4:Ghost visits Zombie.
「それにしても酷い雨ね」
千夏が顔をしかめる。
「天気予報によると、何だか数十年に一度の大雨らしいよ」
隣でゆずが空を仰いだ。
──千夏と明日香が二度目の会合を果たしてから三日。三日前が休日だったのだから、今日は当然平日である。
天気予報が「怪物低気圧」と称した低気圧の直撃を受け、すっきりしない天気が続いていたこの頃であったが、特に本日は「酷い」の一言では済まされない有様であった。
明け方にはいつもの雨と大して違いのない様相をかもしていた雨雲は、正午の辺りで突如として“怪物”は牙をむき、夕立のような降水量の雨を下校時間である今まで延々と降らしている。
始めのうちこそ「そのうち弱まるだろう」と雨宿りを決め込んでいた千夏とゆずであったが、一向にやむ気配のない雨にしびれを切らし、結局は「せめて暗くならないうちに」として二人で学校から帰路についていた。
とは言え分厚い雨雲が天を覆い尽くしているせいで、まだ日が暮れていないはずなのに辺りはすっかり薄暗い。
そんな中を、やや速足で進んでいく二人。雨の日にこうして横に並んでみると、長身の千夏と小柄なゆず、二人とも各々都合が良い高さに傘を掲げているので、身長差がやたらと目立つ。
当然歩幅も違うので、いくら速足と言えども、時折千夏は歩く速度を緩めないとゆずが付いてこられないのだ。
「今日は寄り道せず帰った方が賢明みたいね」
「うん、大判焼きはまた明日あたり、天気が良くなった日にしようね」
普段はちょっと外れの道にある甘味どころで大判焼きを買って食べるのが彼女達の楽しみであった。流石に毎日というわけにもいかないが、一週間通して食べずに帰ったことは恐らく今までなかっただろう。
それでも、こんな天気だと甘い物を食べるためとは言え遠回りするは億劫であった。
「せめて明日にはやんでいてほしいんだけど」
「そうだね。こんなに激しい雨だと、川の堤防も心配になるし」
と、ゆずはこの前の週末に通った河川敷の事を心配しているようだが、“川が心配”という点では密かに千夏も同じ思いを抱いていた。
いや、正確に言えば心配なのは川そのものではなく、そこから離れることのできない明日香の事だ。幽霊が水に流されるのかどうかは分からないが、だからと言って心配ではないはずがない。
無論、その旨をゆずに話すわけにはいかない。一番の親友である彼女にすらゾンビ化の事実を打ち明けられずにいる千夏が、どうして幽霊と友達になってしまった事を言えよう。
そんなわけでゆずも、いつの間にか自分も幽霊に“友達”として認定されてしまった事に気がついていない。認定されたからと言って何かが変わるわけでもないし、どこから説明して良いかも分からなかったので、この一件を千夏はすっかり放りだしていた。
「実はあの日、私の隣に幽霊がいたんだけど、分かった?」、もし口が滑ってそんな事を言ってしまった暁には、千夏は恐らく次の日には火葬場で自分自身の焼却を願い出ているだろう。受付の人がどんな顔をするかまでは、千夏の想像力では限界がある。
何はともあれ、千夏は今もこうして友人と仲良く語りあっているし、火葬場は未だゾンビを焼かずに済んでいる、それだけは事実であったとして話を戻すが、
「そう言えば、千夏ちゃんはこの前、誰と待ち合わせしていたの?」
と、ゆずが何気なく千夏に尋ねた。
ちょっと難しい質問だな、と千夏、顔には出さずに思い悩んだ。
これがもし大抵の友人が相手なら「昔の友達」などと誤魔化せるのだが、ゆずの場合、幼稚園からの付き合いである。千夏の友人は大抵の場合ゆずとも友人なので、そこら辺をぼかすのは難しい。
「えっとね……」
何か良い答えはないかと水面下で必死に頭を捻る千夏。本当はじっくり考えたいところなのだが、だからと言って足まで止めてしまっては不自然である。
適当な返事を模索しつつ歩き続け、次の十字路を右折した時だった。
──思わず千夏は立ち止まってしまった。自身がゾンビという信じがたい存在であるために、滅多な事では驚かない自信があった千夏も、こればかりはすっかり圧倒されていた。
