2章 岡崎修
大人ばかりが集まるライブハウスに大学生のバイト仲間に連れられて来た17歳の美少女、冬子。 そこで彼女は意外にもジャズ・ミュージシャン、岡崎修の魅力に惹き付けられる。
なんとかして岡崎に近づきたいと思う冬子。
美しいとはいえ、まだ高校生の彼女は恋には全く不器用で未経験。 そんな冬子が一歩踏み出すステップとは……。
「今晩は。フェスティーブの蒲田美津夫です。皆様、本日はご来店下さいまして誠にありがとうございます。」
ギターを弾いていた髭の男の人がマイクを手に挨拶するとドラムの人が、「ミッチー、スーパーの宣伝じゃないんだよ」とからかった。
『フェスティーブ』とゆうのがバンドの名らしい。
たぶんこの蒲田という人がバンドのリーダーなんだろう。 メンバーの中では一番の年嵩らしい。
蒲田美津夫はその揶揄には笑っただけで、「ピアノは龍院寺誠君」右手を伸ばしてピアノの方を差した。
龍院寺が即興で軽やかに短いメロディーを披露するとフロアの客達からパラパラと拍手が起った。 龍院寺誠は片手を挙げて笑顔を見せた。
「パーカッション、斉藤省吾君」蒲田がドラムの方を示すとガッチリした体格の若い男がドラム・スティックを頭の上で高く挙げ、派手に回転させてから、バラバラバラッ、バッシンババン!!とスネアとシンバルをリズミカルに鳴らした。
ガッツ・ポーズをとる斉藤省吾のTシャツの袖から彼の腕に在る青黒いタトゥーがチラリと覗いた。
『うわっ、この人、刺青入れてるー!』
冬子は刺青なんか入れるのは、まず堅気の人間じゃない証拠だと思っているから驚いた。図柄まではよく判別できなかったが、それが刺青であることは一目瞭然だった。
髭の蒲田美津夫が最後のメンバーを紹介した。
「そして最後に岡崎修君。アルト・サックスとフルート!」
サックスを構え、マウス・ピースを咥えると
テケテテッテテッテテテッテテー...! 競馬のファンファーレを岡崎修は奏でた。
「岡崎君は先の天皇賞でおもいっ切りスッちゃいましたからねー。 このメロディが頭から離れてくれないらしいです」
蒲田美津夫が言うと聴衆から笑いが起った。
岡崎修は両手で金色に輝くサックスを上下に撫でながら照れ笑いした。 笑うとエクボができて南欧風の彫りの深い顔立ちが少年のように爽やかで初々しく見える。
「今夜はお客さんの平均年齢、ちょっと若いですよね」
蒲田が冬子たちのテーブルを見て言った。
冬子と冴子は顔を見合わせて肩をすくめた。
「そこのお嬢さん。 そう、髪の長いお嬢さん、何かリクエストありますか?」
店のお客さん達の視線が冬子たちに集中した。
長い髪を胸の辺りまで垂らした冬子はドキっとして、髭のギタリストを見た。
リクエストを、と聞かれてもジャズの楽曲の名前すら知らないのだ。
学校の先生に何かを質問されて答えに詰まっているような冬子の様子を見て木嶋徹がクックッ、と笑っている。
「…じゃ、ブルー・トレインお願いします」
穂積敦志が〝髪の長いお嬢さん〟に助け舟を出すように言った。
「いいチョイスだなぁ」と言いたげに他の客が幾人か頷きあった。
岡崎はドラムスの斉藤省吾にチラッとウィンクするとすぐに演奏が始まった。
「穂積さん、かっこいいー。 ジャズに精通してるって感じですね」腕を組んで眼を閉じ、長い足を組んでいる穂積に冴子が言った。
「リクエストしたんだからちゃんと聴いてろよ!」
木嶋が冴子の脇を肘で突いた。
「なによ、ジャズのコト何にも知らないあたしたちを木嶋さん、面白がったくせに」
冴子がプッと頬を膨らませた。
木嶋徹は知らん振りをしている。
冬子は2杯か目のカンパリのグラスを両手に包んだまま、眼はサックスを吹く岡崎修に釘付けになっている。
ジャズのJの字も知らない冬子だけれど、音楽の良し悪しくらいは分かると思う。
小さい頃、母に連れられてピアノ教室へは通ったことがあった。 もっともバイエルを六年間かかってやっと終わらせたので、ピアノの先生から『冬子ちゃんにはもっと他の才能があるみたいですね』と言われ、それっきりになった。
とするとやはり冬子にはそっちの方の才能はないのかもしれない。
とにかく冬子は岡崎修に眼も耳も奪われた感があった。
岡崎修が演奏にのめり込んで伏目がちになる時の深く濃い目元は哀愁を帯びたサックスの音色が言いようのないくらいピッタリくる。
“ジャズ愛好家=薀蓄を語るおじさま”とゆう思い込みは、今や冬子の中では何処か遠い彼方へすっ飛んで行ってしまっていた。
ステージに立つエンターティナーとはいえ、『フェスティーブ』のメンバーは、街で見かける若者達と少しも変らずに、
