8章 彼女
キレのいいオープニングで『フェスティーブ』の海辺の街でのライブが始まる。
プレイは抜群の出来だけど冬子の心の中は揺れている。
『Mamas & Papas 専用駐車場』と書かれた看板の脇に岡崎は車を停めた。
「オレは従業員用の入口から入るからお前は店のドアから入れ」
「お店のドアってどこ?」
「これの反対側だ」 岡崎は従業員用出入り口を指してからその奥を指すような仕草をした。
冬子は車を降りてさほど広くない駐車場をぐるりとまわると『Mamas & Papas』の店のフロント・ドアが見えた。
『今夜は楽屋に入れてくれないんだ……』 2度目にフェスティーブのライブへ行ったとき、岡崎は『楽屋に来ればよかったのに』と言ってくれた。 その後も時折、岡崎の誘いでライブハウスの楽屋、バンドの詰所みたいな部屋へ行ったことがあった。
そのライブハウスはいかにも地元のサーファー達が常連になっていそうなインテリアだった。 空調のための金属製のダクトは高い天井の下に剥き出しだった。 フロアにすぅーと伸びたヤシの木が幾つか置かれ、壁には長短さまざまな形式のサーフボードが掛かっている。 サーフィンの神様と云われるジェリー・ロペスやデューク・カハナモクのビデオが大きなスクリーンに映し出されている。 BGMには山下達郎の曲が流れていた。
「いらっしゃいませ!」 長い髪を茶色く染めて真っ青なアイシャドーを塗った若い女が店の奥にあるカウンターから冬子に機嫌よく挨拶した。 冬子はカウンターに近づきオレンジジュースを注文するとそのままカウンターの椅子に腰を掛けた。 ここへ来る前に海の家で着替えはしたものの髪の毛はまだ濡れたままだし化粧もしていない。 ライブの時間だから早くしろと岡崎が急かしたせいなのだ。
『ホントに勝手なんだから……』 困ったものだとは思うけど自分で好きで来たのだ。 惚れた弱みとはこうゆうことを言うのだろうけど、まさか自分がそうゆう立場になるとは想像だにしていなかった。
青いアイシャドーの女が出したオレンジジュースには大きなオレンジのスライスにチェリーとブルーのカサが刺されていてストローがニョキッとグラスから伸びている。 なんだかトロピカルドリンクみたいに見えた。
「大丈夫、普通のオレンジジュースだから」 女は冬子にウィンクをしてみせた。
「……。」 冬子は喉がカラカラに乾いていたのでオレンジスライスやらの飾りを紙ナプキンの上に乗せるとグラスから直接ジュースを飲んだ。 『ああ、いっそこれがホントにトロピカルドリンクだったら……』
岡崎からいつも『オレのライブで酒を飲むな、未成年なんだからな』との言いつけを冬子は固く守っている。 でも今夜は何故か飲みたい気分だった。 海にまで来て岡崎とは何の進展もしない――。
楽屋に連れて行ってもらえない――。 或いは岡崎に振り回されているだけの自分が不甲斐ないからーー。 訳もなく胸の中がもやもやとしていた。 冬子は17歳なのだ。 いくら背伸びをしていても心の中までは大人になれない。 冬子は紙ナプキンから櫛形に切られたオレンジを摘むと白い前歯でガブッと噛み付いた。
「おい、なに飲んでんだよ」後ろから岡崎が冬子の肩に腕を回し、オレンジジュースのグラスを持ち上げた。
「やだ、岡崎さん。 この子の保護者?」カウンター越しにアイシャドーの女がからかった。
「オレンジジュースだよ」冬子はその腕を振り払うように岡崎に向き直った。
「いい子だ」 彼がニコッと微笑む。
「奈保美、アーリータイムスとバドワイザーちょうだい」アイシャドーの女からバーボンのタンプラーとビールを受け取ると岡崎は楽屋へ引き返した。
龍院寺くんの軽やかなピアノがオープニングを飾った。 コール・ポーターの“Easy to love”。
