救出
ファルサの自宅の一階には、二階に上がる階段の奥に広い応接間があった。 その応接間でファルサ達はジャーベから、自分達がいない間に一体何が起こったのか聞いていた。
まず、ジャーベはシャヤを連れ去られてしまった事をファルサに詫びた……。 ファルサは謝罪には及ばないと、逆にジャーベが無事であった事を不幸中の幸いだと言ってジャーベを元気付けた。
「ジャーベ、俺がいない間に何が起こったんだ?」
応接間のソファーにはファルサが中央に座っており、ファルサを間に挟んでディー・ディーとネマが緊張した面持ちで座っていた。
ジャーベは小さなテーブルを挟んで三人と向かい合わせで大きなソファーに一人で座っており、俯いたまま申し訳なさそうに目を伏せていた。
「……私とシャヤはファルサ様の言いつけの通り、地下でイスに座ってファルサ様の帰りを待っていました。 ところが、ファルサ様が出発してから、まるでファルサ様がいなくなったのを見計らったように、屋敷内の警報が鳴ったのです」
ファルサの自宅は登録している者以外が勝手に屋敷に侵入すると、警報が鳴るようになっていた。 ジャーベとシャヤは警報音が鳴り響いたことに驚き、慌てて物陰に身を隠した。
「……私とシャヤは印刷機の裏に隠れたのですが、すぐに『ヒタヒタ……』と水溜まりを歩くような不気味な足跡が聞こえてきました……」
エントランスは水の入ったバケツをひっくり返したように水浸しになっており、その水浸しから泥のような足跡が真っすぐ地下へと延びていた。
「……私は恐る恐る印刷機の裏からドアの様子を覗っていました。 もちろん、鍵はかけていましたよ。 もし、ガチャガチャとドアをこじ開けようとする音がしたら一旦中央処理装置を休止状態にして、電磁波を出さないようにしようと思って……。 シャヤにもそう言っておきました」
器械はあらかじめ起動予約を登録しておけば、記憶を外部記録装置に一時的に転送し、中央処理装置を休止状態にして数分から数時間の間、身体機能を停止する事が出来た。
身体機能を停止すれば、身体からは感知できないほどの極僅かな電波しか発生せず、監視装置に感知されにくくなる。 デバイスを持たない器械達が緊急事態を回避する為にしばしば使用される機能であった。
ドアの上部は摺りガラスがはめ込まれており、ドア越しに侵入者が近づけば判るようになっていた。 ジャーベは何者かがドアの前に立ち、強引にドアをこじ開けて部屋へ侵入しようとしたタイミングで身体を休止状態にし、侵入してきた者の監視装置の網を回避しようと考えたのだった。
しかし、そもそも、侵入者がエントランスから真っすぐ地下へと向かっている時点で侵入者の目的が地下にある事に気づくべきであった。 確固たる目的をもって地下へ向かった侵入者が、誰もいないからと言ってそのまま踵を返すとは思えない……。
ジャーベが息を飲んでドアを見つめる中、侵入者はドアの向こうで黒い影を漂わせながらユラユラと揺れていた。
ジャーベは侵入者がドアを開けようとすれば、すぐさま身体を休止状態にしようと用意し、隣で震えているシャヤに目配せをして合図をした。
ところが……
「侵入者はドアを開けようとする仕草も見せず、パッと人影が消えたかと思ったら、突然、机が置いてあった床から水が湧いてきて……
机が床に沈んでしまったんです!」
……ファルサは机が無くなっていたかどうか記憶になかったので、地下へ駆けつけた時の記録を外部記憶装置から取り出して、デバイスで確認した。
すると、ジャーベの言った通り、机が忽然と消えて無くなっており、しかも、机が無くなった場所がエントランスと同じような水溜まりが出来ていた事が判った。
ファルサはシャヤの事を心配するあまり、周囲の状況の事に全く注意を払っていなかったのだ。
「うーん……。 ジャーベ、その話は本当か?」
ジャーベのような一般器械は記録装置を付けていない。 構造上、付ける事は可能だが、マザーが許可しないのである
したがって、ジャーベの内部記憶だけが頼りであったが、ファルサはジャーベの記憶力――メモリの性能を信用していなかった。
「ほ、本当です! 私は記憶力が悪くても、今回の事だけはハッキリ覚えていますから!」
ジャーベはそう言うと、怯えた様子でポツポツと言葉を続けた。
「……そして、机がポチャンと水溜まりに沈んだ後……。 何だか、ヒト型の泥のような物体が……水溜まりから湧き上がるように出て来たんです……」
ファルサとディー・ディー、ネマの三人は、お互い顔を見合わせて目を丸くした。 ジャーベはシャヤがレヴェドに攫われたと言っていた。 彼はその泥のような物体を何故、レヴェドだと分かったのか? 三人はその疑問を口に出さないまま、取り敢えず、ジャーベの話を聞き続けた。
「……さすがに私はあまりの恐ろしさに悲鳴を上げました。 そりゃ、もう我を忘れて大声で――!
