その瞳が見るものは
見下ろす先に、色も形もさまざまな花が雨をものともせず咲き乱れている。同じ株から出ているのに法則の感じられない花々は、無秩序であるにもかかわらず美しい。
昔は雨が嫌いだった。
ぼくの部屋は半分が地下になっていて、いつも薄暗い灰色の世界だった。雨が降ると上の方にある小窓から水が流れ込んで床が水溜りになった。そんな日は、足が腐ってガタつく寝台の上で寒さに震えながら、窓から流れ込む水が早く止まりますようにと願っていた。
でも今は、暖かく乾いた部屋の窓から見下す雨粒が色とりどりの花を潤して、ただ美しいと感じる。
ここには不安も不満もない。ふわふわと幸せな夢の中にいるようだ。
「何を見ているんだ?」
「花と、雨を見ていました」
問いかけてくる穏やかな低い声はぼくの旦那さま、ダイン・テッセ卿だ。王様の騎士をしている。旦那さまと呼んでいるが、主従関係ではなく、彼はぼくの配偶者だ。
主従関係ではないのだから名前で呼んでほしいと言われたけれど、特殊な育ちをしたぼくには対等な関係というものが難しいから、旦那さまと呼ばせてくださいとお願いした。
「あれは雨期に咲くフライライだな。一つの株からさまざまな花が咲く、少し珍しい花だ」
「さまざまな……」
ぼくの瞳は、彩眼という色が変わり続ける瞳だった。環境も感情も関係なく見るたびに違う色が気持ち悪いと、倉庫のある半地下の部屋を与えられ、倉庫の整理や誰にも会わずにできる掃除などの仕事を与えられていた。実際、彩眼には不吉な伝承もある。
だから、家族から疎まれたぼくは自分の立場も常識も知らずにただ生きていた。そんなぼくを見つけて、求めてくれたのが旦那さまだ。
ぼくの家族がどんな地位にあったのか、全て旦那さまが教えてくれた。
小さな領地だけど交通の要所を管理していたぼくの家は裕福だった。でも欲張って悪いことをしたために、王様が直々に調べに入ったそうだ。旦那さまは王様の騎士だから一緒にいた。
どうしてか知らないけど、両親やほかの家族たちも、王様に逆らった。そうして家族全員処刑されることになった。家族に家族扱いされていなかったとはいえ、本当ならぼくも例外じゃなかった。
あれは珍しく、上の方の小さな小窓から明るい日差しが入る日だった。晴れていても薄暗い半地下の部屋から引きずり出されて、見上げた先に太陽を背負って旦那さまはいた。
ふらふらと落ち着かない色のぼくとは違い、髪も瞳もどんな角度から見ても真っ黒だった。馴染みある闇の色なのに、ぼくにほ光を纏っているようだった。
なぜか視線が外せなくて、じっと見つめていると彼が口をひらいた。
「陛下、この子どもは何も知らなかったのではありませんか」
「例外を許せば示しがつかない。子どもと言うが、記録によれば成人している……彩眼だから隠されていたのだろう」
彩眼は稀に現れる不吉の予兆だと言われていた。
「ならば、私の籍に入れます。この家の者でなければ良いのでしょう」
「成人を養子にすることはできない」
「では結婚します」
何が起きているかわからないぼくの前に跪いた旦那さまは、そのままぼくに求婚した。あとから知ったのだけど、その求婚はとても正式なやりかただったから、王様も戯れだと言えなくなったそうだ。
「命が惜しければ受け入れるがいい」
この時ぼくが頷いたのは、王様の言葉に背中を押されたように見えただろう。
本当は、乏しい知識のなかで、結婚するということはずっと一緒にいられることだと知っていたから、目の前の強く美しい人と結婚したいと思ったからだ。
そう、ぼくから見た旦那さまはとても生き物として美しい人だった。聳え立つ壁のように大きな身体と、なにものにも染まらない黒い瞳に心を奪われた。
小さく色の定まらないぼくと、大きく変わりようのない旦那さまは、同じと言えるのが性別ぐらいだった。
あの時、あまりに自然な求婚をされたけれど、結婚は性別が違うものでしかできないものだ。たしかに乏しいぼくの知識でも、結婚は男女がしていた。でも、旦那さまが王様の目の前で誓いを立てたから特別に許されたそうだ。
王様の承認があるとはいえ、貴族の旦那さまがすぐに結婚することはできず、一年の婚約期間を経たのちにぼくたちは結婚した。
といっても正式な結婚式はできなくて、結婚式と称して旦那さまの屋敷の皆で美味しいものを食べた。旦那さまが優しくしてくれるから、使用人たちも風変わりなぼくに優しい。
ぼくは婚約期間に美味しいものをたくさん食べさせてもらって、ずいぶん背が伸びた。おかげで、子どもではなく小さめの成人男性並みになった。まだ旦那さまとは頭ひとつと半分ぐらい違うし、並んで立つと、旦那さまの胸しか見えないけれど。
窓から花を見下ろしていると、とん、と後頭部に弾力のある感触が当たる。旦那さまの鍛えあげられた胸だ。ぼくは、振り返らずに呟いた。
「ぼくはここに来てから、雨が好きになりました」
「雨だけ?」
後ろから抱きしめてくれる旦那さまの声が甘くて、まだ朝だというのに腰がくだけそうだ。ぼくは結婚してから、とてもはしたない人間になった。
何も知らずに迎えた初夜、旦那さまは、ぼくにとても優しく大人の夜の過ごし方を教えてくれた。男女の夫婦じゃないことを申し訳なく思っていたぼくに、男同士の身体でも愛し合えることを教えてくれた。
「旦那さまが……旦那さまの屋敷の皆も、好きです」
喉を撫でられて顎を上げると、ぼくを見下ろしている旦那さまと目が合う。その瞳は優しいのに、今にも食べられてしまいそうな獰猛な空気。でも怖くない。
そっと目を閉じれば、額にキスが与えられる。
これは味見だ。ぼくは、これから全部食べられる。まだ陽も上りきっていないはずだけど、雨雲に覆われて見えないことを言い訳にしてしまおう。まだ夜だから、と。
「私も君が好きだよ」
「旦那さま。ベッドに、いきましょう。いつのまにか、夜になったようです」
カーテンの端を引っ張って、精一杯の誘い文句を紡いだ。旦那さまはにっこりと笑うと、ぼくを抱き上げて運んでくれた。
最初は戸惑った抱っこも、旦那さまがこういうことをしたくて鍛えているのだと教えてくれたから、いまはすっかり身を任せている。
この時が永遠に続けばいい。
でも、ぼくの彩眼の能力は目覚めてしまった。
ぼくは、ぼくが死んだあとの未来を見た。
◇
