咎を負った女神
どこまでも深い底なし沼が広がる紫色の霧の中、ライコウ達は北へと進んでいた。
この紫色の霧は、器械がその中にいるだけで、錆毒に侵食されてやがて故障に至るという危険な霧であった。 霧に侵入する者達は防毒シールドが必須であるが、防毒シールドは半日程度しか維持できず、半日で1000キロある沼地を渡りきる事は至難の業である。 その為、防毒シールド以外に対策をしなければならないが、その他これと言った対策方法は皆無であった。 航空機を使用して一気に渡りきる方法もあるにはあるが、航空機を使用するとあっという間にベトールが来て、撃ち落されてしまう。
したがって、今までゼルナー達が沼地を渡り切った事はただの一度も無い――。
だが、ライコウ達はそんな毒の沼地の中を平然と進んでいた。 それは防毒シールドのお陰ではなく、イナ・フォグが両腕で抱いているトグロを巻いた大蛇の邪神像のお陰であった。
『青銅の蛇』と呼ばれるこの大蛇はイナ・フォグが召喚したもので、口から黒い霧を吐き出してあらゆる毒から周囲の者達の身を護る。 また、毒だけでなく熱や冷気、酸といった障害からも身を守ることができ、しかもそれらの障害に侵された者を治癒することもできるといった、非常に有難い蛇神様であった。
この蛇はイナ・フォグの服の中に小さくなって隠れており、イナ・フォグが呪文を唱えると大きくなってニョロニョロと服の中から外へ這い出て、青銅の像と化す。
像となっている間はその有難い効果は継続され、イナ・フォグが像をペシンと叩けば像は元の蛇に戻りイナ・フォグの服の中へと戻る。 放っておいても太陽の光を浴びると像は蛇に戻るが、深い紫の霧の中では太陽の光は届かないので、イナ・フォグが像を叩かない限りはずっと使用する事が出来た。
イナ・フォグはこのような不思議な術を使用しながら、この不気味な霧の中でおよそ100年もの間、たった一人で生きてきた。
(たった一人で仄暗い霧の中に100年もいたとは、さぞかし寂しかったことだろう……)
ライコウはそう思うと、イナ・フォグが可哀そうに思えてきた。
だが、当の本人は澄ました顔をして「別に寂しくはなかったわ……」などと言っていたが、ライコウに慰められた時に少しはにかんだ笑顔を見せていたので、やはり寂しかったに違いなかった。
霧の中には、ショル・アボルの死体だけでなく、夥しい数の鎧兜や器械の欠片が沼地に浮かんでおり、バイクや戦車、トレーラーと言った乗り物も沼地に半分浮かんで天を仰いで助けを求めているかのようであった。
彼らの殆どはイナ・フォグを討伐する為、そして、北の『理想郷』を目指すために沼地に侵入した者達である。 まともにマザーの言う事を聞いて、イナ・フォグを説得しようなどという者など殆どいなかった。
つまり、ラキアの仲間達然り――皆、各々の欲望と野望を内に秘めてこの沼地へと辿り着いた者達であり、ひっそりと沼地で暮らしていたイナ・フォグにとっては『降りかかる火の粉』を払っていただけに過ぎなかった。
――こう見ると、初めに『理想郷がある』という狂言を吹いて回った『アイナの噓つきアル』というゼルナーは、つくづく罪深いゼルナーであると言える。
彼女はマザーの命令によって逮捕され、終身刑に処せられたが、類まれな能力のお陰で最近脱獄に成功し、現在、行方不明であった……。
ちなみに、イナ・フォグは破壊した器械達を食料にしていたが、イナ・フォグにとっては器械を捕食の対象としていた訳ではなく、単に腹が減った時に破壊した器械を食べていただけであった。
イナ・フォグはそもそも食糧を摂取せずとも、眠っていれば自然と体内のマナスが補給されて生命活動が維持できる。 食糧を摂取すれば、それだけマナスの回復は早まるが、食糧を摂取する事が必須ではないのだ。
ライコウはイナ・フォグからそんな事情を聞かされて、仲間になったからには器械を食べないようにイナ・フォグに頼んだ。 その代わり、キャストロのオイルを塗した高級ネジを飴玉としてイナ・フォグに与えた。
「――どうじゃ、うまいか?」
「……うん。 悪くないわ……」
イナ・フォグは飴玉を口に含みながらライコウの問いに笑顔で返した――。
――
ようやく紫色の霧も薄くなってきた。 霧が薄くなるにつれて、周囲が少し明るくなり『これで峠を越えた』のかと思いきや、今度は粉雪の吹きすさぶ雪の世界へと変わっていった……。
器械達にも感覚器が備わっており、気温が極度に低ければ寒さを感じる。 エンドル、ソルテス、アロンの三人はそれほど優秀な性能を持っている訳ではないので、殊更、この吹雪は身体に堪えるようで、三人は身を寄せ合って震えながら進んでいた。
「――のう、フォグよ。 『ヘーレムの門』まであとどのくらいかのう?」
ライコウが後ろを振り向くと、三人がまるで何かを訴えかけるような目をして震えながらライコウを見ている。
「もう、あと少しよ。 ここから200キロくらい先かしら……」
イナ・フォグの胸にはヒツジがチョコンと抱かれており、ヒツジはライコウのマントに包まって暖かそうにしている。
沼地を突破する際に使用していた『青銅の蛇』を再び使用すれば、あるいは寒さが和らぐのではないかと思われるのだが、イナ・フォグはヒツジを抱き寄せたいが為に、後ろで寒そうに身を寄せ合う三人を忖度する事なく、そのまま何食わぬ顔で三日月型の物体に乗ってフワフワと進んでいた。
ライコウはさすがに後ろにいる三人が限界だとみて、イナ・フォグにちょっと休むように提案をした。
「フォグ……。 少し、ここで休まないかのぅ? ワシもちょっと寒くなって来たわぃ」
「そう……。 アナタは寒がりなのね……」
気温はマイナス25度……。 寒がりではなくても、これほど低ければ誰でも寒いと言うはずだが、イナ・フォグは容赦なく顔に当たる粉雪でも艶然とした様子で前を見詰めていた。
――粉雪が当たるイナ・フォグの横顔は美しかった。
鮮やかな桜色の髪が後方へ靡く度、少し赤くなった小さい耳が見え隠れする。
前を見詰めるその瞳は燃えるように赤い。
頬は仄かに紅色に染まり、小さい鼻先には粉雪が付いては消える。
くるりとカーブを描いた長い睫毛にかかる雪――瞳の熱で溶けだして、涙のように瞳を濡らす。
真っ赤に染まった唇は、凍える吹雪の中でも瑞々しい。
