姉と妹 -2-
「お姉様……」
ヒツジの青く光る瞳には透明な液体が止めどなく流れている……。 それは、ヒツジの涙であろうか? いや、ヒツジは涙を流すことができないはずである。
……しかし、そのヒツジの瞳からあふれ出る慈愛の水は、フリーズ・アウトの焼け焦げた痛ましい身体に流れ落ち、彼女の身体をほんの少し癒やしてくれた。
(……どうして……? フリーズ・アウトは一体どうやって元の姿に……?)
イナ・フォグはフリーズ・アウトが元の少女の姿に戻っていた事に驚愕し、息を飲んだ。
「――フォグ、ミヨシを離すでない!」
イナ・フォグは驚きのあまり、両腕で縛り付けていたミヨシをうっかり離してしまっていた!
拘束を解かれたミヨシは、鋭利な牙をむき出しにして猛然とヒツジとフルに向かって行った。
「――や、止めなさい――!!」
イナ・フォグが慌てて止めようと再び両腕の蛇でミヨシを捕らえようとするが、ミヨシは蛇の攻撃をするりと躱し、ヒツジを護ろうと焼け爛れた哀れな背中を向けているフルに飛びかかった!
『――ミヨシ――』
その時、ミヨシの頭の中からライムの声が響いてきた。 正気を失っていたミヨシはその声で我に返り、フルに飛びかからんとしたその身を翻した。
「バッちゃん――!?」
正気に戻ったミヨシは大声でライムを呼んだ。 その叫び声は穴の側壁に共鳴し、雪原に立つゼルナー達の耳に届くほど大きかった。
ミヨシが周囲を見渡すと、フルが倒れていた場所の土が盛り上がっているのが見えた。 ミヨシがその土を見つめていると、徐々に土が崩れていき、中から猫の手が現れた。 被毛が剥げ落ちて金属の下地が見えている弱々しい猫の手……。 その手は上腕まで土から露出すると、肘を折って大地にしっかりと爪を立てた。 そして、腕から先の身体を引きずり出そうと渾身の力を込めた。
「あれは――!?」
イナ・フォグはライムが地表から這い出てくる様子に気が付くと、瞬時にライムの許へ駆け寄った。 そして、ライムの手を掴むと、地中に埋まっていた彼女の身体を引っ張り出した。
「バッちゃん――!!」
ミヨシは恐ろしいヒョウの身体から山猫の身体へ戻りながら、ボロボロになったライムの身体へ飛び込んだ――。
「バッちゃん――! バッちゃん……うぅぅ、うあああ!」
母が生存していた事に感極まって号泣するミヨシ……。 ミヨシはフルに対する恨みなど打ち遣り、ただライムの胸に抱きついていた。
「……フリーズ・アウト……」
イナ・フォグは痛ましい裸体を晒しているフルの姿を一瞥した。 フルはヒツジを抱きしめながら満足そうに瞳を閉じて、イナ・フォグの呼びかけに答えた。
「イナ・フォグ……。 キミの仲間から放たれた放射性物質はボクが殆ど吸収してしまった。 キミの企みはまんまと失敗に終わった訳だね……」
フルはそう言うと「フフフ……」と泥にまみれた口角を持ち上げた。
「……何故、ライムを助けたの?」
フルは名残惜しそうにヒツジから手を離した。 そして、そのまま仰向けにばったりと倒れ、イナ・フォグの問いに答えた。
「ライム……? ああ、あの“猫型バトラー”の事かい……?」
「お姉様――!」
力なく倒れ込んだフルをヒツジが心配そうに抱き上げた。
「ヒツジ……。 キミの姿はずいぶん変わってしまったね。 でも、その声と温もりが……間違いなくキミを“キミ”だとボクに思い出させてくれた……」
「ウワァァァン――!!」
ヒツジはフルを抱きしめて叫んだ。 だが、涙を流すことが出来なかった。
「こんなに悲しいのに、涙を流すことが出来ない――! ボクは……ボクは……」
ヒツジはフルを抱きしめながら震えている。 フルは赤く腫れ上がった凄惨な手でヒツジのテカテカした銅色の頭を撫でて力なく微笑んだ。
「涙なんて必要ないさ……。 キミの優しさはボクが一番分かっている。 キミが死に行くボクを悲しんでくれている事は……」
フルはそう言うと、片目から白い涙を流した。 それはペイル・ライダーが放ったオフィエルの毒であった。 白い涙にはウジ虫のような小さな蟲が混ざっており、その蟲共はすでに死んでいるようだった。 フルが時々放つ冷気を帯びた白い液体はオフィエルの毒を体内から吐き出す為の自浄作用であったのだ。 だが、いくら毒を吐き出しても体内の毒を完全に排出させる事は出来なかった。
フルから流れ出る白い涙は外気に触れるとポロポロと結晶化し、ヒツジの足下へ落ちて行く……。 フルはヒツジを撫でながら先ほどのイナ・フォグの問いに答える為に言葉を続けた。
「イナ・フォグ……あの猫型バトラーを助けた理由は、彼女が憎悪を抱いていたからさ……」
「憎悪……?」
イナ・フォグは困惑した様子でフルを見つめた。 フルはイナ・フォグの表情を片目で一瞥すると、イナ・フォグがまだ記憶を取り戻していない事に気付き、残念そうに瞳を閉じて話しを続けた。
――
「キミは忘れてしまったのかも知れないが、ボク達マルアハはこの世界から憎悪を消し去る為にミコ様によって創られた。
……だが、そのミコ様があろうことか憎悪に囚われ、キミを生み出してしまった……。
憎悪を消し去る為に創り出されたマルアハが、憎悪を持って生まれてくるなど究極の矛盾だろう? 当然、ボク達はキミを破壊しようとしたが、ミコ様とイナ・ウッドがキミを破壊する事に反対した」
「イナ・ウッドが……?」
フルはヒツジに支えられたまま力なくヒツジの肩に身を預けていた。 イナ・フォグを見上げる力ももう無いようで、イナ・フォグが目を見張って驚いている様子も見ていなかった。 ただ氷が溶けて泥にまみれた大地を見つめながら言葉を続けていた。
「……なにもボク達だって“可愛い妹”を好んで破壊しようとは思っていなかったさ。 でも、イナ・ウッドはボク達よりもキミに対する愛情が深かった。
……それは彼女がキミの……キミの本当の姉さんであったから……」
「――なっ、何ですって!?」
フルの言葉にイナ・フォグは息を詰まらせ動揺した。 イナ・フォグの様子を心配してライコウがイナ・フォグの手を取って握りしめた。
フルはイナ・フォグの姿を見ていなかったが、その声からイナ・フォグが明らかに動揺している様子だと気づき、彼女の記憶の喪失が根深いものであると感じて残念そうにため息をついた。
「ふぅ……。 キミはそんな事も忘れてしまったんだね……。 キミはまずは記憶を取り戻す為にそこにいる“ヨリミツ”と一緒にトコヨへ行くべきだ。
トコヨへ行ってキミと……ヨリミツの記憶を取り戻した後、イナ・ウッドと共に『ヘーレムの門』へ行くんだ……」
「ヘーレムの門……確か、フォグ……?」
ライコウは瞠若するイナ・フォグの横顔を見た。 イナ・フォグはライコウの言葉に小さく頷いて言葉を絞り出した。
「……え、ええ……。 メカシェファの集落がある場所……私が暮らしていた沼地の最北端にある場所……」
