2:Zombie meets Ghost.
※前回のあらすじ
ふとした経緯でいつも河川敷にいる少女「明日香」と親交を持ってしまった女子高生の市村千夏。
聞けば明日香、自分は幽霊だと言うが、特段驚く事でもない、千夏だってゾンビなのである。
「ゾン……ビ……?」
先ほどまで遠足を待ちわびる幼稚園児の如く期待に胸を膨らませていた明日香は、それを聞いて一転、ポカンとしたまま固まってしまった。
それこそ0点の答案をもらった直後の小学生のように──どうも幼稚園児やら小学生やらを用いた比喩がしっくりくるのは彼女の精神的幼さの所以なのかもしれないが──唖然としたまま二の句が告げないでいるようだった。
「何よ、その顔」
「ゾンビって、あれだよね。あの、死体が生き返って動くって奴」
「ああ、もしかして、こういうのを想像してる?」
そう言いながら、ちょうど良い物を持っていることを思い出した千夏、買い物袋からスーパーのレジでもらった映画のパンフレットを取り出した。『ラスト・サヴァイバー』、例のゾンビ映画である。
「うん、そういうの。……ってことは、千夏も、その──」
明日香は急に口ごもると、青ざめた顔で立ち上がり、千夏と距離をとるように後ずさりながら
「い、言っておくけど、私、食べても美味しくないよ!」
と血相を変えて叫んだ。
「煮ても焼いても、えっと、ムニエルにしたって美味しくないんだから!」
明日香はやたらと必死なようだったが、その様子があまりに可笑しいものだから、千夏はとうとうこらえきれず吹き出してしまった。
──幽霊のムニエル、か。美味しいのかしらね、幽霊って。
「食べないわよ、人間なんて。映画の化け物なんかと一緒にしないで」
「本当? 本当に食べないの?」
「今更嘘ついて何になるのよ。大体、あんたは幽霊でしょ。食べろって言う方が無理があるわ」
「あ、そっか。私、幽霊だった」
ここにきてようやく自分が幽霊だったことを思い出した明日香、何事もなかったように千夏の傍に戻ってくると再度腰を下ろしたのであった。
もしかしたらこの幽霊は頭のネジ数本だけ先に成仏しちゃったのかもしれない、などと思いながら千夏も映画のパンフレットを袋にしまう。
──それにしても、ゾンビって幽霊見えるんだ。初めて知ったけど、やっぱり体は死体だものね、無理もない話か。
「でも……、ゾンビって本当にいるんだね」
「それが幽霊の言うこと?」
千夏が呆れて見せると、明日香はムキになって
「千夏だって、さっき“幽霊って本当にいるのね”って言ったじゃん!」
「あんたほどは驚かなかったわ」
「だって、ゾンビだよ? ゾンビが出たら普通誰だって驚くって!」
「どっちかと言うとゾンビの方が幽霊よりまだ現実味がありそうな気がするんだけど」
「そんなことないよ。学校の怪談って言ったら普通は幽霊でしょ? ゾンビはなかなかでてこないよ」
ガイコツ人間はたまにいるけど、と明日香は付け加えた。
ここで川底からひょっこり「呼んだ?」とガイコツ人間が現れたらまた大騒動になったのだろうが、幸いなことにそんな不埒な輩は出没しなかったので、話は平坦に進むことになる。
「……でもさ、こんな事言うのも変かもしれないけど、千夏って、その、あまりゾンビらしくないね」
「何よ、ゾンビらしいって」
「えーと、こう、白目むいてて、よだれ垂らしてて、のそのそ歩いて──」
「そんな化け物と一緒にしないでよ」
心外とばかりに千夏は顔をしかめた。そういう怪物は映画の中だけにしてもらいたい。
「それを言うなら、あんたの方こそ全然幽霊らしく見えないんだけど?」
「どの辺が?」
「幽霊って普通、足がなくて白い着物を着ていて、もっと湿っぽい物なんじゃない?」
言っている傍から、千夏自身も金太郎飴的な発想だなとは分かっていた。だがそのピンクのパーカーと可愛いヘアバンドで「私は幽霊です」と言われても説得性に欠けるのだ。
「そんなこと言われたって、足は普通にあるし、じめじめしてるのも嫌だしなぁ……。あ、でもその白い着物は着たことあるよ?」
「そんな簡単に着たり脱いだりできる物なの?」
「うん。せっかく幽霊になったんだからと思って着てみたけど、あんまりオシャレじゃないし、夜中スースーして寒いからやめた」
明日香は事もなげに淡々と話していたが、内容が想像力の限界に達したために千夏はそれ以上何かを言うのはやめることにした。──まったく、“人間以外”と話をするのも楽じゃない!
