第3話 神の香り
翌朝、H霊能協会のメンバーが集まる中、私たちはバスで霊山へと向かった。参加者は私を含めて10人ほど。
新入り訓練生の他に、S木先生とT中が同行していた。バスの中では、S木先生が登山の目的を説明している。
「この霊山は、古くから霊的なエネルギーが集まる場所として知られています。今日の目的は、皆さんの感知能力を高めること。山の自然と共鳴し、自身の内なるエネルギーを引き出すのです。恐れず、心を開いてください」
バスが山のふもとに到着すると、朝靄が立ち込める中、私たちは登山道を歩き始めた。木々の間を抜ける風が涼しく、鳥のさえずりが響く。
登山道を進むにつれ、S木先生が時折立ち止まり、特定の木や岩に触れながら説明を加えた。
「この場所は、エネルギーの流れが強いポイントです。目を閉じて、意識を集中してみてください。何か感じるはずです。例えば私はよく、そこにあるはずのない、甘い香りをよく感じたりしますよ」
私は指示に従い、目を閉じて深呼吸した。だが、正直なところ、何も感じなかった。ただの森の匂いと、冷たい空気だけ。隣にいた訓練生の一人が、
「何か温かいものを感じます!」
と興奮気味に言うと、他のメンバーも口々に、
「確かに!」「不思議な感じがする!」
と声を上げた。
私は少し焦りを感じた――なぜ私には何も感じられないんだ? S木先生は私の様子に気づいたのか、穏やかに近づいてきた。
「十凪さん、焦らなくて大丈夫。感知能力は人によって開花のタイミングが異なります。あなたにはすでに素質があるんですから、信じて続けてください」
その言葉に少し安心しつつも、内心ではあの鑑定会の違和感がよみがえっていた。みんなが感じているという「エネルギー」は、本当に存在するのか? それとも、集団心理で盛り上がっているだけなのか? そんな疑問を抱えながら、登山は続いていく。
……疲れた。
私は緩やかな山道を登りながら自身の運動不足を嘆く。まあ漫画家という職業上、仕方ないのだが。
そして私は、栄養補給を行う事にした。
この日のために用意していた秘密兵器――というわけではないが、口が寂しい時に食べることにしていた、飴とチョコレートだ。
どちらにするか。
その日は、なんとなしにチョコレートの気分だった。特に疲れていたし、カロリーが欲しかったのである。
私は包装フィルムをほどき、小さな四角形のチョコレートを口に入れる。甘味が口に広がった。美味い。
二個、三個と口にする。うむ、元気が出てきた。
そんな時だった。
先に進んでいる人たちがこう言い出したのだ。
「なにこれ、甘い香りがする」
「なんていい香り!」
「これはもしかして、先生がおっしゃっていた香り?」
「神の香りだ!」
訓練生たちは、次々と言い出して深呼吸をする。
……ん?
ちょっと待って欲しい。確かに甘い匂いはする。ああ認めよう。霊感の無い私でもわかる。
だけど。
だけどそれは。
先生、何か言ってやってください!
