灰色の天使
――遥か三千年前の記憶――
『夢見る星』から数万光年離れた宇宙の彼方――人類の故郷では、ある悪魔が宇宙へと追放された。 世界中を蹂躙し、破壊せしめた悪魔は大地を護る神々と、星に生きる全ての生物達の最後の抵抗によって宇宙へ逃亡したのであった。
ところが、すでに悪魔によって壊滅的な被害を受けた星は、もはや生物の住める場所ではなくなった。 そこで、生き残った1000名程の人間達は新たな永住先を探し、宇宙へと旅立った――故郷を護ってくれた神々に別れを告げて……。
二年に渡る航行の末、人類は夢見る星へと降り立った。
夢見る星は人類が誕生した星とそっくりだった。 だが、この星の台地にはまるで神話に出てくるような奇怪な生物が蔓延っており、人型の生命体は存在しないかのように思われた。
星に降り立った人間達は人型の生命体を探し、うっそうと茂るジャングルをさ迷った。 密林の中を北へ北へと進む人間達は、一人、また一人と獰猛な怪物達に食い殺されていく……。 ようやく、密林を抜けると、今度は深い霧が立ち込める広大な湖が立ちはだかる。 船を造り、湖を渡る人間達に湖底に住む巨大なヌシが襲い掛かった。 多くの犠牲者を出しながらもヌシを退治した人間達は湖を越え、さらに極寒の氷の世界をひたすら進み、ついにはこの星の北西にある小さな集落へとたどり着いたのであった――。
人間達はついに人型の生命体が生活を営む集落を発見した。 『メカシェファ』と呼ばれる原住民は、不思議なことに人間の言葉を理解する事ができ、瞬時にその言葉を話す事が出来た。 メカシェファは美しい桜色の髪をした女性の姿であった。 彼女達は生殖機能が備わっておらず、集落の中心に聳え立つ大樹から誕生するという不思議な生命体であった。
穏やかな性格のメカシェファは異星人たる人間を暖かく迎えた。 人間はそんなメカシェファに感謝して彼女達に革命的な技術をもたらした。
彼女達は人間の導きによって未開であった各地へと進出した。 人類が夢見る星へやって来てから十年の間で星の様相は一変した。 山々を切り開き、宅地を造成し、メカシェファと人類の共存を目指した新たな都市の建築が各地で急速に行われ出したのである。
人間はメカシェファにとって神のような存在であった。 だが、その神はこの平和だった星に悪魔を呼び寄せた。
人間の故郷を破壊しつくし、宇宙へ追放された悪魔は、人間達が故郷を捨てて夢見る星へやって来た事に気づいた。 彼女は人類への復讐の為、怨念渦巻く執着を持って夢見る星を目指したのである。
――W・W=ラヴィニアは16歳の時に故郷を離れ、仲間達と共に夢見る星へやって来た。 彼女は故郷を守護する神々の力を借りて悪魔を追放した英雄であった。 もちろん、彼女だけの力ではなく、親友のクラルス=エル・シャロムといった仲間達の力があってからこその偉業であった。
彼女は生き残った仲間達と共に夢見る星へやって来た。 そして、星に住むメカシェファ達に様々な技術を教え、この星を新たな故郷として人類とメカシェファの共存を目指した。
その矢先――宇宙へ追放したはずのあの忌むべき悪魔がこの星へ迫って来ている事を知ったのであった。
ラヴィニア率いる人間達は、刻一刻と星へ迫って来る強大な悪魔に立ち向かった。
「自分達の故郷の二の舞には決してさせない――!」
ラヴィニアはそう決意し、この星を創造した神々の力を借りる為に『アル・アジフ』という機械を製造した。
すでに夢見る星の目前まで迫って来ていた悪魔の襲撃を阻止すべく、ラヴィニアはネシェル隊という部隊を組織した。 この星を護る為――そして、悪魔との戦いに終止符を打つ為に。
彼女の親友であったクラルスはラヴィニアの願いによってネシェル隊から外れ、代わりにクラルスの兄であるレグルスがラヴィニア達と共に出撃する事となった――。
――こうして、ラヴィニア率いるネシェル隊は自分達の命と引き換えに夢見る星を護った。 ラヴィニアは悪魔を消滅させ、アル・アジフと共に宇宙からこの星の繁栄を宇宙から見守っていた……はずだった……。
――
ディ・リターの南西端に位置する西の壁エリア――地上を往来する出入口があるこのエリアは、出入口の手前に巨大な要塞を建築し、外敵の侵入を防いでいた。
ガラス張りの要塞は外からでも中を行き来するゼルナー達の姿がよく見える。 ところが、要塞の二階に位置するフロアでは何故か薄い靄がかかっており、フロア全体の様子が外からでは見ることが出来なかった。 しかも、デバイスを使用しても二階の状態を確認する事が出来なかったのである……。
二階には悠然とした雰囲気に包まれた和室があった。 和室は戦いに赴くゼルナー達が自分達の気持ちを落ち着かせる為に利用する部屋であり、まるで本物の井草のような人工繊維で造られた新緑色の畳の上に、貴重な木材で造られた長方形のテーブルが置かれているという贅沢な部屋であった。 しかも、部屋はガラスで仕切られており、ガラスの外には波のような模様がデザインされた小石が敷かれている庭があり、庭には小さな池が”鹿威し”から流れる水が落ちる度に『コン……』という涼し気な音を鳴らして波紋を広げていた……。
このように、静寂で優雅な様子の和室はゼルナー達の間でも人気の部屋の一つであったが、現在は薄気味悪い靄に包まれ、ガラス窓から差し込む太陽光を模したライトも黒い雲に遮られているかのように部屋の中をボンヤリと照らしていた。
――そんな薄暗い和室に、二人のゼルナーが机を挟んで向かい合わせに座っている姿があった――
「……つまり、俺はもともと人間であり、クラルスという妹がいた。 そして、お前の言う『オロチ』とかいうバケモノを退治する為にお前達と戦って、人間であった時の俺は死んだ……。
……全く、バカバカしい話だ……」
座布団に座るスーツ姿のレグルスが、正面に座るパーカーを着たラヴィに向かって吐き捨てるように呟いた。 レグルスはラヴィからこの星で起こった途方もない過去の話を聞かされた。 そして、訝し気な様子でラヴィを見ながらテーブルに置いてあったキャストロ製のオイル茶を口へ運び、ラヴィの話を否定する言葉を口にしたのであった。
ラヴィは疑いの目を崩さないレグルスに対して動揺する事なく、泰然とした様子でレグルスに言葉を返す――
「……汝の型名『EL-SHALOM』が何よりの証拠なのだ。 エル・シャロム……汝がかつて、レグルス=エル・シャロムという名であった事を意味するのだ」
(――そもそも、器械の型名は一体どのようにして決められるのか?
