第4話 旅館の怪異
本物の霊能者はいない。
そう、心霊協会の霊能者が断言し、保証した。
霊能者になってみませんか。そう編集者に言われ心霊協会を紹介され、志していた私だったが、もはや私の心は冷めかけていた。
最初は怒りもあった。
そもそも最初にK林編集からこの話を持ち掛けられた時、別段「霊能者になる事を社の企画として正式に~」とは言われていない。あくまでもK林個人がM堂に私を紹介して企んだ個人企画に過ぎないのだ。出版社と正式な契約を交わしているわけではない。
つまり守秘義務も何もないのだ。実名付きでこのまま暴露してやろうか!
……そう思ったこともあったが、私はそれを行う事は無かった。
霊能者は、いない。
そう発言、発信する人はたくさんいる。本やインターネットを見ればひれこそ大量に。
だが、その真実の暴露が世界を動かしたことがどれだけあっただろうか。
偉大なるマジシャンにしてサイキック・ハンターのハリー・フーディーニという男がいた。
母を亡くし、母の霊を求めた心霊肯定派だった彼は、しかしそのマジシャンという正業の知識故に、多くのインチキ霊媒師たちの所業を見破ってしまい、絶望し、そして心霊詐欺師たちの詐欺を暴き続けた。
だが、それで世界は変わったのか。何も変わってはいない。ただ当時の心霊詐欺師たちの商売があがっただけであり、マクロな視点で見れば……何も変わらなかった。
「確かにそいつはいんちきだった、だけどだから全ての霊媒師が詐欺だと決めつけるのはどうか? 白いカラスがいたからといって全てのカラスが白ではないのだ」
そう、したり顔で識者が言う。正論である。そして現実として、世界は何も変わらない。
人は自分の信じたいものだけを、盲目的に信じる――そう言ったM堂の言葉が耳に残る。
だったら、私にはもう何もできる事は――無いのではないか。
真実や事実など、空想や幻想の前では何の力も無い。それは漫画家である私が一番わかっている。
幻滅し失望した私だったが、しかし――協会から離れる事は出来ないでいた。
ここにいればネタ集め、情報収集になる。
そう自分に言い訳をして、だらだらと。
そして私は、心霊協会での日々の仕事の先で、運命を変える出会いをすることになる。
霊能者も心霊も偽物でしかない――そう思っていた中で、確かにそうだと思える、「本物」との出会いを。
◇
「事故物件……ですか」
「はい。旅館に出る、という噂が立っていまして、どうにかしてほしい……という依頼です」
「事故物件の除霊依頼……」
私はM堂の言葉を反芻した。よく聞く言葉である。というか、私は今住んでいる部屋がそれなのではないかと疑っていた。
金縛りにあったからである。
隣が寺で、そして墓場もあるし。まあ気のせいだろう。だって……
「やはり事故物件……霊が出る家、というのも……無いんですか」
私のその質問に、M堂は事なげに言った。
「無いですね」
案の定だった。
「本人の主観としては、確かに心霊現象、恐怖体験は起きているのでしょう。
ですがそれはたいていの場合、心理的なものなんですよ。金縛りや幽体離脱と同じく、明晰夢の一種ですね。
他にも電磁波だの振動だの部屋の歪みだのといったものが、住んでいる人に悪影響を与える事は知られています。原因がだいたい決まっているので、やりやすいんですよこういうのは。
いいお客様です」
「そして私もその除霊の手伝いを、ですか」
「はい。いいネタになるでしょう?」
M堂は笑う。私に拒否する理由は無かった。
どうせ霊などいないのだ。
そうして私は、M堂の除霊に同行することとなった。
◇
旅館に到着すると、そこは古びてはいるものの、手入れの行き届いた趣のある建物だった。
しかし、どこか重苦しい空気が漂っている。従業員たちの顔には疲労の色が濃く、ぎこちない笑顔が張り付いていた。
