調理師
「信号青だよ」
そう言いながら隼人が振り返ると、真湖は交番に貼られた顔写真に見入っていた。
また、いつものやつか。
隼人はため息をついた。渡るのは次の青信号になるな。
同棲中の彼女、真湖には妙な癖があった。
交番に貼られている指名手配者、行方不明者の写真を見ると、必ず足を止める。そして何か取りつかれたように、一枚一枚の写真に見いるのだ。
付き合い始めたころは、たまたま信号待ちで暇なので見ているのだろうと思った。
でも、必ず立ち止まっては見つめるその熱心さが、何か普通じゃない。
今までは好きでやっているのだろうと放っておいたが、その日はつい声をかけた。
「ねえ、そんなに見つめてると何か心当たりがある関係者じゃないかっておまわりさんに思われちゃうよ」
「……」
「どうしていつもそんなにこういう写真が気になるのさ」
ポスターを見つめながら、真湖は答えた。
「この人たち、今どこにいて何を考えてるんだろう。とか、謎の空間にいてどうしてここから出られないんだろうと思ってるのかなとか、理由がわからないままいなくなったわたしの知り合いも同じところにいるのかなと……」
「そりゃあ、人によっていろいろあるよ。痴呆で迷子になったまま川に落ちたお年寄りもいるだろうし、田舎なら山で熊に食われたり。知恵遅れの女の子なら、悪い奴に誘拐されて埋められてたり」
「残酷な結末ばかりだね」こちらを向いた真湖の目はどこか責めているようだった。
隼人は肩をすくめながら言った。
「だって、普通に暮らしていて、ある日突然消えるんだろ。家から出たまま行方不明。道端にしゃがんでたり倒れてたりするなら誰かが見つけて声をかけるはずだし、どんなに捜索しても何か月も帰らないなら、不幸なことが起きたとしか考えられないじゃん。自主的な家出以外は」
「この人たち」真湖は尋ね人の少年、少女、まだ若い母親の顔を指さしながら言った。
「どこかへ行ったんだよ」
「そりゃ、どこかへは行ったでしょ」呆れて答えてから、隼人は言った。
「それ、今も生きてるってこと?」
何かが見えているような様子で、真湖は続けた。
「死んじゃった人以外に、どこか、へ、行っちゃった人もいるってこと」
「どこかって」
「……」
少し考えてから、真湖は言った。
「なんか言いようがないけど、あるんだよ。そのどこかって」
「だからどこかってどこさ」
「それは言いようがないのです。でも」
顔をあげると、真湖は言った。
「どこかへ行っちゃった人は、見えないんだけど、どこかに集まってるの。そんな気がする」
「……」
「あ、信号青だ」
言葉を探しているうちに、真湖はすたすたと信号を渡り始めた。
真湖は隼人が勤める会社の社員食堂で働いていた。
そう大きな会社でもないので、新しい調理師が入ると、社長自ら朝礼で紹介してくれる。
「みなさん、今日からわが社の食堂で調理を担当してくれることになった、月野真湖さんです。まだお若いけれど、腕は抜群です。この私が試食したからには間違いない」
社員の間から拍手が起きた。20代半ばと思われる、ショートカットで色白で、何か猫のように透き通った目をしていて、なのにどこを見ているかわからない。そう、全体に、彼女は猫に似ていた。
「月野真湖です。皆さんがお昼の時間を楽しみにできるように、頑張ります」
ぴょこんと頭を下げたその時から、隼人が真湖と付き合い始めるまで、ひと月はかからなかった。
実際彼女のアイディアを盛り込んだ料理は、どれも普通の和食をひと足エスニックに近づけた感じで、美味しかった。調理場の先輩にも、「こんな発想なかったわ」「あなたなかなかやるじゃない」と、好評だったそうだ。
だが彼女には、妙な気配が付きまとっていた。
気配というより、存在感が、普通の女性と違うのだ。
視線の先が、見ているものをつき通している。どこを見て、何を考えているのかわからないことが多い。ぶつぶつ独り言を言うし、寝言が厄介だった。はきはきしゃべる上に、声が大きいのだ。
「だめ。もうだめ」
「だから、そこまでにして。今は、いやなの。どうしてって、もう住む世界が…… 触らないでったら」
その夜、隼人はふざけ半分で割り込んだ。
「そう怖がらないで、こっちへおいでよ。優しくしてあげるからさ」
