに童貞を捨てていた。
焦りが生まれていた。
妥協。
自分は決してあの兄のようにはなれないという諦めが、今まで人生にはあり得なかった選択肢を選ばせた。
しかし、そこでもまた同じ悲劇が繰り返された。
――――自宅に仇なすもの、或いはその血縁者にみだりに交わるべからず。
諦めながら体を重ねようとした女もまた、かつて自宅に牙を剥いた犯罪者の類縁だったのだ。
社樹は作業をこなすように女と別れると、それからしばらく自室にこもりがちになった、
社樹は己の不幸を呪いながら、しかし、同時に今の苦境に納得もしていた。
考えてみれば至極、当然の成り行きだったのかも知れない。
現在、神州にある地鐸は各圏に一つ。そしてそれをつけ狙う者たちもまた、その圏中に潜伏しているのである。
言ってしまえば自宅の敵とは地域密着の悪であり、土着の悪である。
必然、その悪を産み落とすのは郷土であり、そこに生きる者たちとは否が応でも繋がっている。
有子や他の女だけではない。或いは、他の誰であっても同じ事態が起きた可能性は高いのではないか。
悪とわずかでも繋がりがあれば最愛の女すら拒まねばならぬ宿命。
故に、自宅警備員がその土地の女と結ばれる事は広大な砂漠に落ちた針を拾うに等しい。
ならば、自宅警備員とはなんなのか。
土地の自宅に縛られ、掟に縛られ、愛し合う者と結びつく事は奇跡に近いのではないか。
社樹はその答えに行き着くと、自嘲気味に笑った。
諦めの笑いだった。
半ば自らを茶化さねば正気を保つ事すら危うかったのかもしれない。
「今度、父母にその馴れ初めを聞いてみるか」などと空笑いをしながら、社樹はもはや日課と化した、掟をまとめた冊子を手にする。
そこで、知ってしまった。――――『地巫女』の存在を。自宅警備員にのみ与えられる、伴侶候補の存在を。
知らされざる事実に、最初は我が眼を疑った。
繰り返し眺めて、文字を復唱し、あらためてその意味を飲み込んだ時。
社樹は怒りに震えた。
自宅警備員と副自宅警備員。その境遇の差に身悶えし、うち震えた。
これまで生涯で味わってきた全ての理不尽が、この一事に集約されていると思えてならなかった。
兄はおそらくこの事を知っていたに違いない。それを思うと気が狂うような苛立ちに歯鳴りが止まらない。
その日、社樹は自室に収集していた『掟』が書かれた冊子を全て処分した。
一冊、一冊、焚き火に投じるたび、赤々と燃えて黒いチリになっていく『掟』に目が釘付けになった。
それからまたしばらく本人の激情とは裏腹に静かな月日が流れた。
冬が訪れていた。
高校三年の冬。かねてから進学の道を選んでいたことで、試験に向かう勉学の時間がその激情のはけ口となっていた。
暗黙の了解として自宅警備員の多くは大卒である。
自宅警備員は文武両道たるを世間に示し、その資格たるを得ねばならない。それは副自宅警備員とて同じであり、社樹は虚ろな感情を数式に置き換えようと努力した。
しかし放蕩生活のツケが回ったのか。果たして兄が通う名門からは数段落ちる、地方の大学が落伍者の受け皿となった。
その事について、社樹は特に残念とも無念とも思わない自分に少し驚いた。
だが、すぐに納得した。
心より尊敬していた兄の後ろ姿は、もはや敵としか映らなくなっていた。
大学生の春。社樹は『男子、十八にして自宅を離れよ』との家訓に従い、自宅を後にした。
初めて親元を離れ、地元から遠ざかった社樹は一時の開放感のようなものを味わっていた。
目新しい大学生活は社樹の心から一瞬であれ、積年の怨みをぬぐい去ろうとした。
必死に目を背け、忘れようと努力していた感も今となっては否めない。
しかし逃れえぬ宿命の日は、とうとう訪れた。
それは大学の構内で昼食をとっていた時の事。
学食カレーの肉が割合多く、気分よく食事を楽しんでいた気分はすぐに霧散した。
食堂に備え付けられたテレビに何気なく映っていた報道番組が、その時を告げていた。
『本日のお犬様』とカモフラージュされた自宅警備員関連のニュース。
そのヘッドラインとして兄・守宮継嗣の自宅警備員就任を報せていたのである。