もちろん、その物体は私の悲鳴に気が付いて、印刷機の方へとゆっくり近づいて来ました。
――すると、その泥ニンゲンから、聞き覚えのある忌々しい声が聞こえて来たんです!」
泥のような物体は、まるで身体が薬品でドロドロに溶けている人間のような恐ろしい姿であった。 ジャーベはその泥のような物体を泥ニンゲンと言った。
そして、その泥ニンゲンの声が、あの忌々しいレヴェドの声だったと言うのだ。
「――恐らく、あの泥ニンゲンはレヴェドが創った機械だと思います。 どうやって床に沈んだり、上がったりするのかは分かりませんが……たぶん、何かの液体金属で出来ているのでしょう……」
ファルサにとってはジャーベの言う『泥ニンゲン』の詳細などどうでも良かった。
「……その泥ニンゲンが一体何故、シャヤを連れ去ったんだ?」
ファルサの問いかけに、ジャーベは頭を振って、ソファーに座りながら足をバタつかせた。
「うぅ、そんな事、私にも分かりませんよぅ! でも、泥ニンゲンはレヴェドの声でシャヤの型名を叫び――『出てこないとお前の主人を破壊する』と脅して来たんです!」
「――何だと!?」
ジャーベの言葉に、ファルサは思わず「――そんな脅迫に応じる必要は無い!」と目に前の机をドンッと叩いた。
ファルサを挟んで座っていたディー・ディーとネマが、ファルサの激昂した様子に飛び上がり、ピコピコと橙色のライトを光らせた。
ジャーベもファルサの剣幕に驚いて、両手を前に突き出して後ろに仰け反った。
「――ひえっ! わ、私もそんな脅迫に応じる必要は無いと思いました。 でも、シャヤは、レヴェドの声に反応して慌てて飛び出してしまって……」
「ぐぬぬ……」
ファルサは顔を真っ赤にして握りこぶしをつくり震えている……。
怒りの形相のファルサに、ジャーベは申し訳なさそうに目を伏せて「……すいません」と呟いた……。 すると、ファルサは机を睨みつけながら首を横に振った。
「……ジャーベ、さっきも言った通り、君が無事だった事がせめてもの幸運だ。 シャヤは俺が必ず連れ戻す。 だから、君が謝る必要なんてないんだ」
ファルサはゆっくりと顔を上げ、ジャーベに微笑みかけた。 無理に笑顔を作っているようなぎこちない顔であったが、ジャーベはファルサの顔を見て「グスッ――」と涙ぐむように鼻をすすり、涙も出せないのに「ううっ、私も手伝います……」と柔らかそうな水掻きの付いた手で大きな瞳をゴシゴシと擦った。
すると、ディー・ディーとネマもシャヤの救出を手伝うとファルサに願い出たが、ファルサは三人の申し出を断り、ソファーから立ち上がった。
「君達がそう言ってくれるのは有難い。 だが、相手はレヴェドだ。 恐らく、セヴァーとシビュラだってヤツと一緒にいるだろう……。 それに、妙な泥の物体もレヴェドの配下だとすると……ゼルナーでなければ、到底太刀打ちできない。 君達がいると、かえって足手まといだ」
三人はゼルナーでは無く一般の器械である。 ファルサの言う通り、一般の器械がゼルナーと戦うなど自殺行為だ。 三人もそんな事は分かっていた。 だが、シャヤは三人にとっても大切な仲間である。 たとえ、自分たちの性能がゼルナーの足元にも及ばないとしても、シャヤを救いたいと思う気持ちは抑える事は出来なかった。
「――いくら、ファルサ様がゼルナーだからって、一人じゃ無理よ!