「それにしても、ゾンビかぁ」
そう呟きながら明日香は体育座りに姿勢を直して、膝の上に頬を乗せるようにして千夏の方を見つめた。
「いいなぁ。私もどうせ死ぬんなら幽霊じゃなくてゾンビが良かった」
「これはこれで大変なのよ。周りに正体がばれたら碌な事にならないわ。どこぞの研究施設に担ぎ込まれて被験体にされて“おしまい”に決まってるわ」
「え? じゃあ、誰も千夏がゾンビってこと知らないの?」
「勿論。だから、さっき約束したはずよ、“誰にも話さないでね”って。あれだけ念押ししたじゃない」
「そんな約束したっけ」
千夏は早くも自分の愚かさと人を見る目のなさを恨んだ。
「兎に角、約束は約束よ。絶対誰にも言わないで。正体がバレると私が困るんだから」
「分かった分かった、内緒の話にしておくよ。ところで、ゾンビってどうなの? 面白い?」
明日香はすっかりゾンビという未知の存在に興味深々な様子であり、この分では約束事がいつ頭から抜け落ちてもおかしくなさそうであった。
いまひとつ信用できないなぁ、と思いながらも「どうせ誰にも会話できやしないんだから」と千夏は自分に言い聞かせながら
「最悪よ。疲れるし、過ごしにくくて仕方ないわ」
「贅沢だなぁ。体があるだけまだマシだよ」
明日香はムスッと面白くなさそうな顔で腕組みしながら言った。
「体って言ってもねぇ……」
千夏は掌を曇り空にかざしながら(本人は太陽にかざしたかったのだが、つくづく天候に恵まれない日である)、
「こんな濁った色した不便な体があっても、良いことなんてなかなかないわよ」
「そんなこと──、ああ、でも確かに、血色悪いね」
「そりゃそうよ。私の心臓はここ数年、ずっと仕事サボってるんだから」
どうせサボるのなら他の臓器の仕事を少しくらいサポートしてほしい物である。胃や肝臓だとありがたい。
「えっ、動いてないの?」
「全然。呼吸も喋るときくらいしか必要ないし、体温だって周りの空気と同じくらいしかないし」
確かに、ゾンビになって全てが不便になったわけではない。少しの怪我ならあっという間に完治するようになった。それに、この体になってから千夏は“痛み”という物を覚えたことがない。つい先ほど自転車ごと派手に転倒した割にピンピンしているのも、あれほどの衝撃を受けたのに全くと言って良いほど痛くなかったからである。
とは言え、元々は人間である千夏からすればそれがいかに異常なことかは良く分かる。仮に恩恵を被ることがあったとしても、あまり素直には喜べないのだ。むしろ他人に見られて怪しまれてはいないかと気が気でない。
「やっぱり、人間だった頃の体が恋しいわ」
「ああ、うん、その感覚は分かる気がする。私も、戻れるなら生きてた頃に戻りたいなぁ」
明日香は川の向こうに広がるアパートやビルが立ち並ぶ市街地を眺めながら愚痴をこぼした。
「……やっぱり、幽霊って寂しい?」
「そりゃ勿論!」
何気ない気持ちで尋ねた千夏であったが、明日香の答えが思いのほか熱が籠っていたのでびっくりした。
「千夏にも家族や友達っているでしょ? 私にもいたんだよ、優しい家族とか、可愛い弟とか、すごく仲が良かった友達とか。でも、幽霊になってから誰とも話せてないんだよね……」
明日香の目は向こう岸に広がる市街地より、もっともっと遠くを眺めているようであった。まるで自分とは縁のない異国の地をぼんやりと傍観するように
「やっぱりさ、寂しいよ、幽霊って」
目を細め、か細く呟いたのであった。
今までただただ騒々しい幽霊だった明日香が初めて見せた切ない顔は、千夏の感情を大きく揺り動かした。
「──苦労してるのね、あんたも」
「まあ、ね。……でも、今日はいいことあったよ! 何せ久々に新しい友達ができたから!」
