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後悔

「おっと。また驚かせたようだね」

 俺の肩に乗せた手だけでなく、両方の手を耳の高さに掲げて苦笑を浮かべる男と目が合った。

「原田。またお前かよ」

「やあ。最大限の親しみを込めた挨拶だと受け取っておくよ」

 違う、こいつじゃない……。こんな近くから発せられた気配なんかじゃない。

 殺気の主は、もっと遠くにいる。

「あれは、確か――柿崎?」

 とくに隠れているわけではなさそうだ。三十メートル近く離れた交差点に立ち、それだけ離れていても長身であることが見て取れる男は、間違いなく同じクラスの柿崎だ。教室では一度だけ目が合ったことがある、茶髪パーマの寡黙な男。あの時に見た、鷹のように鋭い目つきを思い出したが、この距離ではこちらを睨んでいるのかどうか今ひとつわからない。

 すぐに踵を返し、立ち去っていく柿崎の背中からは、すでに殺気と呼ぶべき気配が消え失せていた。というより、俺が振り向いた瞬間には、すでに殺気が感じられなくなっていたのだ。もっとも、殺気の主が柿崎であろうとなかろうと、奴の行動は充分に怪しい。奴も、ウイルスナジアリストに名を連ねる生徒のひとりなのだ。

 待てよ。柿崎も気になるが、それよりも。

 ――原田の気配が全く感じられなかったぞ。

 俺は疑惑の色を視線に込めて、原田を突き刺すように睨んだ。しかし、原田は全く意に介さず、涼しげな様子で話しかけてきた。

「ふむ、柿崎くんか。彼ももう少しクラスに打ち解けてくれれば良いのだがな。しかし、女子生徒の取り巻きが落ち着いたかと思ったら、今度は柿崎くん。彼の自宅も学校から徒歩圏内だが……、たしか、ここからだと学校を挟んで反対側のはずだぞ。男女問わず人気があるのだな、ユーリ」

「やめてくれ、嬉しくねえよ。……ってか、俺に用があるとは限らねえし。たとえば、俺たちと一緒に見舞いたかったけど恥ずかしくてできない、とか」

 原田にはそう答えはしたものの、俺としても本気でそう思っているわけではない。

「ユーリ。柿崎って確かに無口だけど、そういうキャラじゃないと思うよ。どっちかというと、堂々としているというか」

 そういうユウジの分析は、おそらく間違ってはいないだろう。柿崎のあの目つきは、引っ込み思案な者が身につけられる類のものではない。

 そうか、柿崎。奴の強烈な殺気のせいで、無害な原田の気配が微塵も感じられなかっただけなのか。案外、そういうことなのかも知れない。


 やがて田嶋の母親が呼び鈴に応じて玄関に姿を現すと、俺たちの最後尾にいたはずの原田がいつの間にか最前列へと進み出ていた。

「あらまあ、こんな大勢で。真由美が起きられれば良いのだけれど、生憎具合が悪くて……」

 俺は思わず二階の窓を仰ぎ見た。そこが田嶋真由美本人の部屋とは限らないが、先ほどの人影、背格好からすれば本人である可能性が高い。起きられないほど具合が悪いというのは本当なのだろうか。

「いいえ、ご連絡もせず突然押しかけてすみませんでした。二学期は行事も多く、電話連絡だけでは連絡漏れもあるでしょうから、真由美さんが休まれている間に配られたプリント類をお持ちしました」

「それはわざわざありがとうございます。暑いところ大変だったでしょう」

 どうぞ中へ、とすすめる田嶋の母親に対し、原田は眼鏡をかけ直しながら辞退した。

「今日は僕ら、これをお持ちしただけですから。真由美さんのお加減が一日も早く良くなるといいのですが、とにかくお大事に、とだけお伝えください」

「ご丁寧にありがとうございます。いいお友達がいっぱいいて、うちの子も幸せだわ。すぐに良くなると思いますから、伝えておきますね」

 結局、俺もさつきも、呼び鈴を押したユウジさえも、ほとんど一言も発することなく田嶋の母親と原田との遣り取りを見守っていた。原田によるそつのない受け答えに軽く気圧された格好の俺たちを促し、原田を先頭にして田嶋邸を後にした。

「偶然、田嶋さんの家を訪問するというきみたちの話が聞こえてきてね。大沢先生に頼んで、たまっていたプリントを預かってきたんだ。それをきみたちに託そうとしたら、もう教室にきみたちがいなくて。ほら、純粋な見舞いってことにしたら、田嶋さんのご母堂に余計な気を遣わせてしまうだろう。……いや、それよりも、結果的に盗み聞きのような形になってしまって申し訳ない」

