浮気したモラハラ夫に愛想が尽きたので記憶喪失のふりをして逃げようとしたら…
◇
(※一部暴力的な描写がありますので、苦手な方はご注意ください)
目を開けると、よく見知った天井が目に入る。瞬きを繰り返しながら見つめていると、辺りが妙に騒がしいことに気付く。
「ジーナ様!!」
「お気付きになりましたか!?」
「どこか痛いところはありませんか!?」
「みんな、奥さまがお気付きになられたわよ!」
「旦那様に知らせて来ます!」
「……こ、ここは……」
――確か、また夫が浮気をしたので問い詰めたら頬を叩かれ、よろけた弾みにテーブルの角に頭をぶつけた……ところまでは覚えているのだけれど……。私が、ぼんやりと思い出しているとメイドたちが慌て始める。
「奥さま、もしかして混乱なさっていますか?」
「大丈夫ですか? 頭をぶつけられたそうですし、まさか記憶喪失なんてこと……」
メイドの言葉に、ピンと来る。
「(……記憶喪失……それだわ!)」
――私は、夫の横暴さに疲れ果てていた。
気に入らないことがあると、すぐに口だけでなく手を出してくるような人……何度も話し合おうとしたのだが、いつも言葉と暴力で誤魔化されてきた。
上手く行くかは分かりませんが、記憶喪失のふりをして、一刻も早くこんなところ出て行きましょう。
これ以上、あの人とやって行ける自信がない……。私は小さく頷くとメイドに声を掛ける。
「……すみません。私、なにも思い出せなくて……ここは何処なのでしょうか?」
私の言葉にメイドたちは、涙を流し始めた。
「そ、そんな……ジーナ様……」
「……おいたわしい……」
「おい、何の騒ぎだ!」
そこに夫が現れる。
「旦那様! 奥さまが……!」
「ああ? なんだ、元気そうじゃないか」
片方の口角を上げて、皮肉混じりに笑う夫。
「元気ではありません! 奥さまは、記憶がないんです!」
「頭を打ってしまったせいですわ……お可哀想に……」
その言葉に夫は怪訝そうな顔をすると、私を睨み付けながら口を開く。
「はああ~? 記憶喪失ぅ? おい、本当か?」
夫の問いに、私はゆっくりと笑顔で首を傾ける。
「……ええ。……あなたは?」
「……チッ……お前の旦那様だよ……」
「まあ! 私、結婚していたのですか? 驚きです。……ところで、私は頭をぶつけたそうですが、どこで何をしていてそんなことに?」
「……っ、そ、それは、お前が鈍臭いから勝手に転んでぶつけたんだよ!」
「まあ……。私ったら、そそっかしいのですね……っ、いたっ!」
私が頬に手を当てて顔を伏せると、メイドたちが慌てて支えてくれた。
「奥さま! どうなさいました!?」
「……頬が痛くて……口の中が切れているみたいです。……これも、転んだ時にできたものなのでしょうか?」
その言葉にメイド達が互いに顔を見合わせながら、話し始める。
「奥さまが倒れていた時って、確か右側でしたわよね?」
「……そうなのですか? でしたら、左側の頬が腫れているのはおかしくありませんか?」
「……実は私も、気になっていたんです……」
ざわざわし始めるメイド達。
「最初に奥さまを見つけたのは旦那様でしたよね……」
「ええ……慌ててメイド長の所に来ていたのを覚えていますわ」
「……そういうことみたいですが。旦那様は、何かご存知ありませんか?」
夫と目を合わせると、彼が顔を赤くする。
「――っ! お前っ! この俺のことを疑っているのか!?」
「まさか! ただ私には記憶がありませんので、何かあったのなら教えてほしいと思っただけですわ。他意など一切ございません」
にこりと微笑むと、悔しそうに舌打ちをする。
「そうかよ。じゃあ、もういだろ。俺は自室に帰る」
「でしたら、私も実家に帰っても構いませんか?」
「…………はあ?」
「私、あなたのことを良く存じ上げませんし……。旦那様とか言われても、正直困ります。知らない方と、知らないお屋敷で夫婦として過ごすなんて恐ろしいですわ……」
