4話
茂みに隠れたルドルの視線の先。父が、背負っていた大きな斧に手をかけながら、狼の群れをジッと見つめて機会を伺っている。
一瞬の静寂の後、父は狼の群れの中に、躊躇いなく飛び込んだ。
それは大柄な身体に似合わない、軽やかな跳躍だった。飛び掛かりざま、父は右手で構えた斧にサッと左手を添わせる。斧の持ち手から切っ先にかけて、素早く、撫でるように行われたその動作によって、斧は魔力を帯び、真っ赤に燃え盛った。
燃え立つ斧が、まだ襲撃者の存在に気がついていない1匹の黒狼を、真上から両断する。直後、着地を決めた父はそのまま斧を振り上げ、脇に居たもう1匹を掬上げるように切り裂いた。輝く刃は勢いを止めず、さらにもう1匹を真横から斬り払う。
軽やかな撫で斬りの連撃で3匹が倒れたところで、黒狼の群れはようやく襲撃者の存在に気がついた。
牙を剝き出しにし、低く唸りながら父を遠巻きに睨みつける黒狼は3匹。木々に覆われて正確な数が分かりづらかったが、この群れは倒れた3匹を含めて6匹だったらしい。
先制攻撃で半数を仕留めたのは大きいが、それでも数は1対3。少しの不安はありつつも、父が負ける事はないと確信していた。だが、その背を見守るだけでは足りないという思いが、今は胸の奥で沸々と燃えていた。
これまでの狩りでも、ルドルは常に見学のみを命じられてきた。最初こそ緊張と興奮で満ちていたが、やがてそれは物足りなさへと変わった。
幼いルドルに武器も魔法も使えないのは当然だが、それでも父の役に立ちたいと願っていた。例えば陽動役。自分が飛び出して黒狼を引きつければ、その隙に父の攻撃が決まるかもしれない。
もちろん、父に相談して許可が出るとは思っていない。ならば、結果で示すしかない。うまくいけば、自分も狩りの一員と認められる日が来るかもしれない。
叱責は覚悟の上だった。けれど、その先にある未来を思えば、怖くはなかった。
ルドルが決意を固めると、父はさらに1匹を打ち倒し、残りは2匹となった。今こそ、動くべき時だ。
静かに茂みを抜け、立ち上がる。けれど、距離があるため、父も黒狼も気づいていない。ルドルは息を大きく吸い込み、叫ぼうとした。
その瞬間だった。
黒狼の背後の木立から、別の影が飛び出してきた。
それは7匹目の黒狼。幼い個体なのか、これまでの6匹よりも一回り小さいそれは恐れをなしたのか、仲間の元でも襲撃者の方でもなく、あらぬ方向に駆けだして行く。
その進路は、ルドルの居る場所。
とっさに茂みに身を投げ込むルドル。だが、胸に溜まった息は逃げ場を失い、喉の奥で爆ぜそうに膨らんでいた。地響きのような足音がすぐそこまで迫り、草をかき分けて進む気配が耳元に突き刺さる。全身が硬直し、息を吸うことも吐くこともできない。ただ心臓だけが暴れ狂い、隠れているはずの身体を裏切るように、内側から音を立てていた。
幸いにも黒狼はルドルに気づかず、茂みのすぐ横を駆け抜けていった。
だが、その瞬間、ルドルは初めて「狩りの現実」に触れた。
至近距離で見る黒狼の大きさ、荒い呼吸、鋭く光る犬歯。恐怖が一気に胸を締め付け、自信も高揚も跡形もなく吹き飛んでいた。
父と向き合っていた6匹は、あれよりさらに強い存在。自分の無力さと、場違いさが痛いほど身に染みる。
そして、遅れて気がつく。
その黒狼の進路が、林の入口。自分たちが来た道を逆走しているということに。
その先にあるのは、草原。リーアが、何も知らずに遊んでいる場所だ。
リーアは無邪気だ。花を摘み、小鳥を追いかけ、空を見上げて笑う。あの子が恐怖に震える姿など、想像したくなかった。けれど今、このままでは確実に。
ルドルの胸を満たしていた恐怖は、いつしか姿を変えていた。冷たい焦りがじわじわと身体を締めつけ、同時に、リーアを助けなければという強い衝動が湧き上がってくる。ただ立ち尽くしているだけでは、何も守れないそんな思いが、心の奥底から噴き出すように膨れ上がっていく。
自分は戦えない。ただの子供だ。けれど、ただ見ているだけでは、守れない。
どうする。どうすれば、あの狼よりも早く、リーアに警告を伝えられる?
この林の奥、草原までは、決して遠くない。それはつまり、間に合うかもしれないという希望でもあり、間に合わないかもしれないという絶望でもあった。
今、リーアはどんな表情を浮かべているだろう。あの広い草原の真ん中で、陽光を浴びながら、無防備に笑っているに違いない。ルドルの記憶の中の彼女は、いつだって楽しそうだった。
髪に草花を編み込みながら、風に吹かれてくすくすと笑う彼女の姿が脳裏に浮かぶ。だがその光景に、突如として影が差す。黒い毛皮に覆われた、鋭い牙を持つ影が。
想像だけで、喉が焼けるように熱くなった。
自分がここで迷っている間にも、黒狼は進んでいる。数秒の躊躇が、命を奪うことに繋がる。ルドルの頭の中で、すべての思考が音を立てて加速していった。
草原まで一直線に走っても、黒狼と同じくらいの速さで走れるとは限らない。それでも、やらなければ。自分がやらなければ、誰があの子を守るというのだ。
父はまだ戦っている。追いつけるのは、自分しかいない。
リーアの名を叫びながら駆け出す姿を想像する。その声が風に乗り、草原へ届くことを願って。もしかしたら、リーアはその声を聞いて逃げるかもしれない。あるいは、村の誰かが気づいて助けに来てくれるかもしれない。
可能性は低い。けれど、ゼロではない。
例え恐怖で脚が震えても、ルドルの心はもう決まっていた。これは見ているだけでは済まされないことなのだ。リーアを守れるのは、今この瞬間に動ける自分だけ。
深く息を吸い込む。胸の奥に残った迷いをすべて吐き出すように。
ルドルは、息を呑んだ。
己の小さな足で、全力で、草原へ向かって駆け出す。草木が頬をかすめ、木の根が足元を乱しても、もう立ち止まるつもりはなかった。恐怖を押しのけ、リーアを守ることだけを考えて走り出した。