「それはいいけど、それならそうと大沢先生のところに行く前にあたしたちに言ってくれれば良かったのに」

 当然の疑問を口にするさつきに対し、原田は頭をかきながら応じる。

「いや、プリントがたまってることに気付いたのが放課後でね。僕が職員室まで往復する間にきみたちがいなくなるとは思っていなかったのだが、思いの外時間がかかってしまったのさ」

 原田の様子に不審な点はない。前回会った時は、原田が何を言っているのかよくわからない部分もあったが、それは単に話し方の癖のようなものなのだろう。

「今日は、後からしゃしゃり出てきた僕が、場を仕切ってしまって悪かった。でも、長居すればするほど田嶋さんにもご母堂にもご迷惑がかかるからね」

 田嶋親子だけでなく、俺たちに対してまで気を遣う原田に対し、不満を表明する者はいない。

「いや、逆によかったよ。俺たちだけじゃ、田嶋のお母さんに気を遣わせるだけだっただろうからさ」

 俺は本心からそう答えていた。それに、俺としても収穫が皆無だったわけではない。わがクラスのウイルスナジアリストふたり、田嶋真由美と柿崎繁はどこか怪しい。やはり要注意だ。特に、俺の中で柿崎に対する疑惑はこれまで以上に膨れ上がっている。

「それじゃまた明日、学校で」

 三人と別れた俺は、リカが待つロフトへ向かった。故障中だったエアコン、直っているといいのだが。


* * * * * * * * * *


 ロフトに帰った俺を出迎えたのは、『久松電気店』というロゴ入りのツナギを着た青年だった。

「ああよかった。この家の方ですか」

 若い声だ。俺とそう歳が変わらないのかもしれない。アルバイトだろうか。心なしかそわそわした様子で、早口に話しかけてきた。

「はい。ホームステイなんで、居候みたいなものですけど」

「この家の方ならどなたでもいいんです。修理終わっているんで、確かめていただいた上でサインいただければ」

 どうやらエアコンの修理に来ていた電気屋だろう。修理していたからには、リカが立ち会ったはずなのだが。

「リカ――家主の孫が立ち会っていたはずですが?」

「お嬢さん、途中までいらっしゃったはずなんですがねえ。いつの間にお出かけになったのか、突然いなくなってて。申し訳ないけど、こっちとしても次の予定があるから焦ってるんですよお」

 ――要領の悪いバイト君だな。リカの携帯の番号くらい聞いとけっての。

 表情には出さずに毒づいた俺は、さっそく部屋に入ってエアコンの動作チェックをした。

「ご迷惑をおかけしました。しっかり直ってますね、ありがとうございます」

 サインをしてやると、バイト君、ようやく思い出したように営業スマイルを顔面にはりつけた。

「ありがとうございましたー。またよろしくお願いしまーす」

「今日のお支払いは?」

 さっさと立ち去ろうとするバイト君を呼び止めると、首だけ振り向いて答えてきた。

「ああ、大丈夫です。こちらのお宅さんはお得意さんなので、いつも月末にまとめていただいているんですよー」

「あ、そ」

 バイト君の日本語、正しいのかな――などと考えつつ、俺は適当に相槌を打った。

 バイト君を見送ると、俺はリカの携帯に電話をかけた。

 ――おかけになった電話番号は 現在電源が入っていないか、電波の届かないところに……

 受話器から聞こえてくるのは機械音声。俺は軽く嘆息した。

 リカの携帯、電池切れか。それなら、たとえ番号を聞いたところで役に立たないな。バイト君、すまん。

 だがまあ、きっと作業前にバイト君が長めの時間を見積もったので、リカは買い物にでも出てしまったのだろう。バイト君はそわそわしていたが、あれはただ単に早く終われば早く帰れるからに過ぎないのではないだろうか。


 それからしばらく、俺は新たな手掛かりが得られないものかと、あの中国人エージェントのノートと格闘した。しばらく集中したものの、新たなキーワードは見つけられない。きっとまだ、他にも何らかのヒントが隠されていると思うのだが。

 ふと気付くと日が傾き、夕闇が濃くなっている。

 リカは、まだ帰ってこない。今度は、俺がそわそわする番だ。

 ノートを閉じて窓の外を見ていたら、珍しく家の電話が着信音を奏でた。

 リカだな。きっと公衆電話からなのだろう。

「もしもし」

 日本語での電話応対に妙な気恥ずかしさを感じつつ受話器を取った。しかし――、

「おい、なんだと? もう一度言え」

 俺の耳に飛び込んできたのは機械で加工したような奇妙な音声だった。聞き取りづらい声に向けて低い声で促すと、今度はゆっくりと言ってきた。

「結城リカは、我々が預かった」


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