器械はマザーが製造し、その器械にアニマという感情をもたらす装置を組み込むのもマザーである。 常識的に考えるのであれば、型名はマザーが決めるものだと思うのであるが、実はそうではなかったのだ。
器械が製造される時、アニマが組み込まれていなければ作業用機械と呼ばれる機械達と全く同じであり、いわば、単なる人工知能を有したロボット達である。 ロボットの状態ではまだ、機械達に型名は付けられていない。 アニマを組み込まずにそのまま作業用機械となる機械達は型名が無いまま器械達に使役されるか、マザーや主人である器械に名を付けられる。 ところが、器械となる者達はアニマを組み込まれて初めて型名が決まるのだ。
しかも、その型名はマザーや他の器械が決めたものではない。 機械にアニマを接続すると、どういう訳か勝手に型名が決められてしまうのだ。
器械の型名は身体の何処かに刻印として刻まれている。 デバイスでも確認する事が出来るが、ライコウやヒツジのように型名が刻まれていないものもあり、その場合、デバイスで確認しても『アンノウン……』と表示されて確認する事が出来ない。
つまり、器械達の型名はアニマを組み込まれた時に勝手に決まるものであり、型名が決まる法則はマザーすら分かっていなかったのである――)
平然と”法螺話”を語るラヴィに、レグルスは顔を顰めながら姿勢を崩し、口元に手をやって「うーん……」と唸った。
「……名前が偶然一致するだけで、俺が過去に生きた人間の生まれ変わりだなんていうのはなぁ……。
そもそも、人間だった俺がどうやって器械に転生などする事が出来る? お前の言っている事は非論理的であり、矛盾だらけだ。
だいたい、その……なんだ? 『外の世界の者』とかいう奴らも、お前の説明を聞いても何者なのか全く理解出来ない。
それに……よしんば、俺が人間から転生した者だったとして、それが一体今の俺にどう影響するというんだ?」
レグルスは正直な感想をラヴィに述べた。 彼は頭からラヴィの話を信用していなかったのだ。 もし、ラヴィではなく別のゼルナーにこんな下らない話を聞かされていたなら、レグルスはいつものように「はぁ、うっぜ……」と席を立って、とっとと帰っていたことだろう。 だが、レグルスはラヴィの話を根気よく聞いていた。 それは、ラヴィとこうして対峙している間でも、何故かラヴィに対してココロがドキドキするような、落ち着かないような気持になるからであり、彼女ともう少し話をしたい衝動に駆られるからであった。
(AL-617A6966……不思議な女の子だ。 何故だか俺は彼女の蒼い黛を描いた凛とした瞳に目を見張り、小さな口から出る声に心が躍る……。
そして、彼女の栗色の髪が尻尾のように揺れている後ろ姿をみると、何故か彼女を美しいと感じてしまう……)
レグルスは以前、ライコウにイナ・フォグの映像を見たときにラヴィの姿が映っていた時に感じた衝撃を思い出した。 ライコウからは「ラヴィに一目惚れをした」と揶揄われたが、もしかしたら、それもまんざらでもないのかも知れないと感じた。
ラヴィの顔を見つめながら少しばかり頬を染めているレグルス。 ラヴィはそんなレグルスの様子を気に留める風もなく、彼の疑いに反論した。
「――名前が一字一句偶然一致し、しかも性別や容姿まで似るなどという事は天文学的な確率でしかないのだ。 つまり、偶然ではなく因果なのだ。 そして、人間が器械に転生できる理由など簡単なのだ。
――それは、ワガハイ……いや、未だ稼働している『アル・アジフ』がそうさせているのだ。
……だからと言って、汝が器械として転生した事にはワガハイも驚いたけどな……」
レグルスはラヴィの放った言葉の意味を理解する事に苦労しているようで、再び「うーん」と唸って帽子を取った。
さらさらした艶のある、薄っすらと紫がかった金色の髪がレグルスの切れ長の目を隠す。 ラヴィはレグルスの髪色を見て、やはり自分の確信は間違っていないという自信を持った。
「……汝がワガハイの事を信じてくれなくても構わないのだ。 そもそも、こんな突拍子も無い話を信じろというのも烏滸がましいと、ワガハイだって思っているのだ。
しかし、汝は間違いなく人間から転生した器械であるのだ。 その事は、いずれ汝の前世の記憶が蘇れば自ずと分かるものなのだ。
それに、汝が人間から器械へと転生した者だからと言って、汝の言う通り、今の汝には何も影響しないのだ」
ラヴィの答えにレグルスは少しムッとした様子を見せた。
「……影響しないのなら、何でこんな話をするんだ?」
ラヴィはレグルスの不機嫌な様子にも平然として言葉を続けた。
「汝が人間だった頃、汝の妹であったクラルスはワガハイの無二の親友だったのだ。
そのクラルスも、もしかしたら……いや、間違いなくこの星に転生しているはずなのだ。 汝が転生して来た事がその証左なのだ。
クラルスは間違いなくこの星の何処かにいるのだ。 姿形が変わっているかも知れないが、クラルスであった時の痕跡を残して……。
だが、彼女をワガハイだけで探すとなると剣呑なのだ。 なにせ、彼女が器械として転生しているかどうかも保証がないからな。 もしかしたら、地上の何処かでショル・アボルとなって転生している可能性だってある……。
そこで、クラルスの兄であった汝に協力を頼みたいと思ったのだ。
汝に過去の事を話して記憶を蘇らせる事が出来れば、汝も妹を探すことに協力するはずだと思ってな……」
レグルスはラヴィの言葉を聞くと、先ほどの様子とは打って変わって何だか妙にショックを受けた様子で、テーブルの上に視線を落とした。
「つ……つまり、俺が人間から器械に転生した事なんて初めからどうでも良く、単にクラルスを探し出したかった……と?」
「――どうでも良くは無いのだ。 汝は共にオロチと戦った仲間だったからな。 だが、それは汝が人間として生きていた過去の話なのだ。 器械として転生した今の汝には何も関係無いのだ。
――ワガハイはクラルスがこの星へ転生していると願うだけなのだ――
真の媒介者であるクラルスの転生を――」
レグルスはラヴィの話に失望を隠せなかった。 だが、何故自分が失望しているのか良く分からなかった。 レグルスは帽子を手に取って再び頭にかぶると、上目遣いでラヴィの顔を見て、最後の質問をする――
「……ところで、そのクラルスという者は、お前が化け物と戦って死んだ後、どうなったんだ? 俺やお前とは違い、彼女は化け物との戦いに参加しなかったんだろう?」
レグルスの問いにラヴィは『信じていないなんて言う癖にちゃんとワガハイの話を聞いていたのだな……』と意外そうな顔をした。
「クラルスはその後、仲間と結婚して三人の子供を授かったのだ。 ワガハイは何度か転生してその子供達を見守っていた、人間の繁栄と共にな……。 だが、さっきも言ったように、ワガハイといえども器械に転生出来るとは限らないし、いつ、転生できるかも分からない。 時にはショル・アボルとなって遠くから子供達を見守っていた事もあったのだ……」
レグルスはラヴィがショル・アボルとなった姿を想像し、にわかに顔を青くして頭をブルブルと振った……。 だが、同時に望んでもいないショル・アボルとなって遠くから寂しく子供たちの笑顔を見つめているラヴィを想像すると、何だか胸が張り裂けそうな切ない思いがした。
「……そっ、それは可哀そうに……。 しかし、いつ転生できるか分からないと言うなら、何故クラルスが転生していると断言できるんだ?」
