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予告

 どこだ、ここは。

 ベッドの上か。

 声が聞こえる。複数の話し声。そうか、実家。

 フィリスよりも寝坊しちまった。夢を見ることもなく――覚えていないだけかもしれないが――、泥のように眠っていたようだ。

 母さんには悪いが、八月から日本に行くのでしばらくここに来られなくなるし、かわいい妹に会うのもここに来る目的のひとつなのだから、寝坊なんかしている場合じゃないぜ。だけど、何故こんなに身体がだるいんだろう。昨日のバイト、そんなにきつかったっけ。

 聞こえてくる話し声の中に、男性の声が混じる。そうか、ポールも起きてるのか。そうなると、この時間はもう朝とは言えないような相当遅い時間なのかも知れないな。

 そうだ、ポールにはきちんとお礼を言わなきゃ。俺の日本行きに難色を示す母さんを、ポールは説得してくれたんだ。彼にはまだ電話でしかお礼を言ってないからな。

 俺にとってポールは継父だが、彼と母さんが結婚したばかりの頃、俺は何のわだかまりもなく『ダッド』と呼んでいた。そんな俺に、ある日ポールはこう言った。

「ユーリ。君と私は、共にひとりの女性、ジリアンを愛する者同士だ。だから、私は君を一人前の男として扱いたい。そのためにも、私のことを名前で呼んでくれないか」

 それはフィリスが生まれる直前。俺がまだ六歳になるかならないかという頃のことだった。


「そういえば、そんなこともあったっけ」

 懐かしい記憶に頬を緩めつつ身体を起こした俺は、まだ眠気の残る眼をぼんやりと開けた。ベッド脇に誰かが立っている。きっとポールだ。

「ポール」

 ベッドから降りようとして――

「うっ」

 右腿に電流が走り、完全に目が覚めた。

「君は右足に怪我を負っている。無理に身体を起こしてはいけない」

 声を掛け、俺の身体を支えてくれたのは、ポールではない。眼鏡をかけた少年――原田だった。

 殺風景な、白い部屋。どうやら病室のようだな。

 ああ、そうだ。俺は殺し屋に襲われ、絶望的な状況に追い込まれたところを幻妖に救われたのだった。

 あの幻妖はどこだろう。少なくともここには気配も感じられない。あの時聞いた声だけを頼りに判断すれば、女ではないかと思ったのだが。大木の姿をしていたものの、ウィルスに冒されている様子ではなかったな。

 原田は眼鏡をかけ直し、気遣わしげな表情はそのまま、おどけた口調で言葉を続けた。

「大丈夫かい、ユーリ。それにしても、僕を渾名で呼ぶほど親しみを感じてもらえていたとは、光栄だよ。差し支えなければなぜポールなのか、その由来を教えてはもらえないだろ――おわっ」

「ほら原田。リカちゃんの邪魔しないの」

 言葉と同時に原田を突き飛ばしたのはさつきだ。原田にしては珍しく、多少オーバーアクション気味に手を広げながら俺のベッドの足元側へと退場していった。

 ふと見ると、さつきの後ろにもふたつの人影があった。ひとつはユウジだ。

 そして、ユウジに優しく背中を押されつつ、最後の人影がこちらに近付いてきた。俺にとっては最も見慣れた日本人の少女だ。どこか夢遊病者のような足取りで……。

「やあ、リカ。おはよ――」

「ユーリ!」

 俺が声をかけた途端、リカの瞳に光が灯った。

 ほとんど飛び込むようにして抱きついてきたリカを受け止めた俺は、勢いもそのままベッドに押し倒されそうになった。しかし、そうはならなかった。ひとつの手が、背中から俺を支えてくれたのだ。リカをエスコートしてきたユウジが、さりげなく俺の後ろに回り込んでいたのだ。