「ええ、これこそ神の香りです。霊香や神香と呼ばれ、霊的な加護が降りるサインなんですよ!」
……いや、これは、私の食ってたチョコレートの香りです。
もっとざっくばらんにストレートで言うと、私の口臭です。
口臭なんです。
……だけど、私はそれを告げる勇気は……無かった。
◇
それから登山をして祠に行って何をどうしたかは、あまり覚えていない。
私の頭にあったのは。霊能者であり指導者であるS木先生の言葉。
『ええ、これこそ神の香りです。霊香や神香と呼ばれ、霊的な加護が降りるサインなんですよ!』
霊能者なら。
参加者のチョコレート風味の口臭でしかないとわかっていたはずである。俺の口から霊的な神のパワーが噴出でもしていない限りは。そしてその可能性は絶対にあり得ない。
だがS木は断言していた、霊香や神香と呼ばれるものだ、と。笑顔で。
……詐欺。
私の頭に、ずっと浮かべまいと思っていた単語が去来する。
いや、そうとは限らない。あれだけ盛り上がっていた訓練生たちの雰囲気を壊さないためにあえて嘘をついただけかもしれないではないか。空気を読んだだけで嘘でも詐欺でもない。
そう擁護してみるものの、しっくりこない。
結局私は、その後のセッションを体調が悪い、気分がすぐれない、漫画の原稿がある、と言い訳して欠席したまま、Hリトリートセンターでの郊外セッションを終えた。
◇
郊外セッションを終え、M堂がいつものように穏やかな口調で尋ねてきた。
「どうでした、郊外セッションは」
私は、どう言葉にすればいいのか迷った。しかし結局、あのチョコレートの一件を、包み隠さず話してしまった。
「……そう言う事がありましたか」
「ええ。あの時の甘い香りは、霊的なものなどでは、決してなかったと思うのですが……」
私の言葉尻には、確信と、それでもどこか縋るような響きが宿っていた。
「そうですか。でもね、原因が何であれ、人々は霊的な出来事、つまり奇跡を求めているんです。そして、その奇跡を求める者がいるならば、我々は、それを演出すべきなんです」
M堂は悪びれることなく、薄い笑みを浮かべた。
「彼らが信じれば信じるほど、我々の力は効力を増し、結果として人々を救うことに繋がるのです」
……本当にそうなのだろうか。
M堂の言葉は、表面的には軽やかに私の耳を通り過ぎたが、その奥底に潜む、おぞましいまでの現実感が、私の胸に深く突き刺さった。
「演出すべき」――その言葉は、頭の中で反響し、私を苛む。もし、霊的な力が信じる心によって増幅されるものだとしても、その根源が「演技」であるならば、それは果たして真の「救い」たり得るのだろうか?
「十凪さん、眉間にしわが寄ってますよ」
M堂は、私の内面を見透かすかのように、軽く笑みを浮かべた。
「いや、なんというか……つい、深く考え込んでしまって。霊的な力って、本当に存在するのか、疑ってしまうんです。
今回の登山での皆さんの高揚も、集団心理が生み出した幻想に過ぎないのでは、と……」
私の声には、隠しきれない困惑と、諦めにも似た響きが混じっていた。
私の言葉を聞いたM堂は、一瞬、目の奥に鋭い光を宿したが、すぐにいつもの、貼り付けたような穏やかな笑顔に戻った。
「ふむ、さすが漫画家。その観察眼は鋭いですね。確かに、集団心理は、計り知れないほどの役割を果たします。
人が集い、一つの信念を共有することで、場のエネルギーは増幅され、それが、あたかも霊的な現象であるかのように、人々を捉える一因となるのですよ」
彼の言葉は、論理的でありながら、同時に、私の最も触れたい核心を巧みに避けているように感じられた。
私はさらに深く切り込んだ。
「でも、先ほどの『演出すべき』という言葉が、どうしても腑に落ちないんです。演技で人を感動させる行為は、霊能者として、本当に正しいことなのでしょうか? それは、ただの……詐欺、ではないのですか?」
ついに、私の口から禁断の言葉が漏れ出た。
M堂の顔から、一瞬にして笑顔が消え失せ、冷たい仮面が張り付いたかのように見えた。しかし、彼はすぐにその動揺を隠し、ゆっくりと、しかし確信に満ちた口調で話し始めた。
「十凪さん、厳しい言葉ですね。ですが、考えてもみてください。人が救済されるためには、時には『形』が必要なのです。