M堂は到着するやいなや、彼ら一人一人に声をかけ、仕事内容や最近の出来事について丁寧に聞き取りを始めた。私はその後ろで、メモを取りながらその様子を観察する。彼の質問は、霊的な現象ではなく、従業員の労働時間、人間関係、宿泊客からのクレーム、経営状況といった、ごく現実的な問題に集中していた。
数時間後、M堂はにこやかに私に振り返った。
「やはり、私が見たところ、霊的なものは一切感じられませんね。これは完全に、従業員の皆さんのストレスと疲労、そしてそれに伴う集団ヒステリーの類でしょう。旅館の経営状況が芳しくない上に、人手不足。心労が重なり、ちょっとした物音や影を、霊の仕業だと誤解してしまった。よくあることです」
M堂の言葉に、私は深く頷いた。私もそう思っていたからだ。霊などいないのだから。
「では、除霊とは言っても、具体的な作業は?」
私が尋ねると、M堂は肩をすくめた。
「別に何も」
その夜、私はM堂と共に、旅館の一室に宿泊することになった。除霊作業は明日から本格的に行うという。
「いいですね、一晩泊まってみて。何か感じるものがあれば、それもまたネタになりますから」
M堂はそう言って、別の部屋へと消えていった。
私は与えられた部屋に入り、荷物を置いた。特に変わった様子はない。窓の外からは、夜の静寂が広がる。こんな場所で、本当に心霊現象が起きるというのか。私は半信半疑のまま、布団に潜り込んだ。
疲労が溜まっていたのか、すぐに深い眠りに落ちた。
だが、その眠りは穏やかなものではなかった。
夢を見た。
それは、昔家にあった、古びた日本人形だった。長い黒髪、白い肌、薄紅色の唇。無表情な顔は、どこか不気味さをまとっている。夢の中の私は、その人形と対峙していた。人形は最初、ただそこに座っているだけだった。
しかし、次第にその表情に変化が現れる。薄紅色の唇が、ゆっくりと弧を描き、笑みを浮かべた。その笑みは、まるで私を嘲笑っているかのようだった。
そして、人形が動いた。
カクカクとしたぎこちない動きで、人形は私に向かって歩み寄ってくる。その小さな手には、鋭い刃物のようなものが握られていた。恐怖で体が硬直し、声も出ない。逃げようにも足が動かない。人形はゆっくりと、しかし確実に私との距離を詰めてくる。その瞳は、私を捕食する獣のようにギラギラと光っていた。
「見つけた……」
人形の口から、子供のような、しかし妙に低く響く声が聞こえた。その声は、私の脳髄を直接揺さぶるような不快な響きだった。刃物が振り上げられ、私の体に突き刺さる――その瞬間、私は飛び起きた。
「はっ、はっ、は……!」
心臓が激しく脈打つ。全身から冷や汗が噴き出し、呼吸は乱れていた。
夢だ。ただの夢だ。そもそも昔、私の家にはあのような人形など無かっった。
そう自分に言い聞かせても、体の震えは止まらない。
夢にしては、あまりにも生々しかった。人形の表情、声、そして刃物の冷たい感触まで、まるで現実の出来事のように感じられた。
私はしばらくの間、布団の中で身を震わせていた。こんな夢を見るなんて、やはりこの旅館には何かあるのだろうか。
いや、違う。M堂の言う通り、私の心が疲れているだけだ。霊などいない。
そう言い聞かせ、なんとか再び眠りにつこうと試みた。しかし、一度覚醒してしまった意識は、容易には眠りへと戻ってくれない。結局、私はほとんど眠れないまま、朝を迎えることになった。
翌朝、私は寝不足で重い頭を抱えながら、M堂と合流した。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
M堂はいつも通りの爽やかな笑顔で私に尋ねた。
「ええ、まあ……」
私は曖昧に答えた。昨夜の夢の話は、なんとなく口にしたくなかった。