「もしかして、その友達って……」
「千夏のことに決まってるじゃない」
さも当然のように、明日香はさらっと言った。
「友達って、まだ会ったばかりじゃない。いつの間にそんな親密な仲になったのよ」
「ゾンビが幽霊と友達にならなくてどうするの!」
「聞いたことないわよ、そんな異例の組み合わせ」
「イレイも幽霊も似たようなもんだ!」
千夏の呆れ顔など気にすることもなく随分と意気込んで声を張り上げた明日香であったが、ふと首をかしげて
「……ところで、“イレイ”ってなあに?」
こんなのが私の友達になるのか! と千夏は顔を覆いたくなった。悩みの種はゾンビ体質だけでたくさんだと言うのに!
ここまでくると、先ほど明日香に対して同情的な言葉をかけてしまった数分前の自分を張り倒してやりたいくらいである。ゾンビよろしく噛みつきかかっても良い。
「それはそうと」
もうこの話題には付き合っていられないとばかりに千夏はエヘンと咳払いを──何せ呼吸というものは喋る時くらいしかしないので、実に久々の咳だった──して
「ずっと気になってたんだけど──」
「おお、質問タイム? どうぞ、バンバン来ちゃって」
明日香は急に乗り気になった。
「なんであんた、いつもここにいるの?」
「うーん、もうちょっと面白い質問ない?」
わがままな幽霊である。
「質問に質問で返さないでよ。たまに私がここ通るといつもいるけど、ずっとこの河原にいるの?」
「うん、幽霊になってからほとんどここ。こんな事になるならもうちょっと良い場所で死ねばよかったなぁ」
「良い場所って?」
「そうだなぁ……、たとえば映画館の中とかだったら、退屈しなそうだよね?」
「そんな所で死なれたら映画館側が迷惑でしょ。それに、幽霊が出る映画館なんて私は行きたくないわ」
「いいの! どうせ映画の中にたくさん出ているんだから、座席にも一人くらい“出た”って問題ないでしょ!」
なかなか無茶な理論にも思えたが、ゾンビ映画のパンフレットをもらってしまったゾンビも現にこうしているわけだし、千夏はあまり深く考えないことにした。
しかし、映画館は贅沢な話だとしても、せめて屋根があって風雨を凌げる最低限の場所くらい“間借り”しても罰は当たらないような気もする。
人が住んでいない空家や借り手が現れないアパートの一室、廃業した店の空き店舗など、そういった如何にも幽霊向けの物件(?)はその気になって探せばすぐ見つかりそうな物である。
「まあ、映画館は極端な例だとしても、せめて屋根とか風除けになる壁とかがある場所に行かないの?」
「行けたら行ってるよ」
と、明日香は実に不満そうな顔で空を見上げた。
「……ってことはつまり、あんたはここで死んだからここから遠くには行けないってことなのね」
私も幽霊になる時は屋根と壁がある所にしよう、と千夏は思った。尤も、ゾンビから幽霊になれるのかは定かではないが。
「うんにゃ、実は行こうと思えば行けるんだけどさ」
平然と答えた明日香に、千夏は肩透かしを食らって精神的にずっこけた。
「結局どっちなのよ」
「いや、行けることには行けるんだよ? でも、ここにいないとどうにも落ち着かないんだよね。こう、そわそわして」
「そわそわ?」
「うん。なんて言うか、大学の講義をサボった後に『今日のあの授業、試験じゃなかったよね』って不安になるのと似てるかな」
「何よ、その例え」
高校生の千夏にとってはパッとしない物である。が、同時に千夏は、自分が何かとんでもない思い違いをしていたことにようやく気がついた。
「ちょっと待った」
「なあに?」
「あんた、死んだ時、何歳だったの」
「十九だよ?」
その瞬間、千夏は稲妻に打たれたが如く衝撃を受けた。──こいつ、年上だった! ちっともそうは見えないのに!