と言うのも、曲がった先に一人の少女が立っていたのだ。勿論、それだけなら千夏でなくたって誰でも驚かない。問題は、その少女が仄かに青白い光を周囲に放っている事であった。
おまけにその少女、青白い光を周囲に撒き散らしている上に水色のレインコートを羽織っているため、全体的な色合いは青色が強く、見ていて寒々しい。
それだけならまだしも、千夏が唖然としたのはその事だけではなかった。
「あ、千夏! 良かった、探してたんだよ!」
なんとその少女、明日香だったのである。
「……千夏ちゃん? どうかしたの?」
ゆずが心配そうに千夏を見上げた。幽霊が見えないゆずには目前の道路がいつもの道路と何一つ変わりない物に見えているのである。
「ん、ううん、なんでもない。ちょっと立ちくらみしただけ」
「大丈夫?」
「もう何でもないわ」
と、どうにか千夏は誤魔化し、再び歩きだした。
「立ちくらみ? 大丈夫? きちんとお昼ごはん食べた?」
その誤魔化しを真に受けた明日香が、千夏の方を見つめた。──あんたのせいよ、馬鹿野郎! ──千夏が喰ってかかりたいのを必死にこらえる。
「で、えーと、何だったっけ。ああ、そう、待ち合せの相手だったわね。うん、親戚のおじさんに呼ばれてたのよ」
さっさと親戚と答えれば良かった、と千夏は自分の不手際を悔やんだ。流石に親類となればゆずであっても知らない人ばかりである。
「そうだったの。そうか、千夏ちゃん、一人暮らしだもんね、大変だね」
と、ゆず。
「えっ、千夏、一人暮らしなの? やった、丁度良いや」
明日香の表情がパッと明るくなるのを見て、千夏は早々に嫌な予感を覚え始めていた。心なしか、周囲に放つ光の明るさも増した気がする。
「実はね、ちょっと千夏にお願いしたい事があるの。だから、ゆずちゃんと別れた後でも良いから、後でちょっとだけ時間ちょうだい!」
そう言って両手を合わせる明日香。
少々気が滅入りかけているとは言え、その程度で話すら断る千夏ではないが、だからと言ってゆずの手前で堂々と返事をする事はできない。
“分かった、分かったから少し待って”
そう意を込めた視線を送りながら、千夏はできるだけ最小限の動きで明日香に頷いて見せた。
「ホント!? ありがとう、さすが千夏、頼りになる! じゃ、ありがたく今夜一晩、お世話になります」
馬鹿、話が進み過ぎだ! と、千夏は思わず振り返って明日香を睨みつけた。──あくまで私は話を聞く所までしか許可していないわけで──
「……あ、あの、千夏ちゃん、どうかしたの?」
──もうやだ!
光っていても、やっぱり明日香は明日香であった。
結局、ゆずと別れる交差点に至るまで、千夏はひたすら今にもスキップしそうな明日香の鼻歌に耐えながら、いつになく疲労まみれの帰り道を歩かされる事となったのであった。
「……で? いったい何?」
そんなわけなので、ようやく明日香が千夏と二人きりという念願のシチュエーションを果たした時、千夏の機嫌は酷く悪かった。器用に傘を持ちながら腕組みし、足だって今にも地団太を踏みだしかねない。
「え? あの、千夏? なんでそんなに怒ってるの?」
「さあね。心当たり、あるんじゃない? 自分の胸に手を当てて、考えてみたら?」
そう言われると根が素直な明日香、正直に自分の胸に手を当て
「……心臓の鼓動が聞こえる」
どうやら幽霊も心臓は動いているらしい。
「そうじゃなくて──」
「うん?」
「──もういいわよ」
どうも珍妙な行動や返答ばかり続く明日香を前に、千夏の中にはもう怒る気力など残されていなかった。
「まあ、いいや。じゃ、一緒に帰ろう」
「なんでそうなったのよ」
「だってさっき、千夏、目で合図してくれたじゃない。“心配するな、大船に乗ったつもりで全部私に任せておけ”って」
「言った覚えはないわ」
「そんなぁ。武士とゾンビに二言はないって言うのに、裏切ったな!」
「勝手にゾンビを武士の仲間にするな」