初めて会ったとき、旦那さまがどうしてぼくを助けてくれたのか、お屋敷に着いてすぐに教えてもらった。
痩せっぽちでボロ布のような簡素な服を纏っただけのみすぼらしいぼくを馬車から下ろして、旦那さまはその前に跪いた。
「境遇も性別も関係なく、君の瞳に心を……いや、魂をつかまれました。立場の違いで強制するつもりはありません。一年間の婚約期間ののちに、わたしたちは結婚しなくてはなりませんが、白い結婚にすることもできます。内容はどうあれ、三年間の婚姻期間があればその後に君が何をしようと自由だ」
この国の貴族制度では、婚姻して家に入る者……普通は妻の立場だけれど、嫁いだ者は生家を捨てることになり、離婚されたら家名を失って平民となる。しかし、三年の婚姻期間があり、かつ夫側の有責であれば、離婚しても配偶者だった者は慰謝料として生涯の生活費を保証されるそうだ。
当時の旦那さまは、会ったばかりのぼくに、最大の権利を与えようとしていた。
「ぼくには、結婚も、自由がどういうものかも、わかりません」
忌まわしい瞳を嫌悪することなく見つめてきた旦那さまに、嫌だとは微塵も思わなかった。ただ、ぼくは男だけれど、それでもいいのかと漠然とした不安があった。
変わった瞳を持つというだけのみすぼらしいぼくにも、旦那さまは丁寧に接してくれていた。
「わからないことや不安なことがあったら教えてください」
その言葉に背を押されて聞いた。
「ぼくは男です。いいんですか」
「身体が小さくても、きみが男だということはわかります。わかっていて、結婚したいと思いました。あの場に王がいたことは幸運でした。普通なら一笑に付されるような申し出ですから」
ぼくの性別がわかっていても望んでくれたことは、とても素直に嬉しかった。でも、わからない言葉があった。
「一笑に付される、とはなんですか?」
「笑って取り合ってもらえないことです。我が国では同姓婚の前例がありません」
ものを知らないぼくをどう思うか試してしまった部分もあった。幸いなことに、旦那さまは少しも嫌な顔をしなかった。
「ぜんれい……とは」
「いままで、同性で結婚した者がいないということです」
この短い会話のなか、全部言わなくても旦那さまはぼくの疑問に答えてくれた。なんでも聞いていいということが本当だとわかって、胸があたたかくなる。
「ぼくは、わからないことばかりだから、教えてください」
「もちろん」
ぼくから見たらそびえ立つ壁のような旦那さまだけど、声は穏やかで優しく、その瞳は真っ直ぐにぼくの眼を見つめてくれる。目を合わせて話してくれるひとなど、いままでいなかった。彩眼はずっと嫌われていたから。
「どうして彩眼が平気なんですか?」
「どうして怖がる必要があるんです? むしろずっと見ていたいのを我慢しています」
「そうですか。嬉しいです」
旦那さまの目が、優しく細められる。
「君が落ち着いて、結婚を前向きに考えていただけるようになったら、もう一度求婚するとしましょう」
それは幸せな宣言だった。
◇
あの日突然、旦那さまが連れ帰ったぼくに、テッセ邸の使用人たちは優しかった。
旦那さまは王様の騎士だけど、元々は身分の高い貴族の家の長男だったそうだ。だけど、王様の騎士でいるために、家を継ぐことをやめて騎士の身分だけを選んだという。忠義のひとだと評価が高いそうだけれど……旦那さま自身はそれほど重いものとは考えていないようだった。
王様が、ぼくに求婚するという旦那さまを許したのは、それだけ信頼が厚いからだった。
どうして家を継がなかったかというと、貴族の当主、とりわけ大きな貴族の当主というのはその領地の王みたいなものだから、王様に完全に従属した身分を持っていてはいけないそうだ。王様がいちばん偉いのにどうしてダメなのか、ぼくにはよくわからなかった。
「王がいちばん偉いのは間違いない。しかし、貴族の当主は王の家族や友人のようなものであり、普段は従っていても、王が間違ったことをしていたら止めなくてはならない。だから、ある程度の独立性……対等さが認められているんだ。また、王に後継者がいない時には、血の近い貴族から次の王も選ばれる。その時に従うばかりの考え方では、王として国を導くことが難しくなるからだ」
旦那さまはあとから家庭教師をつけてくれたけれど、はじめのうちは、旦那さま自身でぼくにたくさんのことを教えてくれた。優しい態度の変わらない旦那さまに、丁寧な言葉使いをされると落ち着かないと訴えたから口調はくだけたものになっている。
「どうして領主様になるよりも、王様の騎士になることが良かったんですか?」
「当時の私は、領主になることが嫌だった。捨ててから後悔したこともあったけれど、今は自分の決断は正しかったと胸を張って言える。仰々しい身分がないことで君と結婚できるのだから」
惜しみなく注がれる愛はまっすぐで、押し付けがましくもなかった。
「ぼくの何がいいんでしょう?」
ぼくが生まれ育った家から旦那さまの家に来て、まだ月が膨らんで萎むぐらいの時間だ。
でも、その間もずっと愛を伝えられていたから、旦那さまの心を疑うことはない。
ただ、とても不思議だった。ぼくが他人と違って持つものといえば、色の変わり続ける彩眼だけだ。可哀想な人間が好きというわけでもなさそうだった。
「運命だったのだろう。何もかもがわたしの心を騒がせる。この年になるまで誰にも心惹かれたことがなかったのに」
手の甲に、旦那さまの額がそっと押し当てられた。語りきれない心のうちを伝えるような仕草に、胸がきゅうと音を立てるようだった。
ぼくには、ぼくの知らない、いいところがあるのだろう。旦那さまの心に響く何かが。その何かがわからなくても、とても誇らしいことだった。
「ぼくも、あなたが好きです。ぼくを好きだと言ってくれるからなのか、そうでなくても好きなのか、まだわからないのですけど」
ゆっくりとぼくを見上げた旦那さまの瞳は、真っ黒で、やっぱりとても綺麗だった。
「ありがとう。想いを受け止めてもらえるのは、幸せなことなんだな」
真っ黒な瞳に映ると、ぼくの瞳も黒く見える。旦那さまの目の中なら、ぼくも旦那さまも同じ。
まるで、ぼくがまともな人間みたいだ。人と違うところのない……でも、ぼくはまともな人間というものがなんなのかわかっていない。親がいること? それとも、毎日食事を何回もとること?
