1:Girl meets girl.
──突如として死者が蘇生し、人間を捕食する異形の怪物「ゾンビ」と成り果てる事件が世界各地で勃発。
──ゾンビに捕食された人間もまたゾンビとなり、惨劇は瞬く間に各地へ伝染。地表は死者が闊歩し生存者を食い漁る地獄絵図と化した。
──抵抗を続けていた生存者の団体も多勢には無勢、ゾンビの襲撃により次々と陥落していった。
──やがて惨劇の幕開けから七週間後。「彼」は未だ生きていた、「地球最後の生存者」として。
「とりあえず、ゾンビは悪役なのね」
主役にしてくれとまでは言わないけれど、たまには脇役でも結構だから良い役回りを与えてほしいわ、と心中で呟く少女。
このスーパーにまだ数回しか着ていないので勝手が分からなかったが、映画館が隣にある事もあってか、会計の際は新作映画のパンフレットが買い物かごにねじ込まれるものらしい。
もらう側としては少々煩わしい気もするが、渡された事で何かを損するわけでもないし、一応目を通してみたい気にもなるのでそこまで悪い気はしない。
それは兎も角、少女が今目を通しているのはパンフレット一押しの新作ホラー映画『ラスト・サヴァイヴァー』の紹介文。
ホラー映画にはそこまで興味はないのだが「ゾンビ」という単語がちらっと目に飛び込んできたため、とりあえず紹介分を一通り読んでみた。そして、その感想が先の一言である。
そして間髪いれず
「って、何を私はムキになってるの」
と自分自身をたしなめた。
──所詮はフィクションの中の話じゃない。私とは何も関係ないわ。
「でも、ま、世知辛いと言えば世知辛い世の中ね」
そんな独り言を呟いていると、たった今会計を終えてきたどこぞの主婦と見えるおばさんが隣に来たかと思えば、少女のことなど目もくれず買ったばかりの洗剤や掃除用具をせっせと買い物袋に詰め込み始めた。
それを見て少女も「そうだ、私も買った物を袋詰めしないといけないんだ」と我に返り、慣れた手浮きで購入した食材を袋へしまっていった。こういう単純作業なら手際は良い方なのである。
結局、買った商品の量がほとんど同じだったにもかかわらず、先に荷造りし始めたおばさんを差し置いて、少女の方が先に荷造りを終えてしまった。
そしてずっしりと重みを増した袋を──その華奢な体格のどこにそんな力があるのか──少女はひょいと軽々しく持ち上げ、そのまま店を後にした。
ところが
「うっ、……まずい」
店の外に出るなり、思わず少女から声が漏れた。
と言っても、彼女が秘密結社の工作員で店の外を警察が包囲していたとか、彼女には莫大な借金があり店の外を借金取りが包囲していたとか、そういった荒唐無稽なハプニングが起きたわけではない。
では何が「まずい」のかと言うと、彼女が洗濯物を外に干したまま買い物に来たにもかかわらず頭上には今にも降り出しそうな鼠色の雨雲が広がっていた事である。
急いで帰らないと警察や借金取りが、ではなく、雨雲の魔手が洗濯物へ襲いかからんとしているのだ。
──天気予報め、何が「本日は絶好の洗濯日和になりそうです」だ!
少女は自転車かごに買い物袋を詰め込むと、全速力で駐輪場を飛び出したのであった。
この少女、名前を市村千夏というのだが、十六歳という年齢の割には一人暮らし歴が長い。この春で独居生活も五年目に突入する高校二年生である。
女子としては高めの背丈から長いポニーテールをぶらさげているので、外見としてはクラス内でも目立つ方に入るかもしれない。「かわいい」よりは「りりしい」といった方が似合う少女である。
だが「完璧な外見」というのは難しいもので、千夏もまた例にもれず決して人に触れてほしくないコンプレックスを抱えていた。肌の色である。
と言うのも彼女、実は周囲の人からちょくちょく病院や保健室に行くことを勧められるほど血色が悪い。それも、体調が至って良い時ですらそんな声をかけられるのだ。
透き通った白い肌と言えば聞こえが良いが、彼女の場合どちらかと言えば「白濁」という単語の方がお似合いのようで、周囲から聞こえるのも専ら“お褒めの言葉”ではなく“心配する声”である。
だからと言って、高校生という身分上化粧で誤魔化すわけにもいかず、私服はジーンズにジャケット、制服にはタイツなどで出来る限り肌の露出を控えそういった印象を隠そうと努力しているのだが、結末の方はいまひとつ芳しくない。
心配してくれる周囲の人には申し訳ないが千夏本人としては煩わしい限りなので、「そういう先天性の皮膚病なの。“中身”は大丈夫だから」とホラを吹いて適当にはぐらかすことにしている。
他にも悩みの種はうんざりするほどあるのだが、何せ千夏だって“悩める年頃の乙女”の一人なのだ。容姿やら成績やら友人関係やら、悩みの種を一から全部語っていたらそれだけで一生が終わってしまう!