そもそも映画の中のゾンビは「あー」とか「うー」とかしか言えないので、二言どころか一言する事すら難しいはずなのだが。
「むぅ、じゃあ改めてお願いするけど、実はね、今晩泊めてほしいの」
「それは分かってるの。問題はその理由よ、理由」
正直、明日香の依頼がそんな中身だと言うことは千夏にも薄々分かっていた。そりゃ、ゆずと歩いている最中、背後でずっと「おっとまり、おっとまり」と口ずさまれれば誰でも分かるというものだ。
「実はね、……いや、自分で説明するより千夏も自分の目で見た方がずっとずっと大変さが分かると思う。ちょっとついて来て」
と明日香が語気を強めて言うので、珍しく千夏も明日香の言う事に従い、その後に続いた。
やがて二人が歩きはじめて数分後、最初は毅然とした態度で歩き続けていた明日香だが、次第に辺りをきょろきょろと伺い始め、段々と不安そうに千夏の方を振り返る回数が増えていき、しまいには今にも泣きそうな顔で
「迷った! 私の河原、どこ? 千夏、助けて!」
こうして案内するはずだった明日香は、案内されるはずだった千夏の後をとぼとぼ付いていくという、明日香からすれば全く以て情けない光景がしばらく続く事になった。
「ところでさ──」
「……ぐすっ」
「──いつまでへこんでるのよ」
「だって、だってぇ……もう一生の不覚だよ……」
すっかり明日香はしょげている。それが原因なのか、彼女が周りに放つ青白い光も少しばかり弱まっていた。
それにしても、「一生の不覚」とは言うが、厳密な議論をすると彼女の一生は既に終わっているはずである。その辺の有効期限はどうなのだろう、と千夏、これは他人事ではない。
「って、そんな事はどうでも良いのよ」
危うく本題を忘れかけた自身に喝を入れ、ペシペシと自分の額を叩く千夏。
「そうじゃなくて、あんた、その体、どうしたのよ」
「……体って?」
「どうしてそんな蛍光灯みたいに光ってるのかって聞いてるのよ」
「…………さあ」
明日香は首をかしげた。
「“さあ”って、あんたねえ──」
「でもほら、幽霊って暗い所で光ってるイメージあるでしょ? そうじゃないと、夜に化けて出ても見えないじゃん」
そう言われても、どうにも千夏にはしっくりこない。
「まあ、私だって別に好きで光ってるわけじゃないけど、そんなこと言ったら誰だって好きで呼吸してるわけじゃんだないし、別に良いよね」
「私はほとんど呼吸していないから、その例えも良く分かんないんだけど」
「え、息してないの? もう、千夏ったら物ぐさなんだから」
「家に入れないわよ」
「あっ、卑怯だぞ! ……ごめん、許して」
本当に口が減らないんだから、と千夏はこれ以上言葉を返すのも億劫になって、無理やり「幽霊は光る物なんだ」と自分の常識に叩きこむことで収拾を付けた。
──でも、夜中に外出する時、懐中電灯の代用として使えそうね。
そんな“逆転案内”が続く事、数分。ようやく河原の前に到着した二人は、ぬかるんだ土手に足を取られかけながらも、何とか堤防の上に登った。
その瞬間、千夏はしばらく、目前の光景に言葉を失った。
「……これは、想像していたより酷いわね」
「でしょ?」
何せ数十年に一度の大雨だ、千夏とて多少の増水すら予想できていなかったわけではない。だが、この規模は明らかに想定の範囲外と言わざるを得なかった。
普段の穏やかな流れはとうに消えうせ、今や川は濁流と言う名の牙をむき、まるで大蛇の如く太い胴を地形に沿って這わせていた。その姿はまさに“怪物”の称号が相応しいだろう。
あの日、千夏と明日香が腰を下ろした土手は今にも上昇した水位に飲みこまれそうで、見ているだけでも危なっかしかった。
「私もここに長くいるけど、こんな大雨、初めてだよ」
と、明日香はやや青ざめながら言った。明日香が死んで何年目なのかは分からないが、相手は“何十年に4E00度の怪物低気圧”である。初めての経験でも無理はない。
「なるほどね、これは確かに、離れたくもなるわ」
「うん。本当のこと言うと、私って幽霊だから大水で流されるのかどうかは分かんないんだけど、でも流されてからじゃ遅いしさ」