「そう言えば千夏は何歳? もう二十歳こえてる?」
「……十六なんですけど」
「嘘、高校生なの!? てっきり同じくらいの歳だと思ってたのに!」
「私だってあんたのこと、年下だと思ってたわ」
今となってはとても言えないが、正直、中学生くらいかもしれないと千夏は思っていた。
中学生にしては少しばかり背が高い気もしたが、千夏自身が長身なので、自分の物差しで捉えれば明日香は十分中学生として許容できる背丈であったのだ。
一方で明日香が千夏を実年齢より上に見たのも無理はなかった。どう見ても背丈は千夏の方が上であるし、何かと苦労を重ねている千夏は十六という年齢の割に結構大人びた雰囲気を持っていた。
それからしばし、二人は仲良くそろってポカンと口を開けたまま唖然として互いの顔を見つめていたが、
「──まあ、明日香さんってば若いからなぁ」
急に明日香が照れ始めた。どうも褒められていると勘違いしたらしい。
「ごめんなさいね、勘違いしてて」
これはまずいことをしたかなぁ、と千夏はとりあえず謝っておくことにした。
「え? あ、ううん、別にいいよ? て言うか、さっきみたいに友達みたいな感じで喋ってくれる方が嬉しいかな。そっちの方が千夏も気が楽でしょ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ここら辺の切り替えは割と早い方である。相手がそれで良いと言ったのだから、何も遠慮する必要はない。
「それにしても、そっかそっか、千夏は高校生だったのね。じゃあ、高校生活、楽しいでしょ?」
「まあね。試験さえなければもう少し気が楽なんだけど」
「あはは、そりゃそうだ。もし家庭科と体育のことで分かんない事があったら何でも聞いてよ、大得意だったから」
「英数国は?」
「パスで」
でしょうね、と千夏は内心で一人呟いた。正直、あまり頭が良さそうには見えない。これで元大学生だというのだから驚きである。
「悪いけど、家庭科も体育もあまり困ってることはないの」
「えー、白けるなぁ」
「代わりに、三角関数でちょっと詰まってる所があるんだけど」
「ひょっとして、数学?」
「数学」
「何言ってるの、忘れたに決まってるじゃない」
明日香はひどく自信満々だった。どうやら数学を忘れることは彼女の中では名誉なことらしい。
「威張れるようなことでもないでしょ」
「だってさ、数学って普通の生活であまり使わないじゃん。覚えてるだけ無駄だよ」
「家庭科も体育も幽霊には必要ないと思うんだけど」
「いいの! 好きだったんだから!」
やっぱりわがままな幽霊である。
「それより、千夏って友達いるの?」
この話では分が悪いと察したのか、明日香は慌てて話題を変えてきた。
「普通にいるわよ。それとも、私が友達もいないような子に見えたの?」
「いや、そういうんじゃないんだけどさ。で、その友達ってどんなの? 吸血鬼や狼男もいる?」
「ハロウィンじゃないんだから。私以外はみんな普通の人間よ。化け物は私だけ」
「なーんだ、面白くないなぁ」
明日香はがっくりと肩を落とした。
「でも、良い親友であることに変わりはないわ」
その通り、千夏自身は今の交友関係に何か大きな不満があるというわけではない。むしろ、一緒にいて居心地の良い親友だというのが大問題なのである。
いくら仲の良い親友であっても、まさか「実は私、ゾンビなの」と打ち明けることはできない。周囲に正体が知られてしまえば、この居心地の良い環境がいっぺんにして崩れ去ってしまう。
とは言え、正体を隠し続けるというのもなかなか大変なのだ。時には相手の気遣いに対して平然と嘘を返さねばならず、だいぶ慣れてきた今ですら罪悪感を全く覚えないわけではない。