たとえ、私達が戦えなくても、人数さえいれば何かの役に立つじゃないの!」
ディー・ディーがそう言ってファルサの言葉を否定すると、ジャーベもネマも「うん、うん」と頷いて、三人もソファーから立ち上がり、どうあってもファルサの言う事は聞かないと言わんばかりにファルサの瞳を真っすぐに見つめた……。
「うーん、仕方ない……。 それじゃ、時間が無いから皆で一緒に行こう。 だが、危険を感じたら真っ先に逃げるんだぞ! 俺の事は置いて行っても構わないから!」
ファルサは三人の意思の固さに説得を諦めた。 その代わり、三人には自分の身を護る事を第一に考えるように伝えた。
三人もファルサの言葉に頷いて、皆一斉にソファーから立ち上がった。
「――よし、それじゃ、すぐに武器の用意をしよう!」
「「「ハイ――!!」」」
ファルサの声に三人が決意漲る返事を張り上げた。
すると――
『――ファルサ、貴方達が行く必要はありませんよ!』
ファルサの頭の中から突然、マザーの声が響き渡った――!
――
「ファルサ様、どうかしたんですか!?」
ジャーベ、ディー・ディー、ネマの三人は、ファルサが急に金縛りに掛かったかのように動かなくなった事に驚き、ファルサの周りへ集まった。
「ファルサ様……?」
「……」
いくら声を掛けても返事をしないファルサ……。
ディー・ディーは瞳を青色に点滅させながら、恐る恐るファルサの顔を覗き込む……。
「――ひえぇ、何か止まってるぅ!」
目を見開いたまま、口から呼吸をしていないファルサに仰天して腰を抜かすディー・ディー……。
ディー・ディーの悲鳴に続いて、ジャーベとネマも慌ててファルサに声を掛けた。
「ファルサ様、しっかり――」
「――ファルサ様!!」
まるで、機械が電池切れでも起こしたような様子で、微動だにしないファルサ……。 三人は、ファルサの体を揺すったり、頭を引っぱたいたりしてファルサに呼び掛けるが、ファルサは目を見開いたまま身動き一つしなかった……。
その間、ファルサの意識はマザーの創り出した論理空間へ飛ばされていた……。
……
気が付くと、ファルサは霧の立ち込める紫色の床が広がる空間にいた。 その空間はイナ・フォグが創り出す異空間によく似ていた……。
「ここは……?」
ファルサは訳が分からずに、目の前に広がる光景に目を白黒させている……。
すると、マザーの声がファルサの耳元から聞こえて来た。
『ファルサ、貴方は私との約束を反故にする気ですか?』
「……反故? そんな事、するつもりありません! しかし、シャヤが――」
マザーの言葉にファルサは慌てて反論するが、マザーはファルサの言葉を遮った。
『――シャヤの事は心配要りませんわ。 私が保護します』
マザーはそう言うが、ファルサは納得せずに「――しかし!」と反論しようとする。
ところが、ファルサが口を挟んだ瞬間――眩い光がファルサの意識が存在する空間へ放たれ、ファルサは思わず目を瞑った。
ファルサが目を瞑ると、突然、暖かい光に包まれたヒトの気配が目の前に現れた。
そして――
ファルサの顔にその暖かい光が近づいたかと思うと、ヒトの手のような感触が頬に伝わってきた……。
『……ファルサ、貴方は私の言う事を聞いてアラトロンをこの地へ連れてきなさい。 二度は言いません。 もし、これ以上、頑是無い事を言うのなら――
――シャヤの望みを叶える事は出来ません』
その声は、間違いなくマザーの声であった。 だが、いつものような口調では無く、少し冷然とした様子であった。 そして、その声はファルサの頬を撫でている手の温もりの先――微かに呼吸が聞こえるヒトの口から発せられたものであった。
『いいですね』
声は再びファルサに念ついて確認を入れた。 ファルサは強引に目を開いて目の前にいる者の姿を見ようと瞼に力を籠める。 しかし、何故か目を開こうと力を籠める程、逆に全身の力が抜けて行くような感覚になり、ファルサは目を開けないどころか、身動き一つ取れなかった。
(お、恐らく……目の前にいる者こそ、マザーの本当の姿……。
しかし、何だ、この感覚……?)