そして、それは同時に社樹の副自宅警備員就任をも意味する。
赤黒く沈む陽が印象的な夕暮れだった。
大学からの帰路、電柱の影から自宅警備補佐官の須藤礼峰が姿を現し、副自宅警備員の責務についての説明を始めた。
時折、地元に帰参し、継嗣が守護する自宅に一晩寝泊まりして自宅大気を養うよう説明を受ける度、足下に鋼鉄の枷がはめられていくような錯覚を覚えた。
一通りの説明を終えると、須藤は別れの際に改めて祝いの言葉を述べた。
それは即ち、社樹がその生涯において童貞であり続ける事が確定する、いわば死刑宣告そのものとして響いたのは言うまでもない。
――――ならば、いっそ死んでやろうか。
下宿先で寝転びながら、そんな自棄の言葉を呟いて、覚悟は決まった。
滅ぶべきは掟である。死するべきは兄である。
反骨の志はすでに固く、炎のようになっていた。
まず第一に『童貞』を捨てる。それでこそ歪んだ生涯が報われる。
次に『掟』を破る。それもただ破るのではなく、これまで自分の人生を歪めてきた自宅警備員制度そのものへの反逆でなければならない。
不可侵の聖域である『自宅』を貶める。それぐらいの決起がなければ命を賭ける価値はないとさえ思った。
建立して間もない継嗣の『自宅』に一点のみであれ穢す。
まず極刑は免れないだろう。しかし、それでこそ復讐を成したと冥土で誇る事も出来る。
いざ思いついてしまえば、空回りしていた歯車が次々に噛み合うような高揚感に包まれた。
そして悪魔のような画策が社樹の中に渦巻いていた。
継嗣の自宅で、掟を破り、童貞を捨てる。
『自宅』における男女の交わりは自宅警備員の特権である。それを副自宅警備員である己の手で侵す。
『掟』によって禁じられている犯罪者の類縁と交わる。脳裏に有子の姿が浮かんだが、あれから会う事もなく連絡先すら知る由もない。
しかし都合のいい事に、同大学に通う者の中に適任者がいた。名をみかと言った。
有子と比べるまでもないが、それ以上の人材も見つからなかったので妥協した。
かくして準備は整い、世にも奇妙な副自宅警備員の反逆が始まった。
社樹は「ごめんなさい」の一言を、愚かな決起の括りとした。
■ ■ ■
一切の告白を聞き終え、それでも継嗣は無言を貫いていた。
社樹の言葉の中に、いまだ消えぬ怨嗟の灯火を見たからである。
「……兄貴。確かに俺は兄貴に対し、取り返しのつかない事をしてしまったと悔いている」
告白を終え、それでもなお社樹の言葉の端々に遺恨が奔っている。
「しかし、それと、同じくらいに、俺は、俺を取り巻く自宅警備員の『掟』そのものが許せないんだ」
たとえ兄への怒りが逆恨みであった事を知った今でも、それだけは変える事が出来ないと懺悔する。
そんな弟に向かって、継嗣は思いもよらぬ人物の名を挙げた。
「……社樹、枝重おじさんを覚えているか?」
守宮枝重。
先代自宅警備員・守宮順敬の懐刀としてその大身を支えてきた、先代の副自宅警備員の名である。
当代最強と謳われ、燃え盛る烈火の印象を伴う父とは違い、その印象はなんというか、地味な緑色、と形容するのが相応しい人物であった。
社樹は思わず首をひねった。
「……枝重、おじさん?」
「あの人の事をどれだけ知っている?」
聞きながら思い返してみるに、社樹と叔父の枝重は数度の面識しかなかったはずである。
元々、影の薄い人柄であった。
その生涯を数多の伝説で彩り、内外にもその名を広く轟かす父とは違い、対外的な知名度は皆無と言っていい。
「……おじさん、どんな人だっけ」
「んんっ」
継嗣は社樹を諌めようと咳払いした。だが、実は継嗣もいまいち顔が思い出せずにいる。
そんな人物だった。
本来なら真っ先に調べるべきであった先代の副自宅警備員を、社樹がうっかり失念してしまうのも無理はない。
「お前は俺など見本にせず、あの人こそを見本とすべきだったのだ」
だが、そんな精彩を欠く仁なれど、神州随一と誉れ高い自宅警備員の父・守宮順敬を支えた手腕に偽りはなく。
その実像を知る者は、いずれも彼を英雄として疑わない。
「結婚してるぞ、あの人」
「えっ」
事実、守宮枝重は結婚していた。