この屋敷では朝晩の食事以外にも、ティータイムと称して軽食やお菓子が振る舞われる。軽食といっても、前の家でぼくが食べていたものよりもずっと良いものだ。
「そんなに見つめられると抱きしめたくなってしまう」
「はい」
嫌ではないから、抱きしめてもらえるのを待ったけれど、旦那さまは動かなかった。ぼくから抱きしめてもいいだろうか。足を踏み出し、そっと動かない旦那さまの胴体に腕を回した。そうして見上げる。
「合っていますか」
ぼくとは違う、鍛えられてずっしりとした身体は男として憧れるものだ。けれど、身長も身幅も未熟なぼくに愛情を抱いてくれる旦那さまがいるから、ぼくはぼくのことも悪くないと思うようになった。
まだ、まともな表情を作ることはできないけれど、愛を返す仕草は喜んでくれるだろうか。
見上げた旦那さまは、片手で顔を覆っていた。耳が赤くなっている。
「嬉しいな……こんなことをしたら、嫌だと言っても名実ともに結婚させるぞ?」
「はい。このままのぼくを受け入れてくださるなら」
「受け入れる、わたしが! そうか、そんな……いや、意味がわかっているのか?」
少し慌てた様子の旦那さまに、言葉の使い方を間違えたのかと不安になった。
「意味?」
「わたしたちは同性であり、身分の差も大きくない。すべてにおいて対等と言える」
対等のはずはない。でも、そう言ってくれる旦那さまの心が嬉しかった。他人からここまでの優しさを与えられたのは初めてというだけではなく、ぼく自身が初めて見た時から好意を抱いたひとだから。
「ぼくは対等じゃなくていいです。生まれも育ちも、身体の大きさも違うのに」
「境遇や体格の話ではなく、気持ちの話のつもりだった。どう説明したらいいのか」
「なんでも話を聞いてくれて、わからないことを答えてもらっています。ぼくにはじゅうぶんです」
「なんていい子だ……いや、対等と言いつつ、子ども扱いは失礼だった。すまない」
大人と子どもぐらいの体格差があるのだから、そうなるのも当たり前だろう。歳は十も離れていないらしいけど、半地下で打ち捨てられた本を読んでいただけのぼくとは知識の量も違う。そういえば、ぼくに文字を教えてくれたのは、誰だったのだろう。
ほとんど外に出たこともないのに、暦の数え方や季節については知っている。成人しているかどうかも知らなかったのに、成人年齢は知っている。我ながら偏った知識だ。
「いいえ、ぼくの知識は子どもと変わりません。だから、子ども扱いのほうが楽です」
「そうか? じゃあ」
ひょいと脇の下に手を入れられ持ち上げられたと思ったら、旦那さまの膝に乗せられた。旦那さまの顎が目の前にある。少し視線をずらしたら、頬が赤かった。
旦那さまの膝は、ぼくの重さ程度ではびくともしないようだった。胸に触れる部分から、早鐘の鼓動が伝わってくる。
「どうして、対等にしてくれようとしたんですか?」
「君が受け入れてほしいと言ったのを、少し下世話な方向に勘違いした私が悪いんだ」
「下世話?」
「男同士で結婚するということは……いや、もう少しあとで話そう。結婚すると決めてから」
「そうですか。早くしたいです、結婚」
立場とか命を救われたとかもあるけれど、ぼくは美しい黒の色彩をもつこの人と結婚したいと思ってついてきた。恋愛感情も含めてわからないことは多いけれど、ずっと一緒にいたいという気持ちは間違いない。
「そう言ってくれるのは嬉しい。でも、急がなくていいんだ。他の選択肢もある中で、わたしを選んでほしい」
ぼくは結婚したいと思っているのに、旦那さまは頑なに知識と経験を与えようとしていた。誰も見ていなくても、とても誠実なひとだった。
「わかりました。でも、きっと答えは変わらないと思います」
ぼくの言葉の前半で旦那さまは痛みを堪えるような顔をして、後半では横に伸びる口元を片手で押さえ隠していた。そんな旦那さまを、とても可愛いと思った。
いままで、ぼくは何かを可愛いと思う余裕はなかった。
あたたかな膝、胸、腕、旦那さまの体温に包まれて、自分が何者かもわかっていなかったぼくは生まれ直しているんだと、実感した。
◇
穏やかで温かい一年を旦那さまの屋敷で過ごしたぼくは、結婚への前向きな気持ちが高まっていた。形ばかりではなく本当の意味で、彼の配偶者になりたいと。
「最近気付いたんですが、ぼくは嫉妬深いようです。結婚したらもっとひどくなってしまうかもしれません」
先日、旦那さまが使用人を褒めていたのだが、ぼくはどうしてぼくを褒めてくれないのだろうと思ってしまった。自分の考えがすごく傲慢で恥ずかしかったけれど、もしかしてこれが嫉妬だろうかと気付いた。
「それは、可愛い……いや、嬉しい。君を不安にさせるつもりはないが、万が一にも嫌な気持ちになったら教えてほしい。国王陛下よりも君を取ってみせるから」
「王様は大事にしてください。でも、嬉しいです」
愛を伝える言葉を惜しげもなく与えてくれる旦那さまに、ぼくも負けてはならないと少ない語彙をひねりだしていた。
だけど、結婚の日取りを決めてあと五日、という時に思わぬ訪問者がやってきた。
「お兄さま、男性と結婚されるといいうのは本当ですか!?」
ぼくと旦那さまがお茶をしている時に乱入してきたのは、きらきらと輝く金の巻髪に深い青の瞳の美しい女性だった。髪や目の色は違うけれど、顔立ちが旦那さまととても似ていた。
旦那さまは女性からぼくを庇うように立ち、女性は足を踏み鳴らして怒った。ぼくは全身で感情を表現する力強さに圧倒されるばかりだ。難攻不落の壁のように立っている旦那さまがいるから、落ち着いていられる。
「わたくしが危害を加えるとでも!?」
「その勢いでは危険だと判断せざるを得ない。私の結婚についての経緯はラーディに説明してあるし、ケサルダンの戸籍上から私の名は消えている。今はただの騎士であるテッセ家の主だ」
