2話
「エッ、エッ……アアァッーアアァッー」
焚き火の橙が壁に揺らめき、助産師たちの影が床に重なる。微かに響く産声が、夜の静けさを切り裂いた。
その場にいた誰もが息を呑み、ただ黙って見守っていた。部屋の片隅では一人の男が、緊張と期待の入り混じった面持ちで立ち尽くしていた。筋骨たくましい体躯に似合わず、落ち着かない様子で手を組んだり解いたりしているその男は、生まれてくる子の父親である。
その男の髪は雪のように白く、耳は人間とは異なる鋭い形をしていた。彼が魔族であることを、その容姿が物語っていた。
やがて、助産師の一人が赤子をそっと抱き上げ、母親のもとへ運んだ。「元気な男の子ですよ」
産着に包まれたその命を抱きしめる母親の顔には、疲労の中にも確かな安堵が滲んでいた。彼女もまた、白髪と尖った耳を持つ魔族であった。
「生まれてきてくれて、ありがとう。ルドル……」
父親もベッドへと駆け寄り、泣き声を上げる赤子に笑みを浮かべた。
「元気いっぱいだな!」
それから数年が経ち、ルドルはすくすくと成長した。今では陽気で快活な少年であり、村でもひときわ元気な存在として知られていた。
母からは読み書きや計算、家事といった生活の基本を、父からは狩りや畑仕事など実践的な知恵を学んでいた。魔族の村では、家族が互いに知恵と力を授け合い、子を育てていくのが常だった。
村は森と山に囲まれ、四季折々の自然に抱かれていた。春には花が咲き誇り、夏には川のせせらぎが、秋には豊かな収穫があり、冬は雪景色に包まれて静かな時が流れる。暮らしは決して便利ではないが、自然とともにある豊かさがあった。
村人たちは皆温和で、困っている者がいれば進んで手を差し伸べた。子どもたちは一緒に遊び、大人たちは力を合わせて日々の営みを支えていた。
ルドルはこの村が好きだった。けれど、時折その目は遠くを見つめ、胸の奥に湧き上がる何かを感じていた。
「もっと広い世界を見てみたい……」
ある朝、ルドルは父と共に畑に出ていた。苗の間引きを任され、不満げな顔を見せていた。
「よし、教えた通りに、密集してる苗を間引いてみろ」
父の指示にルドルはため息をつき、畑を見渡した。
「こんなに沢山育てなくてもいいじゃん。うちの分だけなら、ここだけで十分でしょ」
彼が指差したのは畑の一角。確かに、家族三人の暮らしにはそれだけで事足りる量だった。
「何度も言ってるだろ。これは俺たちのためだけに育ててるんじゃない」
父は手を休めることなく、淡々と諭すように言った。
この村では皆が一つの家族のように生活を支え合っていた。作物も、狩った獲物も、分かち合うのが当たり前。さらに近隣の魔族の村とも交易が行われ、互いに足りないものを補い合っていた。
理屈では分かっている。けれど、広がる畑を前にして、気の遠くなるような思いをルドルは拭えなかった。
父はそんな息子の様子に気づき、ふっと息をついて言った。
「いいか、ルドル。俺たち魔族が何より大切にしているのは、助け合いの心だ。もしあの時、勇者様の助けがなかったら……」
「はいはい、分かってるってば。その話、もう何度も聞いたよ」
父の言葉を遮るようにルドルが言い、父は苦笑した。
かつて魔族は人間と戦い、多くの命が失われた。だがある日、一人の勇者が現れ、魔王を討ち取った。そして彼は魔族を滅ぼすのではなく、生きる道を選ばせてくれた。
その決断があったからこそ、魔族はこうして穏やかに暮らしていられる。勇者の物語は、子どもたちにとって英雄譚であり、未来への希望だった。
ルドルは棒を剣に見立て、振り回しながら言った。
「僕も勇者様みたいに強くなって、畑仕事しなくてもよくなりたいな」
父が笑いかけたその時、近くから声が響いた。
「おーい、また獣が出た! 手が空いたら討伐頼むぞ!」
「分かった。すぐに向かう」
父は声に応え、振り返ってルドルに尋ねた。
「ルドル、お前も来るか? 勇者様になりたいんだろ。まずは獣の一匹くらい、一人で狩れるようにならないとな」
「行く!」
飛び跳ねて喜ぶルドルに、父はにやりと笑って畑を指差した。
「じゃあ、その前に……な?」
その言葉に、ルドルは呻き声を漏らした。