シン・ゴジラ VS ゴジラ―1.0 非エリートの時代
初出:令和6年9月16日
最近、アマプラでゴジラ映画を立て続けに観た。
一番面白かったのは初代ゴジラ、つまり1954年の白黒映画「ゴジラ」だ。原点にして頂点という表現がふさわしい。
二番目に面白かったのは最新作「ゴジラ-1.0」で、三番目がエヴェンゲリオンの庵野監督作品の「シン・ゴジラ」といったところか。
もっともゴジラ映画を全部観たわけではないので、もっと面白いゴジラも見落としている可能性はある。
ところで「ゴジラ-1.0」、「シン・ゴジラ」はともに国内では興行的に成功したが、海外では「シン・ゴジラ」の方だけコケたという情報を耳にした。情報源はオタキング、岡田斗司夫のユーチューブ動画だ。
「シン・ゴジラ」は高級エリート官僚が主人公。内閣の閣僚や官僚が集まって緊急会議を開き、ゴジラ退治をするという話だ。ゴジラを災害対策に見立てたリアリティのあるストーリーだ。
これに対し、「ゴジラ-1.0」は庶民たちの寄せ集め部隊がゴジラ退治をするという話。戦後間もない混乱期なので、日本の正規の軍隊は当てにできず、とりあえず集まった有志たちが作戦を練り、どうにかこうにかゴジラをやっつける。
日本人は判官びいきなので、弱そうな主人公やそのグループが強そうな悪役やそのグループを番狂わせで倒すという映画やドラマを好む。視聴者自ら、弱そうな主人公と自分を同一視して感情移入できるからだ。
エリートがゴジラを退治するよりも、庶民がゴジラを退治する方が判官びいき心を刺激するし、その方が子気味いい。
ただ「シン・ゴジラ」が海外でのみコケた理由と、「ゴジラ-1.0」が海外でも受けた理由がよくわからない。判官びいきを好むのは日本人の特性だと思うからだ。
とは言え、「ゴジラ-1.0」が「シン・ゴジラ」に勝ったのは、人口の大多数を占める庶民たる非エリートが人口的に少数派のエリートを打ち負かしたからという解釈もできるだろう。
1.グローバルエリートについて
あなたはエリートという言葉にどのようなイメージをお持ちだろうか。
70年代、エリートという外来語はいい意味で使われた。平均的な普通の人ではなく、ごく少数の選ばれた優れた人がエリートだ。
株式会社エリートという会社が自宅の近くにあった記憶がある。ぬいぐるみのメーカーかディーラーだったと思う。
ところがグローバルエリートという言葉を聞いて、好印象を抱くだろうか。
陰謀論マニアにとり、人民の宿敵であるディープステートとネオコンやグローバエリートはほぼ同義だ。
ディープステートの政治家バージョンがネオコンであり、財界人バージョンがグローバルエリートに他ならない。
私的には今日ではエリートという外来語は昔とちがい、悪いニュアンスを帯びるようになったと思う。
2.ゴジラへの敬礼
ゴジラ映画にかこつけてグローバルエリートの話題につなげるのも牽強付会かもしれないので、話題をゴジラに戻す。
フェースブックではこんな話が乗っていた。
「ゴジラ-1.0」のラストでゴジラが爆死した後、船上の登場人物たちが敵であるゴジラに敬礼するシーンがあるが、あれは意味がわからない、という書き込みだ。
私の解釈では、あれは1954年の初代「ゴジラ」のオマージュではないかと思うのだ。
この映画では海底で芹澤博士が自ら開発した新型爆弾でゴジラとともに爆死する。そこで船上で乗組員たちが芹澤博士に敬礼するのである。
また同時に映画会社東宝およびその関係者がゴジラに敬礼したのではないかともとれる。
これまで長い間、ゴジラ映画で飯を食わせてもらい、これからもお世話になるかもしれない。そこでゴジラスタッフ全員の思いをこめて出演者に代理で”ゴジラ様”に敬礼してもらったのだ。
以上、どうでもいい話ではある。
(つづく)