真湖は寝返りを打つと、幾分冷たい声で言った。
「命まではあげられないって言ってるのよ」
そして静かな寝息を立て始めた。
翌朝、隼人は歯を磨きながら、鏡に向かって髪をブラッシングしている真湖に言った。
「夕べの寝言はおもしろかったよ。どんな内容か教えてあげようか?」
「いい」
真湖は不機嫌そうに身支度を整えると、今日の仕込みは時間がかかるから、と言ってせわしなく玄関に立った。それから、背を向けたまま隼人に言った。
「寝言言ってる人に話しかけるとね、寿命を縮めさせることになるんだよ。返事をさせたならなおさらね。二つの世界を、行き来させることになるから。それってすごくエネルギーを消耗させることなの。そして、割り込んだあなたも危ないの。
そういうこと、二度とやらないで」
バタンとドアを閉めて、足音をいつもよりきつめに響かせて出ていった。
彼女が特異な個性を持っているのは確かだ。けれどとくだん、幽霊が見える、とか自分の周りだけで怪現象が起きる、とかそのたぐいの話はしてこない。隼人もそういう話題に興味はない。
むしろ別方向から尋ねたいことはあった。
あれだけの容姿なら、付き合った男性の数も一人や二人ではないだろう。
自分は、真面目に恋した相手は実を言うと彼女が初めてだ。
今までの恋人と、どのように出会い、別れ、その原因は何だったのか。
どうして自分を同棲相手に選んでくれたのか。
聞けそうで聞けないそんな些細なことが、隼人の胸に降り積もっていた。
週末はいつも、隼人の車で自宅から3キロほどの大手のスーパーに通うことになっていた。
「そろそろ車出すよ」と隼人が声をかけると、メモ書きを手に真湖はぶつぶつ言いながら部屋から出てきた。料理は彼女の趣味でもあるので、買い忘れがないよう、出かけるまではメモを復唱するのが癖だった。
「今夜は何にするの」
「真湖流芋煮」
「へえ、郷土料理か。故郷、山形だっけ」
「故郷とは関係なく、ただ美味しいサトイモが食べたくなったの。あとは、こんにゃくとごぼう、脂多めの牛肉、あれば丹波シメジと、セリ……」
「セリ入れるんだ。けっこう高いよねあれ」
「沢山作れば冷蔵庫に入れて三日は食べられるわ」
エンジンをかけると、真湖はぽつりと言った。
「山形は、鬼門なの。だからどっちかというと忘れたい地」
彼女が自分のことを話すのは珍しいことだった。
「両親を早くに亡くして、お婆ちゃんに育てられたって言ってたね」
「交通事故でね、わたしだけが助かったの。その祖母も亡くしてからは、故郷の小学校の給食室で調理師してた」
「そうなんだ……」
「隼人君が知りたいと思ってること」
ドキリとしてハンドルを握る手に力がこもった。
「時々伝わってくる」
「まじか。怖いな」
「まじめに将来のこと考えたいと思ってるから、簡単に言っとくね。わたしの心の澱」
「ココロのオリ。えらくブンガクな単語使うんだな」
「聞きたくないならいいよ」
「いやいや、話して。じゃあ告白しよう、知りたいのはきみの初恋についてだ。いや、一番最近の恋でもいい」
「だと思った。じゃあ話すね」
芋煮の具の話からいきなり知りたかったことの核心に入るとは思わなかった。と言おうとして、隼人は軽口は慎もうと黙って頷いた。
「隼人君と付き合う二年前に、好きになった人がいたの。
相手は、わたしが調理師してた山形の小学校の体育の先生でね。学校では先生も子どもたちと同じ給食を食べるんだけど、彼は体格が大きくてそれじゃ足りない様子だったから、唐揚げとかコロッケとか追加してあげてたらコロッと告白されちゃった」
「そりゃ胃袋をつかまれたら男は最短距離で落ちるな」隼人は笑いながら言った。
「で、付き合いだしたらずいぶん性急に、結婚話を持ち出すのよ。それも具体的に、家族にきみを紹介したいとか、親御さんのお墓にお参りしたいとか。
彼の家は代々宮司の家系でね。いずれは彼も神社の神主になることになってたの。
で、現役で神主をしているという、彼のお爺ちゃんにまず会ってくれと言われたの。
なんか厄払いしたり、魔除けのお札を忌み場所に貼って呪いを解いたり、地元では尊敬されるひとかどの能力者さんだったみたい。
だから嫌な予感がしてたのよね」
嫌な予感。……てことは、彼女が抱える異形を、彼女自身が自覚していたということだろうか。