そして、雪よりも白く、艶やかな肌。
その様子は、まるで美しい人間の娘であるかのようにも見えた。
だが、桜色の髪の毛先が肩に触れる度、暗黒の影がチカチカと火花のように散る様と、彼女の首から下げられた黒い心臓のようなペンダント。 そして、背にはためかせている真っ白い天使の翼と、頭上に輝く金色の環。 その恐ろしくも神秘的な姿が、彼女が人ならざる者である事を証明していた――。
「それじゃ、ここで少し休みましょうか?」
イナ・フォグは立ち止まって、ライコウとその後ろの三人を見た。 すると、三人は「はい、もう是非そうしてください!」と言って、雪の積もる大地にへたり込んだ……。
ライコウはイナ・フォグの言葉で、早速降り積もる雪で『かまくら』を造ろうと穴を掘り始めた……。
「……ライコウ、何やっているの?」
イナ・フォグが不審そうな顔をしてライコウを見ると、ライコウは一所懸命穴を掘りつつ「洞穴をつくって、寒さを凌がんと、休憩する意味がないからのぅ」と言う――。
「ふふっ、そんな必要ないわ――」
イナ・フォグはライコウが穴を掘っている姿が面白かったのか、可愛らしい笑顔を見せた。 そして、何やらブツブツと呪文を唱え始めた。
「マスティール・エト・エメット……」
イナ・フォグがそう呟くと――
突然、辺りから吹雪が消えた――。
「「「うぇぇ――!! ここは、あの時の――!?」」」
ライコウの後ろにいたエンドル達三人が叫ぶ声を聞いた時、さっきまで深い雪の大地に穴を掘っていたはずのライコウの両手には雪の感覚がなく――気が付くと、両手は薄紫色の床をカサカサと掘っていた……。
「な、何じゃ? ここは……?」
慌てて周囲を見渡すライコウ――。
アメジストのような光沢のある紫色の床が、正方形のタイル状に整然と敷かれている広大な空間――床に反射して見える空にはただ薄紫の雲のような霧が漂っている。
そこは、どこまでも続く無限の回廊であり、いくら進もうともこの紫色のタイルが続くだけの気が遠くなるような虚空のように思われた。
「ここは『イェネ・ヴェルト』……ではなくて、それを似せて作った空間だわ。
本当のイェネ・ヴェルトは『ベエル・シャハト』の先にあるの」
相変わらず、何の説明もせずに難解な言葉で答えるイナ・フォグ。 ライコウはイナ・フォグの説明では、現状が一ミリも理解できなかった。
「……ま、まぁ……つまり、お主が何かやって、良くわからん空間に移動したという事じゃな……」
「……ふふっ、それでも良いわ」
エンドル、ソルテス、アロンの三人はこの空間に見覚えがあった。 イナ・フォグとの戦闘時、イナ・フォグによってこの空間に飛ばされたからである。
その時、三人はこの虚空を駆けずり回って必死に助けを呼んでいた。 ところが、どこまでも続く虚無の空間で歩き疲れて途方に暮れ、三人で車座になって項垂れていたところで、突然元の世界へと戻ってきたというトラウマがあった。
三人が肩を寄せ合って怯えている様をイナ・フォグが見て微笑んだ。
「そんなに怯える必要は無いわ。 この通り、何もない空間だけど、快適な温度でしょ?
今日はここでゆっくりお休みなさい」
イナ・フォグの言う通り、この空間は暑からず、寒からず――絶妙な気温であり、春の陽気と秋の涼しさが一緒になったような快適な空間であった。
「……たしかに、そう言われてみれば妙に落ち着く空間じゃの」
ライコウがそういうと、ソルテスも辺りをキョロキョロと見渡しながら「あの時は気が動転して、怖かったばっかりだったけど、そう思えば意外と快適な空間ですね……」と言って、ソルテスの言葉にエンドルとアロンも頷いて、三人もようやく落ち着きを取り戻した。
ヒツジは相変わらずイナ・フォグに抱かれていたが、イナ・フォグがそのまま三日月の上で眠ろうとすると、ヒツジが「今日はライコウと寝たい」と言った。 イナ・フォグは仕方なく三日月からピョンと降りて――
「ふふっ……ワガママな子。 じゃあ、私とライコウと三人で一緒に寝ましょう」
と微笑みながら、ライコウの同意も聞かずに、おもむろに床の上へライコウのマントを敷きだした。 そして、ライコウの腕を引っ張って、そのままライコウをマントの上へ押し倒し、自分はヒツジを抱いてライコウの隣で眠りだした……。
(なんで、ワシが無理くり寝かしつけられなきゃならんのじゃ……)
ライコウは兜を脱いで、不承不承、イナ・フォグの隣で横になっていると、恐る恐るエンドル達三人がライコウの傍へと近寄ってきて、ライコウにこの空間が一体何なのか聞いてきた。
「……そんな事、ワシにもわからん! おい、フォグ。 まだ起きておるか?」
ライコウがイナ・フォグに呼び掛けると、エンドルは「いや、起こしちゃまずいよん。 殺されるわん!」と言って慌てて止めに入る――すると、イナ・フォグはまだ起きていたようで――
「……ふぁ……なぁに――?」
とライコウに眠そうな返事をした。
「この空間がさっきのフォグの説明ではどうも良くわからん。 ワシはこの空間が気になって眠れんのじゃ。 フォグよ、もうちょっと詳しく説明してくれんかの?」
ライコウがそう言うと、イナ・フォグは「……ふぅ」と呆れたような声を出し――
「仕方ないわ。 アナタが良く眠れるように、私が詳しく説明してあげる」
と言って、この空間が何なのかを説明しだした――。
――
この空間は紛れもなくイナ・フォグが造り出した異空間である。 『真実の隠蔽』と呼ばれるこの術は、その名の通り、現実世界に存在する者の姿を消し、この異空間に隠蔽する。
現実世界から姿を消した者は、この異空間の中をいくら移動したところで現実世界では止まったままである。 イナ・フォグによって術が解除されない限り、現実世界で消えた場所に留まり続け、永遠にこの不気味な空間をさまよい続けることになる。
だが、この術は現実世界から対象者の姿を消すだけでなく、姿を消した場所に対象者の代わりとなる物体を置く事も出来る。
対象者が消えた場所に置かれた物体は、任意に移動させる事が出来る。 つまり、対象者は現実世界にいる第三者に物体を動かしてもらうことによって、異空間にいながらでも現実世界で移動する事も出来るのだ。
但し、対象者の代わりに置くことが出来る物体は、簡単な構造の物体に限られる。 生物や車等は置く事は出来ず、人形や指輪などの小さくて簡単な構造の物体しか置くことが出来ない。
