第0話 プロローグ
私には霊感が無い。
しかし、私の人生は、常識では説明しがたい不思議な体験に満ちていた――とまでは言わないが、少なくとも幾度かのそういった体験は確かにあった。
親が仏教徒だったのも関係しているのかもしれない。もっとも、仏教は幽霊と言うものを否定している――それは大人になってから知る事だけど。
それはともかく、私には、霊など見えない、聞こえない、感じられない。
だが、それでも「不思議なもの、不思議な事はそこに確かにある」と理解してしまう。それが本当に理解なのか、それともただの期待なのか――それはわからないが、少なくとも主観的な体験としては、やはり確かにあったのだ。
世間的に言われる霊能者や霊感もちの如く、常日頃そういうことがあるわけではない。どちらかというと、実話怪談の主人公たちのように、ごくごく平凡な日常の中に「それ」が入り込んで来る――といったかんじだろうか。
ある日、私は金縛りにあった。
仕事のために上京し、引っ越したばかりの出来事だった。
「20歳までに心霊体験に会わなければ、生涯霊体験をすることはない」という話があるが、それは嘘だとその時思ったものだ。
真夜中、深い眠りから、唐突に意識だけが覚醒した。しかし、体は鉛のように重く、指一本すら動かせない。
それは、言葉にならないほどの純粋な恐怖だった。声を出そうにも、喉は引き攣り、呼吸すらままならない。
体感にして、数分だったか、いやそれとも数十分、数時間だったか。気が付けば、私の金縛りは解けていた。
「……っ」
全身が汗で濡れていた。本やテレビで金縛りの話はよく聞いていたが、体験してみると本当に体が動かないのだな、と感心したものだった。
またある時、幽体離脱が起きた。
それは金縛りとは異なり、もっと静かで、しかし根源的な驚きに満ちていた。
ある夜、ふと目覚めると、自分の頭から、自分の頭が半分ほど出ている……そんな感覚があった。説明すると難しいが、その感覚は……水面から顔を半分ほど出している、そんな感じだろうか。
そして頭を動かすと、繭から抜けるように私の意識は、寝ている身体からゆっくりと離れ、立ち上がった。
布団には私の身体が間抜け面で寝息を立てている姿があり、私はそれを見下ろしていた。
肉体から切り離された意識は、驚くほど軽やかで、部屋の隅々までを見渡すことができた。
その時、霊的な世界が、単なる迷信や物語の産物ではなく、現実の裏側に確かに存在すると、私の魂は深く確信したものだ。
これらの常識では説明しがたい体験は、私の世界観を根底から揺るがし、やがては私の人生の道筋そのものを決定づけたといってもいい。
私は、その不可思議な体験を、そしてそれによって開かれた霊的な世界の扉を、自分なりの言葉と絵で表現したいとつよく、そう強く願うようになった。
そうして、ペンを握り、心霊漫画を描く漫画家、十凪高志が誕生したのだ。もっともも、心霊漫画「も」描く、といったほうが正しいだろうけれど。
そんなある日、S出版の編集部の片隅で、一人の男が私に声をかけてきた。仮に、彼の名をK林(仮)とする。
彼の眼差しは、いつもどこか獲物を探すような鋭さを含んでおり、その唇には常に計算された笑みが浮かんでいた。彼との付き合いとはそう長いわけではないが、彼の提案には常に一筋縄ではいかない裏があることを、私は経験上知っていた。
「十凪先生、そろそろ新しい企画のネタも尽きてきましたでしょう? ここは一つ、思い切ったテコ入れをしませんか?」
彼はにこやかに、しかし有無を言わさぬ口調で切り出した。その声には、妙な自信が宿っていた。
「霊能者を紹介しますよ」
彼の言葉に、私の心臓は僅かに跳ねた。
「……霊能者、ですか?」
私の声には、僅かながら警戒の色が混じっていた。
これまで取材と称して、胡散臭い自称霊能者や、ただの精神疾患を持つ人々に会わされてきた経験が、私の脳裏をよぎったからだ。故に、この手の話には常に懐疑的である。
心霊オカルトが大好きな故に、肯定を通り越して懐疑論者になる――オカルト好きの「あるある」であった。
「ええ、そうです。今先生が進めている心霊モノの企画、あれをより深く、よりリアルに描くには、実際にその世界の住人と触れ合うのが一番ですよ。百聞は一見に如かず、と申しますからね」
彼の言葉は、私の心の奥底に眠っていた好奇心を、微かに揺り動かした。これまでも、私の漫画は、あくまで私の体験と想像力に基づいていた。しかし、もし本当に、本物の霊能者と出会えるなら……。
それは、私の創作の限界を打ち破る、新たな扉となるかもしれない。私は、いつの間にか身を乗り出していた。
「霊能者ですか。それで、どんな方を紹介してくださるんです?」
私の問いに、K林編集は、にんまりと口角を上げた。
「それはですね、個人ではなくて……」
彼の言葉は、私の予想を遥かに超えるものだった。
「霊能者の組織です」
……組織? 私の頭の中には、瞬時に幾つかの言葉が浮かんだ。魔術結社、秘密結社、カルト集団……。眉間に皺が寄るのを自覚しながら、私は尋ねた。
「へ、へえ。そういうのもあるんですか。霊能者というのは、もっと個人で活動していたり、師匠と弟子の一門という形で受け継がれていくものだとばかり思っていましたから」
「それがですね、十凪先生。日本……いや、世界各地には、想像を絶する規模の霊能組織がいくつも存在するんですよ。
表向きは慈善団体や宗教法人を装いながら、裏では霊的な問題解決に奔走している者たちもいれば、純粋に霊的な力の研鑽を目的としている者たちもいる。
私の知っているのは、『H霊能協会』という、どちらかといえばオーソドックスなタイプの組織ですね」
彼の説明は、私の知的好奇心を強く刺激した。それは、私の漫画の世界を、さらに広げる可能性を秘めているように思えた。
「なるほど。それは確かに、これまでにないリアリティのある取材になりそうですね」
私は思わず身を乗り出した。
しかし、K林編集は、眼鏡のブリッジをくいっと持ち上げ、その奥の眼光を鋭く光らせた。
「いえ、取材もいいですが、それよりも……」
そして、彼は、私の人生を根底から揺るがす、あまりにも衝撃的な提案を口にした。
「十凪先生、そこで霊能者を目指してみませんか?」
その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
霊能者を目指す? この、霊感など微塵もない私が?
それは、私のこれまでの人生、その全てを覆す、あまりにも突拍子もない提案だった。
しかし、その突拍子もない提案の奥底に、抗いがたい魅惑的な響きがあるのも、また事実だった。
この編集者の怪しい提案が、私の漫画家人生をどのように変えていくのか。
それが、私、漫画家十凪高志の、霊能者への、長く、そして予測不能な道の始まりだった。