ケサルダンは、旦那さまが生まれた家だ。
たしか侯爵家だった。旦那さまの代わりに家を継いだという弟君がラーディという名前だった。一度だけ会ったけれど、旦那さまによく似た顔立ちで、金髪だった。ぼくの彩眼に嫌な顔をしない人だった。
旦那さまの家族のなかで黒髪黒目なのは旦那さまだけだったらしいけれど、ケサルダン家の最初の当主が黒髪黒目だったから問題はなかったらしい。むしろ金髪や茶髪の多い中で黒髪の子が生まれると喜ばれたそうだ。
ぼくの家での彩眼の扱いとは真逆だ。こんなところでも、ぼくと旦那さまは違う。
「テッセ家だなんて、結婚相手がこの子だったら、すぐに絶えてしまうじゃない!」
「黙れ。そもそも家の繁栄になど興味はない。私の家のことに口出しをするな。先ぶれも出さず、挨拶もしない者が、ケサルダン侯爵家の令嬢と言えるのか」
それはぼくの初めて聞く、旦那さまの厳しい声だった。女性も驚いたように、びくりとわめき続けていた声を飲んで、旦那さまを見つめた。すぐにその両眼からぽろぽろと涙があふれだした。
それを見ても、旦那さまは厳しい表情を崩さない。
ぼくはおろおろと自分の服に触れると、ポケットの中にハンカチがあることを思い出した。いつも服を用意してくれる使用人が最後に渡してくれるものだ。ハンカチを持ち歩くことがマナーだと聞いても、いつ使うのかわからなかったけれど、今がその時だろう。
「どうぞ」
旦那さまの前で涙を拭くこともできずにいる女性に、そっとハンカチを差し出した。ぼくのほうを見もしない女性に、言葉を重ねた。
「これは、執事が用意したものだから、きれいです」
旦那さまが止めないのだから大丈夫だろうと、女性の白くやわらかな手を取ってハンカチを持たせた。
ぼくが近くにいては不快かもしれないから、すぐに離れる。旦那さまや屋敷の人たちが優しいから忘れがちだけれど、彩眼は嫌われている。
女性はハンカチぎゅっと握ってから、そっと目元に押し当てて涙を拭くと、ぼくのほうを向いた。
スカートを少しつまんで広げるようにして、その場で少しだけ身体を低くする。
「御挨拶が遅れて申し訳ございません。わたくしの名はルイナ・ケサルダンと申します」
「ご丁寧にありがとうございます。ぼくは……」
ぼくには名前がなかった。取り潰しになった家の家系図には、ただ「子」と記載されていただけだった。旦那さまにつけてもらった名はあって、屋敷の人たちには呼ばれているけれど、結婚してから正式に名乗れることになっている。今は正式な場のように思える。
「名乗る必要はない。招いたわけでもない相手だ」
切り捨てるような旦那さまの言葉に、せっかく泣き止んだルイナの瞳がまた潤んでいく。
「っ、ええ、次は正式に訪問の伺いを立ててからお邪魔させていただきます。大変失礼いたしました!」
言い捨ててくるりと背を向けたルイナの肩は震えていた。その手にはぼくのハンカチが握られたままだけど、返してもらえなくても執事は困らないだろうか。
旦那さまは「本来はこちらが退出する筋合いはない」と言いながらも、ぼくをルイナから庇うように大きな身体で隠すようにして部屋を出た。
廊下に出ると、執事が彼女を止められなかったことを謝ってきた。
「あの子の勢いを予想して止めることは難しい。だが、次からは止めるように」
旦那さまは大きな問題にならなければ、一度の失敗で罰を与えることはない。だからといって甘いようには見えないから、上に立つひととしての何かがあるのだろう。とても格好いい。
「怖かっただろう?」
「いいえ、テッセ卿がいるから怖くありません」
結婚の前まで、ぼくは旦那さまをテッセ卿と呼んでいた。ダインと呼んでほしいと言われたけれど、身分もなく保護されただけの身で馴れ馴れしくすることはできなかった。
旦那さまが導くままに向かう先には、旦那さまの私室がある。ルイナが乱入してきた現在のぼくの部屋とはフロアが違うけれど、結婚したら隣同士になる予定だ。
旦那さまの部屋のソファに並んで腰掛け、肩を抱かれるに任せて身体を預けた。
「先ほどの女性は妹だ。前にも言ったように、ケサルダン家は一番目に私、弟が二人、妹が一人の四人兄弟だった。全て同腹で、それなりに仲良くしていたと思っている」
同腹、というのは、お母さんが同じということだ。貴族は当主である父親が一番偉くて、正妻は一人だけど、愛人をもつことが珍しくないから、異母きょうだいがいるのもよくあることらしい。
「はい」
「後継者教育は私と上の弟が受けていた。わたしは家を継ぎたい気持ちが薄く、弟が意欲を見せていたから、国王陛下の騎士になるのも悪くない、むしろ気楽でいいと考えたんだ」
侯爵家の当主と、王様の騎士のどちらが気楽かはぼくにはわからない。ただそれが旦那さまの選択なら、それでいいと思う。
「妹は上の弟と折り合いが悪いから、彼が当主になったのが気に入らないらしい。わたしが継げば良かったと、わたしのことを美化している」
「テッセ卿は魅力的です」
「それは、君にだけわかってもらえばいい」
妹であるルイナを置いて、旦那さまがぼくのために場を設けてくれただけで満足だった。彼女がぼくのことを歓迎しない様子だったことも、気にならない。
だってぼくが男であることは変えられないし、結婚は王様が認めた正式なものだ。たとえ前例がなくても、王様以外に止める手段がない。
今となっては、ぼくが成人していて、成人を養子にできない制度があったことが喜ばしく思える。
どうして成人を養子にできないかというと、以前、貴族が見目麗しい成人した平民を養子に迎えて、婚姻による提携関係を有利に進めたことが問題になったそうだ。外見が良くても、礼儀作法や考え方に問題があって、あとからさまざまな不具合が生じたという。
