治癒
目の前で天を仰ぐ沢沼先輩の名前、唐突に思い出した。多分、沢沼裕一だろう。
「あんたもしかして、ユッチ先輩?」
「ほう。留学生にも名が知られているとは、さすがは俺だな」
こめかみを掴んでいた手を離し、やや上向き加減のまま流し目を寄越す。よく見ると百八十センチに届こうかという先輩の身長、俺より数センチ高いのかも知れない。
しかし妙に色気のあるその仕草、過剰なまでの自信がなければできるものではない。
日本人の中にも結構いるんだな、自信家ってのは。思えば、K・Tの奴も自信家だった。
「一学期、君の恋人が《監視機構》の関係者とは知らずに声をかけたんだがねえ。俺のことを知っててくれたから楽勝かと思ったんだが、ガード固いね彼女。“ユッチ先輩”と呼ばせるのには成功したもののそこから先に進めないわ、クラスメイトからは“ロリコン”呼ばわりされるわで散々だったよ」
「今ここでするような話じゃねえだろ、ユッチ先輩」
言いながらもほっとしている自分を自覚する。
「ところで先輩、エアコンの修理してくれたとき、何故あんなにそわそわしてたのさ。今の先輩、堂々としてるぜ」
「ふ。君のそれも、今ここでするような話ではないだろうが、よかろう、答えよう」
高校三年生とは思えない貫禄だ。これをユッチ先輩はどうやって身につけたのだろう。
「俺だってナジアの端くれだからね。君と比べれば微々たる能力しか持ち合わせていないとは言え、あの場に長くとどまればK・Tに感知されていただろう。で、君と俺が接触していたことに気づかれれば、当然俺の正体にも気づかれる。俺はK・Tのターゲットにされるのは真っ平ごめんだぜ」
俺はナジール内を見回した。直径五十メートル、天井までの距離も十メートル以上あろうかというナジールの規模は、これまで俺自身が作り出したものや引きずり込まれたものと比べて明らかに最大だ。しかも、その内側に引き込まれたユッチ先輩を含むナジアと半ナジアの総数六名。
「これだけのことを成し遂げておいて微々たる能力と言われても説得力ないぜ、先輩」
「ふむ。これも努力の賜物ではあるが、この程度のナジールなど、君ならいつでも支配できるはずだ。それはそれとして。俺は努力によりナジール能力を強化したが、もともと戦闘要員じゃない。俺の戦闘能力などお粗末なものに過ぎないから殺し屋からは逃げ回る。当然の理屈だろ?」
納得。もっとも、堂々とした態度で言うべき内容かどうかは疑問だが。
「さて、何よりも今検討すべきはここからの脱出方法だ。ショウキには応急処置しか施していないから、早めに医者に診せないと心配だし」
「ああ、そういえば俺、自分が怪我した時にほぼ無自覚に治癒能力が発動するんだが、それを他者に向けて行うこともできるかも。やってみよう」
横たわるショウキに近づいた俺が手をかざすと、その手をショウキの左手が掴んだ。
「よせ、ユーリ。お前は可能な限り力を温存するんだ。たとえ怪我が回復したところで、今の僕では戦力にならない。それより、お前ひとりだけでもここから脱出する方法を考えないと」
ユッチ先輩が言葉を挟む。
「弾丸が体内に残っていたら取り出さなきゃならないが、幸い二箇所とも擦過射創だ。お前さんもカッキーを通じてユーリのことを監視してたんならある程度知ってるだろ。ユーリが治してくれるって言ってんだ、彼に任せとけ」
「カ……カッキー?」
柿崎がユッチ先輩の方を向き、自分を指差して小声で呟くが、誰も相手にしない。
「おい、ユッチ先輩。俺の能力で治療できることに気づいてたんなら、何もショウキのシャツを破ることはなかったんじゃねえのか」
「原田に操られていたとはいえ、ショウキはお前を裏切り、蹴っ飛ばした相手だぞ。俺なら放っとくね。そしてショウキの言う通り、原田とやり合うために力を温存するさ」