「広いお座敷でそのお爺ちゃんに会ったとき、ちゃんと神主さんの服を着て、目のまえに正座してくれたの。
何かとても難しい顔をしてた。頭を下げて名前を言っただけで、お爺ちゃんは立ち上がったの。そしていきなり、こう言われた。
成久、この女は駄目だ。すぐ別れろ、理由は言わないって」
「また乱暴な。もっと言いようがあるだろうに、常識のない爺さんだな」
「彼……成久さんも腹を立てて、同じこと言ってた。説明もなしにそんな風な侮辱をするなら、自分はこの家を出ていく、神社も継がないって。
そうしたらわたしを睨みながら言ったの。この女は人を食い物にして生きていくそういう存在だ、傍に置くべきじゃないってね」
「人を食い物に?」
「それでわたし思わず言ったの。わたしは調理師ですが人を食い物にはしませんって」
「ほとんどギャグにとられるな、それ」
「うん、ますますお爺ちゃんは怒っちゃってね。
そういうことじゃない、あんた自身は自覚できていなかろうが周囲の命を犠牲にしてしか生きられないそういう存在だって」
「……ひでえな。何の根拠があって」
「彼もそう言ってた、それでもう怒鳴り合いになってね。ならもう神職は継がない、故郷も捨てるって。彼一人息子、というか唯一の跡取りの孫だったからお爺ちゃんますます激高して」
「まさに修羅場だな」
「彼はわたしに言ったの、この先300mほど東に行ったところに民宿があるからきみは今夜はそこに泊まってくれって、これから先は深刻な話になるからって。
お爺ちゃんはお爺ちゃんで、騒ぎを聞いて顔を出した成久さんのご両親に、親戚を集めろ、こいつはここから出すわけにいかんって」
「それでどうしたの、民宿に泊まったの」
「わたしが何話しても駄目みたいだし、もう逃げるみたいにして民宿に泊まったわ。部屋が空いててほっとしたけど、あそこまで言われたらさすがに傷ついた」
「行方不明の人たちがどこかに集まってるとか、僕の考えが分かるとか、独り言や寝言が激しいとかは、まあ、あるよね。エキセントリックな面が」
しばらく黙ったあと、真湖は言った。
「あなたは鈍いというか平和だからそれで済んでるけど、わたしときどき化け物級のものを見ることはあるのよ、いちいち言わないけど。小さいのや大きいのや、あっちから寄ってくるの」
「へーえ? 初めて聞いたな。人の形してるの、それ?」
「ものすごくおっきい人だったこともあるし、あとは…… 妖精とか妖怪とか、小さな動物みたいで足の数がおかしいとか、その、説明がしにくいのよ。
手招きされることもあったけど、相手してもしょうがないし、目の端で見てただけ。
誰にも言わないできたけど、さすがホンモノの神主さんにはわかるんだなって。でもそれ、わたしが悪いわけじゃないし」
「まあ、悪くはないしどうしようもないよね。でどうなったの」
「わたしが民宿に逃げたその夜、彼の家から火の手が上がって、全焼したの。お爺ちゃんとご両親は焼け死んで、集まった親戚の人たちは大やけど、おまけに記憶をなくしてた」
「ええっ?」
「ほら、Sストアに着いたよ。誘導の人が手を回してる、入り口そこよ」
隼人は動揺しながらハンドルを回した。まるで芋煮の話の続きのように、深刻なことも日常のことも同じトーンで真湖は話す。やはり、只者じゃないのは確かだ。
「で、肝心の彼は」
ビルの四階と屋上にある駐車場を目指して車を登らせながら隼人は聞いた。
「行方不明。ていうか、焼け跡からは彼の遺体は出てこなかった」
「え…… それって……」
「だから行方不明の貼り紙を見るのかって言うんでしょ。それは違う、昔から、成久さんと会う前からの癖なの。
あ、四階は満車みたいね。屋上に出るしかないか」
屋上に出るとすでに三月の空は夕日に染まりかけていた。
ビル内部への入り口に近いところに空きを見つけ、隼人は車を入れた。
エンジンを止めても、なんというか、車から出る気がしない。
「どしたの?」真湖は隼人の顔を覗き込んだ。
「どしたのじゃないよ。すごい話じゃない、それ」
「あっさり聞いてほしかったのに」
「きみの方があっさりしすぎだよ。
こんなこと言うの酷いかもしれないけど、その、彼氏が行方不明になって、家が焼けて彼の家族が死んで、きみはその、悲しいとか混乱するとか心の重荷になってるとか、そういうのはなかったの」