それならぼくの存在も良くないように思えるけれど、そこは同性で血を繋ぐことがないことと、テッセの家が一代限りの身分だからいいらしい。旦那さまがケサルダン侯爵と呼ばれる方だったなら、ぼくとの婚姻は絶対に許されないものだった。
「ぼくは、妹さんがどう思っていても構いません」
きっぱりと言ったつもりだったけれど、旦那さまの顔を見ることはできず、婚約の証にいただいた指輪を見つめていたせいで、ずっと弱々しい言い方になってしまった。
ぼくにはまともな家族がいなかったから、家族に愛されている旦那さまが眩しく、失うことの大きさもわからない。ぼくだけが良いと思っていても、旦那さまの本心はどうなんだろう。
「でも、テッセ卿がぼくのせいで嫌な思いをしてほしくありません……」
同性と婚姻するのはこの国で初めてだと聞いている。王様がいいと言っても、王様以外の偉いひともそう言うのだろうか。
「わたしは陛下の前で君に求婚した日からずっと後悔していない。むしろ、煩わしい縁談が止まったことを喜んでいる。何より、恋愛結婚できる立場であれたことが嬉しくてたまらない。侯爵家の人間のままでは、たとえ断われてもいいからと、愛おしいと思った相手に求婚しなかっただろう」
「どうしてですか。あの時のぼくは、みすぼらしいだけの罪人の家族だったのに」
ぼくが卑下する言葉を使うたびに旦那さまが悲しい顔をするから言わないようにしていたけれど、体格にも外見にも優れた旦那さまにぼくが一目惚れするとはわけが違う。
「理屈じゃない。恋に落ちるとはよく言ったもので、わたしは君を見た瞬間に世界が変わった。ものぐさで、大貴族の当主という重責から逃げたいだけで王の騎士になった私は、騎士という職責にもうんざりしていたんだ。それが、初めて権力のある地位にいて良かったと思った。君をわたしのものにできるから」
「理屈じゃない……たしかに、その感覚はわかります。ぼくもテッセ卿を見たとき、すごく綺麗だと思ったんです。だから、結婚できるって聞いて嬉しかった」
「では、両想いだ」
「はい」
いつも通りの穏やかなやりとりのあと、用事があるからと執務室に向かった旦那さまと別れ、自室に向かった。
窓の外にきらきら風に流れるものがあって、ぼくは少し悩んでからそっと覗いた。
「ハンカチ、足りますか?」
「……わたくしも持っているから平気よ」
返事をしないかもしれないと思っていたから、穏やかな返しにホッとした。旦那さまの妹なのだから、本当は優しいひとなのだろう。顔立ちがよく似ていることも、好意を抱く大きな要因だった。
「ここは日当りが良くて、すごく気持ちがいいところです。ゆっくりしてください」
きっと貴族のお嬢様が取り乱した顔をして人前には出られないのだろう。だから、屋敷の外の窓の下、こんなところで蹲っていた。旦那さまは怒っていたけれど、謝れば許してくれる人だ。
離れたところから執事が見ている。ぼくよりもずっといいタイミングで彼女を助けるだろうと判断して立ち去ろうとしたとき、彼女がぼくに話しかけた。
「あなたもお兄様が好きなのね」
「はい。テッセ卿はぼくのすべてです」
答えに困る問いかけじゃなくて良かったと思いながら振り返ると、泣いた後でもきれいな顔がこちらを向いていた。旦那さまとどこがというわけじゃなく、雰囲気が似ている。好きな顔だ。
「……っ、そこまで言わなくてもよろしくてよ」
「本心ですから」
「それなら……いいのよ。お兄様もあなたが好きみたいね。わたくし馬に蹴られてしまいますわ……」
「馬に蹴られたら死んでしまいます。近寄らないようにしてください」
どうして馬に蹴られるのかわからなかったけれど、こんな華奢なお嬢様が馬に蹴られたら大怪我だけでは済まないだろう。旦那さまによく似た彼女に不幸があるのは嫌だった。
「馬に蹴られるというのは、そういう言い方があるの」
「そうですか。勉強していますが、知らないことが多くて、ごめんなさい」
「……あなたは悪いひとではなさそうね」
ふっと微笑んだ彼女が、旦那さまと同じ笑い方をするから、やっぱり悪いひとには見えなかった。
「旦那さまに悪いひとが近付くのは難しいと思います」
「ふふ、そうね。お兄様は、そう。だからわたくしが排除されたのだわ」
「ルイナさまは悪いひとじゃありません」
勢いはあるけれど、憎めない、ずっとそんな印象だった。
「どうしてそう言い切れるの? だめよ、簡単に信じては。きょうだいであっても憎み合うこともあるもの」
ぼくよりも年下だろう彼女に、幼い子に言い聞かせるように諭される。
ぼくの家族やきょうだいは、ぼくを家族として認めなかった。知っているのに、ぼくの家族が普通ではなかっただけでよその家族は違うのだと、夢を見ていたかった自分に気付く。
「そう……ですね」
「わたくし、ラーディお兄様が嫌いなの。だから、ダインお兄様に帰ってきてほしかったの」
先ほどの言葉から、もしかして憎みあっているのだろうかと心配になったけれど、彼女の拗ねたような表情に、そこまで酷い確執があるわけではなさそうだった。
「でも、そうね。わたくしが家を出ればいいのだわ。婚約者に結婚を早める提案をしましょう」
「結婚……おめでとうございます」
「まだよ。でも近いうちにするわ。いつまでもケサルダン家の令嬢ではいられないものね」
伏せた目に睫毛の影が落ち、まるで一枚の絵のような……絵。美しい光景なのに、やけに胸が騒ぐ。
ルイナは結婚しようとしてはならない。相手には男の恋人がいる。どうしてぼくはそれを知っているのか。
「ルイナさま、結婚しないでください」
焦燥感のまま言葉だけが先に転げ落ちていく。どうしてぼくはこんなことを。
「え?」
「あの、すごく良くない気がするんです。テッセ卿にお願いします。ルイナさまはお家に帰らないで、ここにいたほうがいい」