「なにバカなこと言ってんだ!? なめてんのか!!」
「……それに、あなたのその態度を見る限り私は幸せだったとは思えませんもの。私がこんな状態なのに心配の一つもしてくださらないなんて……。もしかして、旦那様には他に大事な方がいらっしゃるのではなくて?」
「――っ! ジーナ。お前、いい加減に……っ」
「お義姉さんの言う通りだよ」
突然入ってきた幼さの残る爽やかな声に、室内にいた全員が振り返る。
「お義姉さん、怪我は大丈夫?」
――義弟のエヴァンくんだ。
名前を呼びかけて慌てて口を押さえる。
「まあ、可愛らしい子ですこと。ご心配ありがとうございます。今のところ記憶がないこと以外は、なんの問題もございませんわ」
エヴァンくんは記憶がないの言葉に目を丸くすると、しばらく私の目をじっと見つめたあと、にこりと微笑む。
――もしかして、気付かれたのでしょうか。
エヴァンくんは、まだ十二歳という若さでありながらとても聡明で賢い子だ。私は少し緊張しながら彼の言葉を待つ。
「……そっか。大変だったね、お義姉さん。それもこれも全部、兄さんのせいだよね」
良かった、何も言及されなかった。……小さく息を吐くと、エヴァンくんは視線を私から夫に移す。
「はあ? なに言ってんだ、お前。いきなり入って来て、意味の分からないことを……子供は部屋に戻って寝てろよ!」
「あら、私はお聞きしたいわ。全部お兄さんのせいというのは、どういうことなのかしら?」
「……おいっ!!」
止めようとする夫の声を無視して、エヴァンくんは目を細めて笑う。
「兄さんには、他に女の人がいるんだよ」
「まあ! 他に女の人って……浮気をしていたということですか?」
「おい、エヴァン! ふざけ……」
夫が喋るのを遮るように、エヴァンくんが続ける。
「うん、そうなんだ。他にもお義姉さんのこと、ナメクジみたいにジメジメした女だとか、あいつ相手には勃たないとか、強く髪の毛を引っ張ってやったら泣いてたとか、生意気な目をしてたから二の腕を殴ってやったとか……もうクズっていうか、外道っていうか……ほんと最低だよね」
私は、この子がそこまで知っていたことに驚く。
「何度も何度も止めるように言ったけど、夫婦のことに口出すなって言われちゃうと、何も言えなくて……ごめんね、お義姉さん。だから、こっそり医者を呼んでお義姉さんのこと見てくれるように頼んだり、父様に告げ口もしたけれど、全然聞いてもらえなくて……」
ああ……ときどき医師が、私の様子を見に来てくれていたのは、そういうことだったのですね……。
「だからね、これ」
エヴァンくんが手に持っていた書類をばら撒く。
そこには、夫がこれまでしてきた浮気の証拠がずらりと並んでいた。
「それは、ほんの一部だよ。他にも診断書や暴力や暴言の記録と録音、証拠は全部揃っている。――もう、お義姉さんのこと自由にしてあげなよ」
「エヴァ……」
「……しっ」
思わず名前を呼びそうになったところで、エヴァンくんが口元に指を当てて、こちらを見る。
ああ、いけません。今の私は記憶喪失なのでした。
「(エヴァンくん……この子は、私のためにこんなことまで……)」
エヴァンくんと夫は異母兄弟だ。エヴァンくんのお母様は後妻で、美しく体の弱い方だったとお聞きしている。そんなお母様を夫は受け入れられず、嫌がらせまがいのことをしていたらしい。最後は糸が切れたように亡くなったと聞いた……私が嫁ぐ数年前の話だ。
彼は彼で夫に思うところがあったのだろう……だとしても、ここまでしてくれるなんて……こんな幼い子が……どれだけ感謝してもしきれない。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなっ!!」
ばら撒かれた書類を必死に掻き集める夫。その無様な姿に、今まで何を恐れていたのだろうと酷く冷めた感情になる。
両親が悲しむから……私が我慢すればいいのだから……そんな言い訳をして、萎縮して……。