フルはイナ・フォグがヘーレムの門の存在を覚えていた事に安堵した様子でヒツジから身体を離した。 そして心配するヒツジに向かって笑みを浮かべながらヒツジの頭を再び撫でて言葉を継いだ。
「……メカシェファの集落に行くためにはヘーレムの門を開かなくてはならない。 その為にはアマノシロガネが最低でも三つ必要だ」
フルはそう言うと、イナ・フォグの首から下がっているハギトのアマノシロガネを見た。
「キミが持っているのはア・フィアスのアマノシロガネだね? ア・フィアスの気配がしないから、きっとそうだろう……」
イナ・フォグはフルの問いに黙って頷いた。 すると、フルは寂しげな瞳を閉じて少し身体を震わせた。
「……そうか……ア・フィアスもようやく憎悪から解放されたのか……」
(フルは厄災の悍ましい記憶を思い出した……。 その時、ハギトは『ダカツ』によって愛する人間の子供達を殺害され、消える事の無い憎悪の炎を身体に宿してしまったのである)
「……キミが持つア・フィアスのアマノシロガネ、スカイ・ハイ、もしくはイン・ケイオスが持つアマノシロガネ、そして――
――ボクが持つアマノシロガネ。
三つ揃えればトガビトノミタマは復活してヘーレムの門を開くことが出来る……」
フルの言葉にヒツジは嫌な予感がした。 ヒツジは再び痛々しい裸体のフルにしがみつき、フルの胸に顔を埋めた。
「お姉様、ダメだよ! お姉様のアマノシロガネを渡したら、お姉様が――!」
フルはヒツジを優しく離そうとするが、ヒツジはフルから離れない。 その間にクレーターの底には続々とゼルナー達が集まってきていた。
――ペイル・ライダーに乗ったシビュラとエンドル。 翼の折れたセンがライコウの後ろに控えている。 彼女の背後にはレグルスやキノといったエクイテスのゼルナー達がフルの様子を見守っていた。
ラヴィとケセット(アザリア)の姿は見えなかった。 ラヴィを慕うエクイテスのゼルナー達の姿も見えないことから、ラヴィは恐らく呪術を使用しすぎた影響でアザリアによって治療を受けているからだろう。
皆、イナ・フォグとフルの会話をただ黙って聞いていたが、その中で唯一フルに対する殺意を剥き出しにしている者がいた――。
「……ヒツジ、さっきも言ったようにボク達は元々憎悪を消し去る為に生まれた存在。 そのボク達が憎悪を生み出し、増大させている……。
そこにいるオオカミ型のバトラーがそうであるように……」
フルが見つめる先にはフルに飛びかからんと牙を剥く白銀のオオカミ、アセナの姿があった。
『アセナ、頼むからここは大人しく引き下がっていて欲しい……』
アセナはライコウからそう頼まれていた為、むき出しにした牙でフルを咬み砕き、鉄のような爪でフルを引き裂きたい衝動を抑えていたのであった。
「……彼の憎悪の原因はボクにある。 ボクが消滅すれば、憎悪の焔はいずれ消えていくだろう……」
自分を抱きしめるヒツジの力が弱まった事を感じたフルは優しくヒツジを引き離す。 そして、ヒツジの頭を再び撫でて笑顔を向けた。
「ボクは最後にキミを抱きしめる事が出来て幸福だった……。
……そう、この幸福がボク達マルアハの生まれてきた理由。
そして、ボク達がアストラル体から戻る事が出来る唯一の手段なんだ」
(アストラル体に変化したフルが何故、元の天使の姿に戻ったのか? イナ・フォグが疑問に思っていた事にフルが答えを述べた。 だが、その答えはイナ・フォグに理解が出来るものでは無かった)
「……さあ、ヒツジ、そろそろお別れだ。 ボクのマナスはすでに尽きている。 でも、キミのお陰でボクは幸福を満たされて少しだけこの世界にまだ形を留める事が出来た。
ありがとう、ヒツジ……」
所々炭化した痛々しいフルの姿……。 身体を覆っている皮は剥がれ、赤黒くむき出しになった肌を晒しながらも満足そうにヒツジに笑顔を見せている。
「うぁぁぁ――! 折角、記憶を取り戻したのに!
嫌っ、嫌だ、イヤだ――!!」
ヒツジは三度フルにしがみつくと、フルは愛おしそうな眼差しをヒツジに送り、それからイナ・フォグに困った様子で目配せをした。
イナ・フォグはフルに向かって小さく頷くと、両腕を再び大蛇へ変化させた。 大蛇はまるで鞭のように波を打ちながらヒツジの身体に絡みついた。 そして、ヒツジを強引にフルから引き離した。
「――うわぁぁぁん! 離せっ! 離して――!!」
大蛇に囚われてイナ・フォグの胸に抱かれたヒツジは、イナ・フォグから逃れようと暴れ狂った。 ライコウはその様子を見て動揺しているのか、イナ・フォグの横顔を心配そうに見つめている。
「シェエラー・ベ・ハキーツ……」
イナ・フォグがそう呟くと、服の中からワラワラと小さな蛇達が飛び出てきた。 小蛇達がイナ・フォグの胸で暴れるヒツジを鋭い牙で噛みつくと、ヒツジは急に大人しくなり小さな寝息を立て出した……。
「イナ・フォグ……ありがとう。 これでボクは心置きなくア・フィアスの許へ行く事が出来る」
フルはそう言うと、震える身体に力を込めて立ち上がった。
――
イナ・フォグは眠りについたヒツジをライコウに託し、立ち上がったフルを見つめている。
一糸纏わぬフルの姿はすでに身体の大半が石化していた。 このままでは、体内に存在するアマノシロガネと共に身体全体が石となってしまう……。
「……思えばマナスが消失し続けエントロピーが増大するにつれ、マナスによってエネルギーを得る全ての者の憎悪が拡大しているように感じる。 マルアハも例外ではない。 マナスが枯渇し、アストラル体へ変化すると自分では制御できない憎しみにココロを奪われる……
……だが、それも全て終わる。
このアマノシロガネを抉り出し、憎しみの無い世界へア・フィアスと共に行こう」
フルはそう呟くと、空を見上げた。
――数百年もの間吹き荒れていた吹雪は嘘のように止んでいた。 曇り空の隙間から日の光が射し込んでおり、薄らと雪解けの大地を照らしている――
(オナ・クラウド……。 キミとミコ様が理想とした世界にはまだ遠い……。 ボクは夢の中でキミの理想とする世界を実現させてア・フィアスと遊ぶ事とするよ。
でも、キミはまだ来てはいけない。
……この“夢見る星”でキミの理想を実現するまでは……)
フルは心の中で『オナ・クラウド』という者に呼びかけた。 その者が一体何者なのかはフルの口からは語られなかった。
空を見上げていたフルは視線を移し、山猫の姿に戻っているミヨシを見据えた。 ミヨシはサソリのような尻尾をライムに突き刺して、何やら薬剤を注入していた。
穏やかな顔をして眠りについているライム……。 ミヨシはライムの顔を心配そうに見つめていたが、フルの視線に気が付いて警戒した様子で尻尾を膨らませながら顔を上げた。
「……キミはイナ・フォグの眷属だね?」
フルの問いにミヨシは怪訝そうな様子で小さく頷いた。
「キミとその猫型バトラーとはどういう関係かは分からない。 だが、キミにとって大切な者である事はその様子から分かる気がする……」