「そうね、それに流されないとしても、私ならこんな場所、いようとは思えないわね」
あまりに規格外の激流を前に、気づけば千夏の中にあった怒りや呆れといった感情も流され、残っていたのは同情とも言える心情であった。
「そうなの。だから、泊めてくれると嬉しいなぁって。駄目?」
「……分かった、うちで良いのなら泊まっていっても良いけど、あまり大したもてなしはできないわよ?」
「お構いなく! こちとら幽霊だい、ご飯はいらないよ。雨避けの屋根と綺麗なお部屋、ほかほかのお風呂に温かい寝床とふわふわの毛布、あと話し相手になってくれる千夏さえあれば十分」
「何気に要求項目が多いわね」
河川敷暮らししていた身にしては、やたら高度な文明を要求してくる明日香。まあ、一人の人間としてみれば少々控え目なリクエストかもしれないのだが。
「それにしても、本当にうちで良いの?」
濁流に背を向け、千夏は自宅に向けて歩きだした。川沿いのサイクリングロードを通っても家には帰れるのだが、今にも氾濫しそうな河川のすぐ横を通っていく気にはなれなかったは当然だろう。
それに追随するように、明日香もてくてくと千夏の横に並ぶ。
「別にうちが駄目だって言う訳じゃないんだけど、死ぬ前にいた家とかの方が都合が分かってるんじゃない?」
「それがね、私が知らないうちに引っ越しちゃってたの。もう、引越しするならするで住所変更の知らせとか、新居祝いの引越しそばの御供えとか、色々してほしかったのに」
「あんた、そろそろ幽霊としての自覚を強めた方が良いんじゃない?」
墓石の前に供えられたそばと言う物を、千夏は未だかつて見た事がない。
「とにかく、そんなわけで家族が今どこに住んでるのかは私もよく分からないの。それに、生きてる頃に仲が良かった友達の家に転がり込んでも良かったんだけど、でも私、千夏以外に私の事が見える人って知らないんだよね。だから、千夏が一番頼みやすいかなって思って」
「頼みやすいと言うか、私以外の場合、まず話しが通じないんだから、無断で宿泊する事になるわよね。まあ、家主が終始気づかないなら何も問題にはならなそうだけど」
「でも、どうせなら話し相手になってくれる人がいた方が良いじゃん。千夏もそう思うでしょ?」
「別に。どうせ普段、家には私しかいないし」
「あ、そっか。千夏ってば一人暮らしだったね。そうだ、じゃあこの明日香さんが話し相手になってあげよう」
善意にしてはどこか押しつけがましいが、あくまで捉え方の問題と自分に言い聞かせながら、千夏はこの点をスルーした。
「それは良いとして、もう一つ聞くけど」
「うん?」
「明日香、さっきの川からあまり離れられないって話じゃなかった?」
「えーと、前も言わなかったっけ。別に離れられないわけじゃないよ、ただそわそわするだけで」
言われてみれば、前にもそんな話があったような気がしてきた千夏。
しかし、どうにも明日香の話は油断しているとすぐ大幅に論点が外れるため、重要そうな情報すら頭に残りにくいのだ。
「本当に、幽霊ってよく分からない存在なのね」
「やだなぁ、そんな急に褒めないでよ」
どこをどう勘違いしたのか、明日香は照れている。
たぶんこの幽霊は“幽霊語”という日本語とは似て非なる言語を使っているんだろうな、千夏は無理にでもそう考える事にした。
「ほほう、ここが千夏の家か」
「そうよ」
「思ったより、その、何て言うか、普通だね」
「普通が一番よ。こんな体になって、やっと分かったわ」
と、二人が会話しているように、市村家は至って“普通”の住宅地に建てられた、至って“普通”の二階建て住宅である。
兎小屋と見間違うような細々とした家でもなければ、学校の校舎にも引けをとらない大きさを誇る大豪邸というわけでもない。普通が一番である。
「すぐ隣に墓地でもあるんじゃないかなって思ってたけど、違うんだね」
「冗談じゃないわ。そんなの、私はゾンビですって言ってるようなものじゃないの」
