第14話 白蓮
K林から教えてもらった住所へ向かうと、そこは都心から少し離れた、古いアパートの一室だった。扉の前に立つと、中から微かに、しかし確かに、うめき声のような、あるいは何かが暴れているような音が聞こえてくる。K林が言うように、これはただ事ではない。私は深呼吸をして、心を落ち着かせた。
ドアをノックすると、中から警戒したような声が聞こえた。しかし、K林が事前に連絡を入れていたためか、やがてガチャリと鍵が開く音がした。扉の隙間から見えたのは、M堂だった。
「な……なんでこいつらが……」
彼は私たちを見るなり、驚愕と不信の表情を浮かべた。私たちが来ることを、K林は彼に伝えていなかったのだろうか。あるいは、私たちに助けを求めること自体が、彼にとって屈辱だったのかもしれない。
彼の視線は私と如月先生の間をさまよい、やがて私に固定された。その中には、以前の敵意と、今はそれに加えて、言いようのない怯えが混じっていた。
「どういうことだ――」
彼が私たちを詰問しようとしたその時、如月先生の低い、しかし有無を言わせぬ声が響いた。
「黙りなさい!!」
その声は、道場での如月先生からは想像もつかないほど、力強く、そして厳かだった。
その喝破に、M堂は言葉を失い動きを止めた。
私もまた、如月先生の普段とは異なる一面に、思わず息を呑んだ。
如月先生は、M堂を一瞥するとすぐに室内に視線を向けた。
私も彼の視線を追うと、その光景に愕然とした。部屋はひどく散らかっており、家具は倒れ、壁には何かが引っ掻いたような跡が無数についている。そして、部屋の隅には、一人の少女がうずくまっていた。
彼女は全身を震わせ、虚ろな目で私たちを見つめている。その目には、深い恐怖と絶望が宿っていた。
「また来たか……殺すぞ!!」
少女がいきなり声を上げた。目を剥き、男のような声色で。。
「あきらかにおかしくなって、ヤバくなって……」
M堂は絞り出すような声で呟いた。
彼の言葉は、自分自身の過ちを認識しているようだったが、もはやどうすることもできないという絶望感に苛まれている。
「式神などいない、ただのごっこ遊び……空想なのに!」
自分たちが作り出したものが、これほどまでに現実を侵食し、人を苦しめる存在になるとは、彼らは想像だにしていなかったのだろう
詐欺師たちは人の心というものを甘く見ているのだ、と私は思った。
甘く見ているから、容易にタルパなどという危険な遊びを若者に教えて師匠気取りで金をとる。
そのつけが、これだ。
「もしかして、本当に……」
彼の言葉は、恐怖に満ちていた。
今まで、ここまでの失敗が起きた事は無かったのだろう。
だからブレーキを踏まず、容易にここまで来た。来てしまった。
「その空想を、あなたは甘く見過ぎた」
如月先生は、静かに、しかし明確な声でM堂の霊能者に語りかけた。
「人の心というものの不可思議さを、軽視したからこうなる」
如月先生の言葉は、M堂の体を震わせた。
人の「念」が持つ力、そしてそれが現実世界に与える影響。
M堂は、それを単なる金儲けの道具としか見ていなかった。彼らは、人々の不安や願望を煽り、形だけの儀式で誤魔化してきた。しかし、今回の「タルパ」の件は、彼らの軽薄な行いが、どれほど危険な結果を招くかを如実に示していた。
「……どうするんですか」
私は、如月先生に尋ねた。
私には、少女しか見えない。
だが、そこに何か異様なものがあるのは、気配で感じられた。
「今の十凪さんなら、わかるかもですね。顕気の訓練、しているでしょう」
「……」
羽々桐氏がいって来る。
顕気。一般には見鬼という、いわゆる見えないものを見る力の訓練だ。
述べられる範囲でここに記すならば、それは一種の能動的イメージ瞑想。
先の話で述べた、憑読で気や念を感じ取り読み取るさらにその先の技法。そこにイメージを重ね合わせ結びつける技法である。
「……」
私は内心で神咒を陰唱しながらイメージを行う。
識神やタルパというものの姿は本人のイメージだ。その姿を聞いていない限り、正しい姿を顕す事は出来ない。
だが、全ては主観だ。
私は集中し、イメージする。受け身ながら能動的に。感じたものを心の中で形にする。
……『それ』は、黒い男だった。
黒人というような意味ではない。ただただ黒い、煤のような、影のような黒塗りの男。それが私の中に浮かんだイメージだった。
「うわ」
思わず声が出た。
彼女はこんなもの、あるいはこれに近い何かに憑かれているのか。
少女は怯えきり、M堂の霊能者は完全に思考停止状態だ。この状況を打開できるのは、如月先生の法術しかない。
如月先生は、少女に向かって一歩足を踏み出した。
その動きは、先ほどM堂の霊能者を黙らせた時と同じく、一切の迷いがなく、しかし驚くほど穏やかだった。
異形の影は、如月先生の接近に反応し、さらに激しく蠢いたが、如月先生はそれを気にする様子もなく、ただまっすぐに少女を見つめた。