フルはそう言うと、自分の胸に手を当てた。 赤黒く腫れ上がった痛々しい腕は肘の辺りまで石のように灰色に変色していた。
「……贖罪と言うつもりはない……が、バトラーの器に宿したバグズ・マキナは今、消滅させた。 もうボクがこのまま滅びても、そのバトラーが破壊される事はないだろう……」
フルの言葉にミヨシは一瞬驚いた様に目を丸くした。 ところが、すぐに警戒した様子に戻りフルを睨み付けた。 フルはそんなミヨシの様子を一瞥すると「フフッ……」と微笑を浮かべ、再びイナ・フォグとライコウに視線を向けた。
「イナ・フォグ……憎悪という感情はその対象が消滅しても、すぐに消える事はない。 対象が消滅した後にゆっくりと消えて行く……。 人間から言わせると『ココロの傷が癒えていく』という表現になるのかな。
だが、憎悪が根深いものであれば在るほど、対象が消滅してもなかなか消える事が無い。 それどころか、憎悪を糧とする邪悪と融合し、瞋恚の炎はさらに燃え上がる。 そして、自らのココロを焼き尽くし、全ての希望を破壊するんだ……」
フルはそう言うと、ライコウに目を移した。
「……ヨリミツ、イナ・フォグを蝕んでいる憎悪の炎はキミが消さなければならない。 ボクの妹、イナ・フォグを救えるのはキミしかいないんだ。
その為に、キミはイナ・フォグと共にトコヨへ行かなければならない……。 そして、キミは記憶を取り戻し『水元頼光』へ再び戻らなければならない」
水元頼光……ライコウはその名が自分の名前だとは信じられなかった。 だが、フルの最後の願いにコクリと頷いた。
フルはライコウの青い瞳を見つめると満足そうに目を閉じた。 そして、突然、自分の胸をその痛々しい手で貫いた――!
「なっ――!?」
周りを囲んでいたゼルナー達は一様に言葉を失った。 ライコウも目を見張り、自分の胸で眠っているヒツジをギュッと抱きしめた。
牙を剥きながらフルを睨み付けていたアセナもフルの突然の行動に呆気に取られ、眉間の皺を解いて呆然とした表情を見せている。 ミヨシは横たわるライムを治療しながら黙ってフルの様子を見つめていた。
「ぐっ……ふっ……」
フルは苦しそうに顔を歪ませて、胸に突き刺した手を引き出した……。
フルは白く輝く心臓のような形をした物体を掴んでいた……。 その物体は弱々しく鼓動をしており、徐々にその鼓動を停止させようとしていた。
フルの口からは赤い血のような液体が流れている。 白濁した液体はすでに無く、彼女の身体を蝕んでいたオフィエルの毒は死に行く間際に完全に消滅していたようだった。
苦しそうに窄めているフルの片目……。 フルはその視線をイナ・フォグに向けると口角を上げて微笑んだ。 イナ・フォグは寂しげな表情を浮かべながら小さく頷く……。
フルは満足げにイナ・フォグから視線を外し、今度はライコウへと視線を移した。 そして、彼女の最後の言葉をライコウに送った。
――吹雪が止んだ雪原は静寂に包まれていた。 その雪原にポッカリ開いた大きなクレーターの底から、フルの声が響いていた――
「ヨリミツ……キミがどうやってあの厄災から生き延びたのかは分からない。 何故、現在そんな姿になっているのかも、ボクには……。
だが、これだけは分かる……
……『アンナ』は生きている。
アンナに気を付けるんだ、ヨリミツ!
キミが……イナ・フォグを……救って……」
フルの言葉は途中で途切れてしまった……。 フルの身体は完全に石化し、崩れかかっていたのだ……。 辛うじてまだ動いていた唇は、最後に彼女の想いの全てを絞り出した。
「……ヒ……ヒツジ……愛……している……」
――
砂塵と化したリリム=フリーズ・アウト……。 イナ・フォグは禍々しい鎌を握りしめ、彼女の亡骸にゆっくりと近づいた。
眩く光る心臓が盛り上がった砂の上で鼓動を停止している……。 イナ・フォグはその心臓に向けて鎌を振り上げると、尖った切っ先を心臓に突き刺した!
「フリーズ・アウト……いえ、姉さん……。
ありがとう……」
イナ・フォグの鎌に貫かれたアマノシロガネはあっという間に石となった……。 イナ・フォグは悲しげな様子でその石化したアマノシロガネを拾い上げると黒いドレスの襟を引っ張った。
イナ・フォグのふくよかな胸がドレスの中から垣間見える。 イナ・フォグはその胸の間にアマノシロガネを落とすと、ドレスの襟から手を離した。
「フォグ……」
静まりかえったクレーターの底……。 『ザクッ、ザクッ……』とイナ・フォグに近づくライコウの足音だけが聞こえている。
ライコウはイナ・フォグの肩を掴むとそのまま後ろからイナ・フォグを抱きしめた。
イナ・フォグはライコウに身体を預け、目を潤ませて砂塵となった姉の亡骸を見つめている。
「フル……いや、フリーズ・アウトの言うとおり、俺と一緒にトコヨへ行こう。 その為にはリリム=スカイ・ハイを倒さなければならない……。
……再び君の姉さんをその手で消滅させ無ければならない……。 それでも俺と共に一緒にトコヨへ行ってくれるかい?」
ライコウに身体を預けているイナ・フォグはライコウの顔を見つめた。 雲の隙間から射し込む光がイナ・フォグの涙に潤んだ赤い瞳を輝かす。
「私はアナタに従うわ……。 いつか、アナタが私を救ってくれたように、今度も私を救ってくれると信じている……」
イナ・フォグは断片的な記憶が蘇っていた。 ライコウがトコヨの戦士へと変身した時、彼女はかつて自分と対峙したトコヨの戦士が間違いなくライコウであったと確信していた。
『いつか……アナタは……私の事を……
……愛してくれる事を……』
イナ・フォグはトコヨの戦士に身体を切り裂かれ、深い霧の中へ落ちていく間にそう強く願った。 彼女がトコヨの戦士に恐怖していたのは間違いない。 だが、恐怖すると同時に、彼の蒼い瞳から流れる涙にココロを焦がす憎しみの炎が消え行く気がした。
その時、イナ・フォグは彼が自分のココロを救ってくれたのだと感じた。 あれだけ恐怖していたトコヨに戦士に、イナ・フォグは思慕の情を抱いたのである。
そして、今、彼女の目の前に現われた白銀の騎士は、あの時のトコヨの戦士へと変貌した。
「ライコウ……私はずっとアナタの事を……」
イナ・フォグはライコウに次の言葉を告げる事が出来なかった。 自分の思いを伝えるのが怖かったからだ。 彼女はそのまま言葉を止めてライコウを抱きしめた。
ライコウは未だイナ・フォグの情愛に気付いていなかった。 また、イナ・フォグのココロの中にどれ程の邪悪が潜んでいるのかも分からなかった。
しかし、ライコウはその蒼い瞳に碧血の決意を持って、イナ・フォグに約束した。
(俺が君を救う……。 君を苦しめる憎悪から……君を……)
ライコウはイナ・フォグを抱きしめながら振り返る――シビュラ、エンドル、レグルス、キノ――共に戦った仲間達がライコウの言葉を緊張した面持ちで待ち望んでいた。
ライコウは背中に佩いた大剣を抜き、天へ掲げた。
「皆、マルアハ『フル』は消滅した――!!