ラヴィは話疲れたのか「ふぅ……」と一呼吸を置くと、テーブルに置かれた自分の湯飲みを手に取ろうとした。 ところが、薄暗い部屋だったせいか、ラヴィは間違えてレグルスが口を付けた湯飲みを手に取って、お構いなしにゴクゴクとオイル茶で喉を潤した。
レグルスがお茶を飲むラヴィの様子に顔を赤くしていると、ラヴィは再びレグルスに先ほどの質問に対する返事を口にした。
「……本当は断言など出来ないのだ。 だが、ワガハイは仲間達とクラルスが再び現世へ転生して来る事を祈り続けたのだ……幾千年もひたすらに……。 そして、ようやく汝が転生して来た。 それだけでなく、もう一人の仲間もな。
――こんな偶然は今まで無かったことなのだ。 だから、ワガハイはこの偶然はただの偶然ではなく、因果であると感じてクラルスの転生を期待しているのだ」
ラヴィはそう言うと、再びレグルスの湯飲みを手に取った。 そして、ゴクゴクとオイル茶を飲み干すと、一転して悲しそうな顔をレグルスに見せながら、まるで自問自答するかのように呟いた。
「……本当は『厄災』が起きる前に、ワガハイとクラルスが転生していれば……。 しかし、運命という言葉は信じたくないが……人類が絶滅する事が何かの因果であったなら……」
不意にラヴィの口から出た厄災という言葉……。 レグルスは人類を滅ぼした未曽有の災害について、マザーのデータベースに記録されていた情報だけしか分からなかった。
――マザーのデータベースによると『ダカツ』という名の怪物が突如として出現し、星を護る人間達と戦ったという。 その結果、人間と怪物は相打ちとなり、人類は滅亡した。
マザーはこの星を護った神である人間を再び復活させる為、地上に蔓延る脅威であるマルアハを討伐するよう器械達に命令した――それが、マザーが記録している厄災についての説明であった。
ところが、レグルスはその説明自体に違和感を持っていた。 レグルスが違和感を持つ理由は自分でも良く分からなかったが、何となく『真実は違うのではないか?』という思いがココロの片隅にあったのだ――。
「……厄災という出来事は、俺もマザーの記録から内容を知っている。 だが、俺の知っている内容とお前が知っている内容とはずいぶん違うように感じる。 もし、お前が知っている厄災が真実であれば、何が起こったのか俺に教えてくれないか?」
レグルスはこの際、ラヴィが思わず口にした厄災について真実を聞いてみた。 すると、ラヴィは先ほどまでテーブルに置いていた両手を膝の上に置き、グッと握り締めて唇を噛んだ。
「あの忌まわしい出来事については、今は何も語りたくないのだ……。 ワガハイは悔しいのだ……ワガハイが転生する前に厄災が起こってしまった事が……」
「……」
しばらくの沈黙の後、ラヴィは両拳を握り締めながら絞り出すように声を震わせた。
「……だが、これだけは知っておいてほしいのだ……。
……ク、クラルスの子孫だけでなく……全ての生きとし生ける……この星全ての者が焼き殺され、破壊される様子を……ワガハイはどうする事も出来なかったのだ……。 ただ……アル・アジフから見つめているしかなかったのだという事を……」
レグルスはラヴィの悲壮な顔を見つめて呆然としていた……。 ラヴィの瞳には涙が浮かんでおり、その瞳は美しくキラキラと輝いていた。
「ア、アル……お前は……」
レグルスは動揺した。 ラヴィに対して「何という悲劇的な女なのだろう」と同情し、今まで自分がラヴィを疑っていた事を深く恥じた。 それと同時に、レグルスはラヴィの瞳から頬を伝う美しい涙に眼を見張り、ココロを揺さぶられたのである。
もちろん、レグルスも「器械が涙など流せる訳はない……」という事は知っていた。 時々エンドルのように涙袋を仕込んで偽りの涙を流すような輩もいるが、デバイスで調べれば涙袋を仕込んでいる器械などすぐに分かるし、涙を流す機能など器械には備わっていないのだ。
だが、レグルスはデバイスを起動せずともラヴィの涙が偽りの涙ではない事を確信していた。 彼はラヴィの透き通るような涙を見て、彼女の全てを肯定し、彼女を包み込みたくなるような衝動に駆られたのである。
レグルスは頬を紅潮させて涙ながらに唇を震わせるラヴィに対し、不謹慎ながらもある情動が抑えきれず、思わずラヴィに呟いた。
「う……美しい……」
この瞬間、レグルスはラヴィに対し明確な“恋心”を抱いた。 だが、レグルスが咄嗟に送った言葉にラヴィは何の反応も示さなかった。 ラヴィの目には、かつて目にした凄惨な光景が広がっていたからである……。
「……ア、アル……?」
はらはらと涙を流すラヴィに、心配そうな様子で声を掛けるレグルス……。 ラヴィはレグルスの声にようやく気が付いたのか、ハッとした様子でレグルスを見つめると、すぐに目を閉じて悲惨な光景を掻き消すように首を振った。
「す、済まなかったのだ……」
ラヴィは悄然とした様子でレグルスに詫びを入れる。 すると、レグルスは立ち上がり、ラヴィの傍へ近づいた。
「……アル、俺の方こそ済まなかった。 お前に悲しい出来事を思い出させちまって……。 だが、そのお陰で俺はお前の事を信じる事が出来た。 俺が人間から器械へ転生した者であり、俺にはクラルスという妹がいた事をな……。
だから、俺にもその……クラルスを探す事に協力させてくれないか?」
先ほどとはまるで逆なレグルスの態度に、ラヴィは目を丸くした。
「――えっ? さっきからワガハイの言葉を信用していなかった汝が、何故急に……?」
先ほどまで流れていた涙はいまだ瞳に残っていた。 レグルスは今にも零れ落ちそうなラヴィの涙を優しく手で拭い、微笑んだ。
「……俺はお前の悲しそうな顔をこれ以上見たくないからさ」
残念ながらラヴィはレグルスの恋心に気づいていなかった。 とりあえず、急にレグルスが自分の事を信用し、クラルスを探すことに協力してくれると言い出したので、素直にレグルスの言葉に感謝した。
「――そうか! ありがとう、レグルス! 汝はやはりワガハイの“良き友”なのだ!」
(良き……友……)
レグルスはココロに針が刺さったかのように少しズキズキした。
「――よろしく頼むのだ! レグルス!」
ラヴィはすっかり元気を取り戻し、目を細めてレグルスに握手を求めた。
「……あ、ああ、こっちこそ宜しく」
レグルスはラヴィから差し出された手を握る――柔らかく心地良い感触がレグルスの手の平から伝わってきて、レグルスは再びココロを躍らせたのであった。
――
「……おい、ベースケ……中の様子はまだ分からないのか……?」
ラヴィとレグルスが和室の中で話し合っている時、襖のようなデザインの金属製の扉の前では二人のゼルナーがゴニョゴニョと囁き合いながら、和室の中を覗き見ようと苦心していた。
「痛てて……バカ、アルス! お前、ちょっと背中押し過ぎ!」
メガネのようなモジュールを顔に装着している学生服を着た刈上げ姿のゼルナーが、後ろから押してくるゼルナーに文句を言った。 どうやら、彼はメガネのような機械を用いて中の様子を透視しよう試みているようだ。
後ろでは紺色のストライプのスーツを身に纏い、テカテカな黒髪を撫でつけたオールバック姿の厳つい様子のゼルナーが「お、おぉ……スマン、スマン」と学生服姿のゼルナーに詫びを入れていた。
「……うーん、しかし何なんだ、この煙みたいな靄はよ……。 デバイスが全く起動しねぇどころか、オレの『ヴォイヤリズーム』をもってしても部屋の中を覗き見る事が出来ねぇとは……」
刈上げ姿のゼルナーがイライラしたように後頭部の刈上げを掻きながら、後ろに控えているストライプスーツのゼルナーに“フケ”を飛ばした。