このように制約はあるものの、対象者を隠し、任意に移動させることが出来るこの術は非常に便利なものである。 しかし、イナ・フォグがこの術を解除しない限り、未来永劫この空間から出ることが出来なくなるという恐ろしい側面もあるのだ。
――ラキアが『ダカツの霧沼』へ仲間を連れて攻め込み、壊滅的な被害にあった後、今度は、ハーブリムのゼルナー『リクイ』が大群を引き連れて、イナ・フォグを説得しようと沼地へ侵入した事があった。
その際、イナ・フォグは『マスティール・エト・エメット』を発動して、リクイの部下たちをこの異空間に閉じ込めて、そのまま放っておいて眠りについてしまった……。
リクイは運よく術の対象者にならなかったが、殆どの部下が一夜にして忽然と姿を消してしまい、リクイは沼地から湧き出るサソリや蛇の大群に襲われて命からがら遁走した。
リクイは他のゼルナー達とは違い、マザーの命令を忠実に守り、あくまでもイナ・フォグを説得する為に沼地へ訪れた。 ところが、元来の高圧的な物言いと、高慢な態度にイナ・フォグが怒り、部下たちを異空間へ転移させてしまったのであった。
それでも、リクイは懲りずに今度はイナ・フォグを討伐しようとしたので、イナ・フォグは蛇やサソリをけしかけてリクイを追い返したのであった。
リクイはその後、マザーにこの出来事を報告しにいったが、マザーからガラクタだと叱責された。
リクイは部下を失くしたショックもあり、失意のどん底に叩き落されて酒場で灯油を飲む毎日を送るようになったのであった……。
――イナ・フォグがつらつらと、この空間が何であるかの説明を終える頃には、ライコウとその周りの三人はグーグーといびきをかいて寝てしまっていた。
イナ・フォグは抱いていたヒツジを優しく寝かしなおし、自分は眠りについているライコウの傍に行きライコウの金色に輝く髪を撫でながら――
「ふふっ、せっかく私が説明してあげたのに……。 しょうがないヒトね……」
と言って、ライコウの額に優しく口づけをして眠りについた。
――
翌日、イナ・フォグの創った異空間から出ると、吹雪はすっかり止んでおり、美しい銀世界が広がっていた。
ただ、美しい――と言っても、降り積もった雪以外には何もない静寂の世界である。 当然、鳥の声もなければ、枯れ木すら落ちていない。 雪に埋もれた小動物型のショル・アボルの死体がいくつか転がっているだけだ……。
もし、この場所にたった一人で立ち尽くせば、まるで、全ての生物が雲散霧消し、ただ一人この寂寞たる銀世界に取り残されたような恐ろしさに身を震わすだろう。
帰るべき場所と、その場所へ帰れる手段があればこそ、この恐ろしい銀世界が美しいと思えるのだ。
「さぁ、ここから200キロ――早くいかないとまた吹雪がやってくるわ」
「はい、はい! これだけ休んだんだし、オイラはもう燃料満タンさ! ゴールまで休まなくても爆走するぜ!」
イナ・フォグの呼びかけに、能天気なアロンが元気に叫んだ。 アロンは帰りの事を全く考えていないようで、行きがこれだけ過酷なことから、帰りの事はなるべく考えないようにしようと努めていたエンドルとソルテスを辟易させた……。
――
イナ・フォグに導かれた五人は、大理石のように真っ白に輝く巨大な城壁の前に来ていた。
「こっ、これが『ヘーレムの門』……?」
「……そうよ。 この先はもう進めない。 しばらくこの付近を探索でもしてみればいいわ。 でも、城壁に触れてはダメよ」
この城壁はただの城壁ではなかった。 まるでハーブリムの役所を取り巻く透明な壁のように、内部が磨りガラスのように薄っすらと透けて見えていたが、何があるのかはデバイスを使用しても確認できなかった。
そして、城壁と呼ぶのも憚られるほどのあまりにも高い壁であったので、まるで巨大な円筒状のガラスのような形状であった。
エンドル達三人は、城壁の中を何とか覗けないか城壁に手を触れて中を覗こうとした。 すると、イナ・フォグが「――待って!!」と言って、慌ててエンドル達を止めた。
「この場所はスカイ・ハイでも侵入は出来ないわ。 空から侵入しようとしても必ず蒼白い炎に襲われて焼き落とされる……」
イナ・フォグはそう言うと、城壁の壁へ手を触れた――。
その瞬間『ボン――!!』という爆発音と共に地獄から湧き出たような蒼白い炎が巻き上がり、イナ・フォグの白く細い手を真っ黒に焦がした。
「――うぉ!? フォグ、大丈夫か!?」
ライコウが仰天してイナ・フォグの手をさする。
すると、イナ・フォグは少し頬を赤らめながら、エンドル達を方へ目を遣って再び注意をした。
「……大丈夫よ。 私でもこうなるから、アナタ達ではただの鉄の塊になってしまうわ……。 城壁に触れないよう気を付けなさい」
イナ・フォグの忠告にエンドル、ソルテス、アロンは顔を青ざめて城壁から慌てて距離を取った。
「……この城壁の中には何があるのん? ……ですか?」
エンドルがイナ・フォグに恐る恐る聞くと、イナ・フォグは呆れた様子で「アナタもライコウと同じで、ヒトの話を聞かないのね……。 メカシェファの集落があると言っているでしょう?」と言って、エンドルを叱りつけた。
「いや、そういう訳じゃなくて……エンドルはそのメカシェファの集落というのが、どういうものか知りたかったんじゃない?」
ヒツジがエンドルのフォローをすると、イナ・フォグはヒツジの頭を微笑みながら撫でて、「そう……。 ヒツジはいい子ね。 アナタもヒツジのようにちゃんとそう言わないと、分からないわ」とエンドルをジッと睨んだ。
(いや、普通は分かるでしょん……)
エンドルは内心そう思いながらも、「えへへ……。 すいまそん」と言って、後ろ手で頭を掻いた。
「集落の内部がどうなっているかなんて、私には記憶が無いわ。 でも、私がアイツから聞いた話ではこの先はマナスの濃い場所があるそうよ。 その場所は古代の星と同じように澄んだ空気と汚染されていない海が広がる場所だと聞いているわ……まあ、本当かどうかは分からないけど……。
しかも、その場所の海は絶滅したはずの『魚』と呼ばれる生物もいると聞いているわ……」
イナ・フォグの説明で、五人はこの集落の内部に美しい楽園が広がっているような光景を想像した。