でも、そんな我慢は今日でやめる。
「私の旦那様は、本当に最低な方だったのですね。浮気に暴言に暴力……よくもまあ、これまで我慢して耐えていたこと。……では、この怪我も私が転んだのではなく旦那様の暴力によるものでは? ああ、なんて恐ろしい……悪魔のような方でしたのね……」
「――っ! お前が生意気な口を利くからだろうが!! 浮気の一つや二つくらいで、ゴチャゴチャうるさいんだよ!! エヴァン、お前もだ!! 何なんだよ、お前ら!!」
夫の言葉に、メイドたちがざわつく。
「ねぇ兄さん。そんなに怒っても、どうにもならないよ? 観念したら? あと、このことはユージィン伯父さまにも伝えてあるから」
その言葉に、夫がビクリと肩を揺らす。
「お、伯父上……?」
ユージィン侯爵は義父の兄で大変厳格なお方だ。別け隔てなく公平な方で、賢いエヴァンくんのことを、とても可愛がられている。
「な、な、なにを言ったんだ、伯父上に……」
「何って、全部だよ。これまでのことを、ぜーんぶ。もちろん、証拠付きでね。あ、伯父さまにも証拠の一部を渡しておいたよ」
夫の顔が一気に青褪め、動揺し始める。
「……はっ、はは……あ、い、いや、まあ……あれだ、なぁ、ジーナ」
話しを振られたので、夫に視線を移す。
「……まあ、なんだ……お前さえ反省すれば、今後は可愛がってやらないこともないぞ? 嬉しいだろ? 喜べよ、なあ? この俺が、お前みたいな地味で役立たずな女のことを気にかけてやるんだ。だから、これまでのことは無かったことにして伯父上に……」
「――私が〝はい〟なんて言うと、お思いですか?」
私は、冷ややかな目で夫を見つめながら続ける。
「これまで、さんざん浮気をして暴言を吐いて……更には、暴力まで振るっておいて反省しろ? どの口がおっしゃっているの? 反省するのは、そちらでしょう? この期に及んで謝罪もなければ、言うに事欠いて可愛がってやらないこともない? 人をバカにするのも大概になさいっ!!」
「……ひっ!」
はっ、と一つ息を吐くとエヴァンくんに視線を移して、にこりと微笑む。
「エヴァンくんは、何処がいいですか? 私は今までで一番痛かった鎖骨を殴ります」
エヴァンくんは私を見て目を丸くすると、少し戸惑い気味に答える。
「えっと、じゃあ……顔?」
「分かりました。では、せーので行きましょう……せーのっ!!」
私は鎖骨を。エヴァンくんは頬を。それぞれ思いっきり殴ってやった。
「……いっ、いだ……いだいぃぃ……っ!!」
泣き喚きながら蹲る夫。
「はぁ……スッキリいたしましたわ!」
「お義姉さん、手は大丈夫? 怪我してない?」
「少し痛みますが、何ともありません! ご心配、ありがとうございます」
私はエヴァンくんに微笑みかけてから、蹲る夫に視線を移す。
「……うっ……ひどい……殴るなんて……うぐっ……ぐす……っ……」
「これまで、さんざん人に手を上げておいて、よくそんなに泣き喚けますわね。まあ、今の分は慰謝料から差し引いておいてさしあげますわ。――では行きましょうか、エヴァンくん」
「え?」
「一緒に私の実家にまいりましょう。こんな屋敷に居ては危険ですもの」
「……でも」
困惑しているエヴァンくんに、私は笑顔で伝える。
「あなたが私を助けてくれたんです。だから、今度は私の番です。……ああでも、あなたはユージィン伯父様の所の方がいいでしょうか?」
エヴァンくんは首を左右に振ると、年相応のあどけない笑顔を見せてくれる。
「お義姉さんと行きたい!」
「では、決まりですわね。行きましょう! あなた達も行きましょう」
メイドたちに声を掛けると、夫が泣きながら困惑気味に声を上げる。
「……はぇ? な、なんで? なんでメイドたちも?」
「ジーナ様、記憶がお戻りになったのですね! 良かったです!」
「しかも、このお屋敷から出ていけるだなんて!」
「私達は、もともとジーナ様と一緒にこのお屋敷に来ていたので、ジーナ様と一緒に帰ります」