例えば、医師が患者に薬を処方する際、その薬の効果を心から信じさせることで、実際の効能が飛躍的に高まることがあります。
いわゆるプラセボ効果というものですね。
霊能の世界も、本質的にはそれと何ら変わりありません。依頼人が我々を信じることで、彼らの閉ざされた心が開き、癒しや問題解決への道筋が拓かれるのです。それを『演技』と呼ぶか、『演出』と呼ぶか。それは、言葉の綾に過ぎないのですよ」
M堂の理路整然とした説明は、確かに一見すると正論に聞こえた。
だが、私の心の奥底では、どうしても納得できないものがくすぶり続けていた。
チョコレートの匂いを「神の香り」と偽ったS木先生の偽りの笑顔、それに純粋に感動した訓練生たちの無垢な瞳、そして、M堂が語るこの冷徹な理屈――
H霊能協会の真の「本質」とは、人々に希望や癒しを与える崇高なものなのか、それとも、ただ信じる心を利用した、より深い、別の目的が隠されているのか。その疑問は、私の中で、ますます肥大していった。
「十凪さん、考えすぎるのは、あまり良くないですよ」
M堂は、私の深く沈んだ沈黙を破るように、軽く、しかし有無を言わせぬ調子で、私の肩を叩いた。
「……以前、あなたに事務仕事を何度もお願いしましたよね。
あれも、全く同じことですよ。あの集計データは全て、我々の協会の霊能者が、見事なまでに有効活用しているのです。
全ては、依頼人、相談者たちの、救済のため。もう、あなたも理解していることでしょう。
ホットリーディングと、コールドリーディングを」
M堂は、何の悪びれもなく、淡々と続ける。
ホットリーディング――事前に得た情報を巧みに用い、さも今この場で霊視したかのように見せかける技術。
コールドリーディング――相手の表情、仕草、そして何気ない会話の端々から、情報を拾い集める技術。
それは、まさに偽の霊能者が用いる、詐欺師の常套手段。
M堂は、我々がそれを駆使しているのだと、告げているのだ。
「それでは……まるで、心霊そのもの、霊能力の存在を、根本から否定しているようなものではありませんか!」
私は、怒りに震える声で、M堂に食ってかかった。
「……十凪さん」
M堂は、静かに、しかし有無を言わせぬ重みのある声で言った。
「あなたは、この協会に紹介されて以来、多くのことを見てきた。そして、信頼に足る人物だと私は判断しています。
漫画家、つまり創作者であるならば、この深淵な真実を理解できるはずです。
ここを訪れる方々は皆、霊能者は実在する、自分や家族は霊に憑かれている、自分には霊感がある、守護霊が守ってくれている――
そう、「自分の信じたいものだけを、盲目的に信じる」人々ばかりなのです」
M堂は、「自分の信じたいものだけを信じる人」と、静かに、しかし明確に言い放った。それは、彼らが「愚か者」であると、言外にそう言っているのだ。
「そして、我々の行っていることは、決して詐欺などではありません。
会員の方々が心から感謝しているのは、あなたも目の当たりにしてきたはずでしょう?
誰からも訴えられることなく、互いの損益が成立していれば、それは詐欺ではなく、正当なビジネスなのです。
仏教の教えにもあるではありませんか、『嘘も方便』と。
我々は、そうやって人々の心に寄り添い、救い上げる、高尚なカウンセリングを通じて、人助けをしているに過ぎないのですよ」
M堂の言葉には一片の隙もない。
「なお、霊の存在を盲信し、自分には霊感がある――そう思い込んでいる方は、霊能者としての資格も、適性も、一切ありません」
M堂は、まるでとどめを刺すかのように、そう言い放った。
そして、私の凍り付いた表情を見てか、先生は懐疑的でしたから大丈夫。あなたには十分に資格がありますよ、と言葉を付け加えた。
「……では。テレビや本で語られるような、本物の霊能者は……」
私の絞り出すような問いに、M堂は、悪魔的なまでの笑顔で応えた。
「これは、決して、決して、書かないでくださいね。まあ、あなたほどの賢明な方が、そんな愚かな真似をするとは思えませんが……」
そして、私の残された幻想を打ち砕く、決定的な一言を、静かに、しかし容赦なく放った。
「いません」