第11話 呪符
H心霊協会に未だに顔を出してはいるものの、私の心にはもはや嫌悪感しか残っていなかった。
正式な会員や職員ではないため、気は楽ではあったが、M堂の欺瞞と商業主義に触れるたび、その場にいること自体が苦痛だった。
「どうされました?」
それでも波風を立てないために顔は出さないといけない。
そんな折、協会のロビーで沈んだ表情で座り込んでいた私に、見慣れない女性が声をかけてきた。
清潔感のある、しかしどこか疲れた様子のその女性は、Y上さんと名乗った。
「あ、いえ、ちょっと本業で疲れていただけです」
嘘は言っていない。
「……あなたもつかれているようですけど」
「え、ええ。そうなんです、実は……」
私はY上さんの隣に座り、彼女の話に耳を傾けた。
Y上さんは、長男の体調不良に悩んでいた。原因不明の頭痛が続き、学校でのトラブルや不運が重なる。「これは霊的なものかもしれない」と知人に勧められ、ある霊能者に相談しているという。
しかし、一向に状況は好転せず、むしろ悪化しているようにすら感じられると、Y上さんは力なく語った。
「その霊能者というのは……どちらの?」
私が尋ねると、Y上さんは「M堂さんです」と、ためらうように答えた。
私は、内心で深い溜息をついた。
やはり、M堂か。
彼らは困っている人々につけ込み、不安を煽り、高額な料金を請求する。そして、根本的な解決には至らない。私自身が、その欺瞞の片棒を担ぎかけた過去がある。
「……では、もしよろしければ、いい相手を紹介しますよ」
私は、Y上さんの目を見て、静かに言った。
そして私は、Y上さんとその息子さんを、如月先生の道場へと紹介することにした。
◇
後日、道場を訪れたY上さんは、M堂から受け取ったという護符を如月先生に見せた。
「護符……ですか」
如月先生は、Y上さんの差し出す護符を、眉間に皺を寄せながらじっと見つめた。
その表情は、いつもの穏やかなものとは異なり、どこか厳しいものだった。
「はい。息子の頭痛や不幸が重なるので相談したら、これをいただいたのですが……」
Y上さんは、不安そうに如月先生の顔色を窺う。
如月先生は、護符を手に取り、その感触を確かめるように指でなぞった。そして、静かに口を開いた。
「護符というものは、持ち主が念を入れねば、その効果は無いんですよ」
Y上さんは、驚いたように目を見開いた。
「そうなのですか? M堂の方からは、持っているだけで効くと言われました」
「護符そのものにも、材質や作り方の作法は確かにあります。しかし、護符に書かれている文字や模様そのものに、意味も力もありません。
護符はたとえるなら、外付けバッテリーに充電するようなものです」
横から羽々桐さんが、Y上さんに分かりやすいように丁寧に説明を続けた。
「本人が持ち続け、そこに自身の念、つまり『力』を入れた護符を持つことで、自身の力の底上げを行い、結果として守りの力や自己治癒力が強化される。それが、護符の本来の役目です。なので、癒しの護符が『術者が力を入れたから持つだけで効果がある』ということは、基本的に無いんです」
「しかもこれは……」
如月先生は、護符から目を離し、Y上さんに向き直った。その表情は、先ほどよりも一層険しくなっていた。
「正しい作法で作られていないどころか、制作者の邪念に染まっていますね」
Y上さんは、ハッと息を呑んだ。
「作った霊能者が、呪いを……ということですか?」
「いや、そんな上等なものではない」
如月先生は首を横に振った。
「単純に、雑念で汚れているというだけです。
制作者が、護符を作る際に抱いていた個人的な欲求や、対象者への不遜な思い、あるいは単なる倦怠感や不満といった、様々な雑想念が護符に付着し、それが持ち主に悪影響を与えている。呪いと呼ぶにはあまりにも未熟で、しかし悪影響は確かなものです」
彼らは、自らの未熟な精神状態で、無自覚に他者に悪影響を及ぼしていたのだ。
「とにかく、その霊能者からもらったものは全て処分してください。燃やすなり土に埋めるなりして、完全にその念を断ち切る必要があります」
如月先生は、Y上さんに指示した。
「その上で、私の方でY上さんの気の乱れを正しておきますが、原因が余所からの邪念、つまり霊障だったとしても……それが病気として肉体に現れているなら、そこからは医者の領分です。
肉と霊……医術と法術の双方から対処していくのが一番ですよ」
如月先生の言葉は、常に現実的で、論理的だった。
法術は万能ではない。しかし、医術だけでは解決できない領域に、法術が介入することで、より包括的なアプローチが可能になる。この姿勢こそが、M堂の商業主義とは一線を画す、真に人々を救う道だと私は思った。
いわゆるセカンドオピニオンという奴だ。
Y上さんは、如月先生の言葉に深く頷き、安堵したような表情を見せた。M堂では得られなかった、具体的な対処法と、何よりも心の安寧を、彼女は如月先生の言葉に見出したのだろう。