だからこそ時として、自分以外の“人間ではない存在”が一人くらいほしい、あった。終わりなき孤独は千夏とて辛いものがある。
「たまに、少しくらい仲間がほしくなる時はあるけどね」
千夏が苦笑を浮かべて本音を漏らすと、明日香は怪訝そうな顔で
「ねえ、千夏? まさかとは思うけど、仲間が欲しいって、その、誰かに噛みついたりなんか──」
「流石に私もそこまで落ちぶれてないわ」
失敬な、と言わんばかりに千夏は顔をしかめた。
映画の中ではよくゾンビは人間に噛みつき、噛まれた人間もまたゾンビになって、辺りはたちまちゾンビだらけになる。でもそれはスクリーンの中だけのお話。
現実のゾンビ(つまり千夏)は、人に噛みついたことすらない。社会生活において相手を噛まねばならない場面などまず訪れないからだ。なので、噛まれた相手がゾンビになるかどうかも分からない。
それに例え人間をゾンビにする方法が分かっていたとしても、それを知人友人に試す気にはなれない。試された相手が気の毒だし、相手の意思や尊厳を無視してまで仲間が欲しいとは千夏も思っていないのである。
幸いにして千夏に接したことで誰かがゾンビになったという事態は未だ一件として起きていないが、それは言い換えれば「ゾンビは千夏ただ一人」という事態が何も変わっていないことを意味している。
ゾンビで溢れかえるフィクション世界が皮肉めいて見えるくらい、現実のゾンビはいつだってどうしようもない疎外感に付きまとわれているのだ。
「良かった」
何はともあれ、千夏の返事を聞いて明日香は安心したようであった。
「千夏が誰かに噛みついてたらどうしようって思っちゃった」
「そこまで無遠慮な奴だと思っていたわけ?」
「てへへ、ごめんごめん」
と、明日香は決まり悪そうに笑ってから
「そうだ。じゃあ、私が千夏の“人間じゃない”初めての友達になってあげよう」
「え?」
「欲しかったんでしょ? こういう友達」
いやに得々と言った明日香であったが、急に居直って照れ笑いを浮かべながら
「実はさ、私も友達が欲しくて仕方なかったんだよね。ここ何年も、ずっと一人ぼっちだったから」
「……他に幽霊っていないの?」
「いないんだなぁ、これが。ほら、私ってここからあまり動けないし、それにこんなところで死んじゃう人ってそうはいないでしょ?」
確かに、辺り一帯は車が通る事もないサイクリングロード。目前に流れる川も底は浅そうだし流れも強くなく、第一足を踏み入れなければどうということはない。死ぬ要因と成りえる物はなさそうに見える。
「じゃあなんであんたは“こんなところ”で死んじゃったの?」
「聞かないで。あの時のことはあまり思い出したくないの」
そう言われたら千夏とてあまり追求することはできない。彼女自身もゾンビと化した日の事は思い出したくもないので、その気持ちはよく分かる。
「分かったわ、深くは聞かない。私も、死んだ時のことはあまり考えたくないしね」
「ありがと。それでね、そんなわけだから、暇な時でも良いからたまに会いに来てくれたら嬉しいかなー、って。ね、お願い!」
両手を合わせて頼み込む明日香。まるで神頼みしているみたいね、と千夏には思えた。──私は神じゃなくてゾンビなんだけどなぁ。
「あまり定期的には来られないかもしれないけど、良い?」
「大丈夫、全然構わないよ。まあ、高校生って忙しいもんね」
「じゃあ──」
「来てくれる?」
すっかり興奮した明日香は千夏の言葉を遮って身を乗り出した。よほど気が高ぶっているのか、幽霊の癖に頬がうっすら紅潮している。
「分かったわ、そのうちね」
「本当!?」
「“ゾンビが幽霊と友達にならなくてどうするの”って先に言い出したのは、あんたの方だったじゃない」