「……というか、ジーナ様にご心配を掛けたくなくて言ってませんでしたが、人の体を触ったり口説いたりと最悪な旦那様でしたわ」
「メイドたち、みんな迷惑していました。泣き出す子もいて……」
「しかも、ジーナ様に暴力を振るっていた? 浮気? 暴言? とんでもないクズですわね!」
「被害にあった記録は残してありますので、ジーナ様の書類と一緒に提出いたしますわ!」
メイドたちの言葉に驚く。
私が我慢していればいいだけだと思っていたのに、まさか彼女たちまでそんな目に遭っていなんて……。悔しくて唇をぎゅっと結ぶ。
「……ごめんなさい、みんな。私、なにも知らなくて……主人失格だわ……」
私が深々と頭を下げると、メイドたちが慌てる。
「やめてください、ジーナ様! 私たちがご心配を掛けたくなくて、黙っていたんです!」
「そうです! それに、私たちもジーナ様のことに気付けませんでした!」
「そもそも、あの男は卑劣でメイドたちが一人の時に手を出していたんです。思い詰めた子が話してくれて、そのお陰で他のメイドたちも同じ目に遭っていたことを知ったんです!」
「……なんて酷い……」
私は思わず口を押さえてしまう。
「……このことは、慰謝料に上乗せしておきます! もちろん、ぶんどった分はみんなにお渡しするわ。こんなことしか出来なくて、ごめんなさい……」
「いいえ。そのお言葉だけで十分です!」
「……ありがとう、みんな。さあ、もう行きましょう。こんな場所に一分一秒だって居たくありません!」
「「はい!」」
「……お、おい! なに、勝手なこと……! なぁ行くなよ、ここに居ろよ!! なあってば! ジーナ! ジーナあぁぁ!!」
叫ぶ夫を無視して、私たちは荷物を纏めると屋敷を去って行った。
◇
――その後。
元夫は、ユージィン侯爵にそれはそれは強烈な叱責を受けたらしく、無事に離縁することができました。慰謝料も侯爵のお陰で破格の金額をいただけることに。
そして今後は侯爵の監視下に置かれるらしく、元夫から助けてほしいという手紙が届きましたが、丁寧に破り捨ててやりました。
エヴァンくんのことも、彼がそちらに居たいというのならお願いしたいと頭を下げてくださり、お断りしたのですが彼が成人するまではと、必要な生活費を毎月払ってくれています。
実家に戻り事情を話すと、両親は労ってくれると同時に、なぜもっと早く話してくれなかったのかと泣かれてしまいまして……。
私はこれ以上は心配をかけられないと一念発起し、辺境の地で慰謝料を元手にお店を開くことにしました。
◇
「……いよいよ、明日からですわね。いろいろありましたが、ようやくここまで来れましたわ」
「お義姉さん、頑張ってたもんね」
「ええ、それはもう! これからエヴァンくんとメイドたちを養っていかなくては、なりませんもの。頑張らないわけには、いきませんわ! ……上手く行くと良いのですが」
「大丈夫だよ、絶対に上手く行く。僕が保証するよ。仮に上手く行かなかったとしても、僕が何とかするから安心して?」
「もう。エヴァンくんは、そんな心配なさらないでくださいな。そんなことよりも、学校にはもう慣れましたか?」
「うん、楽しいよ。ありがとう、お義姉さん」
この辺境の地には私以外にも、エヴァンくんとメイドたちが一緒に来てくれてました。
エヴァンくんは環境的にも王都にいた方が良いかと思い実家に残ることを進めたのですが、私に付いて来たいと言ってくれて、こちらで一緒に暮らしています。
お店も手伝いたいと言ってくれていて、本当に良い子でいつも助けてもらってばかりいます。
「ジーナ様、ご両親からお花が届いておりますよ」
「ユージィン侯爵からも、届いています!」
「まあ、素敵! どこに飾りましょうか」
優しくて思いやりのある義弟に、ずっと私の味方で居てくれたメイドたち。
地獄のような毎日から一変して、今の私は愛おしい人達に囲まれた、穏やかで幸福な日々を過ごしております。
◇おわり◇




