解読
午後十一時。予定通り、俺は通信機の正面にどっかりと腰を下ろした。
「こちら日本支部。応答せよ」
声だけでは年格好の想像がつかないが、無機質な男の声が俺の耳に届く。
知らない者には声の出所を探すのは難しいだろう。何しろ、通信機の外見は卓上型電気スタンドと何ら変わらないのだ。と言うより、そう見えるように擬装されている。この通信機は音声信号を超空間振動波に変換し、ナジールを応用した空間を通って双方の端末上で元通りの音声として再生する装置なのだ。幻妖が現実世界にもたらした幻夢世界側の技術のひとつであり、現実世界に既存の諜報機関と言えども盗聴するのは絶対に不可能――少なくとも、俺はそう聞いている。
「こちらZ一〇七、ユーリ・ウィルソンだ。前回の報告以降めぼしい進展はないぜ。それより、聞きたいことがあるんだけど、いいか」
「そういう場合は調査過程だけでいいから報告しろ。質問はその後だ」
へいへい。偉そうな野郎だぜ、まったく。
「幻妖リューフィンはウイルスに感染したため幻夢世界へ治療法を探しに行った。N〇一六、結城怜治がこれに同行。従って報告はしばらく俺が代行する。校内、通学路ともにナジールを感知せず。ウイルスナジアとしてリストアップした生徒の多くは九月一日ないし二日以来今週末まで欠席を続けている。月曜になっても登校しないようなら、放課後にそれぞれの自宅まで順次調査に行く」
少し迷うが、こいつも報告しておくか。
「あとこれは些細な点だと思うけどよ、校内で殺気っぽいものを感じたぜ。今んとこ一度っきりだがな」
「調査方針、了解だ。ただし、貴様の曖昧な感覚など報告不要。……以上か」
なんて無愛想な。イギリス支部のスタッフはもう少しフレンドリーだったぞ。俺は何とか「ああ」と返事をしたが、もしかしたら唸り声と聞き分けがつかなかったかもしれない。
「質問は何だ」
「その前に、あんたのこと何て呼べばいいんだよ」
「知る必要はない。通信担当はいつも私だとは限らない」
やれやれ、とりつく島もないぜ。イギリスのスタッフは名前で呼び合ってたってのに。もっとも、本名かどうかまでは知らないが。
「ちぇ、愛想のない。しゃあない、質問するぜ。さっきも報告した通り、ウイルスナジアリストの中でも目を付けた連中な、みんな成績優秀者で、しかも連続で学校を休んでいる。共通点としてはできすぎだろ。他の学校はどうなのか聞きたいね。あとできれば、各校のお仲間の名前を教えてくんないかな」
「共通点については興味深いが、今は他校のことは気にするな。スタッフの名前も無闇に教えるわけにはいかん。任務上、必要が生じた場合に限りこちらから教える」
「じゃあ、これだけでも教えろ。ウイルスに感染した幻妖は俺の相棒だけじゃないはずだ。そいつらは今どうしてる」
「ナジール能力を持つ幻妖は自ら幻夢世界に戻った。それ以外はそちらのリューフィンと同じ。つまりはどのスタッフも幻妖抜きで動いているのが現状だ。他に質問は」
「……ねえよ」
沈黙。知らない者には見分けづらい、通話中を示す電気スタンド型通信機のパイロットランプが消える。野郎、本当に通信を切りやがった。今回の通信時間、一分弱か。無愛想なだけじゃなく、とんでもなくせっかちな野郎だ。同じ日本支部なのに結城の爺さんとはえらい違いだぜ。
俺は振り向き、背後で大人しく控えていたリカと目を合わせた。彼女は微笑んだが、その顔には隠しきれない緊張が滲んでいるように見えた。当然だ。
ほんの小一時間前までと今とでは、俺たちの《監視機構》に対する印象が天と地ほども違うのだから。
* * * * * * * * * *
遊園地から帰り、俺たちはまず風呂に入った。先に風呂からあがった俺がプリンターのコピー機能を使って中国人のノートをコピーし、内容に集中している間にリカが入浴した。
文字が書き込まれていたページは十ページほどだ。俺はそれらのコピーを重ねた状態で机上に置き、矯めつ眇めつ眺めていると、いつの間に風呂からあがったのかリカが料理を始めており、台所からいい匂いが漂ってきた。
