6章 電話
ギリギリで今日UPできます。今回は短めでございまーす。
夏休みに入ると冬子は俄然、バイトに熱がはいった。 岡崎のライブへ通うためには、電車賃もかかるし入場料だってかかる。 おまけに目一杯、お洒落をして彼に逢いたいから着る物や靴にだって親からもらうお小遣い以上に使う。
本来なら受験勉強にどっぷり浸かっている筈の高校三年生なのだが、冬子は入学試験のない、都内の専門学校に進学するつもりだからバイトに割く時間はある。
冬子が同級生で、同じレストランでバイトしている冴子の口から大学生アルバイトの木嶋徹と付き合っているというのを聞いたのもちょうどこの頃だった。
高校生にしては大人びた(少なくとも外見だけは)冴子と大学生の木嶋徹とは似合いのカップルだね、と冬子が言うと、
「やだぁ、ふうちゃん。 あたしはそんなガキじゃないの。トオルはね、ほら金回りいいでしょ? いい車持ってるし、あたしの我が儘きいてくれるし。 まぁ、単なる下僕みたいなもんよ。 あ、でもこれトオルには言っちゃダメよ。 ふうちゃんだから言うんだから」
冴子は唇に人差し指をあて、さらに彼女には本命は別にいて、その人は社会人だと言う。
これには冬子は舌を巻いた。
冬子と冴子はアルバイトの休憩の時間で昼食を食べていた。
「要するにね、その社会人の彼氏にあたしがぞっこんだってことを悟られたくないわけ」 ファミリー・レストランの従業員控え室で、冴子が煙草の煙をフーッと吐いた。
「なんで?」 冬子は冴子をみた。
「……んー、それはね、なんてゆうのかな。 男の人って〟この女は完全に自分に参っている〟って思うとね、相手に対してそれほど興味がなくなっちゃうのよ。 安心し過ぎてしまうのかもね。 だからホントにその男を射止めたいと思ったら、彼に適度なクェスチョン・マークを残しておくわけ」
「それと木嶋さんと付き合うのとどう関係があるの?」
冬子は二股を架けるという行為がどうしても不実に思えて理解できない。
「つまり、トオルっていう〝滑り止め〟があることによって、あたしに気持ち的な余裕ができるの。 本命の彼氏にだけガツガツしなくて済むわけよ」
冴子はアイス・ティーのグラスをカラリと振った。
「どっちかにバレたらどうするの?」
「バレないように、上手くやるのよ。 勉強しない分、そのくらい頭使わなきゃね」
冴子は紅い舌をペロッとだしてみせた。
冬子は呆れるやら感心するやらで言葉も出なかった。
「そんでさ、ふうちゃんの方はどうなの? あのサックス吹きの人と?」 穂積敦志の車で四人で行ったパブで冬子が岡崎を見初めて以来、冴子は冬子が岡崎のライブに足繁く通っているのを知っていた。
恋愛経験豊富な彼女は冬子がいそいそとライブハウスに出掛けていく理由は音楽だけじゃなくて、あのサックス奏者にありと、ずいぶん前から気づいていた。
男の子には殆ど感心を寄せないと思っていた冬子が、あの郊外のパブで初めて見たミュージシャン、しかも結構美形の男に近寄って話しかけていたのだ。感のいい冴子にはピンとくる。
「あれには驚いたなぁ。 ふうちゃんが見も知らない大人に向かっていきなり喋ってるんだもん。 飲み過ぎたんじゃないかと最初思ったけどさ、あのくらいで酔っ払うふうちゃんじゃないもんね」
冬子は男性の経験は冴子に比べるとゼロに近いが、受け付ける酒量では大学生の木嶋徹や穂積敦志と肩を並べるほどだ。 カンパリ・ソーダを2,3杯飲んだくらいで酔っ払わない。
「うんん…すっごい勇気いったんだよ。 自分でもね、どこにそんな勇気があったのか……。」冬子は賄いのエビ・ピラフを口に運んでからそう言った。
「だよね...ふうちゃんって絶対自分からアプローチするタイプじゃないしね」
「ははは…やっぱそう思うでしょう?」
最近になって冬子はやっと自分から岡崎に電話をするようになった。 それまではひたすら岡崎から連絡が来るのを待っているだけだった。かといって岡崎がそれほどマメに電話を掛けてよこすわけでもない。
岡崎にはちゃあんと〝彼女〟がいる。 そして、その人とは大学時代に知り合ったらしい。
喫茶店でウェイトレスをしていたその綺麗な人を岡崎がゲットした、という話を彼は冬子に話したことがある。
