鍛練
傷口が浅すぎる。普通にシャワーを浴びても平気だった。
入浴後、新しい包帯を巻き直しつつ右腿の傷口をチェックした。縫合さえしていないというのに、意外にもほぼ塞がっている。右腿以外の斬り傷も無数にあったはずだ。鏡を頼りに入念にチェックしたところ、確かにいくつか痕跡が残ってはいた。しかし、大半はきれいに消えている。
K・Tの奴、ご丁寧に手紙を寄越しやがった。昨日のあれは、悪夢なんかじゃない。だがそれなら、あの激痛は何だったのだろう。俺は本当に剣で斬られたのか。
そんなことより、あいつは再戦を予告してきたのだ。とりあえず、明日以降のことを考えなくては。
「なあ、リカ。明日から登校するけど、もう俺たち時間差登校する必要ないよな。一緒の時間に出ようぜ」
「うん! またユーリが轢き逃げに遭ったら大変だしね」
おいおい。だからそれは違うって。しかし反論する言葉もなく、俺は引きつった笑みを返した。
リカは誘拐されたわけではなかった。だが、一緒にいる時間が少ないと、それだけ不安が増す。ただでさえ、学校では教室が離れ離れなのだ。
俺が殺し屋に狙われていることを告げたら、リカはどうするだろう。言ったところで有効な対策が講じられるわけではない。余計な心配が増すだけのことだ。
『公開するべきか、秘匿するべきか。僕なら後者を選ぶがね。ここはひとつ、慎重に検討することを提案しておくよ』
何故だか、以前原田が言っていた言葉が記憶に甦る。もちろん、いくら変わり者の原田といえども現在の俺の状況を洞察した上で発した言葉では有り得ないのだが。
それはそれとして。
「言えない」
現時点における、俺の結論だ。
その夜、お馴染みの耳鳴りを感じた俺は、ベッドの上で横になったまま目を開いた。
ベッド脇の置き時計に手を伸ばし、上部のライトスイッチを押す。午前一時だ。
この耳鳴りに不快感を感じないのは、慣れてしまったせいだろうか。いや、違う。それだけじゃない。
「殺気がない。それが大きいな」
誰かが、ナジールの中から俺を呼んでいるのだ。そしてその誰かに、俺は心当たりがある。
一度目を閉じ、開く。
床も壁面もグレーの空間、ナジールだ。寝たままの姿勢だった俺は、身体を起こした。
「見事だな、ユーリ。ナジールを認識し、移動する能力に関しては、《監視機構》のナジアの中では間違いなくトップクラスだ」
昨日聞いたばかりの女の声。あの幻妖だ。
「どうでもいいよ、そんなこと。それより、昨日はありがとう。あんたのお陰で助かったぜ、ガラ。……あんた、ガラなんだろ」
俺は目の前にいる幻妖と正面から向き合った。今俺の目の前にいるのは、大木ではない。
高さと幅が約一メートルずつの細い身体をした、観葉植物のモンステラを思わせる全身緑色の生物。一見してリューフィンと同種とわかるその幻妖は、リューフィンよりもずっと精悍な雰囲気を身に纏っていた。
「そうか、リューの奴から私の名前を聞いていたんだね。ご明察だ」
昨日、大木の姿をしていた彼女はとても鋭い目つきをしていたが、今の彼女はいくぶん和らいだ目つきに理知的な光を宿している。
「リューみたいな役立たずが相棒で、あんたも苦労しただろう」
リューフィンの言によれば、ガラは強いとのことだ。だが、彼女の歯に衣着せぬ言い方には、俺はリューフィンの相棒として苦笑を返すしかなかった。
「ところで、リューフィンの奴、大木の姿をした幻妖は暴走した結果だと言っていたぞ」
「半分正解だ。中には私のように、自我を失うことなく拡張戦闘モードに変身できる個体もあるということさ」
拡張戦闘モード。リューフィンは、自我を保ったまま大木の姿に変身することはできないというわけか。
「昨日はユーリの位置をようやく捕捉したと思った途端、現実世界に移動したからな。手遅れだと思ったよ。しかし、戦闘に関してはど素人のお前が、K・T相手によくあれだけ粘ったものだ」
K・Tの奴、昨日はずっと狩りでも楽しんでいるかのような態度だった。
「あのいかれた殺し屋、油断してたんじゃないのか」
「そうだとしても、あれだけの出血にもかかわらず、お前はショック症状を起こさなかった。驚異的な精神力だ」
待てよ。出血と言えば。
「病院じゃ、輸血はおろか点滴さえしてもらってないぞ」
「必要なかったからな。応急手当として、私の体液を少し“輸血”している。それにお前は――」
