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最悪

 鞄を手に立ち上がった俺にすぐ続き、さつきも立ち上がる。

「さつき、手際よすぎ! ちょっと待って」

 ユウジがあわてたように言い、筆記用具を片付け始めた時、小さな異変が起きた。ユウジの机上にあったノートや消しゴムが床に落ちる。校舎が振動しているのだ。

「地震?」

 窓ガラスがビリビリと音を立てて揺れ、わずかに遅れて重い衝撃音が響き始めた。音は上から降ってくる。

 ドン、ドン、ドドドド、ドン――と、小刻みかつ不規則なインターバルを置いて。

 さつきは天井を指差し、嫌味のない笑顔をユウジに向けて言った。

「朝、大沢先生が言ってたでしょ。……なあんて、あたしも忘れてたけどね。大沢先生が居たこと自体」

 どうやら“工事”とやらが始まったようだ。きっと過激派スパイどもによる魔法陣起動の最終段階に関わる作業に違いない。見に行きたいのはやまやまだが、このタイミングで俺が単身飛び込んだところで何の解決にもなるまい。

「思った以上にやかましいな。早いとこ退散しよう」

 俺はふたりに向けてそう言うと教室を出た。今この二年二組の教室内には田嶋真由美も柿崎も、そして柿崎に睨まれていた原田もいない。そんな場所に長居は無用だ。

 一年四組の教室を目指して廊下を歩きつつ窓外を見下ろすと、既に多くの生徒たちが校門から出て行く様子を確認できた。

「校庭で活動する運動部にとっては影響ないけど、校舎内で活動する文化部にとってはこの音と振動、結構邪魔だよね」

「そうね。放送部や演劇部、それに軽音部や映画制作部がよくやってる録音作業なんかだともろに影響が出るし」

 俺はユウジたちの会話を適当に聞き流し、腰を落として身構えた。

「どうしたの、ユーリ」

 さつきの問いかけを黙殺し、上を振り仰ぐ。


 ――キイイィィン!

 すっかりお馴染みの耳鳴りを感じた瞬間、俺は叫びつつ勢いよく振り向いた。

「下がれっ、さつき、ユウジ!」

 俺はふたりの胴体にタックルし、真後ろに押し倒す。

 直後、俺たちのいた場所に等身大の物体が落ち、どさりと音を立てて転がった。大の字に伸びている。人間だ。

 くそ、これは予想していなかったぞ。まだ一般生徒が校内に残っているうちから動きがあるとは。

「いったーい」

「な、なんなんだユーリ、突然――」

 意外に運動神経の良いさつきとユウジは、うまく受け身をとったようで後頭部を強打せずに済んだ。それよりも。

「お前、柿崎!? 怪我してんのか」

 廊下で大の字に伸びているのは間違いなく柿崎だ。両脚をこちらに向けて仰向けに倒れている。こいつ今、ナジールから飛び出してきた……。さつきとユウジは、奴が虚空から現れる瞬間を目撃したのだろうか。

 俺は柿崎に呼びかけつつも慎重に、臨戦態勢を崩すことなく近づいた。

「ぐ……、くそ」

 小声で呟いた柿崎の目が開く。軽く頭を振って状態を起こすと、近づいた俺と目が合った。いや、まだ完全に目の焦点が合っているとは言えない状態だ。口の端から一筋の血が零れているが、それ自体はどうやら唇を少し切った程度の軽傷だ。

「柿崎、お前何者だ。誰とやりあったんだ」

「ちょっとユーリ。いくら柿崎くんの目つきが犯罪者っぽいからって、どうしてそんな詰問口調なのよ。まずは怪我の手当してあげなきゃ」

 さつきが常識に則って考えれば至極真っ当な意見を述べるが、俺としてはこの際構ってなどいられない。柿崎がナジールから飛び出てきた事実の方が重いのだ。

「言え。相手は誰――」


 ――キイイィィン!

 ふたつめの耳鳴りを感じ、俺は柿崎への尋問を打ち切った。柿崎のすぐ後ろの空間がぐにゃりと歪む。やがて人型の影が像を結ぶより早く、声が聞こえてくる。

「待て、イギリス人。その日本人は半ナジア。自発的にナジールを作り出す能力はないが、我々の味方だ。もっとも、共闘するも敵対するもお前次第だがな」

「その声――お前、中国人ナジアかっ」

 俺の正面の空間から、はたして例の中国人ナジアが現れた。

「僕はショウキ。本名でなくて悪いがそう呼んでくれ。ああ、いつかは銃を向けて――あまつさえ威嚇射撃までして悪かった」

 柿崎が味方だと。混乱するぜ、まったく。

 後ろのふたりが静かだ。おそらくこの展開について来られないのだろう。ナジールのことも衝撃的だろうが、そんなことよりここを中心とした広大な地域に暮らす人々の命が危機に晒されているのだ。この現状を説明するのにやぶさかでないが、生憎今はそんな暇はない。悪いがしばらくそのまま我慢しててくれ。

「俺はユーリだ。ショウキ、お前幻妖に連れ去られた時大怪我してたじゃねえか。大丈夫なのか」

「ああ、あいつはアカスト――僕の相棒。残念ながら今は敵側の操り人形だ。正気を奪われる最後の瞬間に僕を……助けてくれた」

 正気は最後の一語を絞り出す直前、かすかに唇を噛んだ。

 操り人形だと。もしそれが俺の立場なら。リューフィンがそうなってしまったら。

「くそ、過激派スパイどもめ」

「ゆっくり話している暇はない、ユーリ。緊急事態だ。君の恋人が――」

 なんだ、何を言っている。

「リカが、リカがどうかしたのかっ」

 ショウキが答えた瞬間に屋上での衝撃音が言葉をかき消す。

「…………れた」

 改めて聞き直そうとして……、しかしそれは再び中断された。


 ――キイイィィン!

 みっつめの耳鳴り、だと。予想外の連続だ。

「安心したまえ。これまでの状況を分析した上での単なる保険だよ。絶対に危害を加えないさ。……もちろん、それは君次第ということになるがね、ユーリ」

 この声、まさか。

「お前はっ」

 一体なんだって言うんだ。まるで敵の大将のような現れ方をしやがって。お前もナジアだって言うのかよ。

「“イベント”まではまだ時間があるからね。なるべく、邪魔をしないでいただきたいものだ」

「おい、これは何の冗談だ。お前が敵だなんて嘘だろ。悪い冗談はやめろ」

「そこのショウキくんも言ってたはずだよ。敵に回るも味方につくも、全ては君次第なのだよ、ユーリ」

 最悪だぜ。認めねえぞ、お前が敵だなんて。頼むから嘘だと言ってくれ、原田っ!


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