「ペッ、ペッ――! 馬鹿、ホコリを飛ばすな、汚ねぇな――!」
ストライプスーツのゼルナーはフケを顔に浴びた腹いせなのか、今度は勝手な妄想を展開しながら部屋の中にいるレグルスに怒りをぶつけだした。
「くぅぅ――! あの野郎、俺のアルちゃんを独り占めにしやがって! アイツ、ぜってー中でアルちゃんにエッチい事してるに違いねぇ!」
すると、制服姿のゼルナーが逞しい妄想を働かせ、妙な呼吸を漏らしながらストライプスーツのゼルナーの妄言を”一部”否定した。
「ハァ、ハァ……お前のアルちゃんじゃねぇだろ、オレのだ。 しかし、全く羨まし……いや、怪しからん野郎だぜ、レグルスの奴……」
どうやら、二人はレグルスがラヴィを和室に連れ込んで如何わしいことをしているに違いないと思い込み、その所業を盗み見しようとしているようだ……。
そんな彼らの後ろには、立派な白髪交じり口ひげを蓄えたタキシード姿の熊型ゼルナーが「コホン……」と軽く咳払いをしていた……。 右目が瞑れた熊型ゼルナーはイライラした様子で咳払いを繰り返すが、覗き見に夢中になっている二人はまるで気づいていない様子である……。
不満気に口ひげをいじっていたゼルナーは鋭い目を見開いて、いよいよ堪忍袋の緒が切れたのか、凄まじい怒声を靄がかかるフロア内に響かせた――。
「くぉら――!! 貴様ら、一体何やっとるんだ――!」
「――!? どわぁぁ――!!」
靄が吹き飛ぶほどの突然の怒鳴り声に慌てふためく二人のゼルナー――すると、先ほどまで何をしても開かなかった襖がスーッと開き、驚いた様子で目を丸くするラヴィの姿が現れた。
「――おぉぉ! アルちゃん――♡」
ラヴィの姿を目にするや否や、二人はそそくさと立ち上がりラヴィの傍へ駆け寄った。
「アルちゃん、ケガは無い? レグルスの馬鹿にエッチな事をされなかった? こんな、ことや、あんな事……ハァ、ハァ……♡」
牛乳瓶の底のようなメガネを光らせて鼻息を荒くする制服姿のゼルナーは、訳の分からない事を口走りラヴィを困惑させた。
「な、何なのだ……。 汝らは……」
ベタベタとくっつく二人に呆れた様子を見せるラヴィの後ろから、レグルスが不満気な様子で現れた。 そして、ラヴィの身体に鼻を近づけ獣のようにクンクンと匂いを嗅いでいる二人を力任せに引き離し「お前ら、俺の女に手を出すな」などと、勝手にラヴィを自分の所有物かのように放言し、再びラヴィを困惑させた……。
「……な、なんか訳の分からない事になっているのだ……」
――ラヴィはレグルスだけでなく、エクイテスのゼルナー達にまるでアイドルかのように慕われていた。 エクイテスのゼルナー達は、ラヴィのような女性型のゼルナーがどうも好みのようだ――。
「おい、テメェ、ふざけんな! 何が『俺の女』だ、馬鹿野郎! アルちゃんは俺のモノだ!」
アルスと言う名のオールバックのゼルナーが、レグルスの胸倉をつかんで啖呵を切る。 すると、ベースケと言う名の学生服姿のゼルナーがメガネを光らせながら「アルちゃんはオレのマイ・エンジェルじゃ!」と二人のケンカに参戦した……。
――そんな混沌とした様相の中、初老の熊型ゼルナーがもみ合いをしている三人に近づくと、三人の頭を矢庭に『バチン、バチン、パチン!』と順番に引っぱたいた……。
「……全く、レグルスまでそんな体たらくとは……。 貴様らこれから大事な戦があるというのに、そんな腑抜けた態度でどうする! ライコウに笑われるぞ!」
熊型ゼルナーの逞しい体から繰り出された平手打ちに、三人とも頭を抱えて蹲っている……。 ラヴィはそんな三人の様子を気にも留めず、ライコウの名前を耳にすると、にわかに胸をときめかせた乙女のように、ハートになった目を輝かせながら両手を組んで胸に押し当てた。
「――はぁ♡ ライコウ様は何処なのだ? 戦いの前にライコウ様と一緒にご飯を食べる約束をしていたのだ」
ラヴィはいきなり妄言を吐くと、呆気にとられる四人を尻目にそそくさと廊下を駈け出して行ってしまった……。
「……ライコウ……あの野郎、まさか……」
熊型ゼルナーがラヴィの背中を見送っている中、ケンカをしていた三人はお互いに顔を見合わせて、ラヴィと共に食事を楽しむライコウのだらしない顔を想像した。
「――許さん!」
ライコウに敵対心を持った三人は同時にコクリと頷いたかと思うと、唖然とする熊型ゼルナーをよそに走り出し、ラヴィの尻を追いかけて行った……。
(このタキシードを着た体格の良い熊型のゼルナーは名を『ロイト・ヘイム』と言った。 型名は英数字の羅列であったが、バイナリ変換を行うとロイト・ヘイムと読めたので、仲間達は単純に彼をロイトと呼んでいた。
ロイトは全身黒い人工毛で覆われていた。 普段はタキシードを着ていて分からないが、背中の中心は赤い逆毛が生えていた。 燃えるような赤毛は腰のあたりから頭のてっぺんまで帯状に生えており、まるでモヒカン頭のように額まで伸びていた。 右目は瞑れて機械の下地が見えており、中にはカメラの替わりに高輝度のレーザーを照射する小型のレーザー射出装置が内蔵されていた。
この片目はもともと瞑れてはいなかった。 フルと戦った時に破壊されてしまったのだ。 その時、ロイトはフルの動きを全く追う事が出来なかったそうで、一瞬でフルに片目を潰されてしまった。 フルはそのままロイトを破壊する事も容易かったが、何故かロイトを破壊せず、しかも、体内にウィルスも仕込まずにそのままロイトを逃がしてしまった。
ロイトはその時『キミは……ボクに似ているね……』というフルの言葉を聞いたそうだ。 フルの言葉がどんな意味を持つのかロイトには分からなかった。 フルの容姿はロイトとは全く異なっていたからだ。 ただ、フルの逞しい両足は、確かにロイトと同じく熊型ゼルナーのような灰色の毛で覆われた太い両足だったそうだ)
――徐々に靄が晴れて行く和室の前で一人取り残されたロイトは、ラヴィの行動に疑問を抱いていた――
「……アルは何故、マザーに知られないようにこのフロアに”妨害粒子”を展開させたのだろうか……?」
……
レグルスとラヴィが和室へ入る前、ロイトはラヴィから『フロア全体に妨害粒子を巡らせてデバイスの通信を妨害するので、ゼルナー達に気を付けるように伝えてほしいのだ』と頼まれた。 ロイトは何故そんなことをするのかラヴィに聞いた。 するとラヴィは『マザーの奴にレグルスとの会話を聞かれたくないのだ……』と答えた。
ラヴィの答えにロイトは『何故、マザーに会話内容を聞かれたくないのか?』という疑問より、『何故、私にマザーを裏切るような事を頼むのか?』という疑問の方が大きかった。
すると、ラヴィはロイトの疑問にこう答えた――
『――なに、汝はワガハイの仲間達と同じ匂いがするからなのだ。 ワガハイにとって懐かしい匂いがな……』
ラヴィの発言は全く意味が分からなかった。 しかし、ラヴィが自分の事を信用していると感じたロイトは、ラヴィの言う通りにした。 そして、二階に突然靄がかかって驚くゼルナー達に『新たな索敵兵器の実験を行っている』などと釈明して、騒ぎにならないように落ち着かせたのであった――。
……
「……そもそも、何故、マザーが一介のゼルナーなどの会話を盗み聞きするのか?」
その答えはロイト自身、何となく分かっていた。
「それは、アルが特殊なゼルナーであるから……?」
ロイトはラヴィの言葉を思い出した。
『――汝は、ワガハイの仲間達と同じ匂いがするのだ――』
(私がアルの仲間達と同じ匂いがすると言うのは、どういう事だろう? 私もアルと同じく普通のゼルナーとは違うというのか?)