「やっぱり『理想郷』はあったんですね!!」
ソルテスとアロンが小躍りしながら大喜びしている。
「だから、本当かどうかは分からないのに……」
イナ・フォグが困った顔をして、はしゃいでいる二人を見ている。 対照的にライコウとヒツジは『理想郷』には興味がないようで「ふーん」といった様子でイナ・フォグの説明を聞いていた。
「それはそうと、フォグ――。 この門の中に入る手段はあるのかの?」
ライコウがイナ・フォグに聞くと、イナ・フォグはコクリと頷いて、フワフワと三日月に乗りながら城壁を廻るように東へと移動した。
皆、イナ・フォグの後ろを黙ってついていくと――
イナ・フォグが止まった先に、小さな女神像が一体建っていた……。
ピンク色に輝くサファイアのような素材で造られた翼の生えた女神像は、キトンと言われる一枚布を身に着けており、右手に持った白く輝く剣を天に突き立てていた。 そして、左手は何かを差し出すように掌を広げていた。
イナ・フォグが女神像へと近づいて、女神の左手に触れる――。
掌は何かをはめる窪みがあった。 その窪みはまるで心臓のような形をしていた。
「……ここに『トガビトノミタマ』を置くの……」
イナ・フォグの言葉に、ライコウとヒツジが目を丸くした。
「メカシェファの『心臓』を――!? でも、もうメカシェファは絶滅したと聞いておるぞ!?」
ライコウが叫ぶと、イナ・フォグはコクリと頷いた。
「――そう。 メカシェファはもう誰も生きていないわ。 でも、私達――
『リリム』達がいる」
イナ・フォグはそう言うと顔を上げて、ライコウとヒツジを見詰める――。
「フォグ……。 お主は――」
ライコウの問いはもう分かっていた。 イナ・フォグはライコウの言葉を遮り、言葉を続けた。
「――私達リリムは、ある一人のメカシェファの分身よ。 リリム達から『アマノシロガネ』という器を取り出せば、トガビトノミタマは元の状態に戻るわ……まあ、完全に戻るわけじゃないけど……」
粛然とするライコウとヒツジ――。 他の三人は全く彼らの会話についていけずに、ただ茫然とイナ・フォグの話を聞いていた。
イナ・フォグはさらに話を続ける――。
「リリム達を何体か……そうね、最低三体は倒さなければならないわ……。 彼女達からアマノシロガネを取り出して、そのアマノシロガネを結合すればヘーレムの門を開く事が出来るの」
「なるほど……。 マザーはヘーレムの門を開く為に、お主を仲間にして他のリリム達からアマノシロガネを手に入れようと――」
ライコウが顎に手を乗せてイナ・フォグに自分の推測を語る――ところが――
「……違うわ」
とイナ・フォグが否定をした。
「アイツはアマノシロガネを手に入れて、人間を復活させようとしているの……」
なんと、マザーはアマノシロガネを使って人間を復活させようとしているらしい……。
衝撃の事実に一同飛び上がって驚愕した。
「た……確かに、マザーはワシらの神である人間をこの世に再び繁栄させる為に、マルアハ達とショル・アボルを駆逐するようにワシらゼルナーに命令した……。
だが、マルアハ達の器を使って人間を復活させようなどとは、ワシら聞いておらんかったぞ……」
ライコウがそう言うと、イナ・フォグは「ふふっ」と微笑んで、ライコウにその理由を答えた。
「アナタ達がリリムを倒せなければ伝える意味がないでしょ?
アナタ達だけではリリムは倒せない――アイツは最初からその事を知っていたの。
アナタ達は自分達の力を過信してリリムに戦いを挑んでいるようだけど、アイツは私の力なくして、アナタ達をリリムと戦わせようとは思っていないはずよ。
だから、アイツは私にリリム達を倒すように何度も頼んできたの……。 アナタ達に頼みに来させたり、時には自分で頼みに来たり……。
だけど、私はアイツの夢には何も興味がなかったの……。 人間を復活させることにも興味がなかった。
でも――」
イナ・フォグはそう言うと、三日月からピョンと飛び降りた。
雪に埋もれた大地にはイナ・フォグの足跡はついておらず、イナ・フォグはその背に生えた白い翼を小刻みにはためかせて、少し宙に浮いているようであった。
イナ・フォグはライコウに近づくと、人目も憚らずライコウをギュッと抱きしめた。
「アナタが私の夢と同じ夢を見ていたから――」
イナ・フォグの言葉にライコウは少し胸が高鳴った。 イナ・フォグが自分と同じ夢を持っていたとは全く思っていなかった。
ライコウはこの時、イナ・フォグと一緒なら必ず自分の夢を実現させることが出来ると確信した。
「フォグ――。 お主と一緒なら、ワシは必ず夢を実現できる――お主と一緒ならな!」
ライコウはそう言って、イナ・フォグの頭を優しく撫でた。
その様子を黙って見ていたヒツジは少し悲しそうな様子で青色の光を瞳に光らせていた。
――
イナ・フォグの説明では、リリム達には『アマノシロガネ』という器が体内のどこかに存在し、そのアマノシロガネを集めることで、ヘーレムの門を開くことが出来る。
さらに、アマノシロガネを全て集めることが出来れば、マザーの言うように人間を復活させることが出来るとの事であった。
だが、肝心の人間は一体どこにいるのか?
イナ・フォグの話では、人間の死体は『ベエル・シャハト』という場所のさらに奥深く――『イェネ・ヴェルト』という場所に保存されており、厳格に冷凍管理されて新鮮な状態に保たれているという。
ベエル・シャハトはかつて『アトランシク』という大陸があった場所の海底に存在し、その海底に行くためには『ヨミノクロガネ』という器が必要だとの事であった。
そして、そのヨミノクロガネはイナ・フォグの器であった。
イナ・フォグが首から銀色のチェーンでぶら下げている奇怪な黒いペンダント――心臓のような形をしてドクドクと脈打っているこの物体こそヨミノクロガネであり、見た目はイナ・フォグの胸の谷間辺りまで掛かっているペンダントであるが、決して外すことが出来ないイナ・フォグの器なのだ。
アマノシロガネとヨミノクロガネは、もともと一人のメカシェファのトガビトノミタマが分離したものだ。 ヨミノクロガネはイナ・フォグの器となり、アマノシロガネはさらに分離して他のリリム達の器となったのである。
だが、何故、イナ・フォグだけがヨミノクロガネを器としたのか?