俺達の――
――俺達の勝利だ!!」
「ウォォォ――!!」
ライコウの叫びが響き渡ると、すぐにゼルナー達の勝ちどきが怒濤のように押し寄せた。
その歓声の鯨波は雪原全体、いや、デモニウム・グラキエスを揺るがした。 そして、モニタ型ゼルナー『ヴァイプ』のカメラから全ての地底都市へと波及し、夢見る星は歓喜の渦に包まれたのであった――。
――
『お姉ちゃん……目を覚まして……』
袖の長いパイロットジャケットを纏ったツインテールの少女が仄暗い闇の中に光を照らす。
『――コヨミ! コヨミ、そっちへ行っちゃダメ!』
光を放っている少女は制止する声を聞かずに、徐々に眩い光の中へ融けて行く。
『貴方が居なくなったら私は……私は闇の中で一人ぼっちに……』
眩い光にその身を隠す少女……。 徐々に周囲が暗黒に包まれて行き、輝きが失われて行く……。
『大丈夫……。 お姉ちゃんにはお父様とライコウ様がいる。
そして……
お母様とウチもお姉ちゃんを見守っていますよ』
すっかり闇に包まれた空間に再び微かな光が見えた。 その光は蒼い光を放っており、何故だか暖かく感じた。
『コ、コヨミ……』
暗闇の中で彷徨う影はその蒼い光を目指して必死に走った。
『さあ、目を覚まして……そして、ウチに笑顔を見せて。
お姉ちゃんならきっと大丈夫。
だって、アータはウチのお姉ちゃんなんだから……』
闇に塗れた影が蒼い光に触れた瞬間――
――シャンデリアが下がっている天井が目に飛び込んで来た……
……
「……此処は……私の……?」
――フルとの戦いが終わった数日後のある日、カヨミは自室のカプセルベッドの上でようやく目を覚ました――
何が起きたのか未だに現状を把握できないカヨミ。 ベッドに横たわったまま首だけ動かして周囲を伺う……。 すると、ベッドの傍でイスに座って目を瞑っているライコウの姿が見えた。
「ラ、ライコウ様……?」
ライコウは麻のようなシャツを着て、ダボダボのズボンを履いているラフな格好をしていた。 腕組みをしながらイスの上で船を漕いでいたライコウは、カヨミの声に気が付くと目を開けて慌てて立ち上がろうとした。 ところが、寝ぼけていたせいか足がもつれて『ガッタン――!』という音と共に椅子ごと床に転げ落ちてしまった……。
「うぇ……痛っ……」
ライコウの醜態に驚いて上半身を起こしたカヨミ。 しかし、自分の身体が薄いブラウスのような服しか着ていない事に気が付いて、顔を赤くして両手で胸を隠した。
「――!」
その拍子にカヨミの手から青白く輝く銀色の宝石がこぼれ落ち、コロコロと布団の上に転がった。 カヨミはこの宝石のような玉を握りしめて眠っていたようだった。
「……こ、これは……まさか……」
カヨミは布団の上に転がった銀色の玉をすくい上げるように丁寧に両手で拾い上げた。
「コヨミの形見じゃ……。 お主が持っている方が彼女も喜ぶと思ってな……」
「あぁ……アアァ……コヨミ、コヨミ……」
この宝石のような玉は紛れも無くコヨミの瞳……。 銀色の瞳は神秘的な蒼い光を放ちながらカヨミの頬に撫でられている。
「ライコウ様……どうして……どうして、こんなに悲しいのに……こんなに苦しいのに……
私達は涙を流すことが出来ないのでしょうか……?」
ライコウはカヨミの傍へ近づくと、銀色に光るカヨミの髪を優しく撫でた。
「君はもうすでにココロの中で悲しんでいる。 ココロを締め付けて苦しんでいる。 涙を流すことでその悲しみ、苦しみの全てから解放されるのかい?」
カヨミはライコウの言葉に小さく頷いた。
「いや、たとえ涙を流しても悲しみや苦しみから解放される事は無い。 むしろ、笑顔を見せて、悲しみや苦しみを乗り越えて行くんだ。
コヨミがそうしたように――」
「コヨミが……?」
カヨミは悄然とした顔をライコウに向ける。 ライコウは微笑を浮かべてコクリと頷いた。
「ああ、コヨミは俺に自分のココロの弱さを打ち明けた。 だが、彼女はその弱さに打ち勝つために笑顔を見せた。
そして、君とアセナの幸福を願ったんだ」
「あぁ……コヨミ……」
カヨミは再びコヨミの瞳を頬で撫でた。 ライコウはカヨミの様子を見ながら微笑を崩さずに言葉を継いだ。
「コヨミを失った悲しみを涙で洗い流す必要は無い。 コヨミのココロは常に君と共に在るから……。
君はそのコヨミのココロに笑顔で応え、コヨミのココロと共に悲しみや苦しみを乗り越えて行かなければならない」
ライコウはそう言うと、再びカヨミの頭を撫でた。
「君ならきっと出来る。 なぜなら、君のそばには常にコヨミのココロが見守っていてくれるから……」
……ライコウの励ましは、涙を流すことが出来ない器械に対する言い訳に過ぎないのかも知れない。 だが、涙で悲しみを洗い流す事が出来ない器械達は、そのココロに宿した悲しみを乗り越えるしかないのだ。
「……コヨミ……ありがとう……」
カヨミはコヨミの存在を確かに近くに感じていた。 目を閉じると彼女のあっけらかんとした笑顔がカヨミの脳裏に浮かび上がる。 カヨミは妹の笑顔を思い浮かべると、自然に口元が上がった。
『……さあ、お姉ちゃん! ウチに笑顔を見せて!』
笑顔の妹が姉に向かって口を開いた。 すると、カヨミは「ふふっ……」と微笑を漏らした。
「ふふっ……。 そういえば、ライコウ様、先ほどは随分慌てていたようで、イスから転げ落ちていましたね」
カヨミは笑顔を浮かべてライコウの顔を悪戯っぽく見つめた。
「――! ワハハハ――! お主が中々起きんかったから、ワシも何だか眠くなってのぅ! そんな面白かったか?」
「フフフ……はい、とても滑稽な様子でした」
「何――!? そう言われると何だか急に恥ずかしくなってきたのぅ。 コヨミにも笑われているだろうか?」
「はい、きっと妹も大笑いしています」
カヨミがニッコリと笑顔を見せる。 その様子にライコウは破顔し、大きな声を出して「ワハハ――!!」と笑った。
――アセナの屋敷に二人の笑い声が響き渡った。 その声に居間にいたラヴィとシビュラは一瞬驚いた様子を見せた。 だが、すぐにお互い顔を合わせて満足げな様子でお互いに微笑みを返し合った――。
――
『ライムサマ! オ帰リナサイマシ!』
ライムは若々しい銀色の毛並みを靡かせて、ミヨシと共に自宅へと戻っていた。 自宅の前では市松人形のような機械『市松』がライムとミヨシを出迎えていた。 市松は割烹着のような服を身に纏い、何か怪しげな料理を二人に作ってあげようと如何わしい腕前を存分に振るっていた……。
『――ササッ、本日ハ“快気祝イ”ナノデ、特別ナゴ馳走ヲゴ用意イタシマシタ!』
