第18話 私は霊能者を目指していました
あれから、さらに一ヶ月の月日が流れた。
某出版社の、無機質な会議室。私は編集者のK林と、向かい合って座っていた。
テーブルの上には、私が持ち込んだ新しい連載企画のネームが広がっている。今回は、これまでのような実体験ベースのオカルトものではなく、完全な創作ファンタジーだ。
「……面白いじゃないですか、十凪さん。こっちの路線もいけるんですね」
K林が感心したように言いながら、ネームのページをめくっていく。その言葉に、私は曖昧に笑って見せた。
元々そういう方面で描いてたんだよ、とはここでは口に出さない。
「それで……例の件、聞いてもいいですか?」
一通りネームに目を通し終えたK林が、ふと真顔になって切り出した。例の件、というのが何を指すのかは、聞くまでもなかった。N沢の従姉妹の一件と、その後の私の決断についてだ。
「なんで、やめたんですか」
単刀直入な問いだった。そこには、純粋な好奇心と、少しばかりの戸惑いが滲んでいる。
「せっかく、本物の力に触れて、それを自分のものにしかけていたのに。もったいない、って思っちゃいますよ、凡人からすると」
「……」
「ご友人のN沢さんとその親戚の方も、大喜びだったんでしょ?
聞きましたよ、N沢さんから。もう、十凪先生、十凪先生って、神様みたいに崇めてたって」
K林は、さらに言葉を続ける。
彼の声には、非難の色はない。ただ、どうしても理解できない、という感情が率直に表れていた。
「それとも、何か考えがあるとか?今回の一件で箔もついたし、これを機に、法術を応用して新しい霊能者ビジネスでも始めようとしてるとか……?」
「いえ、そういうことじゃありません」
私は、彼の言葉を静かに遮った。そして、一度ゆっくりと息を吐き、ずっと胸の内にあった言葉を紡ぎ始める。
「怖かったんです」
「……え?」
予想外の答えだったのだろう。K林が、きょとんとした顔で私を見つめる。
「怖いって……何がです? 霊が? それとも、術を使うことの反動とか……」
「いえ……怖かったのは、彼らの目です」
「目?」
K林の眉が、わずかに寄せられる。
私は、あの日の光景をありありと思い出していた。二週間にわたる治療を終え、すっかり元気になった少女。涙を流して何度も頭を下げる彼女の両親。
「神様を……見るような瞳でした」
私は、テーブルの上で自分の指を組んだ。
「感謝と、尊敬と……そして、絶対的な信頼。私が言うことなら、どんな無茶なことでも信じてしまうような、そんな目でした」
「そりゃあ、そうでしょう。身内を救ってくれたんですから。感謝もしますし、尊敬もしますよ」
「ええ。分かっています。だからこそ、怖かった」
あの最後の日、N沢の親戚一同は、私とのために、盛大な宴席を設けてくれた。快気祝い、そして私たちへの感謝の宴だ。
立派な尾頭付きの鯛が乗り、地元の銘酒が並んだ。親戚中の人間が集まり、代わる代わる私の元へ来ては酒を注ぎ、感謝の言葉を述べていく。
その中で、私は言いようのない居心地の悪さと、背筋が凍るような恐怖を感じていた。
彼らの視線が、言葉が、歓待が、温かく、心地よい沼のように感じられた。一度浸かってしまえば、決して抜け出せない、底なしの沼だ。
宴が終わった後、帰り際に、父親が分厚い封筒を差し出してきた。謝礼だ。
私は、これは修行の一環であり、師匠の指示でやっていることだから、と固辞した。
だが、逆効果だった。なんと素晴らしい方だ、という陶酔の視線と言葉。
「これからも、娘をお願いします」
彼はそう言った。
もう彼女の霊障は終わったと言うのに。
それはつまり……そういうことだ。
彼は、私と娘をくっつけようとすら考えていた。
「あの歓待と、謝礼と、尊敬の眼差しの中で……私は、はっきりと気づいたんです。ここにいたら、私は腐る、って」
K林は、黙って私の話に耳を傾けている。
「彼らには、何の悪意もありません。ただ、純粋に感謝してくれただけです。でも、だからこそ、それは抗いようのない闇になる」
「悪意なき……闇、ですか」
「はい。あそこで、彼らの『先生』として、神様のように崇められて生きていくには……御輿に担がれて、その心地よさに身を委ねて生きていくには……私は、あまりにも未熟すぎた」
私は自嘲気味に笑った。
「修行も、人格も、能力も……何もかもが、彼らの期待には遠く及ばない。それなのに、彼らは私を『本物』だと信じて疑わない。
そのギャップが、恐ろしかった。いつか、その期待に応えるために、私は嘘をつき始めるんじゃないか。分からないことを分かったふりをして、できないこともできると嘯いて……そうやって、M堂と同じ道に堕ちていくんじゃないかって」
そうだ。あれは、一種の偶像崇拝だ。
彼らが崇めているのは、「十凪」という生身の人間じゃない。彼らが作り上げた「奇跡を起こす法術師」という偶像だ。
そして、私はその偶像を演じ続けることを求められる。
一度その役を演じてしまえば、もう降りることはできない。
そして私は……闇に堕ちる。甘く心地よい闇に。それは確信だった。
私の告白に、K林はしばらく考え込むように黙っていたが、やがて、ふっと息を吐いた。
「……なるほど。そういうことでしたか。十凪さんが、あのM堂をあれだけ憎んでいた理由が、今なら少し分かる気がします」
「……」