なんだって? 話を遮ってでも聞き返したかったが、続きも気になる。俺は黙ってガラの言葉に聞き入った。
「K・Tほどではないが、微かに空間を歪め、攻撃によって受けるダメージを減らしているようだ。自覚がないように見受けるが、ね。それだけじゃない。さらに、自分自身の代謝機能を加速して自然治癒を早めているのさ」
「…………」
「その顔、心当たりがありそうだね」
図星だ。言われてみれば、幼い頃から大きな怪我をしても他人より治りが早かった。ただ、骨折するほどの大怪我は未経験なので、さほど特別なことだとは思っていなかった。
「ユーリ。お前は自分で思っている以上に、幻夢の過激派にとって脅威なのさ。今や、排除すべき存在として認識されている」
そういえば、イギリスで対戦したアンドロイドのケイティもそんなことを言っていたっけ。
「K・Tは多忙だ。ユーリ抹殺の依頼をいつ受けたのかは知らんが、いよいよ順番が回ってきたというわけさ。日本への滞在期間はさほど長期間というわけではあるまい。おそらく、間を開けずにまた襲ってくるぞ」
迷惑な話だ。降りかかる火の粉が勢いを増したというわけか。
「ガラ、お願いだ。俺を鍛えてくれ」
束の間、ガラは目を見開き、そして呆れたような声で答えた。
「驚いたね。“助けてくれ”ではなく“鍛えてくれ”ときたか」
「昨日、俺を助けてくれた連中による非常手段の中に“ジャミング”ってのがあった。あれを使うとナジールが強制的に解除されるんだ」
そして、幻夢の連中の方が現実世界よりも進んだ科学力を持っている。俺は言葉を続けた。
「K・Tにこちらの手の内を見せた以上、次に襲ってくる際には対抗手段なり、同種の装備なりを携えてくるだろう。奴のターゲットは俺なんだ。俺とガラが一緒にいるとき、奴がジャミングを使ったらどうなる。ウイルスの万延する現実世界に落とされるじゃねえか」
ガラは眼を細め、独り言のようにつぶやいた。
「リューの奴、いい相棒に巡り会ったもんだ」
再び俺を見据えるガラの眼は、昨日の“拡張戦闘モード”の時のそれだった。
「OK! お前に基礎体術と、ちょっとした“必殺技”を伝授してやる。だが、知っての通りK・Tは化け物だ。一対一で斃せる相手じゃない。戦法の基本は、奴に追撃を思い留まらせる程度の手傷を負わせて離脱すること。いいな」
「はい、師匠!」
* * * * * * * * * *
だるい。当たり前だ、思い切り睡眠不足なのだ。
「温いことを言うな、ユーリ。それもまだたった一晩の鍛錬で。お前は昨日、丸一日寝ていたんだぞ」
ガラの声が聞こえてきた気がして、俺は思わず首をすくめた。今は登校中、近くにはリカしかいない。
「どうかしたの、ユーリ」
「ん、なんでもない。ちょっと寝過ぎた、かも」
実際とは逆のことを言って誤魔化す俺の声には当然、力がない。
「もう一日休んだほうがよかったんじゃない?」
「いや、いくら轢き逃げに遭ったからって、大した怪我もしてないのに丸一日眠りこけてみんなに心配かけちまったからな。鍛え方が足りないんだ、休んでなんかいられない」
「うん」
まだ心配そうにこちらを覗き込むリカに、俺は笑顔を向けてやった。
「頭痛もないし、脳にも異常なし。要するに……、俺がドジでした、すみません」
立ち止まって頭を下げると、その頭を撫でられた。
「よろしい、以後気をつけなさい」
おっと、なんだかギャラリーの視線を集めてるぞ……。
「うふふ。でも怪我が軽くて本当によかった」
まあいいや、リカに笑顔が戻ったのだから。
「おはよう、ユーリ」
教室にはいつもの二人がいた。他の生徒はまだだ。
「おう、さつき、ユウジ。見舞い、ありがとな」
次第に生徒たちで教室が埋まっていく。個々に挨拶を交わす彼ら彼女らを見ていると、無口な奴にもそれなりの社交性がある。田嶋真由美や柿崎繁ほどの怪しい生徒は見当たらない。
今日もまた、田嶋真由美は欠席なのだろう。柿崎も、今日はまだ来ていない。
そんなことを思っていると、遅刻直前になってようやく柿崎が教室に入ってきた。彼の鷹のような鋭い視線は――
「?」
柿崎の奴、今日は俺には目もくれず、何故か原田を睨んだように思えた。
原田に視線を移すと、特に気付いた様子もなく一時間目の授業の用意をしている。
俺もそれに倣って授業の用意をしつつ、昨夜の鍛錬の合間にガラが言っていたことを思い出していた。
ガラは、俺にK・Tの脅威を伝えに来ただけではなかったのだ。