ロイトはラヴィに感じた何処か懐かしい雰囲気と、フルが自分を逃がした時の事を思い出し、自分は一体何の為にゼルナーとして生まれて来たのかを考えていた。
――
「あっ――!」
二階にかかっている靄がようやく晴れて来た頃、二階の廊下をさ迷っていたミヨシが、和室の前で佇んでいるロイトを見つけた。
「ロイトさん――!」
ミヨシは赤い毛をトサカのように立てているタキシードを着た大熊に声を掛け、四つ足で駈け出したかと思うと、あっという間に彼の目の前へ近づいた。
「おや、ミヨシ君、どうしたのかね?」
内心、(……なんていう速さだ……)とミヨシの脚力に驚愕していたロイトであったが、平静を装って困った顔をしているミヨシに笑顔を向けた。
「……首にスカーフを巻いたネコ型のゼルナーを見かけませんでしたか?」
「ネコ型……? はて、そんなゼルナーは見かけなかったが……」
ミヨシはどうやら首にスカーフを巻いた銀色の毛を持つネコ型ゼルナーを探していたようだった。
――ミヨシの話ではライコウ達と一緒に要塞に到着した時、出迎えてくれたエクイテスのゼルナー達に混じってネコ型のゼルナーが自分を見ていた事に気が付いたのだと言う……。 ミヨシはそのネコ型ゼルナーが気になって、要塞のあちこちを探し回ったが、あれ以来、そのゼルナーは忽然と居なくなってしまったという事であった――。
「……たぶん、あのゼルナーはエクイテスのゼルナーだと思うのです。 でも、エクイテスの皆に聞いても『そんなゼルナーなんて知らない』なんて言うし……。 ロイトさんなら何か分かるかなって……」
ミヨシは尻尾を下げて悲し気な様子で俯いている……。 ロイトはミヨシが気の毒に思えて、靄が晴れてようやく使用できるようになったデバイスを起動させた。 そして、データベースからゼルナーとして登録されているエクイテスのメンバーを一人残らずチェックした。 ところが、いくら探してもミヨシが言うネコ型のゼルナーなど見つからなかった……。
「うーむ……残念だがミヨシ君、ネコ型のゼルナーはエクイテスの中では三十名程いるが、君のいう銀色の毛並みをしたスカーフを巻いているゼルナーは登録されていない。
もしかしたら、未登録のゼルナーなのかも知れないが、未登録であればエクイテスのゼルナーではありえないので、ディ・リターのゼルナーなのかも知れないな」
ロイトの報告を聞くと、ミヨシは残念そうに尻尾を垂らし、耳を伏せた。
「そう落ち込まなくとも出撃はいよいよ明日だ――ディ・リターのゼルナーであれば、その時にまた会えるさ」
ロイトはしょぼくれるミヨシを宥めるように大きな熊の手でミヨシの頭を撫でた。
――その時だった――
「――ミ、ミヨシ君――!?」
ミヨシの尻尾が突然逆立ったかと思うと、まるで風船のように大きく膨らんだ! 呆気にとられるロイトをよそに、ミヨシは鋭い牙を剥きながらクルリと踵を返し、地上の出入口がある方角へ身体を向けた。
「――ロイトさん!! フォグさんからの緊急連絡です! 作戦は成功したものの、フォグさんはフルに発見されて交戦を開始しました! アタチはこれから地上へ向かいますから、ロイトさんはゼルナー全員を緊急招集して大至急『デモニウム・グラキエス』へ全員出撃させてください!」
突然のミヨシの指示にロイトは目を白黒させて狼狽した――。
「なっ――? いきなり、そんな事――」
「――ガァァァ!!」
すると、ミヨシが恐ろしい咆哮を上げてロイトの声を遮った。 その声は要塞全体へ響き渡り、要塞にいるゼルナー全員を怯えさせた。
「――何を言ってるんです! もう、戦闘は始まっているんですよ! この一戦にアタチ達の命運がかかっているんです! もっと、緊張感を持ってください!
――頼みましたよ!!」
ミヨシはロイトを一喝すると、稲妻のような轟音を残してロイトの前から忽然と消えた……。
「ま、まずはアセナに連絡を――」
ロイトはそう言うと、緊張した面持ちでデバイスを起動させ、フィールドを展開した。
――
コヨミはライコウのお陰ですっかり元気になっていた。 彼女はいつものようにツインテールに髪を纏めて袖の長いパイロットスーツを着た姿で、アセナとカヨミと共に要塞の最上階で戦い前の一時の休息を楽しんでいた。
ところが、ロイトからアセナへ緊急の連絡が入り、状況は一変した。 アセナは大慌てで要塞全体に響き渡るけたたましいサイレンを鳴らし、出撃準備を開始し始めた。
緊張した様子のコヨミを前に、カヨミは鬼気迫る表情でシビュラと連絡を取り始める――。
(……つ、ついに……この時が……
……皆、ウチは――!)
コヨミは両手の拳を握り締めて、目を閉じた。 すると――
「――アセナ!」
ライコウとラヴィが最上階のエレベータから出て来るや否や、三人の下へ駆け寄って来た!
「ライコウ様――!」
ライコウはコヨミの叫び声に気が付き、コヨミの傍へ駆け寄った。 そして、いつもの姿に戻っていたコヨミを抱きしめた。
「コヨミ、もう大丈夫か?」
「ハイ! ウチはいつでも出撃出来ます!」
力強い返事をするコヨミにライコウは眼を細め「そうか、君はなるべく前線に立たないようにしろ! 前線は俺やレグルスに任せて、君は後衛からフォローを頼む」とコヨミを慮った。
「――ハイ! これが、フルとの最後の戦いです! ウチは必ずフルを倒します!」
コヨミは銀色の瞳に決意の輝きを放って、ライコウを見つめた。
(ラヴィは凛とした表情を崩さずにアセナと何やら話をしている。 要塞内にはけたたましいサイレンの音が響き渡り、ゼルナー全員のデバイスからは『――フル襲撃! 地上への出撃を開始セヨ!』というアナウンスが警告と共に表示されていた)
――要塞内は緊迫した空気に包まれていた。 先ほどまでラヴィの尻を追っかけていたレグルス達も真剣な表情へと様変わりし、一階に集結したエクイテスのゼルナー達の編成を確認していた。 アセナとラヴィもすでにレグルス達と共に一階へ降りており、ディ・リターのゼルナー達を呼び集め、レグルスと同じく編成の確認をしていた――。
「オイ、貴様は一体どこのゼルナーだ!」
アセナが鋭い目を飛ばした先には、ミヨシが探していた銀色の毛並みをしたネコ型ゼルナーがアセナの部隊に紛れ込んでいた。
「アタシゃ、傭兵だ!」
エメラルド色の美しい瞳でアセナを睨むゼルナーを、アセナがデバイスで所属を調べると『バハドゥル・サルダール』と表示されていた。
「君はバハドゥルのゼルナーか?」
「――そうだ! アタシゃフルとは因縁がある! この戦いに参加させてもらうぞ!」
「成程……了解した。 それでは君の力を我々に貸してほしい」
アセナは訝し気な表情を崩さずに、ネコ型のゼルナーがディ・リター軍に帯同する事を許可した。
(……所属先が『バハドゥル』と表示されているが、どうも変だ……。 だが、あの様子を見るとマルアハのスパイという訳でもなさそうだし……アラトロン嬢と合流すればいずれ奴の正体は分かるだろう……)
アセナはココロの中で呟くと、隣にいたラヴィにネコ型ゼルナーの行動を随時監視するように頼んだ。
――カヨミはライコウ達と一階へ向かいながら、シビュラのデバイスへしきりに連絡を試みていた。 ところが、なかなかシビュラとの連絡がつながらない……。 業を煮やしたカヨミは怒りの形相を滾らせながら、最後には「おい、コラ! シビュラ! 返事くらいせんか!」とライコウとヒツジを驚かすほどの迫力で怒鳴り散らした。 すると、ようやくシビュラから応答があった……。
『カヨミ……貴方、連絡をする相手の状況を想像してから怒鳴りなさい』
