殺気
昼休みが近付いてきたが、目を付けた女子はあれっきり教室に戻ってこなかった。俺は右隣に座る男子に声をかけた。彼は多数の女子達に混じり、休み時間ごとに俺に質問をぶつけてきた数少ない男子のうちの一人だ。
「ユウジ、あの席って空席だったっけ」
ユウジが口を開くより早く、女の声が俺の質問に答えた。耳に心地よい、落ち着いたアルトだ。
「空席なのは田嶋真由美さんの席ね。早退したみたいよ」
声の主は俺のすぐ前の席に座っていた。そちらを向くと、吊り目がちで無表情な女子と目が合った。ツインテールの髪が揺れている。
「ああ、たしかに彼女あまり目立たないけどね」
ユウジが苦笑混じりに付け加えた。俺はツインテールさんに名前を聞こうと思った。
「そう。えっと……」
言葉に詰まった。演技ではなく、相手に名前を聞く場合の適当な日本語表現が頭に浮かんでこない。だが彼女は俺の意図を察し、すぐに答えてくれた。
「兵藤さつき。よろしく」
どうやら彼女は無愛想というわけではないらしい。そこそこ整った顔立ちなのだが、吊り目がちで表情が乏しいことが災いし、見る者にお高くとまった印象を与えてしまうようだ。
「よろしく、さつき」
目だけで返事を寄越す彼女の様子からは、内向的な印象は感じられない。日本で流行りの“ツンデレ”とかいう種類の人物でもなさそうだ。それはさておき、取り巻き連中と同様、ウイルスナジアのリストから外しても良さそうだ。
教室の最後尾に座り、ここまでこのクラスを観察してきたところ、誰とも話していなさそうな女子は田嶋真由美の他に一人だけだ。一方、寡黙な男子は、見た目不良っぽい生徒一名を含め三人か四人ほど見受けられる。もちろん、その連中が全員内向的な性格だと決まったわけではないが。
今日は田嶋真由美への接触を断念せざるを得ないが、このクラスに限れば思ったよりリストを絞り込めそうだ。この学校は各学年八クラスなので、仮にウイルスナジアリストをクラスあたり六人程度に絞り込めた場合、対象者はざっと百五十人となる。まだまだ多いが、九百人だの千人だのと数の多さにうんざりとしていた夏休みに比べれば随分気が楽だ。今のところ他学年どころか他クラスの調査方法さえ思いつかないが、初日の収穫としてはまあまあだと言えよう。できれば、内向的な奴がひとりもいないクラスがたくさんあれば嬉しいのだが。
昼休み、俺はトイレを理由にさっさと教室を飛び出した。そのまま教室へ戻らず階段付近をうろついていたら、階下から見知った顔が近付いてきた。
「ユーリ! お弁当よ」
その高い声に、周りの生徒たちが驚いたように俺と彼女を見比べるが、彼女はまるで気にしていない。やがて階段を上がりきると、彼女は俺の正面に立ち、両手に持った弁当の包みの片方を押し付けてきた。
背は俺の肩までしかなく細身だが、肩胛骨を隠すストレートロングの持ち主だ。その漆黒でさらさらした髪は人目を引く。小ぶりな顔立ちはお人形さんのように可愛らしくておそらくは日本人受けするのだろうが、俺とひとつしか違わないのが信じられないほどのあどけなさだ。彼女には悪いが、俺の新しいクラスメイトたちと比べると、その外見はどうにも幼いという印象をぬぐいきれない。
ふと気付くと、彼女は眼を細めてこちらを睨み付けていた。
「今……。なんか失礼な想像してたでしょ、ユーリ」
なかなか鋭い。さすがは結城老人の孫だ。
「いや、リカの制服姿も似合うと思ってさ。……それより、ありがとうリカ。弁当作ってもらった上に持ってきてもらっちまって」
途端に笑顔をはじけさせるリカ。結城老人と比べて、何と扱いやすいことか。
「もう、何言ってんのよユーリ。今朝も見――」
「だーっ! そうだリカ、弁当、屋上で食べようぜ」
前言撤回、扱いづらいわ。無防備すぎるぞこいつ。周囲の連中に知られたら厄介だろうが。……俺たちが同じ家に住んでいるなんてこと。
「残念だけど、屋上は閉鎖されてて一般生徒は立ち入りできないの。この学校、食堂があるけど、外がいいのなら校庭に行きましょ」