市松はそう言うとそそくさとライムの背中を押して居間へと押して行った。
「……んん!? 市松、コレは一体何なんですか?」
市松が用意したご馳走は、魚の煮付のような食べ物と白米のような食べ物、そして里芋の煮物のような食べ物であった。 それは、まるで人間が食べるような料理であり、見たところミリンのような調味料で艶を出し、人間が見れば食欲をそそるような美味しそうな料理であった……。
「こんな食べ物見たことないねぇ、ミヨシ……」
ライムは怪訝そうな様子でミヨシの横顔を覗くと、ミヨシも目を瞬かせて困惑した様子で市松を問い詰めた。
「ちょっと、何ですか! この奇っ怪な食べ物は!」
ミヨシが尻尾を逆立てて怒りの声を上げると、市松は澄ました顔をしてミヨシにこう言い放った。
「何ヲ騒イデイルノデスカ? オ兄サマ、コレハ人間サマガオ召シ上ガリニナルオ食事ヲ参考ニシタゴ馳走ナノデス。 ササッ、早ク召シ上ガッテクダサイ――」
「アタチはお兄様じゃありません! お姉様です! 全くもう!」
ミヨシはプリプリとヒゲを震わせながらも、市松の手招きに従って掘りごたつのような木目調のテーブルに足を投げ出した。 その隣には迷彩柄のスカーフを外したライムが若々しいヒゲをピンと立てて、興味深そうに市松が造った料理を眺めていた。
「ほう、人間様はこんな料理を食べていたんだねぇ。 それにしても、市松ちゃんは偉いわねぇ! こんな難しい料理を作れるなんて(お味はともかくとして……)」
ライムがわざとらしく市松を褒めると、市松はテーブルの前で「エヘンッ!」と尊大な態度で胸を張った。 そして、テーブルを挟んでミヨシの向かいにチョコンと座ると、ミヨシとライムの為に作った料理であるにもかかわらず、おもむろに箸を取って料理を食べ始めた……。
「まぁ、食べられない事はないみたい……」
ミヨシとライムは市松が無表情で料理を食べる様子を一瞥すると、お互い顔を見合わせた。
「いただきまぁす――!」
ミヨシとライムが複雑な顔をして箸を取った。
(……うーん、味がしない……)
ミヨシは濃いオイルスープに慣れていたので、人間の食べ物は全く味がしなかった。 だが、隣のライムは「市松ちゃん、美味しいわ、ありがとう」などと言って、ムシャムシャと舌鼓を打っていた……。
――その夜――
ミヨシとライムは同じ布団で床についた。 市松は二人の布団の傍で雑魚寝をしており「ガァ、ガァ」とガチョウが鳴いているようなイビキをかき鳴らしている。
「……ねぇ、バッちゃん、さっきの料理、本当に美味しかったの?」
ミヨシにとっては全然味がしなかった料理をライムはペロリと平らげた。 その様子がミヨシには信じられなかったのだ。
「マズかったわ……」
「えぇぇ――!?」
ミヨシはライムの予想外の言葉に飛び上がった。 すると、ライムは市松を起こさないように肉球をミヨシに見せながら顔に手を近づけて「シィィ……」とミヨシを窘めた。
「……市松ちゃんが私の為に折角作ってくれた料理ですもの、残してしまったら申し訳ないわ……」
ミヨシはライムの優しさに胸が温かくなったが、同時にそんなに気を遣う必要無いような気がしてもどかしく思った。
「ミヨシ……私は市松ちゃんと貴方に会えて幸せだったわ……。 出来ればこのままずっと貴方と市松ちゃんと幸せに暮らしたい……」
「……バッちゃん……」
それは叶わぬ希望だという事は、もちろんライム自身も分かっていた。
そして、ミヨシも……
……
……フルとの戦いの後、ミヨシは全力でライムの治療にあたっていた。
ライムは新しい身体を手に入れてはいたものの、90年近く稼働しているアニマはそのままであった。 アニマを侵食していたバグズ・マキナはフルによって消去されて一命を取り留めたのだが、アニマの耐用年数はとうに過ぎており、アニマの補強をしなければいつ壊れてもおかしくない状況であった。
『……ミヨシ、残念だけどライムの器はもうこれ以上修復は出来ないわ。 もうすでに耐用年数が大幅に超えてしまっている。 今、こうして稼働しているのが奇跡のようなものなのよ』
ミヨシはイナ・フォグに助けを求めたが、イナ・フォグはそう言って哀しそうな顔をミヨシへ向けた。
『……もしかしたら今日にでも……それとも、明日には器が崩壊して大爆発を起こすかも知れない……。
でも、アナタがライムと最後の一瞬まで一緒に居たいと言うのなら、私が器の爆発を抑えるスキルを使ってあげる……』
イナ・フォグはライムのアニマが破壊されても爆発をしないようにする術を施した。 だが、アニマの崩壊を止める事が出来る術はイナ・フォグも持ってはいなかった。
ライムが近いうちに永遠に稼働を停止するのは避けられない『運命』であるのだ。 だが、ミヨシがイナ・フォグに運命という言葉を口にした時、イナ・フォグはその言葉を否定した。
『……運命は自分で変える事が出来ると私は信じているわ。 もっとも、今まではそうは思わなかったけど……。
それを証拠にライムはとうに耐用年数が過ぎた器でもこうして稼働し続けているじゃないの。 その理由がたとえバグズ・マキナによる作用だとしても、壊れゆく運命に抗い続けたライムは今こうして貴方の前で稼働し、生き続けている……。
……定められた運命でも、変える事が出来ない運命でも、その運命に抗い続ければきっと運命は変える事が出来るとライムが証明してくれたのよ。
後は、限界まで耐え続けたライムを休ませてあげるのがアナタの使命……。 私はアナタをいつまでも待ち続けているわ。 だから、アナタはライムが稼働を停止するその瞬間まで一緒にいてあげなさい、わかったわね……』
イナ・フォグはそう言うと、赤い瞳を穏やかに輝かせてミヨシの頭を撫でたのであった……
……
ミヨシはイナ・フォグの言葉を思い出して目を瞑った。 そして、ライムにヒシッと抱きつくと、顔を擦りつけた。
「バッちゃん……アタチはバッちゃんが死ぬまで一緒にいるつもりです……。
……だから、安心して……
……お母……さん……」
ミヨシはそう言うと、いつの間にライムの胸の中でスヤスヤと眠りについた。 ライムは幸せそうに目を閉じているミヨシの顔を綺麗に舐めてあげると、開けた布団をミヨシに被せ直し、自分も眠りについたのであった。
(ところで、市松が作った料理は紛れも無く人間の料理であった。 もちろん、魚や野菜等は人工培養で育てた物であったが、そもそも、市松が何故そんな貴重な食材を手に入れることが出来たのか? そして、何故、“彼女”は人間の料理をいとも簡単に作る事が出来たのか?