そう言いながら、千夏は鞄から鍵を取り出した。しかし、悪天候な上に寄り道を挟んだ為、既に辺りは暗くなっており、もう目をこらさないと鍵穴が視認しにくい。
ならば電気を付けるまで、と千夏が外灯のスイッチに手を伸ばした時、
「これでどう?」
とっさに明日香がドアノブを包むように手をかざした。その青白い光が、鍵穴の場所を照らし出す。
「……どうも」
「ね? 幽霊って便利でしょ?」
確かに、その暗い所で光るという特性は地味ながら小技が効くかもしれないな、と千夏は思った。ただしこの照明は千夏にしか見えていないので、汎用性に欠ける。
ほどなくして、鍵は開いた。
「ただいま」
「おじゃましまーす。──わ、千夏! すごいよ、壁も天井もある!」
「なかった方が驚きよ」
千夏としてはあまりに当たり前の事なのだが、数年も野外生活の続いた明日香にはそんな些細な事も重要な感動事項なのである。すっかり感極まった明日香の耳に、千夏の言葉は届いていないようであった。
あまり邪魔はすまい、と千夏は特に明日香に構うこともなく玄関の照明をつけたが、
「すごいっ、私が光んなくても夜なのに明るい!」
いちいちうるさい。まさに文明開化といったところだろうか。
だが同時に千夏は、さっきまで青白く光っていた明日香が普通の人体と見分けがつかない状態に戻っていた事に気がついた。どうやら明るい所では元に戻るようである。
なんだ、面白くない、と千夏。この発光現象に少しずつ興味を抱きはじめていた彼女は、ほとんど無意識のうちに照明を消していた。
「え? あ、あれ? 千夏? 電気、消えちゃったよ?」
「うん。せっかくだから、普段のあんたがどんな生活しているのか、明るさだけでも体験してみようかと思って」
とは言え、意外にも明日香は明るかった。文字を読み書きするにはまだ暗いが、どこに何があるのかは十分に視認できる。
停電の夜に蝋燭をともして過ごした一夜を、千夏は思い出していた。
「えー、私は嫌だよ。もっと明るくして。家中の電気、つけちゃって良いから」
だが明日香にすれば、これは面白くない。せっかく家の中に入ったのだから、懐かしき文明生活を再び送りたいのである。
「いくら何でも家中は大げさよ。と言うか、明日香、結構明るいのね。これなら本当に明かり無しでも過ごせそうかも」
「だから私は嫌だって言ってるじゃない! こんな薄暗い光だけで過ごすなんて、まるで幽霊屋敷みたいだからやめてよ!」
「あんたがいる時点でここはもう幽霊屋敷なのよ」
それ以前にゾンビ屋敷なのだが。
「とにかく真っ暗はやだ! やだやだやだやだ!」
「そんな子どもじゃあるまいし、いい歳して駄々こねないでよ」
肩を落としながら千夏は再度照明のスイッチをいれた。またたく間に部屋が暖色で明るくなる。
部屋が明るくなると同時に青白い光を放っていた明日香の体は、少し見ただけでは人間と区別がつかない普通の状態に再び戻った、が、今度は明日香の表情がパッと明るくなった。
要するに、照明がつくだけでご満悦なのである。
幽霊の生態(死んでいる物に“生”の字が付く言葉を用いるのも変な話だが、他に良い言葉が思いつかないので)はそう易々と理解できるほど“生”易しい物ではないらしい。
「じゃ、改めて、おじゃましま──」
「明日香、ちょっと待った」
「──あ? え? 何か言った?」
「せめてそのレインコート、脱いでくれないかしら。濡れてるのかどうか知らないけど」
千夏が言う通り、明日香はまだ水色のレインコートを羽織ったままだった。あの豪雨の中をこれで歩いていたのだから、普通ならこのレインコートはびしょ濡れのはずである。
そんな常識がどこまで通用するのかは千夏にも分からないが、少なくとも家の中までレインコートで歩きまわられるのはあまり良い気持ちがしない。
「ああ、うん、分かった。ちょっと待ってて」
何を思ったか明日香、いったん玄関から外に出て横へ行き、千夏の視界から完全に消えた。そして待つこと数十秒
「ただいま」
帰ってきた明日香は淡い黄色のパーカーを着ていた。ただ、脱いだはずのレインコートは携えていなかった。