「あなたは、誰よりも真摯に、その『力』と向き合おうとしていたんですね。だからこそ、それを弄び、金儲けの道具にする連中が許せなかった。そして、自分もそちら側に堕ちてしまう可能性を、誰よりも恐れていた――」
「そんなかっこいい、漫画の主人公みたいなもんじゃないっすよ。
私がそんな漫画の主人公みたいなイケメンナイスガイなら、法術師となって彼らと戦うでしょうね」
如月師匠のように。
だけどそれは、私には無理だった。
私はただの漫画家なのだ。
「だから、やめたんです。私には、あの人たちの期待を背負い続ける資格も、強さもなかった」
「……そうですか」
K林は、それ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。
その沈黙が、何よりも雄弁な理解の証のように感じられた。
◇
あれから、どれだけの月日が経っただろうか。
いくつかの連載を持ち、それが終わったり、また新しい連載が始まったりを繰り返しながら、私は今も、漫画家として生きている。
東京から少し離れた某県の、静かな住宅街の小さなマンションが仕事場兼住居だ。
アシスタントを雇うほどの余裕はないから、一人で黙々と、締め切りに追われる日々。
華やかさとは無縁だが、自分の描きたいものを描き、それでなんとか飯を食っていく。そんな生活に、不満はなかった。
オカルトや心霊が好きなのは、今も変わらない。
資料として専門書を読み漁ることもあるし、作家仲間と共に時折フィールドワークに出かけることもある。というか毎年行く。
だが、それはあくまでも趣味の範囲、そして創作のためのインプットに留めている。
あの力を使って、それで生活していこうとは、もう二度と思わなかった。
法術師、如月師匠に学んだことは、私の人生の礎となっている。
師匠は、最後まで私の決断を止めなかった。ただ、「そうか」と一言だけ言うと、あとは何も聞かず、私が道場を去るのを黙って見送ってくれた。
その背中に、私は深々と頭を下げた。
師匠の教えは、術の行使方法だけではなかった。その根底にある実践哲学、その因果律の思想こそが私が本当に学ぶべきことだった。
師匠は常々言っていた。
どれだけ高潔な初志を持ち、人を助ける力があったとしても、一度それを職業とし、金を取り、客の望みに応えるようになった瞬間から堕落は始まるのだ、と。
最初は、純粋に人を助けたいという気持ちだけだろう。
だが、生活がかかってくると、そうも言っていられなくなる。金のため、客を繋ぎ止めるために、彼らの望む言葉を与え、彼らが期待する奇跡を演出しなければならなくなる。
やがて、真実をねじ曲げることに何の躊躇もなくなり、自分自身をも騙し、自らを貶めて、深い闇に墜ちていく。
それが、この業界の多くの霊能者や教祖が辿る道なのだ、と。
今なら、よく分かる。
世に溢れている多くのオカルト本や、スピリチュアル系のブログがこうも読者に都合のいい、耳触りの良いことばかり書かれているのはなぜか。
不安を煽って依存させ、高額な商品やセミナーに誘導するのはなぜか。
それはすべて、彼らが「商売」をしているからだ。顧客の望む夢を売っているに過ぎない。
そして、私は漫画家だ。
読者のために「嘘」を、つまりフィクションを創り出すことを生業とする職業だ。
読者が求める刺激的な展開を、読者が共感するキャラクターを、読者が感動する結末を、私は考え、描き、提供する。
それは、読者を楽しませるための、誠実な「嘘」だ。
法術師になどなれるはずがなかったのだ。
真実の探求者であるべき法術師と、虚構の創造者である漫画家。両者は、水と油のように決して交わることはない。
もちろん、心霊協会の霊能者になら、なれただろう。あのM堂のように。
顧客が喜びそうなことを適当に並べ立て、それらしい儀式をしてみせて、金のために嘘をつけばいいのだから。
漫画家として培ったストーリーテリングの能力は、きっと大いに役立ったはずだ。
だけど、本物の法術に触れてしまった今、とてもそんな気にはなれない。
あの静謐な道場の空気。自然の摂理と宇宙の真理について語る、師匠の厳しくも優しい眼差し。そして、自らの未熟さと向き合い、ただひたすらに自己を鍛錬する、あの苦しくも充実した日々。
それらを知ってしまった私には、もう、偽物の道を歩むことはできなかった。
そういう意味では、法術を学んだことには、大きな意味があったと思う。
それは、超常的な力を手に入れるためではなかった。
迷信や虚言に惑わされることなく、地に足をつけて、己の誇れる自分自身でいること。
そのための、正しく、そして厳しい道筋を学ぶこと――。
きらびやかな地位や名誉、人々の称賛、あるいは奇跡や超常現象といった非日常に惑わされることなく、ただ淡々と、自分自身の人生を歩んでいくこと。
それこそが、師匠が本当に教えたかった「真の霊的成長」だったのかもしれない。
だから私は、特別な何かになることをやめた。
霊能者にも、法術師にもならず、ただの漫画家として、自分自身の物語を生きていこうと決めたのだ。
窓の外では、子供たちの笑い声が聞こえる。どこかの家からは、夕食の匂いが漂ってくる。
ありふれた、穏やかな日常。
かつては、この日常から抜け出したくて特別な世界に焦がれていたのかもしれない。
だが今は違う。
特別は、外には無い。あるのは己のうちだ。
青い鳥の童話のようなものだ。
ペンを握り、新しい原稿用紙に向かう。
描くべき物語は、まだたくさんある。
私自身の、物語が。
私は、霊能者を目指してました。




