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敵意

 視界いっぱいに広がる緑色。俺は芝生に両手をつき、ほぼ四つん這いになっていた。

 なんなんだ、この強烈な気配は。今までに出くわしたアンドロイドどもの比じゃない。

「耳鳴りだなんて、大丈夫? とりあえず、保健室に行こう。歩けそう?」

 遠のいていたはずのリカの声が耳許で聞こえた。動けず、呼吸が浅くなっていた俺の背を、リカがかいがいしくさすってくれているのだ。

 耳鳴りは小さくなり、殺気も消えた。ひとつ深呼吸し、片膝をついて上体を起こす。

「……ありがとう、大丈夫だ。それよりリカ、あのへんが気になる。あの建物は何だ」

 リカはさすっていた手を止め、俺が指差す方を見ながら答えた。

「図書館よ。それがどうかしたの」

 あの建物――図書館の裏側に、耳鳴りの原因がある。殺気が消えたとはいえ、いまだに気配が感じられるのだ。

「行くぞ」

「あ、ちょっと」

 悪いとは思いつつ空になった弁当箱の片付けをリカに押し付けて、俺はさっさと歩き出した。


 図書館の裏は日陰となっていて、この季節の割には涼しかった。

「こんな涼しい場所があるのに、ここで弁当食う奴はいないんだな」

 小走りについてきたリカは俺の呟きにはすぐに答えず、まず不満を表明した。

「もう、ユーリったら足が速いんだからっ……」

 不満のせいか“先輩”を付けるのを忘れている。

「この場所はね、詳しくは知らないんだけど、あたしたちが入学する前に自殺未遂だかなんだか、とにかく事件があったらしいの。だから、普段からあまり人が寄りつかないのよ」

「ふーん。じゃ、あいつは例外ってわけか」

 俺の視線の先に、小柄な少年が倒れていた。鼻と口の端から糸のように細い赤色が覗いている。意識はあるようだ――目が合った。半身を起こした彼の首元から、ネクタイが地面に垂れた。