その場で脱がなかったのは、きっと脱いだ際に周囲が水浸しになってしまうという明日香の気遣いだと何とか理由づけられるとして、そのコートを置いてきた理由は千夏にはさっぱり分からない。
「ねえ、あのレインコート、どうしたの?」
「え? 脱いできて、って言いだしたのは千夏じゃない」
「そうじゃなくて、脱いだら普通、脱いだコートを持ってくるでしょ。何で手ぶらなの」
「えーと、うーん、……ほら、あれだよ、あれ。だって、ほら、私、幽霊だから。だから気にしないで」
「気にしないでって言われても、説明になってないし」
「まあまあ。さ、夕食を作ろう! 今夜は御馳走だ!」
と、明日香、勝手に千夏の家に上がりこむと、家主の許可も得ず勝手に家の中へ踏み入り
「わー、炊飯器だ! 冷蔵庫もある! 電子レンジにコンロまで! いいなー、懐かしいなー、もう私、ここに住んじゃおうかなー」
あんなのに住みつかれてたまるか! 千夏はレインコートのことも忘れ、キッチンに駆けこんだ。
「とりあえずそこに座って」
「えー、私、もっと色々見て回りたいんだけど」
「いいからおとなしくしていなさい」
何とかして明日香を居間に座らせた千夏。最早自宅は英気を養う場所からただの戦場へとすっかり様変わりしていた。
「私、着替えてくるから」
と、千夏、制服の襟をつかみながら言った。家に帰ったら少し楽な格好に着替えたいと思うのも当然だろう。
「ねえねえ、ついていっていい?」
「いいって言うと思う?」
「千夏ならOKしてくれるって信じてる」
「ついてきたら私、今日一日無口で通すわよ」
「ちぇっ」
面白くないという顔で舌打ちをする明日香をよそに、千夏は自室に帰り、鞄を下ろすと私服に着替え始めた。
途中途中、あれだけ言ってもまだついてくるんじゃないでしょうね、と扉の方を振り向いたが、流石の明日香も空気を読んだのか、それとも千夏の部屋より台所の方に興味があるのか、兎も角明日香が千夏について部屋にはいってくる事はとうとうなかった。
「……私の対応も素っ気なかったかな」
と一人になってはじめて千夏、少し反省気味。明日香の事をさんざん「年上に見えない」や「子供っぽい」などと思っていたが、自分だって大人げない部分は結構あったのではないか。
もし居間に戻った時に明日香が意気消沈していたらお詫びの言葉でもかけてあげよう、そう思いながら少しラフな格好で千夏は部屋を出た。
ところが、居間に戻ると
「おっ、戻ってきたな。よーし、じゃあ一緒にお夕飯を作ろう!」
千夏が自室で着替えている間に、明日香もまたピンクのエプロンに三角巾といった格好に着替えを済ませていたのであった。どう見ても意気消沈どころかやる気満々である。
これでは千夏もお詫びの言葉などどこかへ吹き飛んでしまう。
「……そう、そうね。じゃあ、私は夕飯を作るから、あんたはそこで、座って、黙って、おとなしくしてて」
「またまたぁ、冗談きついぞ、千夏。この明日香さんに台所に立たずして何をしろと言うのかな?」
「座禅」
あわよくば成仏してもらっても一向に構わないわよ、と千夏は内心で付け加えた。
世界広しと言えど、相手の問いかけに「座禅」の一言で済ませてしまうゾンビも千夏の他にはいないだろう。(そもそもゾンビは世界に何人いるのか、という議論が置き去りにされている気もするが)
「えー、何か手伝わせてよ」
むくれる明日香を放って、千夏も自分用の青いエプロンを身にまとい、一人台所に立った。
さて今晩は何を食べようか、そう言えば昨日「明日は野菜炒めにしようかしら」って考えてたしなぁ、とあれこれ思案に暮れる千夏であったが、まずは冷蔵庫の中身を確認しようとした時、
「……ん? あっ! ……まさか」
やめて、それだけはやめて、と懇願するような気持ちで千夏が飛びついたのは、ランプの消えた炊飯器。
この家には普段千夏しかいない、なので彼女が米を炊かなければご飯ができないのは当然のことだ。だが、学校から帰ってきてから炊き始めたのでは時間がもったいない、そこで千夏はいつも学校へ行く前に米を研いで炊飯器にセットし、帰宅する時間に合わせて炊きあがるよう予約機能を使っていたのだ。