リカの入浴は短時間とは言い難い。俺は時間も忘れるほど集中していたのか。時計を見ると八時半。定時報告の刻限が思った以上に迫っていた。
食事中、俺は焼き茄子の甘辛に舌鼓を打ちつつも、時折コピーを捲っていた。その甲斐あってか、なんとなく光明が見えてきた気がする。
そんな俺に、リカは呆れたように声をかけてきた。
「もう、行儀悪いなあ、ユーリ。そんなんじゃ味もわかんないでしょ」
俺はリカの目を見て謝罪した。ここはきちんと謝っておかなければ。
「ごめん、リカ。悪かった」
言い終えてリカを見ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。
「嘘よ。報告時間が近付いてるんだし、がんばってね」
「ありがとう」
礼を言いながら、俺はにやりと笑った。
「ところで、今日行ってきた遊園地、迷路みたいに建物が並んでただろ。上から見下ろした時と、園内を歩いている時とで印象が違ったのはそのせいだったんだよな」
「うん。それがどうかしたの」
「つまり、建物がなくなると見晴らしが良くなるだろうな、と思ったのさ」
リカは小首を傾げた。
「それとこの日記と、どんな関係があるのよ」
「余計なものを取り除けば、何か見えてくるんじゃないかってこと」
俺の言葉に無言で頷いたものの、リカはまだ腑に落ちない顔をしている。
そこで、「ちょっと見てくれ」と言いながら、俺は重ねたコピーをぺらぺら捲って見せた。最初は一枚目と二枚目であおり、次は一枚目と三枚目であおる。そんな具合に、いくつかの組合せをリカに示した。
短く「あ」と呟き、興奮した面持ちのリカが俺をまじまじと見つめた。……近すぎる。あれからまだ半日と経っていない。つい、リカの形の良い唇に目を奪われ、俺は咳払いして気を鎮めた。
「気付いたか、リカ」
「うん。なんかたくさん、どのページも同じ文字が同じ位置にかぶってる」
「たぶん、そいつらが“余計な建物”だ」
食事を終えた後、俺は各ページのかぶっている文字の上に線を引いて消していった。すると、各ページとも短文が三つずつ残った。縦方向の文字列が一つ、横方向が二つだ。そのうちの一文をリカが読み上げる。
「なにこれ。“電気容量百海里”?」
明らかに無意味と判る文章は保留。ただし、何らかの符牒である可能性は否定できない。まずは意味のありそうな文字列を優先翻訳候補としてピンク色のマーカーでチェック。中には符牒らしき文字列しか残らないページもあったが、とりあえずの翻訳候補は六つか七つほどに絞られた。
それにしてもあの中国人エージェント、明らかに素人ではない。なにしろ拳銃を持ち歩いていたほどだ。俺と違って、翻訳してすぐに誰にでも読めるような物を書くほど不用心ではなかったということなのだろう。
そんなことを考えていると、リカがピンクマーカーをつけた文字列の一つを指差した。
「これは何かしら。“諜間有里織組在”」
「よし、翻訳サイトで翻訳してみようぜ」
「あたし、やってみていい? えっと、“諜間有里は組がいることを織る”」
言うが早いかパソコンを操作したリカがとんちんかんな訳を読み上げた。
「これも符牒か。しかし、諜間有里ってのは固有名詞かも……女かな?」
「待って」
リカは俺の推測を制し、訳す前の文字列を一文字ずつ並べ替え始めた。どうやら、文字の並びを逆にしようとしているようだ。
「よし、“在組織里有間諜”、と。えい、翻訳。なになに、“スパイは組織しています”」
「なにっ」
画面を覗いた俺はリカからマウスを借りて並べ替えた文字列をコピーすると、ブックマークしておいた別の翻訳サイトに移動した。こいつはもしかして。
「こっちこっち。このサイトで翻訳してみな」
翻訳用のフレームにコピーした文字列をペースト。再びリカが翻訳ボタンを押す。
「……!」
画面にはこう表示された。
――組織の中にスパイがいます。