シビュラはまずカヨミのしつこい催促に苦言を呈してから話を続けた。
『……私達の作戦は成功したみたい。 でも、フルに見つかってしまった……。 アラトロンは私を庇ってフルと戦っている……とは言っても、貴方達が到着するまでフルの気を引かせているだけみたい。
貴方達は出来るだけ早くデモニウム・グラキエスの中央――「慟哭の雪原」へ向かいなさい。 私は雪原の入口で貴方達を待っている……』
デバイスから聞こえて来るシビュラの声が途切れる間、ライコウ達は一階へ到着し、地上へ続くターミナルへと急いだ。
――広大な通路が交差する要塞の一階を奥に進むと、巨大なターミナルが見えてくる。
幅数キロにも及ぶドーム状のターミナルは、壁面のそこかしこに動力が作動している事を知らせるランプが点滅を繰り返しており、複数の太いダクトが壁面を走っているという、まるでコンピュータの内部のような外観であった。 そんなメカニックなターミナルを奥へ進むと巨大な列車が複数台停車しているホームへと出る。 数百台の車両が一度に通行できる程の広大なホームには、給油施設や作業所なども建造されており、整備を終えた車両や、装備を整えたゼルナー達が次々と列車の中へ乗り込んで行った。
反重力装置によって浮遊している大型の列車はこれでもかと兵士たちを飲み込むと、まるで紙のように軽やかにスーッと動き出し、あっと言う間にホームの奥で口を開くトンネルの中へ消えて行く。 そして、遥か上部にある地上へと車両や人員を輸送するのであった――。
「――それで、地上へ出たらどうしたら良いんだ?」
ヒツジを背中に抱いたまま、目の前に停車している巨大な列車へ乗り込んだライコウが叫ぶ。
「地上へ出るとだだっ広い平野に出ます。 そこで一度隊列を整えてから、デモニウム・グラキエスへ向かうんです!」
ライコウに続いて列車に乗り込んだコヨミが答える――すると、コヨミの後ろからすぐにカヨミが続き、コヨミの言葉を継いでライコウに向かって叫んだ。
「――デモニウム・グラキエスへは狭く険しい氷山を越えて行かなければなりません! 私達が定期的に出撃しているお陰で複数ルートは確保しているものの、一気に進む事は出来ません! ディ・リター軍とエクイテス軍と二手に分かれて別ルートで侵入します!」
――カヨミとアセナ、そしてレグルスは常にデバイスで連絡を取り合っていた。 すでにレグルスとアセナはラヴィ達と共に列車に乗っており、そろそろ地上へ到着する頃だろう……。 ライコウとコヨミはカヨミの言葉に頷いて、無機質な金属製の座席へと座った。 ヒツジはライコウの背中から降りると、今度は席についたライコウの膝の上にチョコンと乗って、黙ったまま車内の様子を眺めていた――。
列車に乗り込んだライコウ達はしばらく黙っていた。 地上へ向けて出発した列車の広大な車内には戦車やらトラックやらが停車しており、多くのゼルナーが緊張した面持ちで気勢を上げたり、武器の整備をしたりしていた……。
「……ところで、ライコウ様、地上へ到着したらまず初めに『消磁装置』を作動させなければならない事はご存じですよね?」
ライコウの向かいの席に座っているカヨミが、肘置きにもたれ掛かりヒツジの頭を撫でているライコウに聞いた。
「……あ、ああ、もちろんじゃ。 ワシはそれを聞いていたからフォグに消磁機能がついているブーツを買ってあげたんじゃ」
隣の席に兜を置いたライコウは金色の髪を手で掻き上げると、カヨミの隣で眠っているコヨミを見つめた。
「――はい、消磁装置が無ければまともに動く事が出来ません。 故障すれば我々に勝ち目はありませんので、くれぐれもお気を付けください」
カヨミはそう言うと、ライコウがコヨミを見つめている事に気が付いてコヨミの方へ顔を向けた。
「コヨミ……今まで私は貴方に何もしてあげられなかった。 だから、今度こそ、私は貴方の為に……」
凛とした柳葉のような瞳に寂しげな光を称えるカヨミは、肘置きを枕にして眠るコヨミの頭をゆっくりと撫でた……。
(……カヨミ……君もまた今回の戦いで、その身を犠牲にするつもりなのか……?)
ライコウはそう思いながら、悲し気なカヨミの横顔を見つめた。
(……誰も、この戦いで死なないようにさせる事は不可能だ……。
だが……
出来れば皆に生き残って欲しいと思っている……。
……全く、自分勝手なものだな人間というのは……)
ライコウはそう思いながら、目を瞑りしばしの間眠りについた……。
――
デモニウム・グラキエスは大陸の最南端に位置する広大なエリアの総称である。 かつて人間が繫栄していた頃から変化の無い唯一のエリアであり、あらゆる生物を凍らせる吹雪が一日中吹きすさぶ極寒の地であったことから、人間達から『悪魔の氷』という不名誉な地名を名付けられた。 だが、逆を言えば、人間達が立ち入る事が出来ない唯一のエリアであったので、環境破壊に反対する自然保護団体からは『守護の氷』などと呼ばれていた。
デモニウム・グラキエスへ行く為には切り立った氷山を越えていかなければならない。 氷山をようやく超えた先には広大な雪原が広がっており、その場所がデモニウム・グラキエスと呼ばれる場所の中心であった。 大地は常に強力な磁場が発生しており、金属で造られた器械達が何も対策をしなければ、進むことすら出来なかった。
ゼルナー達が装備しているデバイスにはマナスを使用して消磁処理を行う事が出来る装置が内蔵されている。 その為、こんな過酷な環境でも自由に動くことが出来るのであるが、デバイスが故障したり、体内のマナスが尽きたりして消磁装置が稼働しなくなれば、瞬く間に極寒の雪原で身動きが取れなくなる。 そして、やがてフルに破壊されるか、そのまま凍り付くかして、降りしきる吹雪に埋もれてしまうのである……。
雪原にはこうした悲劇的な最後を遂げたゼルナー達が現在も大量に雪の中に埋まっていた……。 大抵のゼルナー達はマナスが尽きる前に自爆して四散する――フルの眷属にされないようにする為である。 ところが、アニマに傷もなく、マナスが多少残ったままで凍り付いてしまったゼルナーは自爆する事も出来ずにフルの眷属にされる事がある。
哀れにもフルの眷属にされてしまったゼルナーは、命懸けで氷山を越え、ようやく雪原へ辿り着いた仲間達に容赦なく襲い掛かる……微かにゼルナーであった時の記憶を残したまま……。
彼らは仲間達を破壊し、マナスや燃料を体内に取り込む為に仲間達を食らいつくす。 その時、彼らの瞳にはゼルナーであった時には流すことが出来なかった涙が流れるのだ……。
『人間と同じように涙で悲しみを洗い流したい……』
そう願っていたゼルナー達は、フルの眷属となり仲間達を食らう事でその願いが実現するのである――。
――雪原は今日も悲嘆にくれるゼルナー達の慟哭が何処からか聞こえて来る――
イナ・フォグは『アラフェール・ライラ』というスキルを使用して、自身とシビュラを濃い紫色の霧で隠してフルの目をごまかし、悲し気な声が響いてくる雪原をひたすら進んだ。 雪原はなだらかな坂になっており、磁力を無効化しているとはいえ、足を取られて思うように進む事が出来ない。 しかも、猛烈な吹雪が奥へ進もうとするイナ・フォグとシビュラを押し戻そうとする。 シビュラは猛吹雪に身体を取られ、押し戻されそうになるが、イナ・フォグに手を掴まれて何とか踏みとどまった……。
雪原の先にはまるで剣山のような鋭利な氷の森林が広がっていた。 なだらかな坂であった雪原は氷の森林に付く頃には勾配がさらに急になっていた……。
「この森を抜けると、氷に覆われた台地に出る。 そこが大陸の最南端みたい……」