「……しまった、ジャガイモを買い忘れた」
今夜は肉じゃがにする予定だったのに。だが、買いに戻る時間はなさそうだ。雨の気配はすぐそこである。
「夕飯どうしよう」
またしても悩みの種が一つ増えてしまった。もうたくさんだ!
舌打ちしながら郵便局の角を左折する。この先にあるのは堤防敷のサイクリングロードだ。川沿いにひたすら伸びるこの細い小道は、車も通らないし信号で足止めを食らうこともないので、映画館横のスーパーに行く時は必ず利用している。
尤も、そこが千夏の家から最も近いスーパーではない。もっと近くに一軒あり、数週間前まではそこで買い物すれば全て間に合っていたのだ。“間に合っていた”、そう、英語の授業でお馴染みの過去完了形である。
何故ならその小売店は改装工事を理由に数週間前から休業してしまっているのである。よって千夏は買い物のために少し遠出しなければならなくなり、こうして洗濯物のために気を揉む結果となったのだ。
そうか、諸悪の根源はこれだったのか、ならば次からはシャッターをこじあけてでもそこで買い物をしよう──などという過激的な結論には幸いにして至らなかった千夏だが、結局はこれもまた“悩みの種”の一つとなったのであった。
まあ、これについては文句を言っても始まらない。むしろ時期が自然と経てば解消される問題なのだからまだ良い方である。
右手に広がる緑豊かな河川敷の土手を眺めつつ、千夏は絶えず自転車をこぎつづけた。今にも雨が降りそうな空模様というだけあってか、千夏以外の通行人は見当たらない。
ただひとつ、前方の土手に見える一つの人影を除けば。
「あ、またいるんだ、あの人」
そこにいたのは、土手に座ったままぼんやりと空を眺めている一人の少女。
パッと見た感じあまり歳は離れていないようなのだが、いったい彼女がどこの誰なのか、千夏には見当すらつかない。
ただそれでも記憶に残っているのは、千夏がいつもこの道を通る時、決まって彼女はそこにいるからである。それ以外の時にいるのかどうかは定かではないが、相当な頻度で来ているのは間違いなさそうだ。
それも、誰かといるわけでもなければ、何かをしているわけでもない。ただ暇そうな顔をして頭上に広がる空を眺めていたり、目前を流れる川を眺めていたり。本当にただそれだけなのである。
彼女に声をかけたことはないし、千夏だってこの道に頻繁に来るわけではない。先述の通り、近所の小売店が改装工事で休業してはじめて通り始めた道である。
なのであまり確かなことは言えないが、それでもこの風変わりな河川敷の主──ここの地権者というわけでもなさそうだが、こうも頻繁にいるようでは主と言っても良かろう──は、千夏の中ではそこそこ印象深く残っていた。
──彼女は一体何者なんだろう。
そんな疑問が千夏の中に芽生えた、その瞬間だった。それがいけなかった!
視線と思考を“この風変わりな河川敷の主”に注ぎ込んでいた千夏は、結構なスピードで自転車を走らせていたにもかかわらず、全くと言って良いほど前方を見ていなかったのだ!