それを聞いた時の明日香と来たらもう嬉々として大はしゃぎ、千夏すら「そんなに喜ばなくても」と思わず呟くほどであった。
結局、荒ぶる明日香が沈静化するまでの数分間、今は何か呼びかけても無駄だろうと察した千夏は、この幸せの真っ最中にいる幽霊の小躍りを傍観していた。
──やっぱり年下にしか見えないんだよなぁ。
「あの、明日香」
「ん? なあに?」
四度目の呼びかけにして、やっと明日香は千夏の言葉に気付いたようだった。
「そんなにはしゃがなくても……」
「えへへ、友達ができるなんて幽霊になって初めてだったから、つい嬉しくなっちゃって……」
今更ながら明日香は照れ笑いを浮かべた。
「幽霊になる前も友達ぐらいたくさんいたんでしょ? 今更そんなに喜ばなくてもいいない」
「確かにたくさんいたけどさ、最近誰にも会ってないんだよね」
前はぽつぽつ墓参りにきてくれたんだけどなぁ、とと明日香は不満そうにぶつぶつ呟いた。
「あんたが死んだ時に大学生だった友達なんでしょ? それなら今頃、もう社会に出て働いてるんじゃないの?」
「うーん、社会人になったみんなかぁ。あまり想像できないなー」
「で、あんたの友達ってどんなのがいたの? 口裂け女とかトイレの花子さんとかいた?」
「もう! 人をお化け扱いして!」
そう言いながらも、明日香は大笑いしていた。つられて千夏からもクスッと笑みがこぼれる。
だが、この奇怪だが愉快な時間がもうしばらく続く物だと二人とも思っていたのに、千夏が忘れかけていた“それ”は突如として空より颯爽と現れた。
「ん?」
頭にぽつりと冷たい刺激を受けて、千夏が頭上を見上げた。
「どったの?」
「雨、降ってきちゃった……」
「あー、降りそうだなぁとは思ってたんだけど、とうとう来ちゃったか」
そう言いながら、明日香は右の掌を上に向けた。そこにもポツリと雨粒が──、いや、明日香には分からなかった。雨粒もまた、彼女を通り抜けてしまうのである。
「……参ったな」
千夏は眉間にしわを寄せ、仏頂面で雨雲を睨みつけた。
「なんで? もしかしてゾンビって雨に弱いの?」
「そういうわけじゃないんだけど、洗濯物、外に干してきちゃったのよね……」
「あらま。でも、誰か取り込んでくれるんじゃないの?」
「生憎、一人暮らしの身でね。私がやらなかったら取り込んでくれる人なんていないの」
「……あらま」
示し合わせたわけでもないのに、二人はそろって空を見上げたまま口をつぐんでしまった。
湿気を含んだ生温かい風が二人の間を吹き抜け、土手の草をさわさわと鳴らしていく。その間にも雨脚は少しずつ勢力を強め、一滴、また一滴と河原の土を濡らしていった。
──どうしよう。
千夏は思い悩んだ。
とは言え、ここで明日香に出会い、帰る足を止めた事について悔んでいるわけではない。この天気の間の悪さが恨めしいのと、現状を踏まえて上でこれからどうするか思案に暮れているのである。
それに、ここは木陰も橋げたもない河川敷。雨風を凌げる物は何一つなく、こんな所に明日香を置いていくのも気の毒な気がする。ところが明日香の話では、彼女は幽霊と言う性質故かここからあまり離れられないと言う。
これは難問だぞ、と千夏が今にも頭を抱えそうになっていたその時
「──じゃあ、今日はこれでお別れだね」
明日香は少し寂しげな目で千夏を見ていた。
「明日香、……いいの?」
「うん、だって、早く帰んないと洗濯物濡れちゃうんでしょ? だったらしょうがないよ」
明日香なりに気を使ってくれているのだ。
今ここで千夏が帰ってしまえばまた一人ぼっちになってしまうことは他ならぬ明日香自身が一番良く分かっているはずである。
