N次アートとN次小説の可能性
初出:令和6年6月10日
最近、N次アートやN次小説の可能性についていろいろ夢想している。
ところでN次アート、N次小説とは何か。これは小生の造語だ。
二次小説、三次小説ならわかるだろう。オリジナルの小説をベースに作者以外の人が改変したものが二次小説。さらにそれを別の人が改変したものが三次小説だ。
これを繰り返せば四次、五次、六次......と続くことになり、それらを全部ひっくるめたものがN次小説だ。
N次アートは小説にかぎらず、あらゆるジャンルのアート作品について、同様にオリジナル作品を別の作者がN回だけ改変したものを指す。これも小生の造語だ。
かつてアメコミにはまった時期がある。
新宿西口にアメコミ専門店があった。またカード払いでニューヨークのマーベル社から直接、複数タイトルを定期購読もしていた。
日本の漫画は通常、作者は一人。劇画ではプロットを考える漫画原作者と作画する漫画家の二人組で作成することが多いようだ。
これに対し、アメコミではプロットを考えるライター、下絵を描くペンシラー、ペン入れをするインカー、色を塗るカラーリスト、吹き出しの台詞を書くレタラー、編集担当のエディターなどが一つの作品にクレジットされる。つまり分業体制のチームで作成する。
アメコミは作者でなく、出版社が著作権を持っている。
同じXメンでも「アンキャニーXメン」や「アルティメットXメン」など複数タイトルを同時に出版しており、作者チームのメンバーも異なる。そしてときどき最終回を迎えては、また新しく新連載を繰り返す。
同じキャラクターでも作者がちがえば絵も異なり、ストーリーも昔と少し異なる。しかしそのちがいを楽しむアメコミファンもいるかもしれない。
クラシック音楽マニアには同じ曲でも演奏者のちがいを楽しむという人がいる。
たとえば同じベートーヴェンの第五交響曲でもカラヤン指揮とバーンスタイン指揮の二つのCDを買い、ちがいを楽しんでいる知人がいる。
どちらか好きな方のCDを選ぶ人もいるだろうが、あえて二人の指揮者のちがいを楽しむのが音楽通なのかもしれない。
「エイリアン」というSFホラー映画のシリーズをご存じだろうか。
毎回、ちがう映画監督を起用しているため、監督の解釈で同じシリーズなのに作品のテイストが異なる。おそらく製作者側は故意に監督を変え、意図的に監督のカラーを全面に押し出していると思われる。
「エイリアン1」はリドリー・スコット監督作品。「ブレイドランナー」の監督だ。この作品は「ブレイドランナー」同様、暗くデカダンスの雰囲気が漂っている。
「エイリアン2」はジェームズ・キャメロン監督作品。「タイタニック」や「アバター」などメガヒット作品の監督だ。興行的には最も成功したのかもしれない。メガヒット作を量産する監督だけに大衆受けする要素がたくさんある作品のようだ。
「エイリアン3」は「セブン」を手掛けたデヴィッド・フィンチャー監督作品。この作品は「セブン」同様、救いがたい絶望感が恐怖を倍増させている。
そして「エイリアン4」はジャン=ピエール・ジュネ監督作品。「デリカテッセン」や「アメリ」といった、ほのぼの系ファンタジーを得意とする監督だ。「エイリアン4」が牧歌的な明るいホラーになったのはこのためだ。
どの「エイリアン」が面白いか、あるいは好きかは個人の趣味でわかれるが、同じ「エイリアン」でも監督により、これだけ作風がちがってくるというのが興味深い。
さて、アメコミ、クラシック音楽、「エイリアン」はN次アートといっていい。
これに対し、小説の場合、著作権問題の壁で勝手にN次小説を作るのが難しい感じがする。
しかしながら著作権の概念がなかった時代、神話や民話の類はN次小説ではなかったか。
神話や民話の作者は誰か。おそらく一人ではないだろう。複数の作者が既存の作品を何回もアレンジして作られたのではないだろうか。
同じ神話や民話が地域によって複数のバリエーションがあるのはこのためだ。
すでにSFのベリーローダンシリーズなど探せばすでにN次小説はこの世に存在するが、今の世の中はあまりN次小説を歓迎する風潮はないように思える。
以上、小説に苦言を呈した感じになったが、全ジャンルのアートについて”N次化”を促進できる著作権問題の法整備を提言したい。
最近はAIがアートをクリエイトする時代である。というか実際はAIと人間の作者との合作も多いと思う。
人間の作者チームにAIも参加させ、複合的なN次アートが創造される環境が整えば、世の中は面白くなるのではないか。
そんなふうに夢想している。
(つづく)
アマプラでエイリアン4を見ました。牧歌的でなく普通のホラーSFでした。
昔見たのは別の作品?