イナ・フォグは悲しげな顔をしてライコウに答える――
「……私自身、何故、私がヨミノクロガネを器としてこの世界に存在しているのか分からないの……。
でも……
そのお陰で私は他のリリム達と戦う事が出来る……」
他のリリム達は一人のメカシェファから分離したアマノシロガネがさらに分離した存在である。 したがって、分離したアマノシロガネ同士では同じ存在ということになり、戦う事が出来ない制約があった。
その制約の為、ヨミノクロガネを器としているイナ・フォグしか、アマノシロガネを回収する事が出来ないのだ。
「初めは私もアイツの言った事を信じて、アマノシロガネを手に入れようとして『ア・フィアス』と戦ったわ。 でも、返り討ちにあって、沼地へ逃げてきたの……。
……それから、私は自分の夢なんて何だかもうどうでも良くなって、このまま沼地に住んでいたの――アナタ達が来るまでね……」
『ア・フィアス』というのは恐らく他のリリムの名前だろう……。 マルアハとしての名は何であるかは分からないが、イナ・フォグを退けるほどの力を持っている恐ろしいリリムのようだ。
すると、ライコウが一つの疑問をイナ・フォグにぶつけた。
「じゃが、フォグよ。 他のリリム達は何故お主を狙ってこんのじゃ――? お主はその『ア・なんちゃら』っていうリリムと戦ったと言っておったが、それは、お主から攻撃をしかけたように思える。
他のリリム達が何故、お主を狙ってヨミノクロガネを回収してその……『ベエルなんちゃら』に行こうとせんのだ?」
「……アナタ、相変わらず物覚えが悪いのね……。 でも、確かにアナタの言う通りだわ」
イナ・フォグはライコウの疑問は御尤もだとして、その疑問に答えた。
「――リリム達は昔の記憶を失くして性格が破綻してしまっているわ。 人間を復活させることなんて全く興味が無いの。 昔の記憶を取り戻せていたら、きっと私はすでに彼女達にヨミノクロガネを奪われていたでしょうね……。
今の彼女達は、ただ器械やショル・アボルを食べて自由気ままに暮らしているだけよ。
戦う事が好きな者はいちいち器械達に戦いをしかけて欲求を満たしたり、妄想が激しい者は勝手に自分がした事を器械達のせいにして器械達に攻撃をしかけたり――全く、どうしようも無い連中だわ……」
イナ・フォグは自分の事を棚に上げてリリム達の事を批判した……。
イナ・フォグは単にリリム達が性格破綻しており、マザーの言うことなど耳を貸さずに好き勝手やっているので、イナ・フォグにも興味を持っていないような口ぶりであった。
だが、リリム達がイナ・フォグを襲わない理由は別にあった。
――すなわち、イナ・フォグが強大な力を持っており、その力を恐れているからである。
事実、イナ・フォグがア・フィアスというリリムに攻撃を仕掛けた時、ア・フィアスは決死の覚悟を持ってあらゆる術を使い、イナ・フォグを追い返した。
また、スカイ・ハイもイナ・フォグの事を恐れており、イナ・フォグが球体に乗ってフワフワと宙を浮いているときも、余程高く飛ばない限りは、無視を決め込んでいたのであった。
「なるほど――。 そうなると、ワシらがリリム達を倒してアマノシロガネを手に入れないと――」
「――そう。 私達が人間になる事は出来ないわ」
――
こうして『ダカツの霧沼』の向こうに辿り着くことが出来たソルテスとアロンは、イナ・フォグの両手を握って深く感謝をし、無理やり連れまわされたエンドルも最後には世界の真実の断片を知る事が出来て、三人とも満足してナ・リディリへの帰路についた。
途中、再び異空間で休憩を入れた時、ライコウはイナ・フォグにリリムを討伐するなら、どのリリムを先に討伐した方が良いか聞いた。
「むぅ……。 どのリリムも手強いわ。 本当は空を自由に使いたいから、スカイ・ハイをやっつけたいところだけど……。 彼女の能力はリリム達の中でも別格よ。
しばらくは、ベエル・シャハトへ行くためのルートを考えて、それから誰を狙うかを考えましょう」
イナ・フォグはそう言って、慎重な姿勢を見せた。
ライコウはイナ・フォグが悩むほどリリム達が手強い相手なのかと内心恐れたが、それでも自分の夢を実現させる為にはリリム達を討伐しなければならないと自らを鼓舞して、イナ・フォグの言う通り、まずはハーブリムに戻り、今後の行動をどう取るか考えることにした。
――ようやく、ナ・リディリに到着した六人は、まず、出入り口にてゼルナー達の悲鳴に出迎えられた。
アラトロンを実際に見たことのあるゼルナーはおらず、クレーターの中心で待機していた門番のゼルナー二人はデバイスも起動せずにイナ・フォグを見て「何だ、この変な小娘は?」とライコウ達に問いただした。
すると、エンドルが「ふふん……」と自慢げに鼻を鳴らして「アンタの故障しくさったデバイスで良く見てみることよん」と門番のゼルナーを挑発した。
こうして、デバイスを通してイナ・フォグを見たゼルナー二人は腰を抜かして、悲鳴を上げたのであった……。
――
ナ・リディリに到着すると、すぐに六人はラキアのいる『サナトリウム』へ行った。
ラキアは相変わらず独房のような部屋で俯いたまま異臭を放っていたが、ライコウとその隣にいるイナ・フォグを見た瞬間、デバイスを通して確認せずともイナ・フォグがアラトロンである事を確信した。
「お、お前……本当に……?」
「そうじゃ、ラキア! お主との約束通り、アラトロンを連れて来たぞ!」
イナ・フォグはライコウが自分の事をアラトロンと呼ぶので少し不機嫌になった。 ところが、ライコウがイナ・フォグの手を握り「今回だけ」という合図をするので、仕方なくそのままライコウの言葉を聞き流した。
イナ・フォグはまるでカーテンでも開けるように鉄格子を片手で掴んで払いのけた。 ライコウが壊した鉄格子を看守が直したにもかかわらず……。
そして、イナ・フォグは、怯える目で見つめながら膝を抱えて蹲っているラキアの前で膝をつき、ラキアの肩に手を触れた。
ラキアはイナ・フォグに肩を触れられると、恐怖のあまりビクッと体を硬直させた。
「……怖がらなくてもいいわ。 ライコウとの約束通り、アナタの器を治してあげましょう」
ラキアはイナ・フォグに対して、恐怖だけでなく、少しの憎しみが胸の奥にくすぶっていた。 それは、仲間を無残にも破壊された恨みの火であった。 だが、その火は同時にラキアの後悔と自責の涙水によって燻っては消え、燃えては流される繰り返しであった。
「あの……、アラトロン様――」
ラキアが顔を上げてイナ・フォグに問いかけた。
「――何?」
イナ・フォグはラキアに何か術を施そうとしていたが、ラキアの問いかけで動きを止めて、ラキアをジッと見詰めた。
「私の事は覚えていらっしゃいますでしょうか? あと、仲間の事も……」
ラキアがイナ・フォグにそう聞くと、イナ・フォグは目を伏せて「知らないわ……」と端然と答えた。
「アナタが私の住んでいた沼地へ侵入した事はライコウから聞いているけど……いつ侵入したのか覚えていないし、ましてや、アナタやその仲間? の顔なんて私が覚えているはずないじゃない。 アナタは私に何か頼み事でもあって、沼地に来たの?」
イナ・フォグの問いにラキアは何故か安心した。
本来は「アラトロンを討伐する」という並々ならぬ決意に上に、仲間たちと沼地に攻め込んだにもかかわらず、アラトロンに会うことも出来ずに仲間全員を失って敗走した悔しさがあったはずだ。 その無念の思いに謝罪どころか、同情すらなく、まるで水面に吹く風のようにあの悲劇が無かったものとして流されてしまった事は、普通なら憤懣やるかたない心情を燃え上がらせるはずだ。
ところが、ラキアはイナ・フォグに対する負い目という感情が少なからずあった。 イナ・フォグを破壊しようと試みて返り討ちにあったという負い目が――。 イナ・フォグが自分と仲間達を忘却の彼方に消し去った事は、その不穏な目的すら消え去ってしまったという事になる。
その事が、ラキアを安心させたのかも知れない。
……しかし、イナ・フォグは本当にラキア達の事を覚えていないのであろうか?