「だってわたしなにもしてないじゃない。家族間で争いになって誰かが火をつけた、そんなこと、わたしが何をどうしようと止められなかったことでしょ」
「それは、そうだけど……」
「嫌な思い出ってね、ボルシチの固い肉みたいなものよ」
「はあ?」
「ちょっとやそっとじゃナイフの入らない安い肉でも、長い長い時間煮ていれば、そのうち柔らかくなって崩れて、ジャガイモと同じぐらいの柔らかさになるのよ。そしたら飲み込める。つまり、そういうこと」
「……」
「あ、今日のチラシが貼ってある。牛すね肉特売だって。やったね」
エレベータ―ホールの壁に貼ってあるチラシを見ながら、真湖は嬉しそうに言った。
その後ろに突っ立ったまま、隼人は尋ねた。
「一つだけ聞かせて。彼のこと、好きだった? 失って、どれぐらい心が痛んだ?」
真湖は振り返り、いつになく厳しい表情の隼人を見て、澄んだ瞳を細くした。
「痛んでてほしいの?」
「……」
「結論から言って、彼からは押せ押せで求婚されたので、自分の気持ちを確かめる余裕もなかったみたい。付き合っていて嫌な感じはなかったけど、失って分かったのは、彼はわたしのことをとても必要としていたのに、わたしはそうじゃなかったってこと」
「じゃあ今、僕のことをどう思ってる?」
「普通にいい人だと思ってるよ。心に波風の立たないタイプだし、平和だし。いっしょにいると、なんていうか。わたしふつうにこの世にいていいんだって、安心できる」
「……」
エレベーターの位置を示す灯りが一階から二階へと点灯し始めた。
「でも」
「でも?」
「わたしなんかと、出会わない方がよかったかもね……」
隼人は真湖の沈んだ表情を見て、慌てて言った。
「そんなこと思ってないよ。きみのこと責めたように聞こえたらごめん、無神経だった」
二人黙って次々光が移動してゆくエレベーターの数字を見た。
スーパーは一階。二階は電気店。三階は百円ショップ。四階は駐車場、そしてその上が、今いる屋上駐車場。
四階のランプがついてしばらくして、エレベーターのドアが開いた。買い物カートやベビーカーを押しながら、お客が降りてくる。
後ろで待つ三、四人のお客とともにエレベーターに乗り込みながら、隼人は思った。
あの日の、あの寝言。
だから、そこまでにして。今は、いやなの。どうしてって、もう住む世界が……
あれは、成久さんに言っていたんじゃないのか?
そこに割り込んで話しかけた僕は、じゃあ、二つの世界をつなげた?
寿命を縮めさせることになる…… 割り込んだあなたも…… 二度とやらないで……
エレベーターには縦に細いガラス窓がついていて、向こうの景色が見える。
いったん真っ暗になった後、四階の駐車場の灯りが見え、すっと止まりドアが開いて、待っていたお客が駐車場から乗り込んできた。男女二人。
ドアが閉まり、降下が始まる。次は百円ショップ。
のはずが。
窓の外には、どういうことか、また駐車場が現れたのだ。
それも、電気がほとんど消えて、薄暗い。
あれ? 駐車場なんか三階にはなかったはずだぞ?
呆然としていると、エレベーターはその謎の空間で止まり、ドアが静かに開いた。
目の前の薄暗い空間は確かに駐車場で、まばらに車が止まっている。どうやらどれもマイクロバスのようだ。しかも灰色に煤けている。
流れ込んでくる空気は湿気ていて、カビ臭い。まるで何人たりともはいったことのない洞窟の中のように。
「これ……」
おかしくない? と言おうとして、隼人は声が出ないことに気づいた。それに、体も動かない。指先も、微動だにしない。
目だけで横を見ると、真湖は目を大きく開けて、目の前の空間を見つめている。そして周囲のお客も、マネキンのように動かず、表情も固まったままだ。
隼人は思った。
違う。これはないはずの空間だ。異空間に続くドアが開いて、今、時間が止まっている……
なぜこんな空間にいきなり来てしまったのか……
やがて。
真湖の視線の先。
闇の中から、ぼうっとかすみながらこちらへ近づいてくる影が現れた。
背の高い、男性のシルエットだ。
ないはずの駐車場から、「それ」は、エレベーターに乗り込もうと近づいてくる。
こいつは……!!