彼女はライコウとラヴィによって監視塔イルにて助け出された。 監視塔イルにはバハドゥル・サルダールのゼルナー達が調達したトコヨ製のネクト達が給仕をしていた。 市松もその一体であったのだが、市松は他のネクトと異なりファルサの恋人であったシャヤと同じく感情を持っていた。
シャヤはイナ・フォグの調査によってトコヨの君主『ミコ』に給仕していたネクトであると判明していた。
すると、市松もミコに関係するネクトであったのだろうか……?
今の段階ではその答えは誰にも分からなかった。 だが、ラヴィを母と慕い、ライコウを父と呼ぶ市松の言動から、彼女が人間と何らかの関わりがあった事は間違いないだろう。
そして、彼女がヒツジにとって命の恩人になる事も、今の段階では誰にも分からなかったのである……市松本人も、ヒツジでさえも……)
――
フルの死後、ヒツジはライコウ達と共にアセナの屋敷に戻った。 イナ・フォグの子飼いの蛇に噛まれて眠っていたヒツジはその日の内に目を覚ますと、イナ・フォグの胸にしがみついて泣き喚いた。
それからヒツジは一日ばかり誰とも会わずにフリーズ・アウトとの過去を思い出しながら塞ぎ込んでいたのだが、イナ・フォグから密かにフリーズ・アウトのアマノシロガネを預かった事によって落ち着きを取り戻した。
カヨミがようやく目覚めた時、ヒツジは独りで自室に籠もってイスに座っていた。 ヒツジのマジックハンドのような手には石化したアマノシロガネが握られている。 死に行く“姉”が自らイナ・フォグに差し出したアマノシロガネである……。
「お姉様……ボクは出来ればあの時の姿でお姉様と会いたかった……」
ヒツジは無骨な腕で掴んでいるアマノシロガネを自分の頬に擦りつけた。 温感センサーがヒツジにヒンヤリとした感覚を送ると、ヒツジはフリーズ・アウトがもうこの世から消滅してしまったのだと改めて確信し、大きな一つ目の瞳を青く光らせた。
『ヒツジ……キミはお父さんの事が好きかい?』
いつかフリーズ・アウトと一緒に座っていた草原の中で彼女から聞かれた問いを思い出すヒツジ……。
「うん……。 ボクはお父様が大好きだよ、今でも……」
ヒツジは現実に立ち戻り、手に持っているアマノシロガネに答えた。
「お姉様……お姉様がボクをあの地獄のような場所から救ってくれたのは今でもよく覚えているよ。
……でも、あの場所でボクはお父様とお母様に出会うことが出来た」
ヒツジは今も目を瞑ると助けを求める人間の女性の声と、子供達の声が聞こえてくる……。 その度にライコウに抱きつき、甘えるように身体を預け、ライコウの胸で眠りにつくのだ。
ところが、最近そのライコウの役目がイナ・フォグに変わった。 イナ・フォグは常にヒツジを優しく抱きしめ、穏やかな瞳を称えてヒツジに微笑を送っていた。
「そう、ボクはお父様の事をいつまでも愛している。 だけど、お母様の事は……もう……」
ヒツジが独り言を呟いていると、ヒツジのいる部屋のドアが突然開いた。
「――誰っ!?」
ヒツジは瞳を赤く点滅させて驚いた。 そして、咄嗟にイナ・フォグから預かったアマノシロガネを後ろへ隠した。
「ヒツジ、カヨミが目を覚ましたのじゃ!」
ドアを突然開けたのはライコウであった……。
「もう、ノックもしないで勝手に開けないでよ!」
ヒツジは両手を挙げてプンプンと怒る仕草を見せた。 手の中にはアマノシロガネが隠されている事をライコウは知らなかった。
「スマン、スマン、つい興奮してしまってのぅ。 それより、お主もこんな部屋で独りでいないで、皆と一緒に応接間へ来るのじゃ」
ドアの前に立っていたライコウはズカズカと中へ入っていき、ヒツジの手を取った。 ヒツジは手の中に隠していたアマノシロガネをライコウに見られるのが嫌だったのか、咄嗟にライコウの手を引き離した。
「……ヒツジ……お前、またフリーズ・アウトの事を考えていたのか?」
ライコウはヒツジの様子を心配そうに見つめた。 ヒツジはこの数日の間で姉を失った悲しみを乗り越え、ライコウとイナ・フォグに黄色い瞳を輝かせながら笑顔を見せていたはずであった。 ライコウはそんなヒツジの様子に安堵し、自分はベッドで眠り続けるカヨミを寝ずに看病していたのだ。
「そ、そんな事無いよ、もう大丈夫だって! キミが突然ドアを開けたからビックリしただけさ。 それより、アセナはまだエクイテスから帰って来てないの?」
ヒツジは何故か恥ずかしそうにしながら上目遣いで話題を変えた。
「――ん? ああ、アセナもディ・リターの司令官という立場じゃからのぅ。 エクイテスで行われている祝勝会にどうしても出席しなければならんのじゃ。
まあ、お主が心配せずとも、すでにカヨミが目を覚ましたことを彼奴に伝えておいた。 デバイス越しに声を詰まらせて感動しておったのぅ……うん、良かった、良かった」
ライコウは目を瞑って腕を組みながら声を震わせて喜ぶアセナの言葉を思い出し、噛みしめるように何度も頷いた。
「そうなんだ、そりゃ良かったね! じゃ、ボクはちょっと潤滑油のシャワーを浴びてくるからキミは先に行っててよ」
ヒツジはそう言うとおもむろにイスから立ち上がり、奥に見えるシャワールームへ行こうとした。
「なんじゃ、丁度良かった! それじゃったらワシもここ数日風呂に入っておらんかったから、久しぶりに一緒に入ろうか!」
ヒツジは突拍子もないライコウの発言に、瞳を桃色に光らせて慌てだした……。
「な、な、な……何言ってんのさ! キミとお風呂に入った事なんて一度も無いじゃないか! ボクは一人でシャワーを浴びたいんだ! ボクの事は大丈夫だから、キミは早く皆の所へ行きなよ!