気取ったところなど全くない。
これだけプロフェッショナルな演奏をしながらジーンズにスニーカーという出で立ちである。 もしかしたら大学生のバイトかなんかでやっているのかもしれない。
そんな風にさえ見える。
岡崎修のサックスの音色は冬子が今まで感じたこともないメンタルな部分にスゥーッと入り込んでくるように感じた。
穂積敦志がリクエストした曲が終わるとライブ・ハウスの客たちは喝采した。
それから何曲かが演奏され、冬子はお酒よりも『フェスティーブ』の奏でる音楽に心酔した。
ライブが終わるとステージのスポットライトは消え、ごく日常的な天井からの照明に変った。
バンドのメンバー達は手際よく、楽器や機材の片づけを始めていた。
冬子は引き寄せられるように音の温かみがまだ残っているステージに近づいて行った。
「あの…」
冬子は゛気をつけ〟でもするように真っ直ぐに立つと、そこで音響装置のプラグを抜いたり、コードを巻きつけている岡崎修に声をかけた。
「……?」
岡崎はアンプに繋がれていたコードを手にしたまま冬子を見た。
長い巻き毛を胸の辺りまで垂らしたまだ幼な顔の少女が立っている。
さっき蒲田美津夫がリクエストを訊いた女の子かもしれない。
演奏中はステージに照明が利いていてフロアは暗いからよく見えなかった。
しかも岡崎は近眼である。
「今日は来てくれてありがとう」岡崎はいつもライブの客に言うセリフを口にした。
「あの、岡崎…修さんですよね」冬子が言葉途切れがちに言った。
「うん、名前、覚えててくれたの?」岡崎はにっこりした。
岡崎たちのような無名のバンドのメンバーの名前なんてお客はいちいち覚えてはいない。
しかもジャズ・ミュージックの客は仕事とか家庭とか他にもっと大事なことを考えなきゃならない年齢層の人が多いから余計である。
「はい」冬子がコクリと首を縦に振ると艶やかな髪が少し揺れた。 大きな黒い瞳でまっすぐに岡崎を見た。
「今夜は楽しかった?」岡崎が言った。
「ええ、とても…」
「それはよかった。 ジャズ好きなの?」
「今日初めて聴いたんです。 お店に入ったときラッパの音が聞こえてトランペットだと思ったんだけど
…サックスだった。 貴方のサックスもフルートもすごくよかった」
「ありがとう」岡崎はクスッと笑った。
トランペットやサックスを〝ラッパ〟と言って区別がつかなかったと冬子が正直にいうのが可笑しかったのだ。
「貴方のバンド、またここに来ますか?」
「…んー、どうかな」
岡崎がちょっと考える表情になった。
「おい、修、何やってんだよ」斉藤省吾がバック・ドアから入ってきて岡崎に呼びかけた。
今しがたばらしたドラムセットを車に積み込み、残りの機材を片付けるために戻ってきたのだ。
「ごめんなさい。お忙しかったんですよね」
冬子は斉藤省吾と岡崎修の二人に向かってぴょこぴょこと頭を下げた。
ドラマーで刺青を入れてる強面の斉藤がチョッピリ恐いような気がする。
その冬子に眼を留めると斉藤は手を横に振って
「いいよ、いいよ、気にしないで。 こいつと話してたんだろ?」そう言って機材を手にぶら下げて店から出て行った。
「ごめんなさい、忙しいのに邪魔しちゃって……。」
冬子はシュンとして頭を下げたが、すぐに気をとりなおして、
「あの、今度はどこでライブやるんですか?」と訊いた。
「今度は…来週の金曜日、新宿で演る。 場所は…」そこまで言ってから
「君、歳いくつ?」眉をちょっとしかめて冬子を見た。
「十七です」
「……。 一応このライブ・ハウスは十八禁なんだ。 残念だけど.……。」
「大丈夫です。 時間と場所、教えてください」
冬子は自信あり気に、大きな瞳で上目遣いに岡崎を見た。
都内のディスコに出入りするために偽の身分証明書を持っている。
でも、それは言わなかった。
「じゃあ、オレの友達ってことで特別に入れてもらうようにするから、もし年齢とか訊かれたら、そう言って」
岡崎はステージの端に置いてあるベィビィ・グランドピアノの上で、名刺の裏に次のライブのスケジュールを書いて冬子に渡した。
「わぁっ、ありがとうございます。 じゃあまた……。」
冬子はペコンと頭を下げると、くるりと背を向けた。
「お、おい、ちょっと待て!」
「……?」
「お前の名前…、友達の名前知らなかったらヘンだろ?」
言ってから岡崎は自分がいつの間にか“オレ、お前”口調で言ってるのに気がついて苦笑した。
「あっ、そうですよね、白鳥冬子です」
振り返ると冬子はそう答え、大事そうに岡崎からもらった名刺を胸に抱いて冴子たちがいる方へ駆けて行った。