副自宅警備員の身でありながら。掟に縛られる副自宅警備員の身でありながら、子宝には恵まれずとも幸せな家庭を築いている。
「しかも奥さんは昔、強制強盗詐欺集団『告民念禁』の女幹部だった人だ」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ、兄貴」
副自宅警備員が所帯を持つ。それだけで社樹にしてみれば奇跡の出来事に思えるだろう。
しかし、さらにその上を行く、文字通りに掟破りな新事実を明かされて、社樹のまぶたがにわかに震えた。
「それじゃ掟破りじゃないか!」
どこか叔父を責めるような云いを含んだ社樹の叫び。
だが継嗣は事も無げに切って返す。
「ああ、その通り。掟破りだな」
「じゃ、じゃあ……」
「枝重叔父はな、戦ったんだよ」
それは社樹どころか、継嗣が産まれる遥か以前に起こった一大事件である。
先代副自宅警備員・守宮枝重は守宮の掟を不服とし、その撤回を求めるべく、先代自宅警備員・守宮順敬と拳を交えた。
愛した女がたまたまかつて自宅に牙を剥いた組織の幹部だった。
それがこの骨肉の争いの発端である。
「う、嘘だろ……」
「信じられんのも無理はない。だが事実だ」
当人たちは黙して語らず。周囲の縁戚もこの歴史を闇に葬っていた。
継嗣がこの事実を知ったのも、鯨波子が守宮の年代記『守宮蔵』を漁っていた際にたまたま当時の史料を発掘したからに過ぎない。
「掟に逆らうべく自宅警備員に牙を剥く副自宅警備員……」
継嗣はぽつり呟いて、その先を濁した。しかし、社樹にその先は云わずとも伝わるはずであった。
――――歴史は繰り返す。
何の因果かまた再び己が殉じた愛の為に兄弟が拳を交える。
社樹はその奇妙な成り行きにしばし唖然としていたが、はたと何かに気付いて声を上げた。
「まさか……親父は、負けたのか?」
「馬鹿者」
継嗣は、荒唐無稽な義弟の考えを一蹴した。
「だ、だって……」
「父が負けるはずがないだろう。自宅警備員に敗北はない」
なのに、叔父は掟を破りながら、そんな事はおくびにも出さずに副自宅警備員の座に収まっていた。
いよいよもって社樹の困惑は深まっていく。
「社樹、お前に一つ聞いておくぞ。――――『掟』とは、誰の為のものだ?」
継嗣の問いに、社樹は答えない。
答えられない。
自らを縛り付ける『掟』が、誰の為に存在しているのか。
『掟』を悪意としか認識できない社樹からは、その質問はさぞ慮外なものに聞こえただろう。
継嗣は社樹の無言を返答として、代わりにその答えを述べた。
「――――『掟』とは、掟を守る者を、護るためにあるのだ」
自らを縛り付けていたと思っていた『掟』が、その実、自らを守る為に存在していた。
その事実を教えられた社樹の表情が、まるで憑き物が落ちたように穏やかなものへ変化していく。
「これは厳密には俺の言葉ではない。かつて叔父・守宮枝重を打ち破った際に、父・守宮順敬が言い放った言葉だ」
■ ■ ■
遥か四世代も昔の話である。当時の副自宅警備員が民間人に恋をした。
しかし、その相手が実は地鐸をつけ狙う秘密組織の手先であり、まんまと罠にハマった副自宅警備員は、敵を自宅へと招き入れてしまった。
当時、自宅警備員を務めていた守宮資性の活躍により事なきを得たが、資性が居間に戻ると、責任に堪えかねた副自宅警備員は腹を切り、絶命していた。
副自宅警備員は資性の実弟であり、まだ十五歳にも満たぬ少年であった。
実弟の非業の死を嘆き哀しんだ資性は、二度と悲劇を繰り返さぬ為、自宅警備員と過去、犯罪歴のある者からその縁戚までの婚姻を堅く禁じた。
その念の入れようは実弟を失った兄の悲哀をそのまま写し取るが如く、厳粛に、厳密に、固く、堅く、隅々にまで悲劇の芽を塗り潰していた。
――――自宅に仇なすもの、或いはその血縁者にみだりに交わるべからず。
しかし、それから時は流れ、その掟が新たな悲劇を生み出してしまった。
真に愛する者同士が結ばれない。その悲劇の主人公となった守宮枝重を激闘の末、叩き潰した先代自宅警備員・守宮順敬は、『掟』の改訂を宣言。
かつて起きた悲劇の兄弟の残滓はそのままに、最後に一言。