もちろんこの道を走っているのは自分だけだということは確認済みであったが、道の上に置いてあった丸みを帯びた大きめの石には、それがアスファルトの色と同化していた事もあって、気づいていなかった。
「ッ!」
石にタイヤが乗り上げた時点でようやく前方不注意だったことに気付いた千夏。だが、時すでに遅し。スピードが出ていた上、かごに買った商品を詰め込んでいては崩れたバランスを取り戻すのは容易な事ではなかった。
無理やり進路を捻じ曲げられ、このままでは土手に突入する。あわてて千夏はハンドルを左に切った。ところがその判断が逆に事態を悪化させ、タイヤは路上を滑りながら乗り主の意思を無視して土手に突っ込んでいった。
その先にいるのは、例の“河川敷の主”。自転車は到底制御できそうにない。
「危ない!」
千夏はとっさに声をあげた。
「避けて!」
その声に“河川敷の主”がこちらに振り向いた。突如起きた唐突な事態に目を丸くするも、何の心構えもない状態から「避けて」と言われてすぐに避けるというのは難しい話だ。
そして次の瞬間には自転車は千夏を道連れにして土手に突入、段差にタイヤをとられた自転車は乗り主と買い物袋を天高く放り投げながら盛大に宙を舞ったのであった。
「ちょっと、大丈夫!?」
それが、初めて聞いた“河川敷の主”の声であった。
その時千夏はようやく自分がうつ伏せに倒れていることに気がついた。何せ宙に投げ出されたかと思いきや地面に激突し、さらに勢い余って地を転がった為、自分がどんな体位でいるのかいまいち分からなかったのである。
「なんとか、ね」
上体を起こすとあっちには自転車が、そっちには買い物袋とその中身が転がっている。そして目前には心配そうに覗き込む“河川敷の主”の姿があった。
「そういう貴方は?」
「私は大丈夫だけど……、あっ、血が出てる! 右! 右の頬!」
彼女はそう声を上げた。相手に怪我させなかった事に安堵しながら、千夏は
「ここ?」
反射的に自分の右目の下をぬぐった。しかし指には血など付着していない。
「違う、逆!」
なるほど、貴方から見て右なのね、と千夏は左目の下をぬぐった。確かに、自分の指の腹が赤く染まっていた。
とっさにバッグから手鏡を──千夏とて年頃の女子だ、それくらい持っている──取り出して傷を確認してみた。どうやら地を転がった際に擦り傷を一つこしらえてしまったらしく、痛々しい傷口が左頬の上部を覆っていた。
そう言えば自転車から落ちた時、頭から地面に突っ込んだからなぁ、と千夏は渋い顔をしながら手鏡をしまった。いくら彼女だって顔に傷がつくのは気に障る物である。
「うわぁ、痛そう……。ねぇ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「これくらい、別にどうってことないわ」
「ほんと? 今にも死にそうな顔してるけど」
「そういう先天性の皮膚病なの。こう見えて“中身”の方は結構頑丈だから大丈夫」
澄まし顔で慣れた出まかせを述べながら、千夏はあっちこっちに飛散した先ほど買った物を拾い集め始めた。──それにしても卵を買わなかったのは不幸中の幸いだったな。
他方、そんな千夏の様子を眺めていた“河川敷の主”であったが、千夏がちょうど最後に牛乳パックを拾った際、
「ん?」
と、何かに気づいたような声を出し、
「あ、あのさぁ」
そのまま千夏に話しかけてきた。
「ん、なに?」
と千夏が振り返りつつ返事をすると、どういうわけか“河川敷の主”はそれだけで胸がいっぱいになってしまったようで、突然川の方に振りかえり、
「我が人生にも春が来たーッ」
と、内容、声量ともに傍で聞いていた千夏が驚くような歓喜の叫びを、とても爽やかな笑顔で放ったのであった。
おそらく向こう岸の住人もさぞびっくりしているに違いない、と千夏は思いながら自転車を起こし、
「よく分かんないけど、せっかくの“人生の春”を邪魔して悪かったわね」
そう言いながら買い物袋を自転車かごに入れ、速やかにこの場を立ち去ろうとした。洗濯物も気になるし、どうもこの“河川敷の主”とは気が合いそうにないと感じたのである。
「え? あ、ちょ、ちょっと待って!」