マザーの言葉は穏やかでありながらも絶対的な威圧感を孕んでおり、有無を言わさずに首肯せざるを得ない強い魔力が宿っていた。
「……はい、承知しました」
承知などするはずも無い……。 だが、ファルサはココロの中でそう思っていたにもかかわらず、得体の知れない強制力に支配され自然と口から言葉が漏れた。
『ふふふ……。 いい子ね……』
ファルサの頬から暖かい手が離れ、今度はその手がファルサの頭へと近づき、ファルサの頭を優しく撫でた。
「――!? こ、これは……」
ファルサはそのあまりにも心地良い感触に、先ほど強制的に言わされた言葉を否定する気がすっかり失せてしまった。
『さあ、貴方は早くディ・リターへと向かいなさい。
私はレヴェドからシャヤを奪い返す為に、レヴェドの下へ急ぎますわ――』
マザーはそう言い残すと、ファルサの頭から手を放した。
――すると、ファルサの体から急に力が漲ってきたように感じ、ファルサは慌てて目を見開いた。
……
……ファルサが目を開くと、そこはあの不思議な紫色の床が広がる空間では無く、応接間のソファーの前であった。 ジャーベ、ディー・ディー、ネマの三人はファルサを取り囲んで、焦燥した様子でしきりにユサユサと体を揺すっていたが、ファルサが体をピクリと動かした事に驚いて、三人でファルサの顔をジッと見つめていた……。
「……ああ、どうしたんだ?」
ファルサは不思議そうな様子で自分を覗き込んでいる三人を見る……。
「ちょっと、ファルサ様! 『どうしたんだ?』じゃないでしょ! 急に故障したみたいに動かなくなって――!
みんな心配したんですから、全くぅ!」
ネマが触覚を赤色にピコピコ光らせながらファルサに怒ると、ジャーベは心配した様子で銀色の腹を手で撫でながら、ディー・ディーの顔に目を遣った。
「ファルサ様、一体どうしたんですか? どこか、体の調子でも悪いんじゃない?」
ディー・ディーがジャーベの心配そうな様子を代弁してファルサに聞くと、ファルサは「そんな事は無い」と頭を横に振りながら言葉を続ける――
「――マザーに会った時に約束していた事を思い出したんだ。 俺はディ・リターへ行って、アラトロンをここへ連れて来なきゃならない……」
三人の前で突拍子の無い事を口走るファルサ……。
「「「――えっ!? ア、アラ……ハァ――!?」」」
『アラトロン』などという不穏な言葉が耳に飛び込んで来た三人は、床から一メートル程飛び上がり、慌ててファルサにその目的を聞いた。
「――ええぇっ!? アラトロンって、あのマルアハの――!? 何で、そんなバケモノを連れて来ないといけないんですか!? アンタ、一体何考えてるんですか!」
ジャーベは酷く動揺しているようで、ファルサに対してぞんざいな口を利いた。 すると、ディー・ディーが「それに、アラトロンはライコウ様というゼルナーの手下になって、アイナでハギトと戦っているはずですよ」とジャーベの言葉に口添えをし、さらに言葉を続ける――
「――アラトロンを連れて来るのに、何故、ファルサ様がディ・リターへ行かなきゃならないんです?