ホラッ――! 早く――!」
ヒツジはそう言うと、ライコウの背中を押してドアの前まで追いやった。 ライコウはヒツジの慌てた様子に不思議そうな顔を見せたが、ヒツジが嫌がっているので仕方なく先に応接間へ向かって行った……。
「ふぅ……ビックリした……」
ライコウの居なくなった部屋でヒツジはホッとした様子を見せると、再び過去の事を思い出した……
……
『ハハハ――! ヒツジ、何も恥ずかしがる事はないさ、キミのお父さんだろう。 一緒に入ればいいじゃないか!』
ヒツジはフリーズ・アウトに自分の父親と一緒にお風呂に入ることを躊躇っていた事を笑われていた。
灰色のサラサラした髪を靡かせて可愛らしい笑顔を見せる姉の姿を見て、ヒツジは今度から父親ではなく、フリーズ・アウトと一緒にお風呂へ入りたいと訴えた。
『ふふ……別に構わないさ。 でも、マルアハはお風呂に入るなんて習慣はないからね。 キミが入浴の嗜み方をボクに教えてくれないと』
『そんな事、お安いご用さ! だから、一緒にお風呂へ入ろ、お姉様!』
ヒツジはそう言うと、フルの胸に顔を埋めて甘える仕草を見せたのであった……
……
「……そう言えば、フォグもマルアハのはず。 でも、フォグは喜んでボクと一緒にお風呂へ入っている。
もしかして、フォグはお風呂へ入る事なんてどうでも良くて、ボクに付き合っているだけなのかも知れない……」
イナ・フォグがヒツジの為に入浴を共にしているのかどうかはイナ・フォグに聞かなければ分からなかった。 だが、ヒツジはフリーズ・アウトの言葉を思い出し「きっと、そうに違いない」とイナ・フォグの優しさにジンワリとしたココロの温かさを感じた。
「もし、フォグがボクのお母様だったら……」
そう呟いたヒツジのココロの中では、かつて母親として慕っていた者との思い出が去来していた。 ヒツジは悩ましげな様子で瞳を紫色に点滅させると、シャワールームへ入って行った……。
――
フルとの戦いで呪術を使用しすぎたラヴィは、体中にまるで長時間太い縄に縛り付けられていたのかと思うような黒い痣が浮き上がっていた。 その黒い痣は体内で血管の役割を果たしていたチューブが肥大化して浮き出てきた跡であった。
彼女はフルが消滅した時、雪原の中で仲間に護られて戦車の上で横たわっていた。 もはや戦う事が出来なかったラヴィは、片手に不気味な本を抱えながら意識を失っていた。
フルが消滅した後、ラヴィはアセナの屋敷に戻って引き続き治療を受けていた。 だが、その時には体中に浮かび上がっていた悍ましい痣はすっかり無くなっており、ディ・リターへ帰還して一日足らずの治療ですっかり元気になった。
彼女がこれほど早く回復する事が出来たのは、アザリアのお陰であった。
アザリアはクレーターの底でライコウとイナ・フォグがフルと話しをしている間にラヴィの許へ向かい、ラヴィの身体を治療していたのである。
アザリアはフルとの戦闘中、ずっと犬型ゼルナー『ケセット』の身体を借りたままであった。 そして、フルが消滅した事を確認するとケセットの身体を解放し、忽然と姿を消した。
ディ・リターへ帰還してすぐ目が覚めたラヴィは、自分を慕ってくっ付いてきたアルスとベースケからケセットが自分の治療をしてくれたのだと聞いた。 そのケセットはディ・リターまでラヴィを見送ると、つぶらな瞳を称えながら「ワンッ」と一声鳴いて、後ろ髪を引かれるレグルスの裾を引っ張りながらエクイテスへ帰って行った。
カヨミが目覚めた時、ラヴィはシビュラと屋敷のリビングでお茶を嗜んでいた。 シビュラの弟子のエンドルは、昨晩からソルテス、アロンと一緒に町の酒場へ繰り出しており、一夜明けても帰って来なかった……。
「汝はアザリアという者の正体を何処まで知っているのだ?」
白衣を身に纏ったラヴィは右手に取ったコーヒーカップをテーブルに置くと、栗色のポニーテールを揺らしながら顔を上げ、向かいに座るシビュラを見据えた。
ラヴィに問いかけられたシビュラは目を伏せてコーヒーカップを口元に寄せていた。 シビュラがカップの中のオイルを口へ運ぶ度に、赤いリボンで纏めた藍色の艶やかな二本の髪が両頬を掠めてフサフサ揺れる。 隣のイスには花飾りの付いたトンガリ帽子が置かれていた。 彼女はいつも着ているクロークも脱いで小豆色のワンピースしか着ておらず、随分とリラックスした様子であった。
シビュラは少し垂れ目気味の目でラヴィを見ると、年を重ねた器械らしからぬ可愛らしい声でラヴィに言葉を返した。
「ふぅ……コレ、美味しいみたい。 貴方が調合したの?」
シビュラはオイルをすっかり飲み干して、満足そうにコーヒーカップをテーブルに置いた。
「……まあ、そうなのだ。 そんなに気に入ったなら後でいくらでもオカワリを出すから、その前にワガハイの質問に答えるのだ」
ラヴィは焦れったそうに桜色に染まった髪の先端を指先でいじくりながら、シビュラに質問の回答を求めた。
「……彼女は“お墓”の墓守に過ぎない……。 少なくとも、今まで私はそう思っていた。 ライコウと彼女が出会うまでは、ね……」
シビュラはそう言うと、コーヒーカップの脇に置かれていたポットを手に取った。 すると、ラヴィが静止して代わりにポットを手に取って、シビュラの前に置かれたコーヒーカップにオイルを注いだ。
シビュラはラヴィによって注がれたコーヒーカップを再び手に取って口元に寄せた。
「ズズッ……。 彼女はマルアハと同じく不思議な術を使う。 むしろ、同じような術を使う貴方の方が彼女の事を知っていると思っていたから、貴方の質問には少し驚かされたみたい」
そう言っておきながら美味しそうにオイルを飲むシビュラには驚いた様子は無く、妙に落ち着いているようにさえ見えた。
シビュラはあっという間にオイルを飲み干してコーヒーカップを再びテーブルに置くと、顔を上げて話を続けた。
「バハドゥルをオフィエルが襲撃して来た時、アザリアはライコウの事を昔から知っていたように見えた。 ライコウはどうも記憶が無いようだったけど、何だか二人は妙な雰囲気だったと記憶している」