ところが忙しいことに、“河川敷の主”、あわてて千夏の方を振り返りながら呼びとめた。
「まだ何か?」
「いや、えっと、その、貴方、今急いでる?」
「できれば早く帰りたいんだけど……」
「まあまあまあ。ここで会ったのも何かの縁だし、お茶も出せないけど、もうちょっとゆっくりしていってよ」
そう親しげに話しかけてくる“河川敷の主”であったが、どう見てもその表情には焦りの色が浮かんでいる。
「ゆっくり、って言われても、ここ、何もないんだけど」
「そう、ビックリするくらい何もないの! だから私も暇で暇で仕方ないの」
「他の場所に行かないの? もしくは家に帰るとか」
「いやぁ、実は色々と複雑な事情があってねぇ」
“河川敷の主”はそう答えながら決まり悪そうに笑った。
「深いわけがあるみたいね」
「そうなの! 話だけでも聞いていってよ、お願いだから!」
と、今度は頼み込むように両手を合わせる“河川敷の主”。何かと忙しないが、少なくとも何か企んでいるような素振りではないのは見て分かる。
洗濯物も心配な千夏だが、ここまで頼みこまれると断るのも難しい。それに、言葉を交わしたのはこれが初めてではあったが、前々から彼女の正体には興味があった。
「できれば手短に済ませてくれると嬉しいわ」
仕方なく、千夏は自転車を寝かせながら、いつも“河川敷の主”がしていたように土手に腰を下ろした。
「やった、ありがとう!」
まだ肝心の話の中身を何一つ聞いていないのに、“河川敷の主”はもう感激で胸いっぱいといった様子で千夏のすぐ隣に座り込んだ。
「で、えーと、なんだっけ」
頭までいっぱいになってしまっていたようである。
「話してくれるんじゃなかったの? その“複雑な事情”って奴を」
「あ、そうだった。ごめんごめん。何せ人と話すのなんて久しぶりだから、つい嬉しくなっちゃって」
それがいかに嬉しいことなのかは、言葉を聞くまでもなく、本人のこの上なく嬉しそうなその笑顔を見るだけでも十二分に伝わってくる。
いつもはこの少女を遠巻きにしか眺めてこなかった故にどんな人物か分からなかったが、こうして近くで見てみるとあどけなさの残る可愛らしい子であった。
桃色のパーカーに洒落たヘアバンドと言った格好から見ても、割とお洒落には気を使う方なのかもしれない。
「そういえば、あなたの名前、なんていうの?」
思い出したように少女は千夏に問いかけてきた。
「私の名前?」
「うん。せっかくだから名前で呼びたいかなって」
どうやらこの少女、かなり友好的な気性の持ち主のようである。
言われてみれば確かに千夏も名乗っていないし、この少女の名前もわからない。いつまでも“河川敷の主”では少々味気ないのも確かだ。
「……市村千夏。あなたは?」
「明日香っていうの。えーと、何だったっけかな、笹谷? 笹森? 笹山? 名字はたぶんそんな感じだった。で、名前が明日香」
しばらく使ってないと名前も忘れちゃうね、と“河川敷の主”もとい“明日香”はどこか他人事のようにけらけら笑っていた。忘れてしまっているのは他でもない自分自身の名前だと言うのに。
どうも明日香の口調や表情から推察するに、それが嘘や冗談の類とは思えない。
「あんた、自分の名字も忘れたの?」
これには流石に千夏もあきれ果て、何と言ってよいやら分からなくなった。
「名前の方は覚えてるから大丈夫でしょ。結構気に入ってるの、この名前。ま、そんなわけで、明日香って言うの。よろしくね」
そう笑いかけながら明日香は手を差し出してきた。それが何を意味するかは千夏にだって分かる。握手の要請である。
しかし、“友達になった記念の握手”なんて幼稚園か小学生か、それ以来である。それを考えると少々気恥ずかしい。
「握手、握手」
だが明日香はそんなことなどお構いなしに、目を輝かせながら握手を要請してくる。
少しばかり困った千夏であったが、まあ減る物でもあるまいし、と明日香の伸ばした手を握った──はずだった。
握ったはずだったのに、手の感触が伝わってこない。見てみると自分の右手だけが握りこぶしを作っている。それも明日香の手にめりこむような形で、である。