音楽にのめり込んで大学の方は留年した挙句、親の猛反対を押し切って退学し、本格的にサックスをやるようになってまだ二年しか経っていない。 そういう岡崎修を彼女は何も言わずに見守ってくれていると彼は言っていた。
そんな話を聞きながら、それでも冬子は岡崎を諦められないでいる。 いや、諦めるどころか気持ちはどんどん彼にのめり込んでいくのだ。 あわよくば、自分が岡崎の〝彼女〟の座を乗っ取ることは出来ないだろうかとさえ、思っている。 こんな自分を冴子はどう思っているのだろう。 きっとのぼせあがったお馬鹿さん、くらいに思っているんではないかと冬子は想像した。
「で、どうなの? オカザキさんとは?」
冴子が再び同じことを訊いた。
「別に、どうもないよ。」
何かしかの進展があれば自分の方から話してるよ、と冬子は残念に思う。 反面、何もない方が今の関係を続けられていいのかとも思う。 たぶん自分はこのまま岡崎と何事もなく一介のファンとしてライブへ通い、彼も気の向く限りは冬子と時間を過ごしてくれるかもしれない。
先週もライブが終わった後、岡崎は冬子を誘って時々顔を出すというパブへ行った。 パブといっても若い子が集まる気の置けない店だった。 そこで岡崎は何人かの知り合いとバッタリ顔を合わせ、冬子のことを『フェスティーブ』の一番のファンの子だと紹介した。
冬子は濃紺のタンクトップに白いパンツを合わせ、長い髪を軽くカールさせて思いっきりお洒落して出掛けたのだ。
知り合いの人達は『フェスティーブ』にこんな可愛い子がファンに付いているのかと岡崎をからかったが、彼はちょっと照れくさそうに笑っただけだった。
そのことを冴子に話すと
「ちゃあんと知り合いに紹介するんだから、満更でもないんじゃない? 何とも思ってなかったらわざわざ人に紹介なんかしないよ。 ふうちゃん可愛いしさ、絶対うまくいくよ」
冴子にそう言われるとなんとなくそうかなとも思う。 男のことは騙すけど女友達には為にならないお世辞や嘘をつかない冴子が冬子は好きなのだ。
「あ、時間だよ。 もどらなくちゃ、穂積さんに叱られるよ」
冬子と冴子は食べ終えた賄いの皿を片付けてフロアに戻った。
それから幾日も経たないうちに岡崎から電話があった。
海に行かないかというのだ。
「海って、どこの?」冬子は逸る胸を押さえて訊いた。
「鵠沼。 知ってる?」いつもと変らない短い返答が帰ってきた。
この人が長々と会話をするタイプではないことを冬子は既に呑みこんでいる。
「知らないなぁ… 遠いの?」
都内に住む岡崎が行くような場所なら冬子の住む所からでも日帰りで行けるのかも知れない。
「そうかぁ、お前の所からだとちょっと遠いな」
少し考えるような口調だった。
「どのくらい遠いの?」
それには答えず、岡崎はそこでライブをやって、海があるからそこで遊ぶのだと言う。
冬子は岡崎と海へ行くなんて、どんなにか素敵だろうとワクワクした。
「行きたい?」
「行きたいけど……」
「じゃあ、決まりだ。 金曜日の朝10時に東京駅に来いよ」
「...でも...。」
「なんだよ、都合が悪いのか? 夏休みだろ?バイトなんか休めよ」
冬子が夏休み中、バイトで汗を流しているのを岡崎も知っている。 そしてそのお陰で、高校生の冬子が、歳不相応なライブ・ハウス通いなんかできるということもだ。
なのに相変わらず強引である。 自分はいつもマイ・ペースなのに、こっちの都合はさっぱり気に留めない。
高校生如きには都合のつかない用事なんかないと思っているのだ。
「そうじゃなくて、だから…あの、日帰りで帰れるかな」
泊まりで岡崎と出掛けるなんて親に知られたらとんでもないことになる。
もちろん外泊ともなれば岡崎修の名を出さずに女友達と一緒だと嘘をつくしかない。 親に嘘を言うのは嫌だけれど、そうでもしなければ岡崎と海へ行くことなんかできっこないかもしれない。
「車なら大丈夫だろ」軽い口調の声が返ってきた。
それを聞いて冬子はホッと胸を撫で下ろした。 終電に間に合わなくても、そういう手があったんだ。
「うん」
「じゃあな…」そこで電話は切れた。
受話器を置いてから、冬子はその場で飛び上がってはしゃぎ回りたいくらいだった。 二階にある自室に入ってガッツ・ポーズを取ると、ベッドに(まるでプールに飛び込むみたいにして)身を投げた。
岡崎と海に行くなんて、夢みたい。 なんてロマンチックなの?
