母の遺言
母からの遺言は、
「私が死んだら一年に一度、家の中の空気を入れ替えて欲しい」
だった。
母が死んだのは暑さの茹だる八月。お盆の真っ只中。父はおれが実家を出てすぐに亡くなり、その後母とは疎遠だった。子ども一人の三人家族。家族仲は希薄で透かせば透ける、障子紙の厚さもなかっただろう。
母から連絡があったのは、母が余命宣告をされてから、しかももう時間が残されていないタイミングだった。
「もうすぐ死ぬみたいなの。だから、その前に顔を見せてくれると嬉しいんだけど」
電話越し、最初に言われた言葉が衝撃的すぎてよく覚えている。電話をもらってすぐ会いに行き、その翌日母は死んだ。
母はおれの顔が見たくて呼んだ訳ではなさそうだった。数年ぶりの再会にも関わらず、第一声は「お願いがあるんだけど」、だった。
母に言われた通り、母の命日におれは実家に帰る。そして暑さを我慢しながらなんとか家中の窓を開けて空気を入れ替える。
母からの要望は、母が死んでから十年の間は家を売らず、命日の前後に空気の入れ替えをしに行って欲しいとのことだった。
十年が過ぎた後はどうしたらいいか聞くと、その後は好きにすればいいとも言われた。
「まあ、その時あなたが元気に生きていればだけど」
縁起でもないことを言うなよ、とおれは言ったけど、母は病室の窓から外を眺めるだけで何も言わなかった。
母からの要望がもう一つあった。
「台所に置いてある、濃紺の水差しの水を必ず変えること」
水差しにはマリーゴールドの花が一輪。
このためだけに水道だけは契約を切らずにいる。一年に一度しか帰らないのに、何故か花は元気に咲いたままだ。明るいオレンジ色が年々鮮やかさを増している気がして不気味でならない。水を変えて再びシンクの側に置く時、どこからか見られている、そんな感覚に襲われる。
鳥肌が立つほど視線を感じるので、気のせいとして片付けるのは無理がある。
命日が近いといっても、母からの視線ではないだろう。獲物を品定めする肉食動物のようなじっとりとした質感を感じる。でも、深く考えると嫌な予感がするので、おれは何も気づいていないふりをする。
しかし、そんな夏の苦労も来年で最後だ。だって今年が母が死んで九回目の空気の入れ替えだから。
母がおれにどうしてこんな不思議な頼みをしたのかは今もわからない。理由を聞いたら「あれにはお世話になったから、お礼がしたいのよ」と言うだけで、それ以上は何も教えてくれなかった。
「あれ」が何かもわからない。
ただ、母のその言葉には温もりがあった。おれの知る限り、これまで家族に対して向けられたどの言葉よりも優しい温もりが。
来週、おれは検査を受ける。会社の健康診断で再検査に引っかかったからだ。毎年何も異常がなかったのに、突然の『要精密検査』の判定が出た。
たぶん大丈夫だと思う。今まで何も問題なかったのだから、いきなり大きな病気が発覚する、みたいなことはないだろう。ないと思いたい。
でも、こういう時に限って、母が残した縁起の悪い言葉が頭にこびりついて離れない。
マリーゴールドの花言葉は『絶望』。