千夏には、似たような体験をしたことが過去に一度だけあった。まだ年端もいかぬ幼少の頃であるが故におぼろげながらにしか覚えていないが、何かの展覧会にあった“ホログラフィ”という物である。
つまり立体映像、まるでそこに実物があるかのように見えるのに実際はただの映像なのでつかむことも触ることもできないという摩訶不思議な代物を相手に、幼き日の千夏は何とかしてつかんでみようと一時間も悪戦苦闘していたのであった。
今となっては恥ずかしい思い出であるが、それは兎も角、今こうして目の前にある明日香の手はまさに“ホログラフィ”のように千夏の手を通り抜けたのである。
まったくもって不可解な出来事に何と言って良いか分からない千夏に対し、明日香は事もなげに
「あー、やっぱり駄目か……」
と呟くと、苦い顔で土手にころんと寝転がった。
「ねえ、それがさっき言っていた、“複雑な事情”ってやつなの?」
そう千夏が尋ねると、明日香はつまらなそうに目をつぶり、
「千夏はまだいい方だよ。私の姿が見えるし、声も聞こえるんだからさ」
と呟くように答えた。
初対面にして名前を呼び捨てにされ、千夏はその馴れ馴れしさに少々ムッとした。いきなり距離感を詰められるのは少々苦手なのである。
だがそんなことにいちいち目くじらを立てるのも大人げないと思い直し、
「……なるほどね、なんとなく分かったわ」
明日香の真似をするように隣に寝転がった。
「幽霊って、本当にいたのね」
白装束でもないし足も普通に二本あるため見た目に“それらしさ”はないが、たぶんその手の存在なんだろうと千夏は確信していた。
「あれっ?」
それを聞いた途端、明日香がきょとんとした面付きで千夏の方に首を傾け、
「怖く、ないの?」
「別に。定期試験の方がよっぽど怖いわ」
「じゃあ、少しは疑わないの? 『幽霊なんているはずないわ、さっきのは単なる見間違いよ』とかって」
「突拍子もない話には慣れてるの」
「……なんか、手応えがないなぁ」
明日香は渋い顔をしながら、千夏の方に不服の申し立てを視線で送った。
「何? 怖がってほしかったわけ?」
「少しはね。お化け屋敷みたいにヌッと現れて、キャーって悲鳴が上がって、そんなのを期待していたんだけど……」
「まあ、運が悪かったと思ってあきらめてちょうだい」
そうすげなく言われてしまったが、そんなことで食い下がる明日香ではなかった。まだ諦められないといった様子で千夏のことを凝視し、
「ねえねえ、さっき千夏、“慣れてる”って言ってたけど、私以外に幽霊に会ったことあるの?」
「いや、ないわよ。あんたが初めて」
「なーんだ。幽霊同士で友達できるかなぁ、って思ったのに」
明日香は再びがっくり肩を落とした。何とも浮き沈みの激しい幽霊である。
「……ん? 待てよ、じゃあなんで千夏はそんなに場馴れしてるの?」
「ま、いろいろあったのよ」
「具体的には?」
「ご想像にお任せするわ」
そっけない口調で答えながら千夏はそっぽを向いた。名前だけくらいならまだ良いが、個人情報の扱いには慎重な方なのである。
「そんなこと言わないで教えてよ。私だって全部正直に話したじゃない」
「“話を聞いてくれるだけでいい”って言ったのはそっちの方じゃない。別に私は何かを話すとは言ってないわ」
「おのれ騙したな!」
明日香は声を荒らげながら、今にも飛びかからん勢いで起き上がった。だがそこから千夏を睨んだかと思うと一転、
「ね、ねえ、千夏?」
「何よ」
「その目の下、どうしたの? さっき転んで怪我したとこ」
明日香が驚くのも無理はなかった。さきほど千夏が転んだ時にできた痛々しい頬の擦り傷が、綺麗さっぱりなくなっているのである。
一方、それを指摘された千夏、身を起して再びバッグから手鏡を取り出し、
「あ、もう塞がったんだ」
と驚くこともなく騒ぐこともなく平坦な一声。そしてそのまま手鏡をしまってしまう。
当事者の千夏がさも当たり前のような振る舞いをしたのに対し、傍観者の明日香の方はと言えば、すっかり開いた口が塞がらなかった。
もう人間でなくなってから結構な年月が経つため、明日香も人体に関する知識はすっかり霞んでしまったが、それでも人間の傷というのはこうも迅速に治るものではない事くらいなら覚えている!