ラヴィはシビュラの話を聞くと、にわかに顔を曇らせた。
「むむ……。 妙な雰囲気とは……まさか、二人が……」
ラヴィの懸念を察知してか、シビュラはラヴィの言葉を遮った。
「――心配しなくても恋仲という訳じゃなさそうだった。 さっきも言ったけど、ライコウはアザリアの事を殆ど覚えてなかったみたいだから、それほど親しくは無かったようだし……」
ラヴィがホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間、シビュラの次の一言にラヴィの顔は再び懸念の色を帯びた。
「……ただ、アザリアはどうもライコウに好意を寄せていたみたい」
「な、な――!? そんな事、何故、汝に分かるのだ!」
ラヴィは慌てた様子でテーブルのポットを手に取ろうとした。 ところが、今度はシビュラがラヴィより先にポットを手に取り、ラヴィの前に置かれているコーヒーカップにオイルを注いだ。
「す、すまんのだ……」
ラヴィは礼を言うと、コーヒーカップを手に取って一気にオイルを飲み干した。
「ふぅ……」
ラヴィはオイルを喉に流し込んで、気持ちを落ち着かせたようだった。
その様子を見たシビュラは、ラヴィが落ち着くのを見計らったようにポツポツと言葉を紡ぎ出した……。
「……私には愛していたヒトがいた。 だから、アザリアを見れば、彼女が一体誰を愛しているのかが何となく分かるの」
「……そのヒトは人間だった。 この星に生きた最後の人間……。 彼が私に愛を教えてくれたの……」
「――まさか、器械が人間を愛するなんて思ってもみなかった。 でも、私は彼の事を愛した。 そして、彼をあのマルアハから護ろうと命を懸けた」
シビュラは話を止めると寂しそうな瞳を浮かべたまま天井を見上げた。 天井のライトがシビュラの顔を照らすと、苦難の年輪が刻まれた顔のシワがラヴィの目に映った。
「……そうだったのか……ドリーム・ボックスの地下で眠っていた人間達を助け出したのは、汝等だったとは……」
ラヴィは悲しげなシビュラの顔をこれ以上見る事が出来ず、下を向いて両手で膝を押さえた。
――シビュラは身の上を他人に話した事は今まで一度も無かった。 だが、ラヴィには何故か自分の過去を赤裸々に告白した。
シビュラはラヴィがもともと人間であった事を知らなかった。 だが、自分が愛した人間と同じ雰囲気をラヴィに感じたのだ――
「……だからラヴィニア、貴方がライコウに好意を寄せている事も私は当然知っている……。
でも、貴方は別にアザリアを恋敵と見なして私に色々と聞いてきた訳ではないでしょう?」
シビュラの指摘通り、アザリアがライコウに好意を寄せていると聞いて話が脱線してしまったが、ラヴィはそもそもアザリアの素性をシビュラに聞きたかっただけであったのだ。
「残念な事にアザリアの素性は私にも分からない。 でも、アザリアが私と同じく愛する者がいる事と――
――憎むべき者がいる事だけは分かる」
「憎むべき者……?」
ラヴィは顔を上げて目を見張った。 シビュラはラヴィの青い黛に彩られたキリッとした瞳を見つめている。
「さっき言ったように、私はファレグに大切な恋人を殺された。 私はその復讐に為に今日まで稼働し続けている……。 必ずファレグを破壊して、あのヒトの無念を晴らす為に……」
「シビュラ……汝は……」
ラヴィはシビュラの瞳に黒く蠢く影を見えたような気がして息をのんだ。 シビュラはラヴィの緊張した様子を気に留める風も無く、言葉を続けた。
「……私のココロに渦巻く恨みの炎は、消える事なく私の身を焦がし続けている……この失った左腕と共にね」
(シビュラの左腕は黒い靄が腕の形を成しているだけで腕では無く、暗黒子と呼ばれる粒子の集合体であった。 シビュラが何故左腕を失って暗黒子を纏うようになったのかは、今の段階ではシビュラの口から語られる事はなかった)
「――そしてアザリアは瞳の奥に私と同じ影を宿している事がはっきりと分かった。
私と同じ憎悪の炎を宿している事に……」
――ライコウとカヨミの笑い声が聞こえてきたのは、それから間もなくの事であった。
二人は話を終わらせ、カヨミを迎える為に応接間へと向かって行った――。
――
マルアハ『フル』は愛する“二人の妹”を想いながら消えていった……。 残るマルアハは『ベトール』 『オフィエル』 『ファレグ』……そして、アザリアとマザー。
アザリアとマザーの本当の名は二人しか知らない。 その内の一人はヒツジであり、もう一人はファレグ――リリム=イナ・ウッド――であった。
イナ・ウッドの口から二人の素性が語られる事は無いだろう。 ヒツジも今の段階では口を噤んだままである。
だが、いずれヒツジの口から二人の本当の名が語られる日が来るはずだ。 その時にはライコウが完全に記憶を取り戻し、フルが言う『水元頼光』なる者に戻っているかも知れない。
ヒツジの口からこの世界の真実が語られるとき、イナ・フォグはどうなっているのだろうか?
それは、ヒツジ自身にも分からなかった。 ただ、その時にはイナ・フォグの身体を蝕む憎悪の炎がライコウによって消え去っていて欲しいと強く願った。 そして、イナ・フォグを母として再び“三人”で幸福に暮らす事を夢見たのであった……。
明けましておめでとうございます。 いつもお読みいただいている方に感謝申し上げます。 本年も宜しくお願いします。
本稿を書き終えて、三章を書き始めて一年が経過していた事に驚いています。 そんな時間が経っているとは想わなかったのですが、時が経つのは速いものです……。
三章はこれで終わりです。 次は四章ですが、物語に関係する別の話を書きながらになりますので、もしかしたら更新が少し遅れるかも知れません。
四章は一年も掛からなければ良いですが……書きたい事が多いからそうもいかないかも知れないな。
あくまで自分の趣味で書き始めた小説ですが、いつもお読みいただいている方には本当に有り難く思っています。
拙い表現で恐縮ですが、最後まで書き上げる所存でございますので、お付き合いいただけると有り難いです。