「あの人が着てるの、うちの制服じゃないよ。……やだ、怪我してるじゃない」

 少年の存在に気付いたリカが駆け寄ろうとするのを、俺は手を広げて制止した。

「待て。俺が行く。リカは何かあった時に爺さんに連絡してくれ。いや、今すぐこの場を離れろ」

 リカが息を呑む気配が伝わってきた。

「ナジアだって言うの!? でも、あたしからはおじいちゃんに連絡できないのよ」

 少年は目を大きく見開き、すぐに細めてこちらを睨みつけてきた。どうやらリカが“ナジア”と言ったことに反応したようだ。

「だから、何かあったらって言ってる」

 言い捨てて歩き出そうとしたが、できなかった。リカに腕を掴まれたのだ。

「ユーリ、震えてる」

 邪魔するな――と言う間も与えず、リカがかぶせてきた。

「相手の力量が未知数な場合は、逃げる決断も必要だって」

「それ、お前の言葉か」

「違うよ。おじいちゃんが言ってた」

 少年が立ち上がった。口元の血を拭い、絞り出すような声で告げてくる。

「……ようやくここまで調べ上げたんだ、邪魔されてたまるか」

 どうやら、中国訛りの英語だ。彼はこちらへ一歩踏み出し、両手を腰の位置で握り締めて歯を剥いた。

「お前ら過激派の思い通りになんかさせるかよ」

 この一言で確信を持った。こいつは仲間だ。

「やっぱり。あんたも《監視機構》の――」

「寄るな」

 鋭い制止に息を呑んだ。声に驚いたのではない。彼は、右手に武器を握り締めていたのだ――黒光りする拳銃を。

「おい、落ち着けよ。同士討ちしてる場合じゃないって」

「黙れ。僕は落ち着いている」

 俺は両手を頭の後ろで組み、リカを背にかばった。イギリスでは拳銃なんて見たこともない。それをまさか日本で、しかも銃口を向けられるなんて思ってもみなかった。

「そ、それ本物かよ」

「試してみるか。もし貴様がアンドロイドだとしても、ただでは済まないぜ」

 張りつめた空気を、日本語の高い声が弾く。

「サベイランス・オーガニゼーションって言ったでしょ。あたしたち仲間よ、撃たないで」

 破裂音。

 俺の右斜め前、距離にして一メートル程度の地面が抉れた。続いて襲ってきた暴力的な耳鳴りは、ナジールに引き込まれる瞬間のそれを上回っていたかも知れない。

「そうだな、あんたらが過激派なら、突然襲ってくるのが普通だろうな」

 この言葉――

「お前、日本語しゃべれるんじゃねえかっ! わかってるなら、何故撃った」

 リカが俺の背にしがみつく。だが俺だって、銃が相手じゃ動けない。あからさまな敵意と銃口の組合せは、これまでに対峙したアンドロイドどもを上回る脅威だ。

 そうだ、ナジールの中なら加速ができるかもしれない。一か八か、奴を俺のナジールに引きずり込むか。

 いや、俺は今までアンドロイドどものナジールや結城老人のナジールに引きずり込まれたことはあっても、自分から誰かを引きずり込んだことがない。もし失敗して、少年とリカのふたりだけがこの場に取り残されたら……。

「くそ、その手は使えない」

 俺の独り言を無視し、少年の銃口は俺の眉間を狙った。

「貴様が味方である可能性に賭けて任務に失敗するより、敵だと疑って任務を完遂することを選ぶ」

 なかなか引き金を引かないのは迷っている証拠だと思いたい。引き金を引かれたら終わりだ。少年は賭けをしないと言うが、こちらは賭けるしかない。

「物騒なことを言うなよ。俺たちだって人手不足なんだぜ」

 ふてぶてしく言い放つつもりだったが、不覚にも俺の声は震えてしまった。

「無能な人材なら頭数だけ揃えても足手纏いなだけだ」

 口惜しいが、俺ときたら銃をつきつけられただけで動けないのだ。反論できず、歯を食いしばった。

「?」

 少年は俺から目を離し、俺の背後を見て目を見開いた。

「伏せろ!」

 その剣幕に、俺は何も考えずリカを真横に押し倒した。

「ぐあっ」

 痛え。くそ、頭を打った。

「無事か、リカ」

 答がない。

「おいっ」

 二、三度頭を振って目を開ける。リカを見ると、彼女は地面にぺたんと座り込み、両手を口に当てていた。

 俺はリカの視線を追ってゆっくりと振り向いた。

「…………」

 見た物をありのまま受け入れるのに、時間がかかった。

 目を擦り、再び見る。間違いない、少年の足が地面から浮いている。

「なんの冗談だよ、こいつは」

 大木の化け物が太い枝を腕のように伸ばし、少年の身体を掴み上げているのだ。

「ぐっ」

 今や、俺にとってはお馴染みとなりつつある耳鳴りが再び襲ってきた。

「逃げろ……」

 その言葉を最後に、木の化け物ごと少年は消え去ってしまった。

 その場に、俺とリカが取り残される。

「あれが、敵」

 少年はナジールに引きずり込まれ、俺は取り残された。俺なんか眼中にないっていうのか。

 ――あんなのと戦えというのか。

 ばさっ、という音が聞こえてきて、俺の耳鳴りは治まった。

 視線を下げると、一冊の大学ノートが開いた状態で表紙を上にして落ちていた。拾い上げようとして、俺は手を引っ込めた。

 表紙が赤く汚れている。あいつの血。

 俺はいったん目を瞑り、拳を握った。

 あいつ、「逃げろ」と言った。俺を信用し、このノートを俺に託したんだ。

 あるいは、銃を突きつけられて怖じ気づいた俺のことを、たとえ敵だろうと味方だろうと戦力外だと思っただけなのかも知れないが。

 意気揚々と日本まで来たというのに、足手纏いのまま尻尾を巻いて逃げるなんて嫌だ。

「よし。あんたの調査、俺が引き継ぐ。そしてあんたを助けるぜ」

 ノートを拾い上げ、裏返した瞬間、俺はうんざりと呟いた。

「……中国語かよ」

「あ」

 リカの声が聞こえた。彼女の方を見ると、先ほどと同じ座り込んだ姿勢のまま地面を指さしている。その細い指が指す方向を目で追うと――

 そこには、黒光りする拳銃が落ちていた。


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