彼女に何が起きるのか、不思議な絵が脳内に何枚も浮かび上がってくる。そこにぼくはいないけれど、テッセ卿がいる。彼は結婚してすぐに配偶者を亡くした人として。……結婚してすぐに、ぼくは死ぬのか。
「……死にたくない」
見える未来に自分がいない。旦那さまの笑顔がない。そんな未来を見たいわけじゃないのに。
「えっ? あなた、どうなさったの。誰か! 誰かいないの!」
回る景色に耐えられず、頭を抱えて蹲ると、優しい手がぼくの肩に添えられた。
「ルイナ! 何をしている!」
執事に呼ばれたのだろう旦那さまの声、ぼくを心配してくれたルイナさまを責めないでほしい。いいや、そうじゃない。ルイナさまが引き金になるから。
「ちが、ルイナさまは悪くありません。悪くないんです。お願いします、ここにルイナさまを置いてあげてください。帰らせたら、殺されるーー」
「なに?」
「どういうことなの」
頭の中に溢れる情報に耐えきれず、ぼくは目を閉じて現実から逃げ出した。
◇
ぐるぐると流れて行く物語。
ルイナは不幸だった。ダインも不幸だった。誰もが不幸ななか、一人笑っている美しい男がいた。あれは、この物語の主人公だ。王国の異分子、聖なる力を持つ、男でありながら第二王子をはじめとする複数の男性と愛を語る……
「ぼくに名前がないのは物語に登場しないから」
「リノ、目が覚めたのか」
ぼんやりとしていた自分の輪郭が、唐突にはっきりしたようだった。答えてくれるのは誰よりも大切なひと。
「テッセ卿……?」
リノはぼくの名前だ。旦那さまがつけてくれた、その他大勢ではない、ぼくだけの。
これは物語の世界だ。ぼくがいなくなってから始まる物語。だから、名前がなかった。でも、いま、ぼくのものになった名前とともに、話の筋が変わった気がした。いいや、変えなくてはならない。
「テッセ卿、ぼくはあなたと結婚して、生きていたい」
驚いた顔をしてから、旦那さまが笑顔になった。この笑顔を失わせてはいけない。これはぼくにだけ与えられる……特別な表情だ。
「もうすぐそうなる」
「いいえ、結婚してしばらくしてぼくは死んでしまう。どうやってかはわからないけれど。そして、悲しみに暮れるあなたの前に別のひとが現れるんです。そのひとはルイナさまの婚約者を奪い、邪魔なルイナさまを罪人として裁こうとする」
「リノ、リノ、どうしたんだ」
旦那さまに名を呼ばれるたびに、茫洋としていたぼくの輪郭がはっきりしていく。きっと今、ぼくは生まれたようなものだ。欠けていた感覚が戻された、そんな感じの。
「聞いてください。ぼくは知っているんです。ここは彼が主人公の世界だから、みんな彼が好きになって、邪魔なものは殺される。ぼくは、あなたと生きたい」
「生きるさ。不幸な未来があるとわかっているなら避けられる。君が不安なら、その不安がなくなるまでルイナをここに置く。ルイナの意思も、ケサルダンの意思も知ったことではない」
強い瞳、強い意思、どこまでも美しいぼくの好きなひと。
「わたくしの意見は聞いてもらえなさそうですわね……」
いつからいたのか、部屋の端にいたルイナさまが小さく呟いて、頬を膨らませた。美しいのに可愛らしい仕草だ。
「ルイナ」
「ルイナさま」
慌てて旦那さまと名を呼ぶと、肩にかかった巻き髪を払ってにっこりと笑った。
「いいわ。彩眼の予言ということにしましょう。不吉な予言しかしないという彩眼の伝承を逆手に取るのよ」
「彩眼……気持ち悪いだけじゃ、ないんですね」
「あなたがダインお兄さまの婚約者になったと聞いてから調べたの。たくさんの文献を調べて、わたくしは彩眼には最悪の未来を見る能力があったのだろうと考えたわ。長生きしないのは、心当たりのある不吉を予言された者に逆上されて殺されることが多かったようね」
言い終えると、ルイナはごめんね、と俯いた。結婚相手が男であることに加えて、そんな不吉な伝承があったから反対しようとしたのだと。
「ルイナ、わたしのことを想っての行動だろうが……」
「すぐに理解しました。リノ自身は不吉とは無関係でしょう。ダインお兄さまが心を許せるほどに優しい方でした」
「可愛い妹に理解してもらえて嬉しいよ」
厳しい態度を取ってきた旦那さまが、ルイナさまに微笑みかけた。いい場面なのに、ぼくは少し胸が痛んだ。まさか旦那さまが妹に微笑んだのに嫉妬しているとは言えない。いつのまに、ぼくはこんなに旦那さまを。
この物語の世界の記憶が蘇ったとはいえ、それを知る自分については全く蘇らない。ぼくはあくまで田舎の半地下で育った、みすぼらしい彩眼もちでしかないから。
ただ、眠っている間に蘇った物語のなかで、ぼくを亡くした旦那さまの悲しみにつけこんだ主人公が許せなかった。ルイナさまを陥れて婚約者を奪っておきながら、旦那さまにも気があるそぶりをする嫌なやつ。王様の前では清廉潔白なふりをする、たちの悪さ。
おそらく、生まれて初めて明確に嫌いになった人間だ。ぼくが会うこともない人間なのに。
「もう少し先、一年か、二年後ぐらいにルイナさまの婚約者に、男性の恋人ができます。その男性はいかにも清廉潔白な雰囲気を持っていますが、ルイナさまを陥れて、ぼくを亡くしたテッセ卿の寂しさを利用します」
いきなり捲し立てたぼくに驚いた様子だったけれど、内容は理解してもらえたようだ。
「それは、嫌な未来ですわね」
「はい。ですが、彼は信用されるから、止められないんです」
「ああ、それでわたくしが孤立して、陥れられるのね。教えてくださって、助かりましたわ」
「信じてくださるのですか」
「信じない理由がありませんもの。殿下は……わたくしの婚約者ですが、わたくしに興味がなさそうですの。男性がお好きというのなら、理解できますわ」
旦那さまを見ると厳しい顔をしている。信じられないのだろうか。