大学生とは思えないキイさばきで高音部をよく聴かせる。 ライブのお客さんは満足そうに彼の演奏に聴き入っている。 ピアノのソロでもステージ・フライトにならないのは龍院寺くんがピアノのキイを叩きだすと音にのめりこんでしまうからだと本人が言っていた。 そのピアノにさらに華を添えたのが岡崎修のアルト・サックスで“You've Changed”。 メロディアスで流れるような演奏に聴衆からため息が漏れるほどだ。 音に深みがあるからか彼の演奏はまるで恋人に語りかけるように雰囲気がある。 優しいだけじゃなくてちょっとツンとしたり、おどけたり表情豊かだ。 彼のサックスを聴いていると音やリズムに恋をしてしまう。
それがジャズなのかなと冬子はこの頃思う。 五線譜の上に乗せた言葉にならない感情を弾きだしていくみたいな作業。 岡崎は音に関して完璧主義で自らにはもちろんのことメンバーにも妥協を許さなかった。
薄暗い空間の中でスポットライトを浴び岡崎のサキセフォンが金色に煌く。
的確に鮮やかにキイを押さえるしなやかな指、影を落とす長い睫毛の間に見え隠れする澄んだ瞳……。
哀しいほど冬子は彼を好きだと思った。
「今夜のフェスティーブ、最高っ!」バンドが休息に入ると奈保美が龍寺院誠の腕をつかまえて言った。
「誠くんのソロ、すんごくよかったよ~。」
「そぉーっすか? 嬉しいな、奈保美さんにそう言ってもらえると」
龍院寺は、てへっ、と自分の頭を撫でた。
「照れちゃって~、もうカワイイんだからぁ」奈保美はカウンターから身を乗り出して誠の頬を軽く抓った。 グラマーでスタイルのいい奈保美は女としての自信にあふれている。
「弱いなぁ、こうゆーの。 僕、年上の女の人って好きなんだよね」
「ホント~? じゃあ今夜この後、お持ち帰りしちゃおっかな。 ふふっ……」
「うっはー! マジっすか、奈保美さん? いやー、どうしようかな僕。 省吾さんに怒られちゃうよ」
「当たりめーだっ!」 斎藤省吾が誠の頭をドラムスティックでパシっと叩いた。
「イテテ……。 何すんっすかぁ」
「奈保美ちゃんに悪い虫がつかないように見張ってんだよ」
「誘ったの奈保美さんですよー、ね?」
奈保美は屈託なく笑っている。
「お前なぁ、ミュージシャンってのは大体、女か薬で身を滅ぼすんだ。 こーゆー大人の女性は俺みたいな百戦錬磨の強者に任せておけ」斎藤省吾はゴリラみたいに分厚い胸をドンと叩いてみせた。
「あの、ごめんなさい、ちょっといいですか……?」一人の女性が斉藤省吾の後ろから声をかけた。
「あっ、香菜ちゃん! いつ来たのってか、よくきたねー!!」斎藤が親しげにその女性の肩をポンポン叩いた。
「うん。 途中からだったけどさっきの演奏すごくよかったわ。 久々のライブだから感激しちゃった。
あの、修はどこ?」
冬子は思わず振り返ってその人の方を見た。 今まで岡崎を“修”と呼び捨てにする女性なんかいなかったからだ。
「あー、修さんならさっき楽屋の方行ったよ。 楽屋って言っても従業員の控え室みたいなんだけどさ」
「わたしが行ってもいいかしら? 修に頼まれたマウス・ピース持って来たの」
『この人、岡崎さんの彼女だ……。』 冬子は心臓がキューっと締め付けられる気がした。
小柄で細っそりとしている所は冬子にやや似ているけれど涼しげな切れ長の眼、キリッとした小さな口元、
それにショートにした髪が少しボーイッシュなところは、目がパッチリと大きくて女の子然とした冬子とは正反対だった。
『負けた、かも……』完全に敗北を決めるのは癪なので“かも”をつけてみるものの冬子の中では『降参』の二文字が頭に浮かんだ。 『こんなに綺麗な人だなんて聞いてない。 ずるいよ、こんな綺麗な彼女がいるのに私に優しくするなんて、って……あれ? 優しいっけ、岡崎さんって? いや、とにかく私と会っているコトは間違いないんだ。 そういうのってアリなんだろうか? もうアリもナシも関係ない、だって元から岡崎さんに彼女がいるのは知っているんだもん』
いよいよ岡崎の彼女の出現です。