その後、Y上さんの息子さんは、如月先生の法術と、適切な医療の併用により、驚くほど速やかに快復に向かっていった。
長年の頭痛は消え、表情も明るくなり、学校でのトラブルも減少したという。
Y上さんから届く感謝のメールは、法術師というものが間違っていないことを、改めて教えてくれるようだった。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
◇
ある日の午後、私の携帯電話の画面に、「M堂」という表示と共に着信があった。
私は一瞬、身構えた。M堂は、私が彼らの欺瞞を暴こうとしていることを知っている。
そして、私がY上さんを如月先生に紹介したことも、彼らの耳に入ったのだろう。
私は、M堂の教えを思い出した。
彼らは、霊能者同士の領分を強く主張していた。
「霊能者は互いの領分を守らねばならない。他の霊能者の客を奪うというのは、仁義に反することなのだ」
――M堂は、かつて私にそう言い聞かせた。
それは、彼らの既得権益を守るための、都合の良いルールに過ぎない。自分たちが無責任な商売をしているにも関わらず、それを指摘する者を排除しようとする。その欺瞞に、私は吐き気がした。
着信拒否。
私は迷うことなく、M堂からの電話を切った。
彼らに構っている暇はない。私の探求は、もっと深い場所へと向かっているのだ。
「……ちょうどいいし、引っ越すか」
M堂からの執拗な接触を避けるため、そして新たな探求に集中するため、私は引っ越しを決意した。
すでに住所は知られている。このままではどうなるかわからない。
私は、このM堂との一件、そして引っ越しの話を、担当編集者のK林に伝えた。
K林は、私の話を聞きながら、面白そうにニヤリと笑った。
「そりゃ面白いことになりましたね、十凪先生」
K林の言葉に、私は少しばかり面食らった。
いや、面白くは……いや、これが彼の立場だと私でも「面白い」と言っただろう。うむ。
「面目潰して、すみません」
私は謝罪した。K林から紹介された結果こうなったのだ、面目丸つぶれだろう。
しかし、K林は気にする様子もない。
「なぁに。出版社としては、ネタになりゃいいんです」
K林の言葉は、どこまでも現実的で、そしてある意味では冷徹だった。それがマスメディアというものなのだろう。
私は、テレビ業界の友人が、かつて言っていた言葉を思い出した。
「何しろ平気で、かつての商売仲間な霊能者を罠にはめる番組を平気で作る。それがマスメディアです。信用していいんだか悪いんだか」
――K林の言葉は、その友人の言葉と重なり、この世界の複雑さを改めて感じさせた。
「なので、十凪先生の新住所は、私たちは聞きません」
K林は、私の引っ越しの話に続けて言った。
「郵送物は私書箱や局留めにすれば、これで情報も漏れませんよ」
K林の配慮はありがたかった。だが、相手はK林である。
「つまり、知ったら漏らすって事ですね?」
私が冗談めかして言うと、K林は苦笑いを浮かべた。
……この野郎。やはりこの男は信用できないと思った。
◇
引っ越しの準備を進めている最中、Y上さんからメールが届いた。私は、そのメールを開く前に、嫌な予感がした。
案の定、M堂からの報復が始まっていた。
Y上さんのメールには、私がY上さんの息子さんを如月先生に紹介したことをM堂が知り、激怒していると書かれていた。
そして、「名誉棄損と営業妨害で訴訟する」と、Y上さんに告げてきたという。
M堂は、Y上さんを通して、その脅迫を私や如月先生に伝えてほしいと要求してきたのだ。
「これは……そういうことか……」
私は、メールを読みながら、M堂がかつて私に語った言葉を思い出した。それは、M堂が邪魔な人間を黙らせるための、常套手段だった。
「じゃまな奴は裁判するぞと脅せばいいんだよ。こちらには弁護士もいる――この言葉でだいたい黙る。ま、うちは裁判なんて起こせないんだけどな」
M堂は、そう言って高らかに笑っていた。彼らは、実際に訴訟を起こすつもりなど毛頭なく、ただ相手を萎縮させるために、その言葉を振りかざしているだけだったのだ。
俗にいうスワップ訴訟。
霊能者という詐欺師の常套手段。それが、M堂の本質だった。
そして、その言葉通り、いつまで経っても裁判所からの通告はなかった。
「……本当にくだらない」
私は、心の中で呟いた。M堂の行動は、私の心に深く刻まれた嫌悪感を、さらに増幅させた。
彼らのやっていることは、人々の不安につけ込む詐欺であり、そして、その詐欺を守るために、卑劣な脅迫を繰り返す。私がかつて、あんなものに憧れ、その一員になろうとしていたなど、信じられない。
私は、自分の過去の選択を激しく後悔した。
しかし、同時に、その過去があったからこそ、今、法術に出会いその道を歩むことができているのだと、自分に言い聞かせた。