第一、水着一枚で海辺で過ごすなんて考えてみるだけで刺激的である。 冬子は胸がワクワクした。
もしかして……岡崎は自分をただのファン以上に思ってくれているのではないだろうか? でなければそんな遠出をさせてまで、自分を誘うだろうか? しかも行き先は海である。
ライブの後に牛丼を食べたり、コーヒーに付き合うのとはちがう。 冬子は冴子に〝(二人は)絶対うまくいくよ〟と言われたことを思い出して、ふっとそうかもしれない、と思った。
「いらっしゃい……」冬子はバイト先のファミリーレストランのフロント・カウンターから、今店に入ってきた客に声を掛けようとして足を止めた。
「ふうちゃん、頑張ってるね」お客は美里だった。
夏休みなので毎日会うことはないが、電話でしょっちゅうお互いの近況を伝え合っている。
話すことといえば、その日バイトであったこと、前夜に観たトレンディ・ドラマの感想など、ごく他愛のないことばかりであるのだが。
「まあね。あ、
米本さん、こんにちわ」
冬子は美里の連れの眼鏡を掛けた男に挨拶した。 男はむっつりした顔で軽く頭を下げた。
愛想のよくない男だが美里がバイト先で出会って好きになったと言うのだから仕方がない。
冬子はこの眼鏡男がどうも好きになれない。 親友の彼氏ながらどうにも虫が好かないのだ。
「窓際にする?」美里が眼鏡に訊くと「ああ...」とだけ彼は返事をした。
空いている時間だったので冬子はまっすぐに二人を窓側の席に案内した。
メニューを渡すと美里が「今日何時まで働くの?」と冬子に訊いた。
「うーん、今日は夜9時であがり。 今日は美里、バイト休み?」
美里はスーパー・マーケットのお惣菜コーナーでバイトをしている。 つまりは米本もそこでバイトをしていて美里と出会ったというわけだ。
米本は顔立ちは悪くないし服の趣味も悪くはないのだが、どこかイケ好かない奴だと冬子は思う。
おそらくそれは米本が美里のすることに対して何かと口を出し、指示を与えるせいだろう。
たかだか大学生のくせに...。と冬子は口にこそ出さないが、この男を見るたびにムカッとする。
美里がチョコレート・パフェを注文すると
「また、チョコレート・パフェ? 君、たまには違うもの頼んだら? いつも同じものばかり食べてるじゃないか」
美里が前にしているメニューを脇から覗き込んで米本が言った。
ケッ、人が何を食べようがからすの勝手でしょうに……!
