副官
「かえせよ」
俺はのろのろと原田の正面へと歩いていく。
「リカを……かえせっ」
激情に任せて原田の胸ぐらを掴んだが、奴は涼しい顔で眼鏡をかけ直した後、俺の拳の上にそっと手を乗せて言った。
「なに。簡単な選択肢さ、ユーリ。魔法陣の起動にはキーが必要だ。三十名のウイルスナジアをハルダイン神への生贄に捧げるか、君が起動キーの役割を務めるかの二択だ」
「……んだとてめぇ」
「K・Tと戦わせて悪かった。だが君は見事に彼を退け、ハルダインの戦士たることを証明してくれた。その君がキーを務めてさえくれれば、三十名の生贄は不要だ。もちろん君自身も命を落とす心配はない」
「このやろうっ」
俺は胸ぐらを掴む拳に、さらに力を込めた。
だが原田は全く表情を変えず、俺の拳に乗せた手に力を込めることさえせずに手首を軽くひねった。
「――――っ!」
気づいたら天井を見ていた。
次いで、呼吸を忘れていた肺が空気を貪る。
咳き込んで、背中全体が痺れていることに気づく。
身体を起こし、原田の名を叫ぼうとしたができなかった。替わりに呻き声が漏れる。
「ぐ……うっ」
背中の痺れは、徐々に痛覚と入れ替わっていく。
――投げ飛ばされた。
ようやく、理解した。いつの間に。
「合気道だよ。若干アレンジしているけどね」
ふたつの足音が俺に駆け寄ってきた。
ひとりめは、俺の背をさすってくれている。さつきだ。
ふたりめは、俺と原田の間に割って入った。ユウジだ。
「原田、何のつもりだ。なんとか神とか生贄とかって、お前わけのわからない新興宗教にでも入信したのかよ。リカちゃんをどうしようって言うんだ」
「ふん。鈴木。それに兵藤も」
原田は正面のユウジを見据えた後、俺の背後のさつきにも目を遣ると、蔑むというよりは哀れむような口調でゆっくりと話し出した。
「目の前の空間から人が現れる。そんな超自然現象を目撃しても腰を抜かさない君たちには感服するよ。でも、他の人間たちは君たちとは違う。この素晴らしい現実世界を現実世界の人間たちに任せておくなど愚の骨頂。無駄でもったいなくて仕方がない」
「お……まえ」
さつきのお陰でなんとか声を出せるようになった。立ち上がって言葉を続ける。
「幻夢側の人間なのか。幻妖じゃないくせに、何故こっち側にいられる……」
俺の質問を聞いた瞬間、原田の目が吊り上がり、口の両端がV字型に持ち上がって顔面に濃い陰影が浮かび上がった。その表情のまま告げる。
「現実側の人間さ。原田くんは、ね」
「なっ」
「家族を人質にしたら快く受け入れてくれたよ、この私を。たまたま、原田くんという存在が宿主、というか容れ物として都合が良かったものでね」
言葉の意味を考え、俺は全身の血が煮えたぎった。
「乗っ取ったのか、原田の身体を……! てめえ何者だ。一体、いつから入れ替わってやがるんだっ」
そんな俺を見下すように、原田はくっくっくっと喉を鳴らして笑う。
「何者、ねえ。ま、幻夢側のそれなりの立場の人間ってことで。そして君は一度も、そう、ただの一度も本物の原田くんと会ったことはない。そしてこれからも、ね」
「…………」
噛み締めた奥歯がぎり、と音を立てる。唇のあたりから鉄の味が広がった。
俺の知っている原田は、最初からずっと目の前のこいつだったというのか。
絶句する俺を楽しげに眺め、原田は追い打ちをかけるように最低の言葉を吐いた。
「原田くんのご家族はさぞ寂しかろうと思ってね。一足先に、ハルダイン神の御許に送っておいたよ」
原田に飛びかかろうとした。だが、できない。
さつきが背後から俺にしがみついてきたのだ。
「ユーリ、だめ! 何がなんだか全くわけわかんないけど、リカちゃんが人質。それだけはわかる」
「賢いねえ、兵藤。ますます気に入ったよ。よし、鈴木も兵藤も“選民”に加えてあげよう。さあどうだい、ユーリ。もう《監視機構》日本支部は終わったも同然だし、無理して義理立てることもあるまい。君が協力すれば、鈴木も兵藤もリカくんも、みんな一緒にいられるよ。そうそう、ついでにウイルスナジアの三十人もね。そして争いも汚染もない、理想の世界が我々のものになるのだ」
――ふざけるなっ!
「てめえこの野郎。どっちにしても何万もの人命を犠牲にするつもりなんじゃねえかっ」
原田はわざとらしく溜息を吐き、胸を反らすと噛んで含めるような口調で話し出した。
「これでもできる限り合理的な、最小限の犠牲で済む手段を選んだつもりだよ。日本の地方都市を使って“デモンストレーション”することで、全世界に散らばる《監視機構》に抵抗が無駄であることを思い知らせることができる。今回、一体どれだけの現実側スパイが私に協力してくれたか知ってるかね?」
「黙れ。知りたくもねえ」
「やれやれ。十二時まではまだ時間があるし、私はそれなりに気が長い。それまで猶予をくれてやるから頭を冷やして考えなさい。私もリカくんもここの屋上にいるから」
言い終えるが早いか耳鳴りがした。
ナジール、だと。
「逃がすかっ」
俺はさつきをふりほどき、歪んだ空間の中に姿を消しつつある原田に向かって手を伸ばした。だが――
「ぐあっ」
俺は蹴り飛ばされ、床に転がった。腹を押さえ、咳き込む。
「ふ。ハルダインの戦士、か。……さすがに頑丈だな、ユーリ」
「何をする、ショウキ!」
何故こいつが俺を。味方じゃねえのか。
ふと見ると、ショウキの脇に座っていたはずの柿崎が再び仰向けに倒れている。まさか、ショウキにやられたのか。俺の視線を追ったショウキが吐き捨てるように言う。
「柿崎ごときを気にしている場合か。こいつは大した障害にはならないからな、殺してはいない」
その言葉を裏付けるかのように、柿崎はごそごそと動き出した。
「そりゃまあ確かに、この先この作戦を繰り返すにしても毎度のように三十名ものウイルスナジアを集めるのは大変だ。あの方は君に期待しているようだが、僕にはとてもじゃないが君があの方に協力するとは思えない。たとえ恋人を人質にとったところでね」
そう言うと、ショウキは懐から拳銃を取り出した。
「…………。何挺持ってやがんだ、てめえはよ」
「あの方の副官としては、あの方が犯しかねない過ちを事前に取り除いておくのも仕事のうちだ。悪いが、君には今ここで死んでもらおう」
そう言いながら、ショウキは拳銃を構えた。
まずい、まずいぞ。
すぐそばにさつきとユウジがいる。どうすれば巻き込まずにすむか。
加速能力が自発的にコントロールできない己を呪う。
ええい、一か八か、奴が引き金を引く前に飛び掛かってやる。
俺が両脚に力を込めた瞬間、ショウキが冷徹に言い放った――くそったれ。
「させないよ」
その言葉と共に、耳を聾する破裂音が轟いた。