ラキア達はヨミノクロガネをイナ・フォグが持っている事を知っていた。 そんな事を知っているゼルナーなどこの100年の間誰もいなかった。
ラキア達は今までのゼルナーとは少し違う連中であったはずだ。
だが、イナ・フォグは『記憶にない』と言う。
恐らく、イナ・フォグはラキアのアニマに傷をつけ、ラキアの仲間達全員を蛇の餌にした事を覚えているのではないか?
イナ・フォグが何故ウソを付くのかは分からない。 だが、イナ・フォグのウソでラキアは何故だか安心した事は事実であった。
――イナ・フォグの問いにラキアは「いえ……そういう訳では……」と言葉に詰まるしかなかった。 ただ、先ほどとは違い、少しイナ・フォグに対する恐怖が薄らいだような気がした。
イナ・フォグはラキアの肩に手を当てたまま、何かの呪文を呟いた。
「シェエラー・ベ・ハキーツ……」
イナ・フォグがそう呟くと、イナ・フォグの服の中から大量の小蛇が湧いて出て来た……。
砂のような色をした円らな瞳の可愛らしい小さな蛇達は、小さい口を目一杯広げて一斉にラキアに噛みついた。
「な、何だ!? ――ひぃぃ!!
――あ……」
ラキアは蛇たちが噛みついて来たことに恐怖で叫び声を上げると同時に意識がなくなり、その場で眠ってしまった。
……このような悍ましい光景が独房の中で展開されている時、後ろで見ていたライコウ達はすでにこの儀式が回復の儀式である事を知っていたので、飄々としてラキアの様子を見守っていた。
イナ・フォグが使用したこの術は、もともと相手の自白を強要する為の術である。
器械を修理したり、機能を回復させたりする効果は副次的な効果であり、使用された者はその場で眠りについてしまう……。 眠ってしまった者は、その間に誰かから質問をされると隠し事の全てを自白してしまう。 そして、目が覚めると全てを告白した事への見返りなのか、傷や体力が完全に回復するのだ。
但し、すでにマナスが尽きて、アニマの機能が停止している者や、意思や感情の無い機械や物体には効果が無い。 この世界で使用する相手は、器械とマルアハに限られてしまうのである。
使用された者は質問をされれば、無意識のうちに全てを告白するであろう。 そして、眠っている間、幸福な夢を見るであろう――。
幸福な夢――それは、過去の自分が抱えている負い目やトラウマを消し去る為の未来への希望であった。
――
『ラキア――! ねぇ、ラキアったら! 起きて!』
ラキアが目を覚ますと、赤いバイクがアクセルターンをしながらラキアの周りをグルグル回ってラキアを起こそうとしていた。
『アカネ……。 お前はいつもウルサイな。 起こす時くらいは静かに起こせないのか?』
そう言って、頭を抱えてムクリと起き上がるラキア――。
『アカネにそんな事言っても無駄だ、ラキア。 コイツはいつもはしゃぎ回って止まる事を知らんのだ。 まあ、コイツが止まる時は死ぬときだな』
辛辣な言葉でアカネをからかうのは、ラキアの様子を見守っていたフリーグスである。
『ウルサイわねぇ! アンタなんか、もう、ゼッタイ背中に乗せてやらないんだから!』
フリーグスの毒舌にプンスカと怒りながらアクセルを吹かすアカネ。
『ハハハ! 相変わらず、お前さんたちは仲が良いな!』
ラキアは笑い声のする方に顔を向ける――。
アカネとフリーグスの戯れに、明け透けな笑い声をあげるのは、トラクターのボンネットに腰を降ろしているアルカであった。
ラキアの目の前には、かつてこの星に広がっていたと言われている光景――眩しいばかりの太陽と、目に鮮やかに映る緑の草原が広がっており、仲間達は穏やかに日向ぼっこをしていたのであった。
『おーい、リーダー!!』
草原の広がる丘に上から、迷彩柄のチョッキを着た猫が嬉しそうに叫んでいる。
両手には、見た事の無い銀色に光る生物を大量に抱えていた。
『ほらぁ! 魚さ! 魚ぁ!』
丘の上から駆け下りて来たアイムが、屈託の無い笑顔を向けてラキアに両手を差し出した。 アイムの両手にはラキアも見たことが無かった魚という生物が、太陽の光でキラキラと銀色に輝いていた。
『――ほう! アイム、凄いじゃないか!』
ラキアがアイムの事を褒めると、アイムは『ふふーん』といつも通り自慢げに鼻を鳴らしながら言う――。
『あの丘の先に真っ青な海が広がっているのさ!』
アイムがそう言うと、アカネとフリーグスはお互い目を合わせて微笑み合った。
『それは凄いな! 皆で行ってみるか!』
フリーグスがそう言って、楽しそうにアイドリングで体を揺らすアカネの背中にまたがった。
すると――
突然、ラキアの頬に冷たい風が吹いた。
『――? そういえば……』
ラキアは冷たい風に当てられて少し疑問を感じた。
『ここは……どこだっけ?』
ラキアが呟いた瞬間――一瞬、皆の表情が曇ったかに見えたが、すぐにアカネが「なっ……何、バカ言ってるのよ!」と言って、皆の顔を見ながら同調を促した。
『そう、そう――。 僕達は「ダカツの霧沼」を越えて、やっと「理想郷」へ辿り着いたんじゃないか!』
アイムはそう言ってアカネに同調し、にこやかに周りの景色を眺める。
『そうだ、ラキアよ。 私達はあの息の止まるような毒霧の中を頑張って越えて来たのではないか! そして、ようやく、この理想郷にたどり着いた――』
フリーグスがそう言うと、皆も『うん、うん』と頷いた。
『……だが、あの沼には……えーと、あのバケモノが……』
ラキアは頭を抱えて何かを思い出そうとしている。 ところが、その様子を見たアカネが――
『バケモノ? アンタ、何言ってんのよ? 沼地には、だーれもいなかったわよ!』
と言って呆れた様子でライトをチカチカと点滅させた。