「ショウキがいなきゃ、俺はスパイの存在にも気づかずじまいだった。ここで少しばかりの力を出し惜しみして、ショウキに何かあったんじゃ寝覚めが悪いぜ」
ショウキは焦れたように言い募る。
「よく考えろ。擦過射創なら今夜十二時まで放っておいたくらいでどうなるものでもない。リカと数万人の命を救うためには猫の手でも借りたいくらいだろうが。僕なんかに構っている場合か」
「お前の怪我を治す。そうすりゃ、猫の手なんかよりずっと頼りになる戦力が手に入ると思うんだがな」
俺は改めてショウキの傷口の上に手をかざす。最初は右腕。次に左脚。
ショウキの傷口を見つめていたユッチ先輩が歓声を上げた。
「おお、すごい。火傷の痕までは消えないが、傷口が少しずつ塞がっていくぞ」
「……こいつは驚いたな。痛みが消えたぞ。ありがとう、ユーリ。もう大丈夫だ」
ショウキは右腕と左脚を動かしてみせ、俺に右手を差し出した。
それまで黙って経緯を見守っていたユウジが咳払いしたので、全員の視線がそちらに集まった。
「ごめん、みんな。ちょっと聞いてくれ。原田がどんな手を使って俺たちを閉じこめたのかわからないが、脱出方法の見当がつく人はいないか。沢沼先輩、いかがですか」
「おっと。ここにいるみんなは仲間だぜ。俺のことはユッチと呼んでくれ。……脱出方法か。それがなあ。いつもだと、ナジールと現実世界を行き来するのに特に苦労した覚えがないんだ。誰か、もと居た廊下でも、それ以外の現実世界でもいいが、“視える”奴はいないか」
全員が否定する中、ショウキが呟く。
「ナジール・プリズン……」
「なんだ? 何か心当たりがあるのか」
勢い込んで聞くユッチ先輩に、暗い目をしたショウキが答える。
「他の四校に潜入していたエージェントと、もしかしたらその相棒の幻妖たちが、まとめて原田の操り人形になっている可能性が否定できない」
「んげ。そいつらのナジール能力を同調させ、俺のナジールを取り囲んでいるっていうのか。なるほど、それなら現実世界を“視る”ことができない理由の説明がつく……、厄介だな」
「出られないんですか」
さつきの質問に対し、ユッチ先輩は渋い表情で首を縦に振る。
あごに手を当て思案顔になったさつきが、今度は俺の方を向いて言ってきた。
「ね、ユーリってさ。殺し屋との戦いの時、武器を出したんでしょ。それを利用すれば、ここから外に出ることもできるんじゃないの」
「うーん。ひとりで祈りを捧げる場合、両手を広げた大きさの魔法陣が限界だって聞いてるんだ。ガラって幻妖がそう言ってた。で、その大きさの魔法陣によって武器がひとつ呼び出せる。ああ、リューフィンって幻妖も呼び出せたけどな」
自分でそう言ってから、はっとしてさつきと顔を見合わせた。
「サンキュー、さつき! 今のはでっかいヒントだぜ」
本当、さつきたちには助けられてばかりだ。つい、俺はさつきに抱きついてしまった。目でユウジに謝罪すると、彼はサムアップで応えてくれた。
今、このナジールの中には六名のナジアがいる。もっともそのうち三名は半ナジアだが、この際細かいことは気にしない。
「幸い、ユッチ先輩のナジールは十分すぎる広さがある。俺たちが魔法陣の位置関係に陣取り、ハルダイン神に祈れば、あるいは」
全員がそれぞれに視線を交わし、俺に視線を集める。そして、同時にうなずいた。
「試してみる価値は」
ユッチ先輩の言葉を、さつきが引き継ぐ。
「あるわね」
何の根拠もない。だが、ここに居合わす者全員、ただ指を銜えて待つつもりなど毛頭ない。
大規模攻性魔法の発動。それがハルダイン神の意思に反するものである限り、ハルダイン神は俺に力を貸してくれるはず。
見てろよ。大人しく閉じこめられてなんかやらねえぜ、原田。




