発動
先頭にユッチ先輩が座る。
その背を見る位置に俺が座り、互いに広げた両手の指先が触れない程度の距離をあけ、俺の左右にそれぞれショウキとカッキーを座らせる。
そして俺の後方左右にそれぞれさつきとユウジに座ってもらう。
――集中。
俺の視界は身体を離れ、六人の位置関係をナジールの天井近くから俯瞰する。初めての体験だが、不安も恐怖も感じない。思えば、リューフィンもハルダイン魔方陣による呼び出しに際し、何の不安も感じていなかった。
一方、原田が準備を進めてきて、今まさに発動させようとしている巨大な魔方陣からは、不安と恐怖しか感じられない。
どちらがハルダイン本来の力なのか。確信に満ちた答えを思い浮かべつつ、俺は仲間たちの位置を微調整するために指示を出す。
「ショウキ、一歩下がれ。カッキー、半歩右へ。さつきは一歩左。ユウジは半歩前だ」
奇妙な感覚だが、意識そのものは肉体を離れたわけではない。俺の声は床に座る俺の口から出ている。
位置調整が済むと、白色の五芒星がぼんやりと浮かび上がった。やがて五芒星は、霧となって俺たちの身体を包むかのようにして、ひとつの図形を形成する。
「我、破邪の祈りを捧げる者なり。聖ハルダインよ、我が喚び声に応えたまえ。我、攻性魔法発動の阻止を欲す。疾く導き給え」
そう、俺からのハルダイン神への要求は、原田がいる場所への移動。それだけだ。魔法による天誅などではない。俺がこの手で、奴をぶちのめす。
発光。五芒星の輝きが強まり、六人の全身に濃い陰影を与える。
ふたつの同心円が五芒星を囲む。内側、すなわち小さい方の円周外側に沿う形で文字が現れ、それらが時計回りに回り出す。
「お……」
ナジールが振動しはじめ、誰のものともつかない声が漏れる。
「ぐ……っ」
額から汗が滴る。心臓が炙る。魔方陣は、俺たち六人の肉体に少なからぬ負担を強いているようだ。
だがここでやめるわけにはいかない。俺は全員に向けて言った。
「もう少し辛抱してくれ。うまくいきそうだ」
ナジールの天井近くを漂っていた俺の視界が自分の身体に戻ってくる。
しばらくして、視界がぶれ始めた。
「まだだ……、もう少し」
俺の脳裏に映像が浮かぶ。
初秋を思わせる涼しい風が俺の肌を撫でた……ような気がした。
あっさりと移動に成功したというのか。いや、まだ俺の肉体感覚はナジールの床に座ったままであることを告げている。
一方、俺の視界はおそらく校舎の屋上と思しき場所を見下ろす位置へと移動している。だが、まるでブラインドを閉ざした室内を思わせるほど薄暗い。
屋上に複数の人間がいることはわかるのだが。視点の移動を試みる。空が見えた――
「月明かり……月か。もう夜だというのかっ」
視点を屋上に戻すと、そこには赤い光が満ちていた。
赤色の五芒星。校舎ごと振動させるエネルギーに満ちた魔法陣は、やがて周辺の大地にも影響を与え始めた。まるで地震を思わせる鳴動がこだまする。実際に揺れているのかも知れない。
上空にも複雑な紋様の光が出現し、彼方まで広がっていく。夜闇を薄暮の明るさに染め上げる光の色は、校舎の屋上で光る魔法陣と同じ、不気味な赤色だ。
狼狽えた途端、視界がぶれ始める。
俺の視界の中で、天井も床もグレーの空間と、つい今し方まで見えていた校舎の屋上とが二重写しとなる。まずい。
このままでは俺の肉体は校舎の屋上へ移動することなく、ナジールへと逆戻りだ。
待て。あと少しなのに。ここで集中を途切れさせるわけには――
「罠だ、ユーリ」
ユッチ先輩の声。それをきっかけに、灰色一色の世界が俺の視界の全てとなった。
目の前にユッチ先輩。彼は振り向きざま、俺を突き飛ばす。
「おわっ」
俺は尻餅をつき、同時に俺たちを取り囲む魔法陣が消滅した。
もう、屋上の様子が全く見えなくなった。完全に、ナジールへと戻ってしまった。
しばし呆気にとられた後、俺は抗議のために口を開いた。
「おい先輩、いったい――」
