1章
18禁ですが、それはストーリーのずーっと後でのことでございます。
1章 初めてのジャズ・ミュージック
ミュージシャンの岡崎修に冬子が初めて逢ったのは、東京郊外にある小さなクラブ兼ライブ・ハウスみたいなところだった。
まだ高校生の冬子がそんな所へ行ったのは彼女と同じアルバイト先で働いている穂積敦志が「ちょっといい雰囲気の所だからみんなで行こう」と誘いをかけたからだ。
アルバイトのシフトが終わった土曜日の夜、穂積の運転する赤いカローラに木嶋徹と冬子、そして同じくバイト仲間である冴子も乗り込んだ。
木嶋も穂積も大学生で、このファミリー・レストランのアルバイトを通して知り合ったサーフィン仲間である。
二人は一年を通してサモイ人のような茶褐色の肌をしていた。
五月とはいえまだ肌寒いのに、その陽焼けした肌を誇示するかのように身体にピタッとしたTシャツを着て、ファーラーのパンツを合わせている。 この裾広がりのパンツを見るたびに冬子は“なんと肌触りの悪そうな生地だろう”と思う。
1980年代の初め、もっと履き心地のよいパンツを履きたいと思いながらも“流行っているから”という理由で、このポップ・サックに足を突っ込んでいた人はかなりいたのではないか。
彼ら二人の大学生はカローラの前方座席に座るとカセット・デッキから流れてくる、ホール・アンド・オーツの〝プライベート・アイズ〟に合わせ、口ずさんだり手拍子を取り始めた。
後部席に座っている冬子と冴子は車内に篭もる、セックス・ワックスとコパ・トーンが混ざり合ったひどく甘ったるい香りに悩まされながら、こんな畑や田んぼの広がる県道沿いの場所に、穂積敦志の言うような気の利いた店が本当にあるのかと半信半疑である。
途中で給油のために寄ったガソリン・スタンドの反対側には、雑木林が鬱蒼と暗闇の中に控えていた。
「穂積さん、ホントにこんな所にライブ・ハウスなんかあるの?」冬子が訊ねた。
「もしかして穂積さんたち、こんな所まであたしたちを連れてきて、田舎のラブ・ホテルで自分達と一発やろうって計画なんじゃないの?」冴子が冗談まじりに冬子に耳打ちした。
冴子は冬子と中学から一緒だけど、高校に入ってからすぐに二人の男と寝たという〝強者〟である。 一方、男の子と一度もそんな関係をもったことのない冬子はバイト先の先輩達にホテルに引っ張り込まれるなんて想像しただけでもゾッとする。
「でもさ、どうせヤルんならふうちゃんはどっちがいい?」冴子が冬子に小声で訊いた。
「えぇっ?」
「たとえば…の話よ」
「あたしは、どっちもイヤ。 タイプじゃないよ」
冬子は顔をしかめた。
「ふぅーん。 あたしは木嶋さんがいいかなぁ…」
「マジで?」
「いい体してんじゃん、この人。 悪くないと思うんだけどな」
冬子に素早く耳打ちすると、冴子はニヤリとして前の座席に座っている木嶋徹の頭の後ろに視線を移した。
冬子は冴子のことを、彼女は日常的に恋人と交渉を持つようになってから男の人と寝ることをゲームくらいにしか考えていないのじゃないかと思う。
冬子は穂積敦志も木嶋徹もいい人達だとは思っている。 けれどそれはバイトの先輩、そしてお兄さんのような遊び仲間としての気持ちであって男女としてどうこうという気持ちはない。
三十分ほど車を走らせ、県道を少し入ったところにそのクラブはあった。
さほど広くない駐車場に何台かの車が窮屈そうに停まっている。 穂積はカローラをその隙間へ器用にバックで入れると「ここだよ」と後部座席の二人に向かって言った。
店のドアを半分も開けないうちに、トランペットやピアノの音が流れてきた。
薄暗い店の中は、ぼおっとした蒼い光に包まれていて、冬子は、一歩足を踏み入れた途端、海中に沈められたような感じがした。
小ぢんまりとした店内はライブ・ハウスというよりはパブのような趣である。
冬子は足元から響くようなバスの音やシンバルの音を受けながら穂積の後ろをついてステージ近くのテーブルに座った。
店内は穂積や木嶋のようなサーファーの恰好をした若い客は少なく、殆ど三十代半ばかそれ以上の大人ばかりで、冬子や冴子みたいなガキは一人も見当たらない。
「大人ばっかりだね」冴子が冬子に耳打ちした。