ラキアはアカネに窘められても尚、何かを思い出そうとして――
――ついに、一つの名を思い出した。
『そうだ! アラトロン! アラトロンはどうしたんだ――!?』
ラキアはそう叫んで飛び上がり、鬼気迫る表情で皆の顔を見た。
……ところが……
皆はラキアの叫びに『プッ……』と笑いを堪えたかと思うと、堪えきれずに『わはは――』と大笑いを始めた。
『……な、何を笑っているんだ! お前ら!』
いきり立つラキアに向かって、アイムが指を差しながら笑っている。
『――ははは、だってリーダー! アラトロンなんてもうこの世界にはいないさ!』
『なっ!? いないって……? どういう事だ?』
状況が分からずラキアは皆にキョトンとした顔を向けた。 すると、フリーグスが『やれ、やれ』と言って、ラキアを窘めるように言った。
『お前、さてはまだ寝ぼけているな? アラトロンなどすでに100年も前にこの世界から消えていなくなっているだろうに』
『えっ……?』
フリーグスの指摘にラキアは呆然と立ち尽くす――。
ラキアの様子に堪り兼ねて、アルカがトラクターのボンネットから降りて、ラキアの肩をポンッと叩いた。
『……そういう事だ、ラキア。 俺達はアラトロンの事など知らん。 そんな記憶はすでに忘却の彼方だ――』
『……』
フリーグス、アカネ、アイム――皆、ラキアの次の言葉を不安な表情で待っていた。
『……』
『……そうだな。 そう言えば、フリーグスの言う通りだった。 アラトロンなんてもう100年前に「ライコウ」というゼルナーに倒されていたんだっけな』
ラキアの言葉に、不安な表情であった皆の顔は雲が晴れたように明るくなった。
『――そうよ! 全く、アンタがくだらない事を言うから日が傾いて来ちゃったじゃない!
――さあ、早く海を見に行かないと日が沈んじゃうわよ!』
アカネはそう言うと、アクセルを吹かしてフリーグスを背に乗せて走り始める――。
『あっ、アカネ! あんまり海へ近づくと錆びるよ!』
そう言って、慌ててアカネについて行くアイム――。
アルカは彼ら三人の背中を見送ってから、ラキアの方へと顔を向けた。
『ハハハ――。 ラキアよ、お前はもう俺たちの事を気にするな。 俺達はこうやって毎日楽しくやっているさ。
お前は――
お前は自分の信じる道を行け――。
俺達に会いに来るのはそれからでも遅くない』
アルカがラキアにそう言うと、急に日が暮れてきた。
『アルカ、お前……』
ラキアはもうすでに気が付いていた……。
この光景が全て夢である事を……。
『ハハハ! さぁ、ラキア! お前は奴らの許へ帰れ――』
『ア、アルカ……みんな……お前たちは――?』
ラキアがアルカに向かって呟く。 すると、アルカはまるで夕暮れの光に吸い込まれるように徐々にラキアから離れていく――。
『さて、俺もそろそろ仲間達と海を見に行かないと……。 もう、すっかり日も沈んでしまった……。
俺達はお前と一緒に戦ったことを後悔していない……。
だから、お前は振り返らずに、自分の信じる道を突き進め!
それが、俺たちの願いだ――』
――
「アルカ、アカネ、フリーグス、アイム……有難う……」
ラキアは呟きながら目を覚ました。
目の前にはライコウがおり、その奥でイナ・フォグがヒツジと何やら小さい鉄球を手に取ってお手玉のような事をして遊んでいた。
「おお、気が付いたか!」
ライコウが嬉しそうにラキアの手を取ろうとするが、すぐに手を引っ込めて、ラキアに自分で立ち上がるように促した。
「ほれ、自分で立ってみぃ! もう、すっかりアニマも修復されて、良くなっているはずじゃ!」
ライコウに促されるままに、立ち上がるラキア。 蛇にかみ砕かれたはずの脛はすっかり元通りに戻り、幾分ぎこちないが自由に歩けるようになった。
だが、蛇に食われてしまった左腕は修復されていないようで、片腕のままであった。
「腕はさすがに治らなかったか……」
ラキアがそう呟くと、それを聞いたイナ・フォグは鉄球のお手玉を止めて、鉄球をヒツジに持たせた。
そして、ラキアの前へ近づいて「当たり前よ――」と憮然として言い放った。
「修復と言っても無くなった物質を再生する事は出来ないわ! 内部がショートしていたり、少し傷がついた程度であれば修復する事が出来るけど、破壊されて無くなってしまったものを再生する事は出来ないの!」
イナ・フォグが腰に手を当ててラキアを叱りつける。 ラキアは丁寧に正座をして、イナ・フォグに詫びを入れた。
「アラトロン様、大変失礼致しました……。 私は貴方様に命を救われました事を感謝申し上げ、今後、貴方様の手となり、脚となり……」
長ったらしく恭しい礼を述べるラキアにイナ・フォグは「ふぅ……。 面倒くさいわ」と呟いて、ラキアの話を途中で止めさせた。
「……アナタの冗漫な話はもういいのよ。 これからは、ライコウに仕えなさい。 分かった?」
勝手に話を進めようとするイナ・フォグに、ライコウが慌てて止めに入る……。
「――これ、これ、フォグ。 何勝手に決めておるんじゃ……。 仕えるとなるとずっとラキアがこの先ワシ等といる事になるんじゃぞ? それでも良いのか?」
ライコウの指摘にイナ・フォグは即答で「――イヤ!」と叫んで、一瞬で前言を撤回した。
すると、ラキアが苦笑しながらイナ・フォグに口添えをした。
「――アラトロン様、ご心配には及びません。 私は貴方様の命令が無い限り、同行は致しません」
イナ・フォグはラキアの言葉を聞いて安心したのか――
「ふーん……じゃあ、いいわ。 アナタはライコウに仕えなさい、分かった?」
と再度ラキアに命令を下し、ライコウを苦笑させた。
ライコウはイナ・フォグの頭をクシャクシャと撫でてから、ラキアの傍へと近づいた。