「リノの言葉を疑うわけではない。殿下がなかなか結婚しなかったのは、そういうわけだったのかと納得もした。わたしがリノと結婚したい気持ちに変わりはないけれど、殿下に都合のいい前例を作ってしまったのだろうか」
「よろしいのではないですか? わたくしはもう彼のことはどうでも良くなりましたし、男性が相手なら、継承争いの心配もありません」
ルイナがあっけらかんと言い放ったから、ぼくと旦那さまも目を見合わせた。たしかに、邪魔をしなければ揉めることもないなら。
そうなると、残る問題は。
「リノ、君に不幸があるのはどうしてか、見えたかい?」
「いいえ。見えたのは、ぼくがいなくなってからの世界でした」
役に立たないと言われるだろうか。やはり不幸しか見えない彩眼だと。
でも旦那さまは問題を整理したいだけだと、安心させるようにぼくの手を握った。
「ふむ……医者を屋敷に常駐させること、一人で行動しないこと、これぐらいだろうか」
「わたくしが一緒におりますわ。殿下へのお義理も不要になりますし」
お義理とはなんだろうと質問する間もなく、
「……だめだ。リノに女性のほうがいいと言われたら困る」
少し口を尖らせて旦那さまがそんなことを言うから、今度はぼくとルイナが目を見合わせた。
旦那さまのほうは見れなくて、顔が熱く口の端がむずむずとおかしな動きをしてしまう。
「あら、可愛い」
「リノ、笑っているのか」
これが笑顔? 顔の制御が効かない。気持ち悪く思われないのならいいのだけれど。
でも、どうしようもなく落ち着かなくて、ぼくの顔を覗き込む二人から隠すために両手で顔を覆った。
「おかしな顔をしてごめんなさい」
ぼくの手を優しく、でも強い力で引き剥がして、旦那さまが嬉しそうに笑う。旦那さまの笑顔は素晴らしいけれど、ぼくのはどうなのか……
「いいや、可愛い顔だ。結婚前に君の笑顔が見れて嬉しいよ」
「おかしくないなら、良かったです」
鼻同士がくっつくほど顔が近い。握られた手の力が強くなってくる……
「わたくしもいるということを忘れないでくださいまし」
すっかり忘れていた声が、ぼくたちを現実に戻した。
「あっ、ごめんなさいっ」
「黙っていてくれればいいものを」
旦那さまはそう言いながらも離れてくれた。顔が……顔だけじゃなくて全身が熱い。どうして旦那さまは平気なのだろう。いや、繋いだままの手が熱い。熱いのはぼくだけじゃなかった。
「結婚式まで我慢なさって」
見つめ合うぼくと旦那さまに、ルイナが再度釘を刺した。
「仕方ない。結婚式は内輪でこぢんまりと済ませるつもりだが、ルイナも参列するといい」
「喜んで参列させていただきますわ」
それからは、一番やることのないぼくが、ルイナのドレスの手配に付き合わされたりして、あっという間に結婚式の日を迎えた。
◇
出会った日のように陽光が美しく、飾りは色とりどりで明るい気分になった。この中にいれば、普通ではないぼくの瞳も紛れるだろう。
礼服をまとい、神の前で伴侶の誓いを立てる。
「神は祝福なされた」
型通りに告げられた言葉に、涙が出るほど幸せな気持ちになった。薄暗く、じめじめしたあの部屋で、一生を終えるはずだったぼくが、もう一人じゃない。
たとえ未来がなくても、この瞬間のおかげでぼく自身は幸せな人生になった。
ささやかな式と言われていたけれど、ぼくから見ればじゅうぶんに華やかな結婚式だった。
お祝いの言葉は、国王とケサルダンの当主から。国王の名代として来た侍従の姿をした人が、国王そっくりだったのは気のせいだろう。旦那さまは苦い顔で「そっくりな侍従がいるんだ、そういうことにしてくれ」と呟いた。
ケサルダンの当主も参列はせず、代わりにルイナが当主の言葉を読み上げてくれた。ルイナも華やかなドレスが花束のようだった。
式はすぐに終わり、そのまま庭で食事会となった。テッセ家の屋敷の中に、皆が入れるような大きな部屋がないからだ。お客様は王様の侍従とルイナだけだから、二人は同じテーブルになった。楽しそうに話をしていたから、顔見知りだったのかもしれない。
食べている皆を眺めていると、肩に大きな手が乗せられ、そっと引き寄せられた。耳をくすぐるのは旦那さまの吐息だ。
「リノ、楽しめているか?」
「はい。夢みたいです。こんな幸せを知ることができて、感謝しています」
「感謝だけか?」
至近距離でじっと見つめられ、思わず俯いて言葉を絞り出した。
「……その、愛、しています?」
「嬉しいよ」
今はこれぐらいで勘弁してあげよう、と他の人に聞こえないように囁かれた。ぼくはどうなってしまうのだろうか。
でも、旦那さまと一緒にいられるのなら、どうなっても構わない。ただし生きていなくては、一緒にいられない。
幸せが形になったような光景、これをずっと旦那さまと見て生きたい。
「……ぼくは、どうして死んでしまうのでしょう」
「リノ」
「旦那さまとずっと一緒にいたいのです」
肩に置かれた手に力が入った。痛いほどではなく、ぼくを離さないとでもいうような。
「必ず……必ず、変えてみせる。ルイナは変わった。未来は定まっていない。そのはずだ」
定まらないということが良いことのようで、胸が熱くなる。気味の悪いぼくの眼に理由を与えられた。
「定まらない……ぼくの眼みたいだ」
「そういうことだ。素晴らしい」
当たり前のように褒めてくれるから、本当に素晴らしいものに思えてくる。どうせなら、ルイナの行動で変わった未来も見えたらいいのに。
せめて、旦那さまが暗い顔をする未来だけでも避けたい思うと、ぼくが生きなくてはならない。なんて幸せなことだろう。
「死にません。絶対に」
言葉には力がある、そう信じて。
◇
ぼくたちの結婚式のあと、ルイナは王家の別荘地がある町に向かった。王子と神官が出会う町に。
そしてすぐに戻ってきた。銀髪の美しい青年を連れて。
「見つけたから、連れてきちゃいましたの」
「えっと、ルイナ様からお話を伺いました」