何年かぶりに人と話せたと言って大喜びしていた顔が千夏の脳裏に浮かぶ。──あんなに嬉しそうな顔していたんだもの、寂しくないはずないのにね。
──でも、良い奴なんだな。
「ごめんね、気を使わせちゃって。後で傘でも持って来ようか?」
「ううん、いいよ。たぶん私じゃ持てないと思うし、それにね、幽霊って雨が降っても濡れないの」
びっくりだよね、と明日香は自慢げに語った。考えてみれば、雨粒は幽霊となった体を通り抜けてしまうので、濡れないのも当たり前なのである。
「それより千夏こそ、濡れて風邪ひかないようにね?」
「生憎、ゾンビ化してから風邪ってひいたことないのよね」
咳をしながら床に伏しうんうん唸るゾンビなど様にならない。まあ、発熱という症状だけは、死体並みの体温しかない千夏にとってはあながち悪くないとも思えたのだが。
何はともあれ、このような至って風変わりな種族自慢を交わしながら、千夏は倒していた自転車を起こし、そのかごに買い物袋を詰め込んだ。
「でもなぁ、千夏が帰っちゃうとまたここも寂しくなるんだよなぁ。ねえ、今度ここにテント持ってきてよ」
どうも明日香の発想は時としてとんでもない方向に飛躍することがあるのだ。
「ここにテントって……、そうね、もしここがキャンプ場にでもなってたら考えるわ」
なかなか無理のある話だとは千夏自身も感じていた。
住宅地のすぐそばで、川が増水すれば使用不可、おまけに幽霊まで出るとあれば、そんなキャンプ場に需要があるとは思えない。
「うーん、キャンプ場かぁ。いつぐらいに完成するんだろうなぁ」
ところが明日香ときたら、もうすっかりキャンプ場が実際にできることを前提に考えているらしい。
「それより先に千夏がお婆ちゃんになっていたら嫌だなぁ」
「でもね、あんたの方が私より年上なんだから、私が老人になる頃には明日香の方がもっと老けてるのよ」
「そんなことないよ。なんて言ったってね、明日香さんは幽霊だからね」
「それを言ったら私も人間じゃないんだけど」
ゾンビって老けるんだろうか。千夏は心の内で首をかしげた。
もし老けるとしたら、ここに作るべきはキャンプ場じゃなくて老人ホームの方が良さそうね、などと最初の話題とはやや的外れの結論を出しながら
「じゃあ、また来るね」
アスファルトで舗装された堤防敷のサイクリングロードまで自転車を押してあげ、千夏はペダルに足をかけた。
「うん、待ってる」
明日香はそっとうなずいた。
それを見届けた千夏がペダルを漕ぎだそうとした瞬間、
「ねえ、千夏」
背を向けた明日香に呼び止められ、振り返る。
「──今日はありがとう」
「──こちらこそ」
周囲の誰にも正体を暴かれたくないゾンビ、周囲の誰でもいいからここに自分がいると知ってほしい幽霊。
抱えていた悩みこそ正反対ではあったが、それでもこの死者二人の間には確かに芽生えた一つの感情があった。
──出会えて、良かった。
「気をつけて帰ってねー!」
明日香の声を背中に受けながら、千夏は自転車を走らせた。振り向きたい気持ちがないわけでもないが、よそ見運転がいかに危険かは先ほど再認識させられたばかりである。
「雷が鳴らない内にねー!」
別にそこまで悪天候というわけでもないのだが、とも思いながら千夏は返答の代わりに背後に向けて手を振った。お気づかいどうも、の意である。
それが明日香に伝わったかどうかは定かではないが、明日香は千夏の姿が見えなくなるまでずっとそこに佇んでいた。
それでも、何せ相手は自転車だ、見る見るうちに距離は離れていき、やがて彼女の姿が視界から消え去った所で、明日香はいつも通り河原の土手に腰を下ろした。
しかし、今日はいつもと違う。空は生憎の雨模様だが、心の内だけはここ数年で一番晴れ晴れとしていた。
「ゾンビ、か……」
