重圧
「ユーリ、それ……熱くないの?」
リカに言われて、初めて気がついた。
K・Tからの再戦予告状は俺の掌の中でまだ燻っている。だが全く熱くない。手を開くと、黒い煤が粉々に飛び散った。
ガラが俺とリカの間に割って入り、いつもの訓練の口調で指示を出した。
「ユーリ。あちらを向いて、剣を構える姿勢をとれ」
言われるままにした刹那――
「おおっ」
先ほど消したはずの炎の剣が出現した。
「よかったなユーリ。実戦で使えるぞ」
「便利じゃねえか、ハルダイン教。俺、出家しようかな」
「いや、現実世界側の代表的な宗教のひとつ、キリスト教のような洗礼はハルダインにもあるが、出家という概念はない」
「真面目に答えてんじゃねえよ、ガラ。気分だ、気分」
「ふふふっ」
おお、リカが笑った。ただそれだけのことが、なんだか大切なことのような気がする。
「約束よ。絶対に、無理しないでね」
俺は親指を立てて見せた。残念ながら、今のは自分でもあまり様になっていなかったと思う。それも仕方あるまい。この笑顔の前ではダイヤの輝きさえ色褪せて見えることだろう。そして俺は、リカの笑顔を守るためならなんでも――そう、なんだってできる。
聞こえてきた咳払いのお蔭で、ガラがそこにいることを思い出した。ガラは遠慮がちに俺に目配せをすると、リカに向かって声をかけた。
「リカ、今見た通り、ユーリの手にはハルダインの武器が授けられた。おそらく、六校をつなぐ巨大な魔法陣がある限り、さっきまでユーリがやっていた祈りの手続きを踏むことなくいつでも炎の剣を呼び出せるだろう」
ガラはそこで言葉を切った。リカは黙ったままうなずき、続く言葉を待った。
「それはつまり、ユーリがハルダイン神によって選ばれたということだ。その彼が、殺し屋ごときに負けはしないだろう。いや、負けるわけがない」
初めてガラに本当の意味で褒められた気がする。しかし。
「嬉しいね、ガラ。でもプレッシャーきついぜ」
「自覚しろ、未熟者」
ありゃ。俺の方へ振り向いたガラ、いつもの口調に戻っちまった。
「ユーリが選ばれた意味――それすなわち、巨大攻性魔法の発動はハルダイン神の本意ではないというということだ。私はそう信じている」
「ああ、もちろん俺もだ」
「しかし、すでに巨大魔法陣は完成したと見ていいだろう。K・Tの予告状を信じるなら、スパイどもは明日“イベント”を実行するという。他の必要な条件も揃っているのだろう」
「ウイルスナジアだな」
「どういうこと?」
事態を知らないリカに説明してやると、彼女は少なからぬ衝撃を受けた様子だった。
「そんな……。生贄だなんて!」
リストに連なる名前のうち、何人の生徒がウイルスナジアなのだろう。二十人か、三十人か……。哀れな彼らは、魔法陣の起動にあたり、この地域に暮らす何万人かの人間たちよりほんの少し早く生命を奪われることになる。俺が間に合わなければの話だが。
「お前がキーマンだ、ユーリ」
その言葉にはっとして、俺はガラをまじまじと見た。
前に、誰かに似たようなことを言われた気がしたのだ。だが、微妙なひっかかりがあって、記憶の隅から引きずり出すのを躊躇してしまった。
「まずはK・Tを退け、巨大魔法の発動を阻止するのだ。私に出来ることはとても少なくて心苦しいが、できる範囲のことは全てやる。なるべくサポートするから……」
リカはハンカチを取り出し、ガラに寄り添うとそれをあてがった。
「ガラさん、大丈夫?」
「すまない。……ああいや、泣いてないよ、リカ。しかし、私の半分しか生きていない奴に、何もかも押し付けなければならないなんて……」
「勘違いすんなよ」
俺の言葉にふたりの女性は同時に動きを止め、そろって眉をひそめた。
「俺たちゃチームだ。ガラも……、リカもな。チームにゃ前衛と後衛がいる。今回は俺がたまたま前衛を務めるだけのこと。好きでやろうってんだ、任せとけ!」
「ふ。言うね、ユーリ。ああ、任せたぞ」
にやりと笑うガラに「お、おう」と答えつつ、ちょっとだけガラのペースにのせられたような気がしてしまう。
やっぱりプレッシャーだぜ。
* * * * * * * * * *
翌朝、俺は学校を休むことにした。夜中の決闘に備えて爆睡を決め込むつもりだ。
自分も休むというリカを、俺は無理矢理玄関へと押し遣った。
「リカと約束した以上、無理なんかしねえよ。今夜とその次に備えて、寝られるときに寝ておくまでだ。だからリカも普段通りにしててくれ。日本支部は機能していない。だけど俺らには影響なし。これってどういう意味だと思う?」
「…………」
「スパイどもにとっちゃ、俺達ごとき眼中にないって証拠だ。上等じゃねえか、目に物見せてやるぜ」
もっとも、殺し屋のターゲットにされた時点で、俺はスパイどもにとっての“邪魔者”の勘定から外されているのだろうけれども。
今はそんなことどうだっていい。俺はとにかくリカの笑顔を見たい。
「じゃ、今夜はごちそうよ。……何か食べたいものある?」
リカは俺の心を読んだかのように素敵な笑顔を見せてくれた。望んだ以上の眩しさに、俺の口は勝手に動いていた。
「……君だ、リカ」
笑顔を凍りつかせ、耳まで真っ赤に染まったリカは、視線を逸らすこともせずに数秒そのまま立ちつくし……、やがてぼそりと言った。
「ユーリの、ばか」
心臓がはねた。頬が熱い。
こんなこと初めてだ。恋は初めてじゃないし、正直な気持ちを言葉にしただけだというのに。
俺は今どんな顔をしているのだろう。何か言わなきゃ。
でもこういう時に限って気の利いた台詞が浮かばない。
「ほら、リカ。学校に遅刻するぞ」
「たまにはいいもん」
言うが早いか飛びついてきたリカの細い身体を抱きとめると、俺の耳元で淡い息遣いと今にも消えそうな囁きが聞こえた。
「大好き。……あい――」
俺は自分の唇でリカの言葉を遮った。
――全ての重圧が氷解していく。
俺もさ、リカ。
俺はリカの腰を強く抱いた後、彼女の両肩に手を置いてそっと顔を離した。
恥ずかしげに斜め下に視線を逸らすリカに構わずその眼を真正面から見つめ……、ゆっくりと両手を伸ばした。
一瞬だけ上目遣いに視線を合わせたリカが、小さくこくんとうなずく。そうだ、同じ気持ち。
この続きは、全部終わってからだ。