ふいに真湖が前に進み出た。真湖の周囲の空間が、この異空間と同調したのだ。影を恐れることなく、真湖は前に手を伸ばした。
「やめろおっ!!」
隼人の喉から大声が出たとたん、体が自由になった。隼人は真湖の手の先にあるエレベーターのボタンのうち「閉」をたてつづけに押した。
「真湖後ろに下がれ!」
「隼人くん、だめ!」
どん、と隼人に身体を突き飛ばされて、真湖はマネキンのようになっている乗客の一人にぶつかった。無表情で老女が後ろ向きに倒れる。その目の前でエレベーターのドアは閉まり始め、隙間から入ってきた黒い二本の手が、隼人の頭をがしっとつかむと、あっという間に駐車場に引きずりこんだ。
「やめてー!!」
そのまま扉は閉じた。
がくん、と振動すると、エレベーターは何事もなかったかのように下降し始めた。細い窓の外を、電気店と、百円ショップの光が通り過ぎる。そして、一階のスーパーにつくと、ドアは静かに開いた。
周囲のお客は、みないきなり昼寝から起こされた人のような顔をして、頭をかいたりきょろきょろしたりしながら、何か戸惑っている様子だ。
「ねえ、今、わたしなんだか一瞬寝ぼけてたような気がするんだけど」
「俺もだ。あれ、何で意識が飛んだんだろ」
目をぱちくりさせながら床に転がっていた老女は、隣の男性の手によって抱き起された。
皆首を傾げながらも、ショッピングカートを手にして、スーパーに散ってゆく。
真湖は買い物を終えた客たちが入ってくるのを見ながら、エレベーターの中に立ち尽くしたままだった。
「あの、降りないんですか?」
手提げ袋を下げて乗り込んできた子連れの母親が、不思議そうに声をかけてくる。
「いえ、いいんです」
エレベーターのドアが閉まる。真湖は上昇してゆくエレベーターの中で、細長いガラスの外を凝視した。
二階、百円ショップ。
三階、電気店。ドアが開き、客が乗ってくる。
四階、駐車場。またドアが開き、何人かの客が買い物を手に降りてゆく。
屋上についた。ドアが開き、真湖は夕焼けに染まった屋上駐車場に出た。
あの階は、なかった。
もう二度と現れないのだろう。
自分は間に合わなかった。
身体が一瞬動かず、「閉」のボタンを押すのが遅れて、代わりに彼が押すことになり、そのまま引きずり出されてしまった……
おそらくは「彼」に。
あのマイクロバスに乗っていた、たくさんの影。
あのバスはいつまでもあそこにいるのか、それともどこかに出発するのだろうか。
バスの影から、こちらに向かって歩いてくる子供のような影もあった。
若い女性のシルエットも見えた。
みな、出たいのだろう。自分たちがどこにいるのか、わからないのだろう。
彼等は、ああいう風に「どこかにとじこめられている」のだ。
決してこの世からは届かないはずのどこかへ。たぶん、ずっと。
マイクロバスに乗らない限り。
隼人くんも……
屋上に出ると、彼の車が藍色の車体を光らせて止まっていた。
真湖はついさっきまで二人で乗っていた車をなでながら思った。
隼人くん。
……やっぱり、わたしなんかと出会わなければよかったね。
いずれ自分は、交番の貼り紙で、彼の顔を見ることになるのだろう。
この人を探しています。
小野隼人、28歳。身長175センチ、髪は黒。
2025年3月、M市Sストアでの目撃を最後に行方不明。
そのときまでに、こころの鍋に火をつけて
固い肉を放り込んで、ことこと、ことことと煮続けて
このやり場のない思いが
ほぐれたボルシチの肉のように柔らかくなるまで、ふんわりと溶かしこんでいこう。
だってわたしは、調理師なのだから。