なので、いつもなら「保温中」のオレンジ色のランプがついているはずなのだが、今日はそのランプがついていない! 祈るような気持ちで炊飯器を開けた千夏であったが、残酷な現実は彼女の祈願を一蹴し、研いだままの生米を彼女に見せつけたのであった。
とどのつまり、千夏は家を出る際に予約機能をセットし忘れたのである。
「しまった……、ご飯、どうしよう」
明日香の手前、頭を抱える事はなかったが、もし一人だったら抱えていただろう。少し大げさに聞こえるかもしれないが、それくらい千夏は落胆していた。
「千夏? どうかしたの?」
ふと千夏が顔を横に向けると、いつの間にか明日香がわきから炊飯器の中を覗き込んでいる。
「炊飯器のスイッチ、入れ忘れてた」
「なーんだ、そんなことか。この世の終わりみたいな顔してたからびっくりしちゃったよ」
人生の終わりならとっくに迎えているのだが(お互いに)。
「“そんなこと”って、簡単に言ってくれるけどねぇ──」
「なんなら、私がそのお米、十分で炊いてあげようか?」
その言葉に、千夏は自分の耳を疑った。
もしこれがゆずの言葉だったなら「本当? お願い!」と是非とも頼みたいところだが、相手が明日香だとどうにも信憑性が付いてこない。
「何か良い方法でも知ってるの?」
「大船に乗ったつもりで任せなさい。たまには私も人生の先輩として、かっこいい所見せちゃうんだから!」
まだ何もしていない癖に早々と鬼の首を取ったかのように胸を張る明日香。千夏の中では期待より不安の方が募るばかりである。
「……で、まずは何をすれば良いの? 先輩」
「うん。とりあえず、大きな鍋にお湯を沸かして」
「別にそばやうどんを食べたいわけじゃないのよ?」
「いいからいいから」
一抹の不安を抱きながらも、他に良い案があるわけでもないので、千夏は明日香の言う通り鍋に温水をくみ、コンロで火にかけた。そうして待つ事数分、
「湧きはじめたわよ」
「じゃ、そのお米、全部ばばーっと入れちゃって。ばばーっと」
「本当に大丈夫なんでしょうね」
「信じなさい」
ここまで来たら自棄っぱちである。言われるがまま、千夏は米を全て鍋の中に投入した。
「全部入れた?」
「入れた」
「それじゃ、後はふたをしめて五分くらい茹でるだけ。時々おたまですくって味見して、好きな柔らかさかどうか確かめてね」
とは言われたものの、だからと言って何もせずに五分を過ごす千夏ではない。キッチンタイマーで五分を計るようにセットすると、冷蔵庫からキャベツとにんじんを取り出した。
「何作るの?」
明日香が目を輝かせてキャベツを見つめる。何せキャベツを見るのも何年ぶりの話なのだ。
「野菜炒め」
「おー、これまたベーシックな物を。でも美味しいよね」
「まあね」
口を動かしながらも手は休めず、千夏はキャベツの葉をむき、包丁を手に取ると慣れた手つきで短冊切りにしはじめた。
「あー、この包丁でまな板を叩く音。台所に帰ってきたって気がするなぁ」
明日香はすっかり惚れぼれとしている。──それにしても、キャベツ一個まるまる使っちゃうなんて、何日分かまとめて作るのかな。
「そろそろかしらね」
と千夏が包丁を止めてから、あまり間を開けずしてキッチンタイマーが鳴りだした。
「あ、ほんとだ。じゃ、味見の方、お願いね」
明日香に促され、千夏はおたまで米を少しすくうと、十分に湯を切って口に運んだ。
「……へえ、本当に炊けるとは思ってなかったわ」
「やった!」
炊飯器で炊いたご飯に比べれば少し堅い気もしたが、それでもあまり気になるほどでもない。応急処置としては上々といった所だろう。
こんな方法でも米が炊けた事にも驚きだが、この方法を教えてくれたのが他ならぬ明日香である事の方が千夏としては大いに驚くべきことであった。
「どう、千夏。私だって、やればできるってこと分かってくれた?」
「恐れ入りました」
「てへへ、千夏に褒められちゃった」