言い終えるが早いかもと来た階段をさっさと下り始めるリカ。不覚にも、その背に揺れる艶やかな黒髪に見とれていると、ひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ、あの二人どういう関係かしら。ちょっと聞いてみてよ」
「えー。あたしいやだー。自分で聞きなよ」
まずいな。黙っていて、あとで勘繰られるのも嬉しくない話だ。何とか誤魔化すか。
そう思ってひそひそ声の方を振り向くと、その場にいた女子生徒たちはさっとそっぽを向いた。
「……やれやれ」
俺は彼女たちの相手をするのをやめ、リカの後を追った。
しかし、踊り場まで降りたところで、俺は立ち止まった。降りてきたばかりの階段の上を振り仰ぐ。
「なにやってんの、ユーリ」
立ち止まった俺を訝しみ、リカが声をかけてきた。
「なんか、視線を感じたんだけど」
俺の言葉を受け、リカも階段の上に目を懲らす。
「誰もいないわよ。……自意識過剰なんじゃないの」
視線なんてもんじゃない。アンドロイドに襲われるときと比べれば大したことはないが、どちらかというと殺気に近いものだった。
殺気……か。なんだか、何か忘れているような気がする。
「ねえユーリっ。もう。ユーリ先輩ったら。のんびりしてるとお昼休みすぐに終わっちゃうよ」
「うげ。なんだその先輩って」
耳慣れない呼ばれ方につい過剰に反応すると、リカは小さく舌を出し、後頭部を掻いていた。
「あたしだって照れるわよ、普段と違う呼び方すると。でも学校の中だと、下級生が上級生を呼び捨てにすると不快に思う先輩方がたくさんいらっしゃるのよ。うっかり忘れてたわ」
「勘弁してくれ。……俺が気にしないんだからいいじゃねえか」
「“郷に入れば郷に従え”と言うでしょ。なんか英語にもそういう感じの慣用句があったと思うけど」
「あるぜ。“ローマにいる時はローマ人のように振る舞え”ってのが」
どうやら、俺は耳慣れない呼ばれ方を受け入れるしかなさそうだ。
校庭の一部には芝生があり、植樹された木々や建物がいい感じに日陰を作っている。そのため、それなりに多くの生徒が弁当を広げていた。
芝生の隅っこにスペースを見つけた俺たちは、そこで弁当を食べた。なかなか快適だ。――時折盗み見る生徒達の視線を気にしなければ。
「気になるなら声をかければいいじゃないか」
「まあまあ、ユーリ先輩。日本人は人見知りが多いのよ」
リカはひらひらと手を振って俺をなだめた。
「そんなことより、ビッグニュースよ」
「なんだよ」
「リューフィンがね、起きたの」
ちょっと待て。こいつ、ナジアじゃないはずだ。結城老人に食事を届けるのは俺の役目だったはずだし、昨夜もリューフィンは目を閉じたままだった。
「……どういうことだ」
「あ、言ってなかったっけ。ナジアじゃない人の中には、ナジールに入れる人とそうでない人がいるの。あたしは入れる。少なくとも、おじいちゃんのナジールには」
リカが言うには、結城老人がナジールの中から呼び掛けてきた場合、十何回に一回の割合で気付くことがあるという。そういう場合は、リカは結城老人のナジールに入り込めるのだと言う。
今日からの学校への登校に先立ち、俺が先に登校してから時間差をおいてリカが登校する取り決めにしていたのだが、今朝俺が登校した後に結城老人が呼び掛けてきたらしい。
「でもね。寝起きの人が機嫌が悪いことってよくあるじゃない。リューフィン、そんな感じだったよ」
「それなら問題ない。あいつのデフォルトだ」
なんにせよリューフィンに会えるのなら文句はない。というか、勝手に長いこと惰眠を貪ったリューフィンには文句を言ってやる。
「それでね――」
リカの声が遠くなる。これは殺気。そして――
「耳鳴り……!」
まさか、これほどまでに人目に付くこの場所で。ウイルスナジアめ、向こうから接触とは手間が省けるが、いったい何を考えていやがる。