「まぁ、そんな堅苦しい話じゃなくての……。 お主とワシ等は仲間じゃ、よろしく頼むぞ!」
ライコウはそう言うと、ラキアの前に右手を差し出した。 すると、ラキアも自身の右手を差し出して、二人は固い握手を交わした。
「ああ――」
(俺はお前との約束通り、お前の為にこの身を捧げよう――)
――
こうして、ライコウとヒツジはイナ・フォグを連れて、ハーブリムへ戻る事になった。
傷が治ったばかりのラキアは、ライコウからしばらくナ・リディリで療養するように勧められたが、ハーブリムの工場で腕の修復をしなければならないという理由で、ハーブリムまで同行する事になった。
エンドルとソルテス、そしてアロンの三人はナ・リディリにしばらく滞在して、酒場の仲間達と宴をした後にゆっくりとハーブリムへと向かうとの事であったので、ライコウ達は三人にしばしの別れを告げ、ナ・リディリを出た。
ハーブリムへと向かう道中は、ラキアが皆を先導した。
「道中は俺が露払いをする――。 何、右手一本でもショル・アボルくらいなら何とかなる」
そう言って『テヴェル古戦場』の大量のショル・アボル達を片手一本で破壊しながら進むラキアは、やはりゼルナーの中では一流の戦士である事を皆に知らしめたのであった。
――ところで、エンドル、ソルテス、アロンの三人は、恐らく今回の功績が認められて、晴れてゼルナーになる事が出来るだろう。 だが、三人はイナ・フォグの話を聞いており、知ってはいけない事も知ってしまっていたので、このままマザーに会えば、恐らくゼルナーになる前に記憶を改ざんされてしまうはずだ……。
イナ・フォグは「それでも構わないし、むしろ、記憶を改ざんされた方が良いわ」とライコウに言った。
関係の無い者が関係の無い情報を知り過ぎてしまう事は、良い結果にならない事が多い。 ライコウもそれを分かっていたので、イナ・フォグの意見に同意した。
だが、あの三人の事だ……どうせ、酒場の仲間達に自分たちの体験談をペラペラと喋るだろう……。
イナ・フォグはその事を一抹の不安としたが、ライコウは全く心配しておらず――
「酔っ払いの話ほど信用出来ない話は無いからのぅ」
と言って、一笑に付した。
――案の定、三人は酒場の仲間達に自分たちの体験談をペラペラと喋った。
だが、ライコウの言う通り、三人の体験談は酒場のツマミと同様に、酒場の連中に面白おかしく食い散らかされただけで、翌日には記憶の断片というカスしか残っていなかった。 そして、それも宴の後の儚さと共に排泄物となって消えて行き、結局、誰の記憶にも残らなかったのである。
――
さて、ライコウとイナ・フォグは、はたして人間になる事が出来るのだろうか?
そして、マザーは本当に人間を復活させようとしているのであろうか?
これまでのイナ・フォグの説明を聞いて、ライコウは一つの仮説を立てた。
(恐らく、トガビトノミタマからアマノシロガネを分離させたメカシェファは、何かの目的でアマノシロガネからリリム達を生み出した……。 だが、目的を達成した時には分離したアマノシロガネを結合させる必要がある。 その為に、事前にヨミノクロガネも一緒に分離させたのではないか?
その目的が達成されたかどうかは分からない――いや、恐らく達成されなかったのだろう……。 志半ばでメカシェファ本人は死亡して、その分身のアマノシロガネ――すなわち、リリム達だけが残った。
恐らく、マザーはリリム達の内の一人か、少なくともメカシェファに関係する者である事は確かだろう。
マザーはメカシェファ亡き後に暴走したリリム達を、ヨミノクロガネ――フォグを使って消滅させ、アマノシロガネを再び結合しようとしている……。
……だが……
それは『人間を復活させる』という目的の為ではなく、本当は『メカシェファを復活させる』という目的の為ではないのか?
俺達ゼルナーには人間を復活させる為にフォグに協力を求めるように命令しておきながら、実はメカシェファを復活させる事が真の目的なのではないのか――?)
――マザーはライコウをゼルナーにする際に「貴方を人間にして差し上げましょう」と言った。
マザーの言う通り、イェネ・ヴェルトに人間の死体が保存されている事が事実であったとしても、アマノシロガネを使ってその人間を復活させる事で、何故、ライコウとイナ・フォグが人間になる事が出来るのだろうか? まさか、生き返った人間がライコウとイナ・フォグを人間にしてくれる?――そんなはずは無いだろう。
本当はイェネ・ヴェルトに保存されているのは『人間の死体』ではなく『メカシェファの死体』ではないのか?
すなわち、マザーはメカシェファを復活させるという目的を達成する為に、ライコウとイナ・フォグにウソを言ったのではないのか?
本当は、リリム達を倒してトガビトノミタマを復活させてもメカシェファが復活するだけであり、ライコウとイナ・フォグが人間になる事など出来ないのではないのか?
……しかし、ライコウはマザーの言葉を信じた。
「俺の夢は、ただの儚い夢想に終わるかも知れない。
ただ、今は――
同じ夢を共有しているフォグがいる」
彼女と一緒なら『必ず一緒に人間になる事が出来る』と、根拠の無い自信を持った。
たとえ、マザーの言った事がウソであったとしても、イナ・フォグと一緒なら必ず人間になれると信じた。
そして、それはイナ・フォグも同じであった。
イナ・フォグも『ライコウとヒツジが一緒なら、きっと自分の夢が叶う』と根拠の無い確信を持ったのだ。
二人が人間になりたい事情は異なる――。
だが、その事情はやがて一緒になり、二人のただ一つの望みへと変わる事は、今のライコウにはまだ分からなかった。