シビュラは背中に小型のミサイル発射筒をリュックサックのように背負っていた。 小型と言ってもシビュラの背中からかなりはみ出したものであり、重量もそれなりにあったが、シビュラは特に重そうなそぶりを見せずにイナ・フォグに手を取られながら彼女と一緒に森林の中へ入って行った。
地面から飛び出した夥しい数の巨大な氷柱が吹き付ける風を防いでくれるのか、森林の中は吹雪が大分和らいでおり、イナ・フォグとシビュラは多少落ち着いて話が出来るようになった。
「……アラトロン、もう少し、コレ小さくできなかったの?」
シビュラは背中からはみ出る発射筒を見ながら、イナ・フォグに文句を言った。
「――仕方ないでしょ。 あまり大きな物体は『マスティール・エト・エメット』で小さな物体に変化させる事は出来ないわ」
イナ・フォグは桜色の髪を靡かせながら、後ろからついてくるシビュラを一瞥すると再び前を向いた。 彼女の絹のように白い頬は薄っすらと紅くなっており、桜色の髪の先端からはクロークに隠されたシビュラの左腕のように、真っ黒い瘴気が火花のように散っては風に飛ばされて行く――。
(アラトロンの髪に先端から発生している物質……あれは暗黒子ではないみたい。 もっと、何か別の禍々しい物質……)
シビュラがそう思いながらイナ・フォグの後ろ姿を見ていると、イナ・フォグが思いも寄らない質問をシビュラにぶつけた。
「それより、貴方『アザリア』の事は知らない?」
突然の問いにシビュラは思わず立ち止まった。
「……? 知っているみたい……」
「どこまで知っているの?」
シビュラが立ち止まった気配を感じ、イナ・フォグもまた立ち止まった。 イナ・フォグは前を向いたまま、シビュラの返事を催促するように背中から生える蝙蝠のような黒い翼をパタパタと揺らした。
「……どこまでって……私は彼女がボニーヤード……いえ、“お墓”の世話をしてくれる墓守だとしか……」
(アザリアはデバイスで素性を調べても何も表示されなかった。 シビュラ自身もある出来事からマザーの管理外に置かれている未登録ゼルナーであったが、アザリアはそもそも『アンノウン』という表示しかされず、器械なのかマルアハなのかすら分からなかった)
「そう……」
イナ・フォグは残念そうに「ふぅ……」とため息をつくと、再び前へ進みだした。 シビュラはそんなイナ・フォグに疑問を持ち、自分がそもそも聞きたかった質問をイナ・フォグにぶつけた。
「――もしかして、アザリアは貴方と同じマルアハみたい?」
アザリアの問いにイナ・フォグの足は再び止まった。 すると、イナ・フォグは後ろを振り向いてシビュラの顔をジッと見つめた。
「……そうよ。 でも、私は彼女の事をよく覚えていない。 彼女の本当の名が何なのかも……。 時々夢の中でその名を叫んでいる時があるけど、夢から覚めれば忘れてしまう……。
もしかして、貴方だったら彼女が自分の身の上を話しているのかも知れないと思って……」
イナ・フォグの赤い瞳は何処となくシビュラに憐憫の情を向けているような悲し気な瞳であった。
「何故、私だったらアザリアが自分の身の上を話すだろうと期待したの?」
シビュラは不思議に思った――アザリアが身の上話をするくらい自分を信頼しているとは、アラトロンも思っていないはずだと――。
すると、イナ・フォグはシビュラが予想しなかった言葉を返した。
「貴方が私達マルアハを憎んでいるからよ。 もっとも、それはアセナ達器械の一部にも言えることだけど……。 ただ、貴方の恨みは海よりも深く、闇よりも暗い。 そんな貴方の感情をアザリアも感じていたはずだわ。
だから、アザリアは貴方に全てを話すのではないかと思ったの。
マルアハに憎しみを持つ者を誰よりも悲しむ故……その誤解を解きたいが為にね」
「……」
シビュラはイナ・フォグの声に言葉が詰まった。 まるで、イナ・フォグが自分と出会ってから今までの短い間で、すでに自分のココロに隠した全ての感情を見透かしていたかのようにさえ感じた。
――シビュラは確かにマルアハを憎んでいた。 ファレグに“大切なヒト”を殺されて以来、フルだろうがベトールだろうが全てのマルアハを恨んでいたのだ――。
だが……
「……私は確かに貴方の言うとおり、マルアハを憎んでいる……。 ただ、バハドゥルでオフィエルと対峙して以来、何故だかその憎しみが薄らいでいるように感じる。
それが何故なのか私にも分からない。
だから、貴方とこうして行動を共にしている。 私がマルアハを憎んでいれば貴方となんて一緒に行動しないみたい」
シビュラは自分のココロの変化がどうして起こったのか、何となく想像出来ていた事をイナ・フォグには言わなかった。
(ライコウ……彼を見ると私のココロの中で燃え盛る瞋恚の炎に清浄の水が差すように感じる)
――ライコウもシビュラにとっては全く素性が分からないゼルナーであった。 デバイスで調べてもアザリアのように全く情報が表示されないからだ。 しかし、ライコウの傍にいると、何故だか“妙な懐かしさ”がココロに染みる。 そして、それはマザーやアザリアと会った時も同じであった。 二人に会うと彼女は何故だか懐かしい気持ちになるのであった――。
イナ・フォグはシビュラの言葉に少し口角を上げて微笑を洩らした。
「そう……。 貴方が過去に一体何があったのかは、いずれ貴方が話してくれると思うからここでは聞かないわ……。
私はアザリアが何者であったのか、記憶を取り戻したかっただけ……」
イナ・フォグはそう呟くと「……さぁ、もう行きましょう――」と白いポンポンのついた紫色のブーツで雪を踏みしめ、再び歩き始めた。
――
――マルアハには二つの名前がある。 イナ・フォグの話では、ハギトやベトールと言った器械達の間で知られている名は、かつて人間達が彼女達に名付けた俗称との事であった。
『ハギト、フル、ベトール、ファレグ、オフィエル……そして、アラトロン……。
これらの名は人間がかつて崇拝していたという天使の名だったそうよ』
イナ・フォグはシビュラにそう答えたが、その時のイナ・フォグは何かを思い出そうとしているように目を瞑り、少し首を傾げていた様子だった。
また、彼女は『リリム』という名を冠した別名について、シビュラに詳細を語らなかった。 それは、イナ・フォグ自身も、何故、自分がリリム=イナ・フォグと言う名なのか忘れてしまっていたからだ。 だが、そんなイナ・フォグでも、かつて仲間であったマルアハ達の名前はかろうじて憶えていた――。
『……すると、ファレグの本当の名は一体なんというの?』
シビュラは自分が一番知りたかった仇敵の本当の名を、イナ・フォグに聞いてみた。 すると、イナ・フォグは存外あっさりとシビュラにファレグの本当の名を伝えた。
『リリム=イナ・ウッドよ』
『……イナ・ウッド……』 (それが、私が破壊するべきファレグの本当の名……)
シビュラはイナ・ウッドの姿を思い出すと、ココロの中で燻ぶっていた憎しみの火が再び燃え上がるのを感じた。 そして、イナ・ウッドを消滅させるまで決して死にはしないと固く誓ったのであった……。
……
イナ・フォグとシビュラはそんな話をしながら氷柱の森林を抜けて、狭い台地へ出た。 分厚い氷に覆われた台地は吹雪が吹いていなければさぞ見晴らしが良い場所であったに違いない。
凄まじい風が吹き荒れる台地を目の前に、シビュラは自分が進んできた道程を振り返る――すると、随分と長く坂道を登って来ていた事に気が付いた。 遥か彼方に先ほど通過した氷柱の森林の入口がうっすらと見える。 その先に広がる雪原に至っては薄暗い闇で覆われて全く地表を確認する事すら出来なかった。