と、独り言。思い起こせば、独り言以外の台詞なんて何年ぶりに口にしたのだろうか。
「ゾンビって、ほんとにいるんだね」
最初にゾンビと聞いて、明日香が思い浮かべたのは、もう何年前に見たかも忘れた映画の中の、今でもおぼろげながら覚えているワンシーンだった。
白目をむいて涎を垂らしながら人間に襲いかかる腐乱死体の化け物、ゾンビと言われるとそんなイメージがあり、それを見て明日香は「もう二度とホラー映画は見ない!」と心に強く誓ったほどである。
そんな調子であったから、千夏がゾンビだと分かった時は、今思い返しただけで苦笑が浮かぶくらい狼狽してしまった。
でも、ああいうゾンビなら悪くない。お茶も出せなくて申し訳ないが、いつ来たって大歓迎である。
「次はいつ来てくれるのかな」
と、明日香が何気なく視線を空から河原に下ろしたその矢先、
「──ん?」
見慣れた、いや、見飽きたいつもの河原の風景の中に、ここ最近久しく見ていなかった物体が草藪の中に紛れ込んでいたのに気付いた。
近づいて見てみれば、ブロッコリーであった。周囲の草と色がほとんど同じなので見落としそうになったが、形はまるで違うので気付いてしまえば明らかに浮いて見える。
「うわぁ、久しぶりに見たなぁ、ブロッコリー。でも、なんでこんな所に……」
感激のあまり頬を紅潮させたり、はてと腕を組んで首を傾げたり、何かと忙しない幽霊である。
「ブロッコリーって、こんな所にぽんぽん生えてる野菜だったっけ」
とは言うものの、そのブロッコリーは八百屋などで普通に売られている代物で、包丁などの刃物によって切られた跡も見えるし、地に生えていると言うよりはただ転がっているだけである。これを自生と呼ぶには無理があるだろう。
どうも何年も人との交わりがなかっただけに、明日香の常識は崩壊しつつあるのだ。元からどこか抜けた気質だったというのも一因かもしれないが。
「でも、ゾンビもいるんだし、ブロッコリーくらい生えてきてもおかしくは──」
そこまで言いかけてようやく気付いた。ゾンビ、そう、千夏だ! 先ほど千夏が自転車ごとすっ転び、買い物袋から商品が飛散した。
後に千夏がそれらを回収したが、このブロッコリーはその回収から逃れた物だとした方がよほど説得力のある話だと、ようやく明日香も気がついた。
「おーい、千夏ー!」
慌てて土手に駆け上がり、明日香は千夏の名を叫んだ。とは言え、もう姿も見えないほど遠ざかってしまった彼女にその声が届くはずもない。
幽霊の明日香にはブロッコリー一つ持ち上げることすら叶わない。仮に持てたとしても、この場所からそう遠くへは行けない。
それに、仮にそんな幽霊であるが故の制約とは無縁であったとしても、千夏がどこに住んでいるのかも知らないし、走って追いかけても自転車に乗った千夏に追いつけるはずもない。打つ手なし、と言ったところだろうか。
「ああ、もう! ブロッコリー! ブロッコリー落としていったよ!」
河原にそんな声が響いたが、それを聞き取れた者は明日香本人を除き、誰もいなかったのであった。
※一時間後。
※「おい、そこの野良猫。そのブロッコリー食べちゃ駄目だよ。それ、千夏のなんだからね。あっ、こらっ、駄目だってば! 持ってっちゃ駄目ぇッ、返してぇッ!」
読了ありがとうございました。
猫ってブロッコリー食べるんですね。祖母の家の猫が齧っていたのを見て驚きました。
でもネギ類は危険なので与えてはいけないそうです。要注意。
──これしか書かないと、まるでこの話がブロッコリーメインの話だったみたいですね。
「ゾンビと幽霊とブロッコリー」、なんか三題噺のタイトルみたいになってきた。
閑話休題。
では、次の話でお会いしましょう。今後ともよろしくお願いします。