劣勢
ほとんど飛び跳ねるようにして立ち上がった俺の肩口に、銀色に輝く刀身が振り下ろされる。
――左右への回避では手傷を負わされる。
そう直感し、俺は後ろに飛んだ。
「ほっほー、見事なバック転だ。まだまだ体力があるねえ、少年」
俺の加速能力は、いつ発動するのか自分でもわからない。不確実な能力に頼らず、避けまくって勝機を掴む。それ以外の選択肢は、ない。
「うっ」
追撃の切っ先が銀色の軌跡を描く。フェンシングに似たその動作は、日本の剣術においては「突き」と呼ばれ、多くの場合相手の喉元を狙う必殺の技だ。
左脇腹あたりの服を引っ張られるような感触に肝を潰したのも一瞬、さらなる追撃を予測して、俺はがむしゃらに飛び込み前転をした。
起きあがる前に、男のふくらはぎを蹴り飛ばす。
「おっ」
意外にも男はバランスを崩し、その隙に俺は少し距離をとった。
こいつはもしかして。
垣間見えた光明を分析する前に、俺は自分の左脇腹をチェックした。
大丈夫、服を浅く斬られただけ――
「――っ!?」
朱に染まるシャツが目に飛び込み、俺は愕然とした。
「驚いたか、少年。俺の剣はそれなりの業物だぜ」
アドレナリンのせいか、痛みを感じない。
足を止めて殺し屋と睨み合った瞬間、
「ぐ……っ」
襲ってきた激痛に反撃の気力が萎えそうになる。
――こんな所で。こんな奴に。
あきらめてたまるか。
「いーいねえ、その必死な表情。お前さんはここ最近の獲物の中でも上位ランクだぜ。だがまあ、それだけ油断禁物ってことだな。あんまり遊んでいると逆転されかねん。名残惜しいが、そろそろ死んでくれ」
ふざけんな。
殺し屋の構えが変わった。
頭上から腰、時には地面すれすれに剣を振り回す。
この剣術は……。
「中国拳法かよ」
「ほう。わかるのか。まあ、俺のは見よう見まねだけどな」
このやろう。何が『油断禁物』だ。なめやがって。
俺の怪我は失血を心配するほどの深傷ではないが、それでも斬り傷をつけられたことや、必要以上におどけた態度を見せつけられたことにより、頭に血が上ってきた。
「おりゃあああ!」
不意打ちのつもりで突進したが、冷静さを失った俺の動きなど、殺し屋にはお見通しだったようだ。
二度、三度と軽くいなされ、すれ違うたびにひとつ、ふたつと斬り傷が増えていった。
「ふむ。遊んでいるつもりはないんだがな」
手に持つ剣と俺の傷口とを見比べた殺し屋は、そんな独り言をつぶやくと、頬に皺が寄るくらいに口を開けて笑った。
「最高だぜ、兄ちゃん。結構やるもんだねえ」
俺は突進しようとしていた足を止めた。まずい、完全に奴の術中に嵌っている。がむしゃらな突進は彼我の優劣を絶望的に広げる結果にしかつながらない。
ひとつひとつの斬り傷は小さくても、痛みと失血は確実に消耗を早めるのだ。
「おや。息があがってきたのかな。じゃ、こっちからも行かせてもらうぜ」
殺し屋が振り回す剣が迫ってくる。
静から動へと変化する日本の剣術も脅威だが、動から動へと立て続けに襲ってくる中国拳法まがいの剣術も――とくに体力を奪われ始めている今の俺には――大きな脅威だ。
そうだ、足を。奴のふくらはぎを狙えば。
この瞬間、俺は致命的なミスを犯した。下げた視線のせいで、殺し屋に意図を見抜かれていたのだ。
「ぐあっ」
――しまった!
噴き出す鮮血、火がついたような激痛。
右腿をやられた。
俺は無様に左足一本で飛びながら後退った。
「自慢していいぜ、兄ちゃん。最初のうちは見くびってたが、お前さんは俺を本気にさせたんだ」
だからどうだってんだ。ちくしょう、このままやられてたまるか。
意志に反し、左足一本で支えていた俺の身体はバランスを失い、仰向けに転んでしまった。
痛みより恐怖が勝り、見開いた俺の視界を銀色に光る刀身が埋めつくす。
くそ、この右足が動けば……。
傷口を押さえようとした俺の手が、ポケットの中の異物に触れる。
――なんだ、これ。
なんでもいい、ぶつけてやれ。
ポケットから取り出した異物は、エアコンのリモコンだった。
殺し屋に投げつけようとして握りしめた指が、いずれかのボタンに触れた。
「ジャミング」
リモコンから、機械音声が聞こえた。
――キイイィィン!
「な、なんだ」
俺と殺し屋は同時に何か叫んだようだが、耳鳴りのせいでほとんど聞こえない。
次の瞬間、視界がぶれ始めた。
仰向けに倒れていた俺は、回転するプロペラを視界に入れた。
ロフトだ。慌てて起きあがろうとしたが、できなかった。
「ひとまず、助かったのか……。いてっ!」
やばい、右足の出血が止まらない。
怪我の理由は後で考えるとして、とにかく救急車を呼ぼう。幸い、この位置からなら電話機まですぐだ。少し這っていけば……。
「はい、残念でしたー」
視界に入れた電話機の傍ら、うずくまっていた影が立ち上がる。
さっきまで嫌と言うほど聞かされた声の主に、俺はうんざりと応じた。
「しつこいぞ、てめえ」
「そういう商売なのさ」
言いながら、殺し屋は電話機本体のポートからコードを抜いた。
「少し予定が狂ったが、これで仕事は完遂――おおっと!」
俺はさらなる奇蹟を期待して、手に持つエアコンのリモコンを操作しようとしたが、殺し屋に手首を蹴り飛ばされてしまった。
床を滑るように転がっていくリモコンは、壁にぶつかってようやく止まった。もう、手を伸ばしても届かない。
あのリモコン、機械音声野郎の仲間が用意してくれていた、せめてもの非常手段だったんだ。……ってことは、電気屋のバイト君も仲間ってことか。迫り来る殺し屋に怯えながら準備してくれてたんだな、あのバイト君。
ぎりぎりで殺し屋の襲来に気付き、現状でできる最大限の助力をしてくれた。どうやら、信用してもよさそうだ。だが、この絶望的な状況は……。
「じゃ、あばよ」
刀身を銀色に輝かせ、殺し屋は剣を振りかぶった。