――南から吹く風は氷の山脈に覆われた雪原へ吹き込むと、行き場を無くして渦のようにグルグルと回転しながら雪に混じった埃を巻き上げる。 その為、上空から見ると雪原は常に薄暗い雲に覆われているように見えるのであった――。
(もしかしたら、フルの眷属と成り果てたゼルナー達の泣き声も、行き場を失った雪原の風が強引に氷の山脈の間から逃げ出す時に鳴り響く風の音なのかも知れない……)
シビュラはそんな風に思いながら再び前を向いた。
まるで氷山を水平に切り落としたかのような氷に囲まれた台地――目を塞いでしまうほどの猛吹雪がシビュラの身体を押し戻そうとする。 一般器械であれば、この風だけで吹き飛ばされて氷の森林へ転げ落ちて行くことだろう……。
シビュラはデバイスを起動させて奥の様子を確認する――すると、数百メートル先は崖になっており、切り立った崖の下は吸い込まれそうな程真っ黒な海が広がっていた……。
「やはり、ここが大陸の最南端みたい……」
フィールドに映し出されれる海は、うねりを上げて大きな波を絶壁に打ち付けている。 デバイスに表示される成分分析では、とてもじゃないが器械が入れるような水質ではなかった。 恐らく、誤ってこの海に落ちた器械は、あっという間に錆果てて海の藻屑へと消えていくだろう……。
まるで冥界へ続いているのかのように思える程、恐ろしく、不気味な海の様子に、さすがのシビュラも「早く任務を遂行してこの場から離れたい」と顔を顰めた……。
――二人はこの場所に『ミサイル発射筒』を設置した。 発射筒には何の兵器だか分からないが、すでにミサイルが一基挿入されていた――。
(二人はこのミサイルをフルに向けて打ち込むつもりなのだろうか? しかし、二人がこの場から居なくなった時、誰がこのミサイルを発射させるのか? 遠隔で発射させる事でも出来るのだろうか? 二人の考えている事は今のところ不明であった。
それに、この場所からではまるで灰色の渦のようにしか見えない雪原に、フルのみを狙ってミサイルを撃ち込む事など容易ではないはずだ。 風は幸いこの場所から雪原に向かって吹いており、ミサイルが風に乗って速度を上げる事は出来そうだが、そもそも、こんな小さなミサイルがフルに有効かどうかも甚だ疑問であった……)
「……さて、後は私達が戻れば……」
イナ・フォグとシビュラが任務を終えて、氷柱の森林を再び下ろうとした――
――その時だった。
薄暗い吹雪に覆われた雪原から、何者かが轟音を立てて二人に向かって迫って来たのだ――!!
「――!? アレは――!!」
――イナ・フォグはミスを犯していた。 すでに、イナ・フォグが使用していた『アラフェール・ライラ』の効果が大分前から切れている事に気が付いていなかったのである。
恐らく、薄暗い吹雪の中を歩いてきた二人は、紫の霧が霧散しても視界が良好になる事も無かったから気づかなかったのだろう。 特にイナ・フォグは自分の記憶を思い出そうと意識を別に集中していた事もこの失態の原因であったのかも知れない――。
紫の霧はすでに霧散しており、イナ・フォグとシビュラはフルの索敵範囲にその姿を曝け出してしまっていた……。
当然、フルは二人を発見し、凄まじい速度で『慟哭の雪原』から二人のいる崖の上へと迫ったのである。
こうして、イナ・フォグとフルは数百年ぶりに対峙する事となった。
――
イナ・フォグとシビュラに向かってフルが近づいている時――
――シビュラは再び紫色の霧を纏い、イナ・フォグから離れて逃げるように指示された。
「――シビュラ! 貴方は急いで雪原の入口まで戻りなさい! 途中でゼルナー達に連絡を取りながら大至急戦いに参加するように伝えるのよ――!
――!!」
イナ・フォグが叫び終わるや否や、彼女の目の前に奇怪な銃を構えた灰色の翼を持った天使が現れた。
「ボクの聖域を荒らす者……。 ボクはキミを排除する」
――イナ・フォグの目の前で飛行しながら銃を向けるマルアハ『フル』――少しあどけなさが残る顔は、人間でいう頃の14、15歳くらいの少女であろうか……。 一見大きめに見える黒鉄色のヘルメットを被り、肩まで掛かる灰色と桜色が混じった髪を靡かせていた。
少女はヘルメットから出た前髪で右目を常に隠しており、あどけない左の眼で奇妙な銃をイナ・フォグに向けて構えている。 この奇妙な銃は、腐敗した内蔵のような赤黒い色をしており、まるで銃というよりも銃の形をした生物のようであった。 銃身全体がドクドクと胎動している悍ましい銃は、醜悪な何かを生み出そうとするように気味の悪い口の形をした銃口を「クパァ……」と開き、イナ・フォグを睨んでいた。
フルは人間の軍人が着るようなオリーブ色のM3Bと言われるジャケットを羽織っており、下半身も同じく軍人が着るようなダボダボの軍パンを履いていた。 ところが、その軍パンは膝の辺りから破けており、膝から下は可憐な少女らしからぬ、太く逞しい熊のような脚を見せていた――。
「バット・コル――!」
フルが奇怪な銃から弾丸が発射しようとする間際、イナ・フォグが叫んだ呪詛によりフルの脳内に軽やかな音色の鐘の音が響き渡った――。
「ぬっ――!?」
フルは一瞬、その音色に気を取られた。 彼女としてはほんのコンマ数秒ほど気を取られただけであったに違いない。 だが、フルが再びイナ・フォグに目を向けると、イナ・フォグはいつの間にか満月のような球体を目の前に出現させて、禍々しい鎌を握っていた。
「小癪な――!」
フルは知らぬ間に武器を手に持ったイナ・フォグにも動じず、生き物のように脈を打つ銃から目玉の形をした銃弾を発射した――。
無数の目玉は、まるで引きちぎられたかのように血を滴らせてイナ・フォグに迫る――。 すると、イナ・フォグは手に持った”骨の鎌”を回転させて無数の目玉を弾こうとするが、目玉が鎌に触れた瞬間――
「――ドカンッ――!!」
と凄まじい爆発が起きて、イナ・フォグの身体を空中へ吹き飛ばした。
「くっ――!!」
イナ・フォグは翼を開き体制を整える。 だが、フルはすでに次の行動に移っており、イナ・フォグの目の前でまるで熊のような大きな手の平を広げ、イナ・フォグを叩き潰そうと腕を振り上げていた――。
「――溶けろ!」
フルが腕を振り下ろすと同時に、イナ・フォグは咄嗟に鎌を振ってフルの一撃を防ぐ!
ところが……
「――!? なっ――!?」
フルの一撃を防いだものの、イナ・フォグの大鎌はまるで溶鉱炉に投げ入れた鉄のようにドロドロに溶けていったのだ……。
驚愕するイナ・フォグの一瞬の隙を逃さず、フルは空中で逞しい脚を振り上げて、イナ・フォグの腹に強烈な蹴りを見舞った――!
「――ぐぅぅ――!!」
イナ・フォグは苦しそうに腹を抑えながら旋回し、フルを回り込むようにして雪原を背にし、フルを睨みつけた。
「ソルベ・エト・コアグラ……ボクの手に触れる全ての物体は液体と成り――
――再び形を成してキミに襲い掛かる」
無表情のまま不可解な言葉を吐くフルは、まるでイナ・フォグをただの侵入者だと思っているかのようだ……。
フルに溶かされたイナ・フォグの大鎌は灼熱の液体になったかと思うと、フルの言葉通り再び固まって鎌の形を成した。 だが、人間の骨のような柄のはずだった鎌は、まるでフルが背負う銃のように気味悪い生物のような柄に変わっており、全身を震えさせながらフルの前にフワフワと浮かんだ。
――そして、生きているかのように三日月型の氷のような刃の先端をイナ・フォグに向けると――
”前の主”を真っ二つに切り裂かんと襲い掛かった――!