「心配したんだから……。心配……したんだ……」

 それ以上は言葉にならないようだ。細い肩を震わせ、声を殺して嗚咽するリカ。

 その艶やかな黒髪を見つめるうち、ただ撫でてやるだけではいられなくなった。俺は彼女の背に手を回し、黒髪に頬を埋めた。

「もう、離さない」

 自分が何かを呟いたという自覚はなかった。ただ、今俺の腕の中にあるものは、かけがえのないものだという実感だけを噛みしめていた。

 さつきが気を利かせ、男どもを連れて静かに病室を出て行くのが気配でわかった。

 あいつらも全員、かけがえのない友だちだ。何の混じり気もなく、俺はそう思った。


* * * * * * * * * *


 その後、落ち着きを取り戻したリカから話を聞いた。彼女の話は出だしから事実と違っていたが、俺が否定するところを万一さつきたちに立ち聞きされたら厄介だ。だから、俺は黙ってリカの話を聞いていた。

 どうやら俺は、ロフトのすぐそばで轢き逃げ事故に遭ったことになっているらしい。しかも、事故は俺がロフトに帰り着く直前に起きたという。

 しかし実際には、俺を轢き逃げした車など存在しないのだ。俺は事故の状況について、何も覚えていないことにするしかなかった。それにしても、さつきたちだけでなくリカまでもが、俺の怪我を交通事故によるものと信じて疑っていないというのはどういうことだ。

 リカには自分自身が誘拐されたという認識が全くなかった。それどころかエアコンの修理を見届けた後、近所の騒ぎを聞きつけて外出。倒れている俺を見つけ、既に誰かが呼んでくれていた救急車に同乗してこの病院に来たという。

 何者かによって記憶がすり替えられている。待てよ。リカと俺の認識が違うということは、俺の記憶がすり替えられたという可能性も否定できない。そう考えたら、俺は本当に殺し屋に襲われたのかどうかわからなくなってきた。

 腕組みをした俺の耳に、さつきの歯切れ良いアルトが飛び込んできた。

「ユーリは外傷だけだから何でも食べていいんだってさ。だから、差し入れだよー」

 さつきとユウジと原田、三人揃って病室に戻ってきた。

 そこでようやく気付いたのだが、今は朝ではなく夕方。俺は丸一日眠っていたようだ。

 はたして殺し屋は、俺を助けてくれた機械音声野郎どもは実在するのだろうか。そして、あの幻妖は。

 轢き逃げこそが事実で、俺はただ夢を見ていただけなのか。

 いや、俺にはそうは思えない。突き立てられた刃の痛み、戦闘というより焦燥と屈辱にまみれた逃避行としか言い様のない、一瞬が無限に引き延ばされたかのような苦しい時間。あの感覚は、リアルなどという生易しい言葉では表現しきれない。


 俺が目を覚ましたことにより、その日の内に入院祭の病院内で簡単な検査が行われ、俺は即日退院となった。

 あまりにも簡単すぎる検査内容に拍子抜けしてしまった。この病院、余程ベッドが足りないのだろうか。

 すっきりしない思いを抱えたまま、俺とリカはロフトへと戻った。

「ただいま」

 結城のじいさんもリューフィンもいないが、リカはそう言った。

 ポストから封筒がはみ出しているのに気付き、取り出してみると、宛名は日本語で『ユーリ・ウィルソン様』と、割と几帳面な肉筆で書かれていた。

「へえ、俺宛てとは珍しいな」

 言いながらドアノブにかけようとした手を、俺は一度引っ込めてしまった。

「どうしたの、ユーリ」

 部屋の中は俺の血で汚れているかも、なんて言えない。

「いや、なんでもない」

 開けて部屋に入った。綺麗に片付いていて、俺が襲われた痕跡など微塵もない。そもそも、昨日あれだけ血が噴き出したにしては俺の右腿の傷口は大したことがなく、包帯を巻いただけで普通に歩けているではないか。こうなると、轢き逃げこそが本当で、そのせいで悪夢を見たのではないかと思えてきた。

 手に持っていた封筒を開け、便箋を取り出した。しばらく目を通した俺は――、くしゃくしゃに丸めてごみ箱に捨てた。

「なになに、ユーリ。何が書いてあったの」

「なんでもねえ。イタズラだ。“近いうちに、またやろうぜ”としか書いてないし」

 嘘ではないが、とりあえずリカには黙っておいた。

 差出人のイニシャル、“K・T”のことを。


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