「言ったろ、罠だ。あのまま続けてたら、攻性魔法陣の起動キーとして原田の奴に利用されるところだったぞ。君も感じたはずだと思うのだがな、巨大で禍々しい魔法陣が活性化していく様子を。それより、周りを見てみろ」
言われる通りに見回した俺は唖然とした。ユッチ先輩と俺を除く四人全員、疲弊しきった様子で肩で息をしている。中でもカッキーは深刻だ。四つんばいになり、滝のような汗を垂らして喘いでいる。まるで何かの発作だ。
「カッキー、どうした! しっかりしろ」
「だ、い……じょう、ぶ……だ。すこ、し……、つかれ……た、だけ……だ」
とてもじゃないが“少し”だとは思えない。
当惑する俺の横からカッキーに近づいたユッチ先輩が、彼の背に手を置いた。
「ほらカッキー。俺の力を少し分けてやる」
青ざめていたカッキーの顔色が少し戻っていく。息をついたカッキーは、そのまま俯せに倒れ込んだ。眠ってしまったようだ。
「ものすごく嫌な感じがするんだ、ユーリ。現実世界と幻夢世界の間にある“壁”を越える時、大きな時間のずれが発生することは知ってるだろ。今、ショウキが言うところのナジール・プリズンを破ろうとしたとき、“壁越え”と似た感覚がしたんだ。おそらく、ナジール・プリズンを形成しているのは他校のエージェントだけじゃない。ウィルスナジアたちも同調し、幻夢属性のナジールで囲んで“壁”と似た状態を作り出している――」
ユッチ先輩が言い終える前に、聞きたくない奴の声が割り込んできた。声は上から聞こえてくる。
「残念だよ。本当に」
原田の声。しかし、氷水さながらの冷たい声色だ。
文字通りぞくりと身を震わせ、俺たちは思わずナジールの天井を仰いだ。そこには、原田の顔が浮かび上がっていた。
「せっかく君たちを見込んで、“選民”に加えてあげようと思ったのに。午前零時まで、あと二時間を切った。やはり、ウイルスナジアの諸君とリカくんに“起動キー”――生贄となっていただくしか道がないようだね」
真っ先に立ち上がり、鷹の視線を爛々と燃やして「黙れ」と叫んだのはカッキー。ふらつく足を気力で踏みしめている。これだけ疲弊しているくせに、原田の声を聞くだけで目覚めるとは驚きだ。
しかし、ユッチ先輩が柿崎を制した。軽く肩に手を置いただけのように見えたのだが、カッキーはあっさりと座らされてしまった。
「吠えても無駄だ、カッキー。こちらからは見えなくても、奴にはこちらが見えているようだからな」
つまり、奇襲も小細工も効かないってことか。くそ、原田め。
苛立ち紛れに自分の膝を叩くカッキーの肩から手を離すと、ユッチ先輩が原田を促した。
「原田。君が問答無用でウィルスナジアを使って魔法陣を発動させず、こちらに語りかけてくるからには何か話があるんだろう。おとなしく聞くよ」
「さすがはユッチ先輩。ご指摘通り、僕はもう一度だけ説得しようと考えていますよ。あと、あなた方が強引にナジール・プリズンを破ろうとするのを見越して、そのエネルギーを巨大魔法陣の起動キーとして利用しようとしたことも見抜かれてしまいましたね。ところであなた、替え玉がいますね? あなたがナジアだなんて今日の今日まで気づきませんでしたよ」
「替え玉だって。何を言うやら。俺様の真似をできる者など、俺様以外には有り得ん。気配を隠す特技、もはやあんたらだけの専売特許じゃないってことさ」
おかしい。ではなぜユッチ先輩はK・Tを怖れたというのか。ナジアとしての気配を消す消さない以前に、あいつがターゲット以外に手を出さないって情報くらい、親父から聞いていただろうに。
親父は何と言っていたっけ。たしか、こう言っていたはずだ。
『我々の希望は、ユーリ、お前と、名細亜学園に潜り込ませたさ――』
“さ”は沢沼の“さ”だろう。ぎりぎりまで敵に存在を知られたくなかったということか。どの道、この段階で原田に知られてしまったのでは、この潜入作戦は功を奏したとは言い難いのでは?