ルイナの後ろで小さくなっている彼は、ぼくが見た未来の彼よりずっと控えめな様子だった。自分がやらかす話を聞いて動揺したのだろうか。
「この方、もう少しで領主に手篭めにされそうになっていらしたの」
「あの、ルイナ様、その話は」
「お黙りなさい」
「うぅ」
二人の間に気安い空気が流れている。ただし、年頃の男女というより姉と弟という雰囲気だ。
「わたくし、彼がどうして同性に依存するのか考えていましたの。心理学の文献に、性的な虐待を受けた者が代償としてその行為に依存することがあるという記述を見つけたんですの」
はい、と本を渡すルイナに、旦那さまは受け取ってパラパラと捲り栞のついたところを読んだ。
「彼は領主に手篭めにされたことをきっかけに男性に依存するようになったということか」
「あの、されていません」
「黙りなさい。予言の話ですわ」
ぴしゃりとルイナに言われ、神官とぼくが小さくなった。そんなぼくの背に手を当てた旦那さま。
「ルイナ、彼を連れてきたことに問題はないのか」
「ちょうど領主の館に送り出されたところを、娼婦と入れ替えて参りました。もちろん娼婦の方には事情の説明と十分な報酬を与えていますわ」
胸を張るルイナと、未婚の令嬢と真逆の存在である娼婦という言葉に落ち着かない気持ちになる。貴族の感覚ではありなのだろうか。
旦那さまはとくに気にした様子もなく、ほかのことに気を取られたようだった。
「女性を?」
「男装の麗人だったという設定ですわ。あの領主は男性をターゲットにしているのではなく、見目麗しい若者ならどちらでも構わないようでしたから。天使のような外見でなかなかに強かな方でしたから、うまくいけば二度と手篭めにされる若者も出ないでしょう」
得意げなルイナに、旦那さまは感心している。ぼくにはよくわからないけれど、うまくやってくれたようだ。
それよりも、神官の視線がチラチラと旦那さまに向いているのが気になる。落ち着かない気持ちで彼を見ていると、ぼくが見ていることに気付いた。
「あっ、ごめんなさい」
「どうしましたの?」
「僕が悪いんです。ご主人が格好良いからつい見てしまって」
「貴方はこの先に運命の出会いを果たしますわ」
「そう……だと嬉しいんですが」
なおもチラチラと旦那さま見る神官の視線を遮るように、ルイナが腰に手を当てて立ちはだかった。
「わたくしが! 出会わせてあげるのです!」
「はい!」
「決して邪魔者扱いしてはなりませんよ」
ルイナはぼくの話したことを全て信じてくれている。その上でこの神官を味方にして、不幸な未来が来ないように考えてくれた。
「ルイナは末っ子だから、弟ができたようで嬉しいのだろう」
「そうなんですね。これから、どうなるんでしょう……」
「何も心配はいらない。君を危険には、晒さない」
神官はすでにルイナの婚約者である王子と面識があるらしい。好意を抱いたが、同性であることと身分差に、別世界の住人だと諦めていた。だから領主の呼び出しの目的がわかっていても応じたという。
自分は同性しか愛せないから、やり方があるなら知っておきたい、と。
ぼくは旦那さまと……初夜を迎えていたけれど、あれを旦那さま以外の人間としたいとは思わない。心が伴うからいいのだろうに。
「ぼくは、旦那さまといられれば、いいんです」
「ずっと一緒にいられるさ」
◇
だけどその半年後、ぼくは流行病に倒れた。
普通は子どものときにかかっていて、軽い症状しか出ないというそれは、大人になって初めてかかるぼくには激しい症状が出た。
立っていられなくなってから三日で、ぼくは指先を動かすことすら難しくなっていた。霞む視界の人影は、旦那さまろうか。
「リノ、リノ。何故こんなことに」
「この病気を大人になってから初めて発症したときの生存率は五割ほどです。体力があれば生存側になることもできましょうが」
「体力……かなりついたはずだ。この一年半で……」
「それでも、健康に育ってきた人間とは違います。テッセ卿」
「そんな」
「お兄様さま!」
「ルイナ?」
「医学がだめなら神頼みですわ」
「何を」
ルイナに連れてこられた神官が、顔色を変えて祈りを捧げた。医師も隣で祈りはじめていた。
「神……神よ、リノは善良で優しい人です。まだこの世で知るべきことがたくさんあります。神よ……」
旦那さまも祈っていた。
ぼくは、ここで終わりかと思っていたんだ。ぼく自身は幸せだった。愛するひとに看取られるなら悪くない。でも、旦那さまに悲しい思いをしてほしくなかった。
神様の存在なんて信じていなかったけれど。
目を閉じて旦那さまのために死にたくないと祈っていると、ふと身体が軽くなった。
自分と、周りで祈るひとたちを見下ろしている。
ーーダメだったのか。
ぼくが死ぬ運命は変えられなかったのかと涙が溢れる。その雫が、偶然神官の上に落ちた。
現実の涙ではないのに、神官が上を向き、ぼくを見た。
「神よ! 彼はまだその時ではありません。連れて行かないで」
その瞬間、彼から鎖が伸びてぼくの足に絡まった。とても乱暴に引き摺り下ろされ、自分の身体にたたきつけられる。
衝撃はなかったけれど、急に息が苦しくなって、ぼくは大きく喘いだ。
「リノが息を吹き返した! リノ! リノ、私がわかるか」
「だ……んな、さま」
すぐに大きな身体がぼくに覆い被さってきて、その温かさに生きていることを実感する。
旦那さまの向こうに、ルイナが「やるじゃない」と神官の背を叩いているのが見えた。
未来が変わった。ぼくは生き延びたんだ。
ぼくは、力の入らない手を必死で伸ばして、ぼくの生きる理由を抱きしめた。
◇
あの後、神官は強い癒しの力があるとしてルイナから王子に紹介され、運命の再会を果たした二人は結婚した。ルイナは、他国の王子が婚約破棄の噂を聞きつけて求婚してきたから悩んでいるらしい。