「初めまして。私は法術師の如月です。あなたの味方ですよ」
異形の影は、如月先生の言葉に一瞬ひるんだように見えた。
「相手によっては、取り押さえて力付くで術を行うこともあるんだけどね。前にも一度あったよ、鎧とか着こんだりした」
如月先生は、少女に語りかけるように、しかし私にも聞こえるように、少しユーモラスな調子で言った。
鎧か。西洋のではなく日本の鎧なのだろうが、それはそれで見てみたい気もする。
「なるほど……」
私は、如月先生の言葉に頷いた。
如月先生は目を閉じ、少女の目の前にそっと手を差し伸べた。
そしてその手のひらを彼女の頭の上にかざし、左手は彼女の後頭部に添える。
「白蓮術で気を流して、流れをただし……」
白蓮術、それは法術における癒しの術の総称である。
今如月先生が行っているのは、対象の脳に気を流し、揺らし、全体の気の流れを正す術だ。
後に聞いたことだが、よく誤解されるが人の気を他人の体内に流し込む事は基本的に出来ないという。
可能なことは可能なのだが、他者の気を入れるには長い時間をかけて気の波長を合わせねばならない。
では、何をしているのか。
病人や、霊と呼ばれるものに憑かれた人の身体の気は流れがよどみ、歪んでいる。
それを強力な気をぶつけて流すことにより、「ゆらぎ」を与え、気の流れを正すのだ。ようするによどんだ流れのリセットを試みるのである。
先生は白蓮の術を複数回繰り返す。
頭、脳幹に気をぶつける術の後は、肩、背中……と様々な方向から。
そして少女の体が徐々に落ち着きを取り戻していく。彼女の顔から、恐怖の表情が薄れ、代わりに深い安堵の表情が浮かび始めた。
異形の影は、少女の精神が安定していくにつれてその形を曖昧にし、勢いを失っていくように、私には見えた。
如月先生は大きく息をついて立ち上がる。
「――まだ、そいつはいますか?」
「……います、だけど……何故でしょう……さっきよりも……」
弱っているようです、と少女は告げる。
「……」
先生は羽々桐氏とうなずき合う。
そして祭壇を用意し、儀式を始めた。
神咒を唱え、護摩を焚き、破魔の水をふりかけ、銅剣を振る。
そして儀式は終了した。
先生は息をついて言う。
「あとは……知り合いの医者にも連絡しておきました。精神の問題でもありますからね、これは。
法術と医術、二つの方向から処置していきまょう」
如月先生は、決して法術が万能の魔法ではないことを知っている。
肉体的な不調や精神的な問題には、専門の医療の介入が不可欠であるという、極めて現実的な視点を持っているのだ。
M堂のような霊能者は、全てを霊的な問題として片付け、高額な除霊を勧める。しかし、如月先生は、常に多角的な視点から問題にアプローチするようだ。
「収まるがそれでも簡単な完治はしない。これから自分での基礎訓練と、医者との治療が必要です。ゆっくり、じっくりと改善していきましょう」
如月先生の言葉は、少女に、そしてM堂の霊能者にも向けられていた。
今回の件は、法術によって一時的に収束させることができるだろう。しかし、根本的な解決には、少女自身の努力と、専門家による長期的なサポートが必要なのだ。
特に、M堂が作り出した「タルパ」は、少女の精神に根付いてしまっている。そ根付いたものを解き、彼女自身の精神を立て直すには、時間がかかるだろう。
「法術は決して、万能の魔法ではない。そして何度も言うとおり、人を助けられるのは自分自身のみ」
如月先生は、改めてその真理を説いた。この言葉は、私たち法術師の心に常に刻まれるべき教えだ。
私たちは、あくまでも導き手であり、支え手であって、最終的に自分自身を救うのは、他ならぬその人自身なのだ。
「彼女が治ろうとする意志があり、努力していくならいいが、もしこの状況を、自分に特別な霊がついたすばらしい出来事だと喜んでいた場合は……何をしてもどうにもならない」
如月先生の言葉は、厳しい現実を突きつけていた。
もし少女が、この経験を「特別な力」や「選ばれた存在」の証と捉え、自分自身の責任を放棄するならば誰も彼女を救うことはできない。
本人がそれを望んでしまっている事に外ならないからだ。
特別な心霊現象にあってしまった悲劇の被害者!
そして、そういう稀有な状況に酔ってしまう人は――少なからずいるという。
「法術はあくまでも、因果律の道にのっとり、自らを向上させていくためのものだからだ」
「……はい。肝に銘じておきます」
私は、如月先生の言葉を胸に刻み込んだ。
M堂はいつの間にか姿を消していた。このままだと自分に矛先が向くと思い逃げ出したのだろうか。
……まあ、正直どうでもいいことだった。
どうあっても救えない連中というのはいるのだから。
◇
この後、彼女がどうなったのか、私は知らない。
如月先生も、その後彼女について言及することはなかった。
「頼りの無いのは元気な証拠」――であるのだと、私は思いたい。