「さて、それでは今日の除霊作業の前に、少し霊視をしてみましょうか」
M堂の言葉に、私は内心驚いた。霊視?昨日はあれほど科学的、心理的なアプローチを強調していたM堂が、なぜ急に霊視などと言い出すのか。
……ああ、そうか。パフォーマンスだ。
M堂は従業員の集まった旅館の中庭に立ち、目を閉じ、両手を広げた。まるで舞台役者のような、大仰な仕草だ。私は傍らで、冷静にその様子を観察する。彼の表情は真剣そのものだったが、私にはそれが演技に見えた。
しばらくの間、M堂は微動だにしなかった。そして、ゆっくりと目を開き、深いため息をついた。
「……なるほど。やはり、ここにいるのは、この旅館の先祖の霊ですね」
M堂はそう断言した。
「先祖の霊、ですか……」
「ええ。ここは古い旅館ですし、先祖の因縁が強く残っていますね。
ここは最初から旅館ではありませんでした。しかし四代前の当主が旅館を始めたのが……それが五代目以前の先祖の怒りに触れているようです。
自分の家に見知らぬ連中が足を踏み入れているのが許せない……という怒りですね」
M堂はそう言って、再び目を閉じた。
「よし、それでは除霊を行いましょう。彼らの想いを鎮め、安らかな眠りへと導く。そして、この旅館の未来を、彼らが安心して見守れるよう、道筋を示してあげればいい」
M堂はそう言って、懐から数珠を取り出し、呪文のようなものを唱え始めた。それは、私が初めてM堂に会った時に見た、あのインチキ霊能者たちと何ら変わらない光景だった。
(これは霊視ではない。完全に情報収集の成果だ)
私はそう確信した。M堂は昨日の聞き取りで、この旅館の歴史や、先祖代々受け継がれてきたという話、そして経営難に対する従業員たちの不安、そういった情報を巧妙に引き出していた。
いや、きっとそれすらもパフォーマンスだ。協会は大量の情報収集をしていた、きっと依頼を受けた時点で調べをつけていたのだろう。
従業員から聞いた話ではない情報もこうやって話す――本物だ、と思わせるために。
そして、除霊と称して、適当な儀式を行い安心させる。
M堂のやり方は、確かに人々を安心させるのだろう。だが対処療法に過ぎない。偽薬を処方して、これで安心ですよと飲ませて大金をふんだくり、再発したらまた偽薬をだす悪徳医者のようなものだ。
だが私はM堂の言葉に、反論する気にはなれなかった。どうせ霊などいないのだ。M堂のやっていることは、一種のセラピーである。それならば、それでいいではないか。人々の心が救われるのであれば。
私は黙って、M堂の「除霊」を見守ることにした。
M堂が数珠を手に、真剣な面持ちで呪文を唱え続けている、その時だった。
旅館の玄関がガラリと音を立てて開き、一人の青年が慌ただしく入ってきた。彼の隣には、もう一人、見慣れない男が立っていた。
その男は、白いコートを羽織っただ、二十代から三十代くらいの男だった。長髪を後ろでくくり、その若々しい顔のあごにはうっすらと髭が生えている。
その視線は、M堂の「除霊」の様子を、興味深そうに見つめている。
青年はM堂に気づくと、申し訳なさそうな顔で駆け寄ってきた。
「M堂先生、申し訳ありません。お忙しいところ、大変恐縮なのですが……」
青年はちらりと隣の男に視線を送り、M堂に耳打ちするように言った。
「実は、うちの母親が、先生とは別に、別の先生にも連絡を取ってしまいまして……」
M堂は一瞬、眉をひそめたが、すぐに笑顔に戻った。
「ああ、構いませんよ。熱心なのは良いことです。ダブルブッキングもまあ、よくあることですからね。……彼はどこの霊能者ですか?」
M堂が促すと、若旦那は隣の男をM堂の前に連れてきた。
男はM堂と私に向かって、すっと頭を下げた。
「初めまして、法術師の羽々桐鷹也です」