「場違いかな……」冬子はキョロキョロと薄暗い店内を見回した。
入り口の正面がステージになっていて、音楽はそこでプレイしているバンドから流れている。
クラブのお客たちは演奏を堪能しながら酒を飲んでいる。
髪を短いボブにカットした痩せた女の人が冬子たちのテーブルに注文を聞きに来た。
「いらっしゃい、木嶋くん、穂積くん。 あら、今日は女の子と一緒?」
女の人がテーブルにメニューを置いて言った。
「バイト先で一緒の子だよ」
木嶋が冬子と冴子をメニュー越しにチラリと上目遣いで見ながら言った。
「かわいいわねー、二人とも…。」
ウェイトレスに言われると冬子と冴子は照れたように会釈した。
「僕達はいつものね」
木嶋が熱いお絞りの封を白い糸切歯で破いた。
「あと彼女達はなんかノン・アルコールで」
穂積がウェイトレスに向かって言った。
「えっ、お酒ダメなんですかー?」
冴子が穂積に抗議する。
「…っていいの?」
穂積が〝未成年のくせに〟と言おうとするところを冴子がすかさず
「ブルー・ハワイを」とウェイトレスに言った。
こんな大人ばかりの場所で自分達だけジンジャー・エールやコーラをあてがわれては面目ない。
冬子はちょっと間を置いてから「カンパリソーダをください」と言った。
「カンパーイ!」
四人は丸いゴツゴツした木肌のテーブルを囲んでグラスを傾けた。
「あー、おいしい! 労働の後の一杯って格別ぅ!」
冬子はその苦甘い液体を喉に流し込んで言った。
アルバイトの仕事の後にクラブでお酒を飲むなんて。
今、ここで流れているジャズのせいもあってなんだか大人になったような気がする。
冬子はジャズなど今まで聴いた事はない。
デパートやビルのエレベーターの中でなら耳にしたことはあると思うが、そんなのは“聴いた”とゆうことにはならないと思う。
なんとなく気取った大人が聴く、薀蓄がわからないと聴けないスノッブな音楽だという気がする。
事実、ここにいる人達もバンドのリズムに合わせて足踏みしたり、難しい表情を浮かべながら指で軽くテーブルを叩いたりしている。
ピアノとバスのリズムが必ずしも一致してはいず、どこかで外れている。 というか上手い具合に外しているのだろう。 ドラムは控えめにツツンッツン...という感じで出しゃばらない。
冬子が普段聞いているポップスやロックと比べると妙に間延びし、もったいぶっているような音だ。
常にリズムが一拍かその半分、ズレているようなじれったさがある。
そして何よりも一曲一曲があきれるほど長い。
グラスの中の氷をストローで搔きまわしながら冬子はバンドの面々を眺めた。
メンバーはみんな男性で、ギターを弾いている顎鬚を生やした男が一番年長だろう。
それでも三十を少し過ぎたくらいかもしれない。 ピアノとドラムの男は二十代だろうし、サックスを吹いているのも若い人だ。
さっき店の入り口でトランペットの音かと思ったのはそうではなくて、このサックスらしいと冬子は思った。
そんな区別もつかなかったのだが、とにかく若い人もジャズやるんだと冬子は驚きと興味が湧いた。
木嶋や穂積はこうゆう音楽が解って聴いているのかどうか、バーボンの水割りを飲みながら感じ入ったようにバンドを見つめている。
軽やかなピアノのメロディがソロに近い感じでしばらく流れた後、哀愁を帯びたサックスがやや高めの音で飛び込む。 サックスは感情が豊かで何がしかの風景を描くようにゆったりと、それでいて小気味良く音を刻んでゆく。
時々、駆け出すようだと思うと、諦めたように投げやりなる気まぐれな旋律を冬子は何の考えもなしに心地よいと感じた。
哀しげで居てあっけらかんとしたサックスの音色、一つのフレーズが幾度か繰り返されフェード・アウトした。
お客が拍手と歓声をあげるとバンド・メンバーがお辞儀をした。 ステージの真ん中にいるサックス奏者は額に汗を光らせている。 その汗をジーンズの後ろのポケットからバンダナを取り出し無造作に拭った。
「カッコイイ…。」冬子は溜息の下で思わず呟いた。
以前に投稿した『蒼いパレット』と同じく高校生が主人公ですが、『スィート・サキセフォンのメモワール』はずっと大人仕様です。