冬子は胸の中で思う。
「...じゃあ、バナナ・パフェにしようかな...」美里が眼鏡男の顔を見る。
「どっちも同じようなもんじゃないか、そんな甘いもんばっかり食べるから太るんだろ?」米本はキツイ言葉を美里に浴びせる。
美里はどちらかというとポッチャリ型で痩せギス胃下垂気味の冬子とは対照的に、ケーキやパフェなんかの甘いものをよく食べる。
冬子はそんな美里が女の子らしくて羨ましいとさえ思うのに、この眼鏡男はなんていうことを言うのかとムッとした。
つい、感情が表に出て米本をジロリと睨みつけると彼はイライラした表情でメニューを眼で追っている美里を見ている。
また後で注文を聞きに来ようかと思っていると、
「しょうがないなぁ、じゃあそれにして。 僕はアメリカンね」
米本が冬子にメニューをつっ返した。
冬子はテーブルを離れ、キッチンのカウンター手前にあるワーキング・ステーションでコップに水を注いでからパフェを作りに掛かった。
火を通す料理はキッチンで作るが、飲み物やアイスクリーム類の殆どはウェイトレスやウェイターがこのワーキング・ステーションで作る。
今くらいの時間は食事を取るより喫茶類が多く出るから、キッチンのコックさんたちはその時間を利用して鉄板を綺麗にしたり鍋を洗ったりする。 そしてフロアで働く冬子たちウェイトレスに話しかけたり、からかってみたりするのだ。
「冬子ちゃんの友達? あの窓際の二人?」調理場から穂積敦志が白いタオルで手を拭きながら出てきた。
「女の子はそうだけど、男の方は違うよ」
パフェのグラスにホイップ・クリームをどっさり巻き上げながら冬子が返事をした。
「できてんだろ、あの二人?」
テーブルとテーブルの間にある観葉植物の葉っぱの上まで首を伸ばして穂積敦志が窓際の二人を観察している。
「いちおう美里の彼氏だけど...」
トレイに皿やカップを載せながら冬子はそれがどうしたという顔で穂積を見た。
「あの二人はかなり深い関係だな」
穂積は両腕を前に組んで自信あり気に一人で頷いている。
「どうしてそんなことが分かるんですか?」
なにを下らないことを穂積敦志は言っているのだ。 冬子は穂積が何の根拠もなく男女の仲を推測しているのが可笑しくなった。
「知ってるか? 男女が向かい合ってテーブルに座る時は、まだお互いに距離があるってことで、椅子がテーブルの両側にあるのに、どちらか一方に隣り合って座るのは二人が深い関係だってことなんだぞ」
「それ、本当?!」冬子の声が高くなった。
「うそじゃないよ。心理学で習ったんだ」 そんなことまで大学で教えるんだろうか。 冬子は信じたくなかった。
大学でそういう男女の行動心理を教えることではなくて、美里があの米本と深い関係になっていることをだ。
冬子は一瞬唖然となって美里と米本の座るテーブルに眼をやった。
「ほら、ぼやぼやしないで早く持って行けよ。コーヒー冷めちゃうぞ」
穂積敦志は首に掛けていたタオルをエプロンの紐に挟むと、厨房に入って行った。
冬子はバナナ・パフェとコーヒーの載せたトレーを美里たちのテーブルに運びながら、穂積が今言ったことが本当だろうかと考えた。 そうでないことを願いたいのだが、もし本当だったら、これはショッキングなことである。
自分は米本が嫌いで、それは向こうも同じみたいだった。
米本は高校生の分際で、新宿や渋谷のライブ・ハウスなどに週末の度に出掛けている冬子を、美里の親友として好ましくない“軽い女”と言っているらしい。 冬子が美里に悪い影響を与えて、自分の“彼女”をよくない方向に引っ張り込むのではないかと心配しているのだ。
それを逐一冬子に報告する美里も美里なのだが、冬子が一緒にライブハウスに行こうと誘った時、美里が残念そうに断ったのにはそういう理由があった。
米本が美里に、クラブやライブ・ハウスに行くのは冬子のようにチャラチャラした女がすることだと言ったらしい。
それを聞いて以来、冬子の米本に対する評価は女を縛り、自由を束縛する前時代的な頭の持ち主、ということに落ち着いた。
冬子が二人のテーブルに注文の品を置くと、美里はありがとう、と言ってニッコリ笑った。
冬子も二人に笑みを返したがテーブルの下で眼鏡男の右手が美里のスカートの上、腿のあたりにあるのにはギクリとしたが、気づかない振りをしてテーブルから離れていった。
『まったくイケ好かない男!』
冬子はワーキング・ステーションに戻ると思いっきり吐き出すように呟いた。