「……本当に千夏っていったい何者なの? スーパーマン?」
その言葉に危うく千夏は笑いを吹き出すところであった。スーパーマン、か。なかなかレトロな物を引っ張り出してくるわね。
「でも、スーパーマンにしては弱そうと言うか、不健康そうと言うか……」
「だから、ご想像にお任せするって言ったじゃない」
「ケチ! 教えてくれないと呪ってやるぞ!」
「幽霊ってそんなこともできるの?」
「え、あ、いや、言ってみただけ。どうなんだろう、試したことないけど、そんなことできるのかな……」
そう言って明日香は一人考え込んでしまった。
この分ではしばらくお化け屋敷では勤められそうにもないな、とそんな明日香の様子を見て千夏は内心で苦笑していた。そこは嘘でも良いから「おまえは明日死ぬ!」などと言っておいた方が……、いや、面白可笑しさでは同レベルか。
「って、違うよ! 私のことなんかどうでもいいの! 私が普通に見えるし、しかも慣れてるって言うし、その上怪我まですぐ治っちゃうし、千夏、あんたいったい何者なの!」
「だから──」
「“ご想像にお任せする”は、無し!」
「……まあ、いいんじゃないの? その、スーパーマンで」
「絶対嘘だー!」
なんとも騒がしい幽霊だ。こうも怨霊──もとい、音量が大きいと数メートル離れたところから聞きたいものである。
それは置いておくとして、面倒なことになったなぁ、と千夏の心情はこの空模様にも負けず劣らずどんよりと濁っていた。
千夏とて自分自身がいかに“特異的な体質”をしているか、その辺りは百も承知である。幽霊が見えることは初めて知ったが、血色が異様に悪いのも傷の治りが異様に速いのも今に始まったことではない。いや、他にも“普通の人間”と比べて異常な点は山ほどある。
だからこそ千夏はそんな秘密を保守するのに、日々苦労を積み重ねながら神経を尖らせているのだ。親戚などに頼らず一人暮らししているのも馴れ馴れしい人が苦手なのも、全ては秘密の保守のためである。
そういった意味では、“誰にも見えず誰にも声を聞かれない”という明日香の悩みは千夏にとってひどく贅沢な物のように思えたのであった。正直、うらやましい。
「ねえ、いい加減本当のこと教えてよ。内緒の話なら誰にも言わないから。ねえってば!」
しかし、幽霊か、と千夏は思考を切り替えた。──幽霊って、本当にいたんだなぁ。でも、“私”がいるんだから、幽霊くらいいてもおかしくないか。
すると考えようによっては私とこいつは“似たもの同士”ということになるのか、と考えてみると妙な親近感が湧いてくるから不思議だ。
「誰にも言わないって約束できる?」
その“妙な親近感”が、千夏の態度を軟化させた。実のところ、一人で秘密を背負い続けるのも骨が折れるのである。
「おぉ! 話してくれるの? 待ってました!」
明日香が期待に満ちた目でこちらを見据えてくる。
「まずは約束が先よ。誰にも言わないって誓ってくれたら、ね」
「約束する。こちとら生前は口の堅さで有名だった明日香さんだ。ドンと来い」
「いまひとつ信用できないんだけど」
「信じなさい」
明日香は自慢げに自分の胸をたたいた。その割にはいまいち信用性が伴わない。どう見ても口が軽そうだ。
しかし、どの道相手はまともに他人と話せる存在ではないのだ。どちらかと言えば「この話を町中に広めて来い!」といった方がよほど無理難題であろう。
「ま、いいわ。その代わり、誰かに喋ったら本当に怒るからね」
「大船に乗ったつもりで信じなさい」
「泥船かタイタニックにでも乗った気分ね」
「いいから早く」
何せ明日香がこんな調子なので、千夏としても未だ不安はぬぐいきれず、今まで誰にも打ち明けたことも相まってどうしても本当のことを言うのに直に抵抗があった。
ただ一つの事実を述べるだけなのに、なんでこんな苦労しているんだろう、と千夏はため息をつきたい気分になった。──ため息か、最後についたのいつだったかしら。もう懐かしい思い出ね。
「じゃあ、言うけど」
「うんうん」
「実は──」
「うんうん」
「──あまりそんな見つめないでくれる?」
「いいからいいから、続き続き」
明日香は、まるでこれから遠足に出かける小学生のように期待に目を輝かせながらわくわくしていた。
この分だと、「やっぱりやめた」などと言い出したら自宅まで付いてきかねないな、と千夏には思えた。見た目以上に中身が子供っぽいようだ。
「……そうね」
仕方なく、千夏は明日香から目をそらし、川の向こうに広がる町を眺めながら話を続けた。
「あんたが幽霊だって言うんなら、──私はゾンビってところかしら」
市村千夏、生まれてこの方十六年、死んでこの方三年と半年の、“正真正銘のゾンビ”なのである。
読了ありがとうございました。
この度、再びオリジナルSSに挑戦してみました。
リメイクにあたって三人称に変えてみましたが、これからもこの調子で頑張っていきたいと思います。
とりあえずゾンビと幽霊を書けたので一話目としては満足です。
では、次の話でお会いしましょう。今後ともよろしくお願いします。