『ただし、満十八歳を過ぎた者、この限りに非ず』と付け加えた。
かくして晴れて愛する者と結ばれた枝重は、以後、多くを語らず、兄である順敬を支え続ける。
時折、思い出したようにあの時、順敬が放った言葉を懐かしんだ。
「――『掟』とは、掟を守る者を、護るためにあり」
■ ■ ■
「おそらくお前が読んだ『掟』の冊子には、まだこの条項が追加されていなかったはずだ。あの冊子は代を経るごとに編纂し直すものだからな」
社樹は溢れ変える真実に、茫然自失となっていた。
だが、継嗣はそんな事は気にも止めずに喋り続ける。
「言っただろう。お前は詰めが甘い、と。『守宮蔵』を管理する四方里のご隠居にでも訊ねれば、正当な答えが得られたはずだ」
継嗣からの問いかけは聞こえているのか、いないのか。
ぴくりとも動かぬ社樹はまるで抜け殻だ。
「お前は待てば良かったのだ。そして今のお前は既にその有子という女に求婚する権利を得ている」
それでも構わず、継嗣は続けた。
言葉にはいよいよ熱が灯っていく。
「だから、俺は笑ったのだ。全てがお前の独り相撲だ。こんな決起に何の意味もなかったのだから」
継嗣は社樹の頭を両手で掴むと、むりやりに視線を重ねた。
掴んだ指先には強く力が込められている。
「お前も笑え、社樹。こんなものは笑い話だ。事件でも何でもない」
今宵、起きた事件など取るに足らない、日常の一幕に過ぎない。
継嗣はそう断じる事で、社樹が犯した狼藉をなかった事にしようとしている。
「しょせんは兄弟同士の戯言! どこの誰にも文句など言わせるかッ!」
「――――なあ、兄貴」
そんな兄の心意気が通じたのか、社樹はようやく重く閉ざしていた口を開いた。
「一つ、お願いがある……」
「なんだ? 言って――――」
返答よりも先に、社樹は無言で継嗣から離れて間合いを取った。
その立ち姿は、今にも手折れそうなほどに危うい。
「よく分かったよ……。俺は何一つ、貫けなかった。俺は何一つ、成就できなかった。だから……」
会話の最中に休息を取ったとはいえ、その体には色濃くダメージが残っている。
しかし、社樹はそんなものを感じさせぬほど、見事なまでの構えを取った。
「だから……」
それは守宮流においてもさしたる名がついていない、無名の構え。
利き手の拳を大きく引いただけの、一打決着の構えだった。
「だから! ……この喧嘩だけは最後までやり抜きたいッ!」
継嗣は義弟のワガママを聞き終えると、無言で同じ構えを取った。
どちらにしろ双方、満身創痍の態ではこれ以上、満足に撃ち合う事すら出来はしない。
これが最後の一打となる。
「かかってこい、社樹」
「あり、がとう……」
感謝の言葉を終えると同時に、じりじりと間合いを詰める。
その最中、社樹は呟いた。
「……そういや、兄弟喧嘩って、初めてだ……」
「ああ、楽しかった。またやろう」
「い、やだよ……だって兄貴、本気で殴るんだもん……」
兄弟、共に悪戯めいた笑顔を浮かんでいた。
一つ深呼吸。その後で社樹はあらん限りの声で叫ぶ。
「当代東都圏副自宅警備員・守宮社樹! 参る!」
「来い! 我が義弟――――いや、弟よ!」
その言葉を最後に、互い、相手の拳の射程圏内に飛び跳ねるよう潜り込む。
そして、そのすれ違いざま。
短い打撃音の後、先に飛びかかったはずの社樹が糸の切れた人形のように床に倒れ込んだ。
その音は高く自宅に鳴り響き、この長い長い一夜の決着を天地に報せていた。
――本日も自宅に異常なし!
自宅警備用語解説:『副自宅警備員』
その名が示す通り、自宅警備員に次ぐ戦士。
自宅警備員が落命した場合、そのあとを継いで自宅入りする事になる。
当主たる長兄が自宅警備員を務め、
その弟の中から選ばれる事が多いが、例外がない訳でもない。
補欠としての色合いが強いため、外部の人間からは軽視されがちではあるが、
その実力はいずれも自宅警備員と遜色ない。
平時は自宅外に蔓延る悪を事前に刈り取る遊撃隊員の役割も果たしている。
日夜、来る危機に備え、修練を積んでいる。が、やはり影が薄い。
イメージカラーは緑色。