明日香はすっかりご満悦であった。喜ぶ姿はまるで母親に褒められた子供のようである。
「それにしても、明日香、よくこんな方法知ってたわね」
名乗る機会がなかったからと言って自分の名字すら忘れてしまった幽霊が、実践する機会など全くなかったはずの米の早炊き法を覚えていたのだから不思議な話である。
「まあね。女子大で栄養士を目指していた明日香さんの手にかかれば、このくらい“お茶の子粉砕”よ」
「さいさいね、お茶の子さいさい」
「そう、それ。さいさい」
粉砕ではお茶が可哀想である。
明日香が決め台詞で的を外すのは今に始まったの事でもないので何も思う所はないが、それは兎も角、栄養士というのは千夏も初耳だった。
「栄養士って、あの、小学校とかで給食を作ってくれてる、あの栄養士?」
「そうそう。栄養バランスを考えながら献立を決めて、美味しいご飯を作って、学校の子供たちからありがとうって感謝される素敵なお仕事の栄養士」
「人はみかけによらない物ね」
少なくとも精神年齢的には“作ってあげる側”より“作ってもらう側”の方に近い気もするのだが。
「どう? 見直した?」
千夏の考えている事にはまるで気付かず、明日香はすっかり得意げになっている。
「まあね、少しだけ」
「ふふーん。私、食べ物の事についてはエキスパートだからね。困った時は何でも聞いていいよ」
「そりゃどうも。で、早速だけど、このお米、もうお湯から上げちゃっていいの?」
「ああ、うん。早くしないとおかゆになっちゃうから、ザルに何か水切り用の紙でも敷いて、お湯を切っちゃって」
“エキスパート”の指示通り、千夏はザルにクッキングペーパーを敷くと、鍋の中身を全てあけた。
順調そうに作業を進める千夏を、最初は褒められた余韻でご機嫌そうに眺めていた明日香であったが、間もなく神妙そうな顔になり、やがて怪訝そうに眉間にしわを寄せ始めた。
「ね、ねえ、千夏」
「何?」
ザルの中にご飯が入ってるって言うのも変な光景ね、と思いながら、千夏は余分な湯を切ったご飯を炊飯釜に移していた。
出来上がったご飯は明日香の目から見ても実に美味しそうで、物を食べる事ができる明確な肉体があったなら是非とも一膳頂きたいほどであったが、それとは別に彼女はその出来ではなく“量”に首をかしげていた。
「あのさ、これ、何日分かまとめて炊いてるんだよね?」
明日香がそう言ったのも無理はなく、炊飯釜の中に戻ったご飯は軽く見積もっても三合は下らない量であった。
「ううん、一日分よ。ご飯は炊きたてが一番美味しいに決まってるじゃない」
「えっ、でも、これ、多いよ? それとも家族か友達でも来るの?」
だんだんと明日香の声に落ち着きがなくなってくる。
「来ないわよ。もし来るって分かってたら、明日香には悪いけど、あんたを家には上げてなかったわ」
「あ、そうか。じゃ、じゃあ、これ、もしかして私の分も入ってる?」
「食べたいの? 食べられるんなら、もう一膳分くらい炊いても良いけど」
「やめて! もう炊かないで! 余っちゃうよ!」
遂には明日香、不安そうな面付きで千夏に詰め寄った。一方千夏はと言うと、どうしてこんなにも迫られているのか、まるで訳が分からない。
「ねえ、千夏、考え直してよ! せめて半分くらい、明日の朝ご飯に回そう! ね!?」
「そう言われても、私、お腹すいてるのよね」
「いやいや、どれくらい腹ペコか知らないけど、こんなに食べられる人いないから!」
明日香の必死の説得にもかかわらず、千夏の意思は揺るがない。
「そりゃ、まあ、人間には多すぎる量かもしれないけど」
と、真面目腐った顔で
「でもほら、私、人間じゃないし」
このゾンビ、草食系なのである。
※ゾンビも米を食べる時代
読了ありがとうございました。
とうとう話の舞台も河原から市村家に移動。何もなさすぎるということはなくなりました。
次話でも市村家での夜を書いていこうかと思います。
(本当はもっとゆずちゃん書きたかった)
では、次の話でお会いしましょう。今後ともよろしくお願いします。