そんなことを考えていると、ユッチ先輩はこちらを振り向いて言った。
「佐々木さんには間違った報告をしてしまった。何しろ、原田のことを“あの方”と呼ばれる大物だと思っていたのでね。あいつが実は若輩エリートだってことに気づいたのはつい最近のことだ」
「素晴らしい」
原田が心からの賞賛――少なくとも表面上はそう見える――をユッチ先輩に贈った。ぱちぱちと拍手をし、続けて言う。
「有り体に言いますが、僕らの所属する組織にせよ、あなた方の《監視機構》にせよ、組織としての綻びが生じ始めています」
「残念ながら、その意見には賛同するしかあるまい。日本支部はこの有様なのだからな」
ユッチ先輩の相槌ににこやかな微笑みを返した原田は、同じ表情のまま俺に視線を据えて言い放った。
「組織の上層部に居座る連中など、すでに保身と利権争いにまみれた“ロウガイ”に過ぎんよ。君の仮初めの父上にしても、ね」
ロウガイの意味がわからず、俺は一瞬固まった。しかし、すぐ気づいた。労咳とは日本語の古い言い方で、意味はたしか結核のはず。原田は恐らく“労害”という当て字にして両組織の幹部を現実世界側の有名な病気に見立て、揶揄しているのだろう。
「ろ――」
不思議だ。俺自身、心の中では“クソ親父”と呼んでいた人物のこと、誰に何と言われても気にならないはずだった。だが、今の俺ときたらどうだ。さっきのカッキーと全く同じ勢いで立ち上がっている。
「まあまあ。まだ原田の話は終わってなさそうだよ」
そして、ユッチ先輩は、カッキーにしたのと同じように俺の肩に手を置く。その手からは全く力が感じられないというのに、俺はおとなしく座らされてしまった。
やっぱりユッチ先輩、ただ者じゃない。カッキーがあっさりと座らされてしまったのは、彼が疲弊していたからだと思っていたのだが、そうとばかりも言い切れないようだ。
「感謝します、ユッチ先輩。できればこの後ももう少し、ご静聴にご協力頂きたいものだな」
口惜しいが、今アドバンテージに立っているのは原田だ。こうしてユッチ先輩が俺をクールダウンしてくれなければ、リカの人質という最大の弱点を忘れ、感情だけで原田を罵倒してしまうところだった。
「考えてもみたまえ。現実世界側には人間が生活するのに理想的な環境がこんなにも広大に広がっている。一方、幻夢世界側には生活できる環境が点在するのみで、それすら維持するために大変な努力が必要だ」
原田の演説は次第に熱を帯びてくる。
「それに比べて君たちはどうだ。大切な資源を浪費し、自分たちの環境を汚して憚らない。そんな愚かな隣の世界の住民どもを見て、僕たちが何も感じずにいられると思うかね? 無理だ。だがまあ、生まれた環境を呪っても仕方がない。僕自身こちら側に生まれていたら、そんな愚民の一員であることを疑いもせず、日々のほほんと暮らしていたことだろう。そのことは理解しているつもりだよ」
原田はテンションを上げすぎることなく、冷静な語り口調に戻した。
「そう。君たちは数が増えすぎたのだよ。我々のような環境による個体数調節システムが希薄なうえ、レミングのような集団自殺システムもない。しかし広さの違いはあるが、環境が有限である点においては我々と同じだ。袋小路だよ。無駄に増え続ければ自滅するだけだというのに」
「原田。言葉を挟んで悪いが、君の言うレミングが我々の世界に住むネズミの仲間のことを指しているのだとしたら、集団自殺説は俗説だよ。彼らは集団移動をする習性を持つが、決して自殺するわけじゃない」
「ふむ、それは失礼」
ユッチ先輩の指摘に対し、原田は素直に謝罪すると話を続けた。
「本題に入ろう。我々若い世代が手を組み、共存の道を探る時期が来ていると思うのだよ。だが、穏健派が考えるような共存などでは数で劣る我々にとって不利なだけだ。圧倒的にね。僕が考えているのは“卒業検定”ではない。現状の組織における幹部の椅子になど興味ないのだ」
「ほう。それで」
「今回活性化させる予定の魔法陣内部は、僕の計算によると少なくとも数年から、場合によっては十年もの長きにわたり一定の環境を保つことができる。その環境内で生きられる者の選定は、僕の裁量ひとつで決められるのさ。現実・幻夢両世界の人間にも、幻妖にも手が出せない。少なくとも数年。それだけあれば、両組織の幹部を従えるのも、殲滅するのも不可能ではないぞ」
「うるせえ、黙れ」
俺の口から自然に言葉が出ていた。もう、黙って聞いてなんかいられないし、言葉を選んで議論する気にもなれない。
「愚民を正しい方向に導くことができるのは選民のみだ。ごく自然な発想だとは思わんかね。僕に協力しさえすれば、君たちも選民となる。迷うほどの決断ではないと思っていたのだがね」
「ふざけるな!」
「ユッチ先輩と比べると、どうもきみは感情的だね。やれやれ、これ以上説得を続けても無意味か。どうしましょうか、ユッチ先輩。あなただけでも――」
ユッチ先輩は何と答えるのか。思わず先輩に目を向けた俺は、意外な光景を目撃して束の間呆気にとられた。舌を出し、中指を立てて天井の原田に向け挑発的な笑顔を見せるユッチ先輩の姿がそこにあった。
「あなたほどの人も愚民の一員に過ぎなかったというわけですか。残念ですがリカくんもウィルスナジアも、そしてあなた方の命も今宵限りです」
明らかな不快感を声に滲ませる原田の映像にノイズが入り、天井がグレー一色に戻ろうとしたが、その原田の顔が驚愕で歪んだ。
強烈な光が俺の目を射る。天井に、白く輝く五芒星が出現した。




