3話
ルドルが広大な畑の全域で指示された作業を終えたのは、結局お昼前だった。
一度家に戻ったルドルと父は、母の手料理を三人で囲んだ後、獣の討伐に向かうこととなった。
「本当に大丈夫? まだルドルには早いんじゃない?」
「大丈夫だよ! 僕、もう子どもじゃないんだから!」
母は日頃から、ルドルが父の狩りに同行することに否定的だった。一方、ルドルはというと、これまで何度か無理を言って連れて行ってもらった狩りが大好きで、家事や農作業よりも積極的に参加したがった。
「まあルドルは男の子だしな。いずれ経験しなきゃならん」
「だからって、もう少し大きくなってからでも……」
父は、狩りのたびに我が子から向けられる尊敬のまなざしが嬉しいのか、母ほど否定的ではなかった。
「それに、今日は約束してしまったからな。農作業を頑張ったら連れて行くと。実際、あの広い畑の間引きを午前中だけで終わらせたんだ。頑張った子にはご褒美が必要だろう」
「それはそうだけど……」
いまだ納得しきれない母をなんとか宥める父の横で、ルドルは胸を弾ませていた。彼にとって父との狩りは、退屈な村の暮らしでは味わえない、唯一無二の冒険だった。
「くれぐれも気をつけてね」
「わかってる。今日は遠くから見てるだけだよ」
結局、母の心配を背に、父とルドルは家を出発した。
昼下がりのやわらかな陽光が、村の入口へ向かう二人の背を照らす。村の周囲には腰ほどの高さの木の柵が巡らされており、あくまで小動物や迷い込んだ獣を防ぐ程度の簡素な造りだ。入口には、枝を組み合わせたような簡易の柵扉がある。その前には、先ほど父に依頼をした村人と、見張り役の村人が立っていた。見張りといっても出入りの確認や簡単な声かけを行う程度の、ゆるやかな警備だった。
討伐対象の情報が記された地図を受け取り、父が依頼主や見張り役と打ち合わせをしている間、ルドルは落ち着かない様子で柵扉の向こうを見つめていた。
やがて、ガラリと木の扉が開く。
「じゃあ、行ってくる」
「お気をつけて。ご武運を」
見張り番に見送られ、父とルドルは村の外へと足を踏み出した。
まず広がるのは、見通しの良い草原地帯。危険度は低く、薬草の採取などで村人たちがよく訪れる場所だ。しかし、村を出る機会が少ないルドルにとっては、ありふれた草原さえも心躍る冒険の舞台だった。
「晴れてて気持ちいいね!」
「ああ、本当に」
駆け回るルドルの姿に、父も自然と微笑む。
道の途中、草原の中央で一人の幼い女の子に出会った。彼女はこの村では珍しく、白髪ではなく青い髪をしていた。ルドルより年下の少女リーアだった。
聞けば、祖母と母の薬草採りについて来たとのこと。リーアが指さす先には、大人たちが作業する姿が見えた。
「一緒に遊ぼうよ!」
退屈していたのか、目を輝かせてそうねだるリーア。しかし、ルドルは軽く笑って答える。
「ごめん。今からお父さんと狩りに行くんだ。また今度ね」
その瞬間、リーアの目が尊敬の色に染まった。
「えっ、すごい! 今度お話聞かせてね! 絶対だよ!」
あまり大人から離れないようにと父が注意を促すと、リーアは全身で手を振って見送ってくれた。二人はそのまま草原をあとにした。
やがて、草原の先にある森林地帯が視界に入り始める。木々が鬱蒼と生い茂り、視界は急に狭まり、空気もひんやりと変わった。ここから先は、獣たちが潜む危険な領域だ。
整備された林道は、他の村との行き来のために存在しているものの、それでも護衛なしでは歩けない危険な道だ。だが狩りの目的は林道ではない。さらに危険な、獣道を進む必要がある。
森の手前で、父は足を止めてルドルに向き直った。しゃがんで目線を合わせ、真剣な口調で言う。
「いいか。俺がここにいろって言ったら、絶対に動くな」
「わかってるよ」
「何があってもだ。獣が来たら、その場で身を低くして隠れろ。一人で戦おうなんて絶対に思うな」
「……うん、わかってる」
これまでの狩りでも繰り返されてきた忠告を、ルドルはしっかりと受け止めて頷いた。
「いい子だ。じゃないと、母さんにこっぴどく怒られちまうからな」
「獣よりお母さんの方が怖いの?」
「……怖い。怒ったときはな」
思わず笑ってしまうルドルに、父も口元を緩めた。
こうして二人は、林の中へと踏み込んでいく。向かう先は、誰の手も加わっていない獣の通り道だ。
「俺たち魔族は林に道を作る。獣たちも同じだ。ただ、奴らはわかりやすく整備したりしないだけで、こうして通るたびに草木を踏み倒し、道をつくるんだ」
父が指し示す先、草木が不自然に倒れている。ルドルは頷きながら、その背にぴったりとついて行く。
しばらく歩いたそのとき、父の足がピタリと止まった。危うくぶつかりそうになったルドルだったが、声を上げることなく静かに立ち止まる。
経験が教えていた。今は声を出してはいけないと。
「……いたぞ。複数だ。厄介だな」
声を潜める父が、指先で前方を示す。その先にある開けた空間に、ルドルの目が向けられる。
そこにいたのは、巨大な狼の群れだった。一頭一頭がルドルの体の数倍もある。ざっと五、六頭はいるだろうか。
父は、二人が来た方角にある茂みを指さす。そこに隠れろという無言の指示を、ルドルは即座に理解して実行した。
ルドルは茂みに身を沈めながら、父の背中をじっと見つめていた。あの大きな背が、頼もしくもあり、同時にどこか遠く感じられる。
(お父さん、すごいな……僕も、いつかあんなふうに)
胸の奥に芽生えるのは、尊敬と憧れ、そして少しの不安。もしこのまま父に何かあったら、自分はどうするべきか。そんな考えが頭をよぎるたびに、ルドルはぎゅっと拳を握った。
風が木々の間をすり抜け、枝葉が微かに揺れる音が耳に届く。森は静寂に包まれていたが、その奥には確かな気配があった。生き物の息遣い、土を踏みしめる音、そして殺気——それらが、空気をピリつかせていた。
そんな中、ルドルは目を閉じ、心を静める。
(僕は信じてる。お父さんなら、きっと……)
息を殺して茂みに身を潜めるルドル。その前で、父が大きな斧を構え、じっと機会を伺っている。
静寂に包まれた森の中で、狩りの幕が、静かに上がろうとしていた。