それに、ライコウ様の許可を得ずに勝手に連れて来る訳にも行かないんじゃないですか?」
ディー・ディーの疑問は尤もであった。 そもそも、アラトロンとライコウがハギトに勝てるとも限らない。 それに、先日の地震はハギトが引き起こしたものだという事が噂されていたので、アイナでは一進一退の攻防が繰り広げられているに違いない……。
「……うん。 だから、アラトロンの他にライコウ殿も一緒に連れて来いとマザーが言うんだ……。
それに、マザーの話では、もう、ライコウ殿の率いる連合軍がハギトを討伐するのは時間の問題だと……」
「「「えーっ!! それって、大スクープじゃないですか!?」」」
もし、ディ・リターとハーブリムの連合軍がハギトを討伐すれば、バハドゥルを揺るがす大事件である。 ジャーベ、ディー・ディー、ネマの三人はファルサの言葉に驚愕し、興奮のあまり身を震わせた。
「それって、ホントなんですか!?」
ディー・ディーが黄色く瞳を光らせると、ファルサは「恐らく、間違いないだろう」とその根拠を説明しだした。
「――先日、大聖堂の近くでゼルナー達の話を盗み聞きした時も同じ事を言ってたんだ。 バハドゥルの管理者達だって全く状況を把握していない訳じゃない……。 恐らく、レヴェドとシビュラが最近バハドゥルを不在にしていたのも、奴等はファレグと戦っていた訳ではなく、アイナへ行って戦況を監視していたんだと思う……」
ファルサの推測は一部誤っていた。 確かに、シビュラというゼルナーはレヴェドの命令で、アイナでディ・リターの兵士に紛れ込んで、スパイ活動をしていた。
ところが、レヴェドはアイナには行かずにマルアハ『ファレグ」と戦っていたのである。 そして、その時、ファレグからシャヤに係わる『ある事実』を聞かされて、慌ててファレグとの戦闘を切り上げてバハドゥルへ戻って来たのであった。
「……マザーはライコウ殿がハギトを倒せばディ・リターへ一旦戻るはずだと言っていた。 だから、俺達が先回りしてディ・リターへ行って、ライコウ殿とアラトロンが戻って来たら二人をバハドゥルへ連れて来いと言ったんだ」
――ファルサの説明で、何故、ファルサがアラトロンを連れて来る為にディ・リターへ行くのかは分かった。
だが、そもそも、ファルサが何故、アラトロンをバハドゥルへ連れて来なければならないのか?
「……でも、ハギトを倒したとしても……何で、ファルサ様がアラトロンを此処へ連れて来ないといけないんですか?」
ネマがその疑問を口に出すと、ファルサは再び突拍子の無い事を言って三人を仰天させた。
「アラトロンとライコウ殿にレヴェドを破壊してもらう為さ」
「「「――ええっ!? 何で二人がそんな事をしてくれるんですか!?」」」
再び一メートル程飛び上がって驚く三人。 ファルサはイライラした様子で、三人との問答を切り上げようと「――ともかく! マザーが俺にそう命令するんだから仕方ないんだし、マザーがライコウ殿に話を通してくれると言ってるんだ!」と言って、スタスタと応接間の出入り口まで近づいてドアを開けた。
「――ちょっと! それで、シャヤはどうするんですか?」
応接間を出ようとするファルサをディー・ディーが呼び止めた。
「……マザーが『シャヤを必ず救う』と俺に約束してくれた」
「そ、それって……マザーがレヴェドと戦うって事……?」
ディー・ディーは目から橙色のライトを光らせながら、恐る恐るファルサに聞いた。 すると、ファルサはイライラした様子で「――そんな事、知らないさ! だが、マザーはシャヤを助けると言った。 だから、俺はマザーの言葉を信じるしかないんだ!」と後ろを振り向いてディー・ディーの顔を睨みつけた。
「……信じるって言ったって……」
ディー・ディーはファルサの剣幕に困った様子で言葉に詰まってしまい、二人の間に険悪な空気が流れた……。
――すると、突然、ネマがファルサとディー・ディーの間に割って入り、その場を収めようとディー・ディーの方へ顔を向けた。
「まあ、まあ、ディー・ディー。 ファルサ様がそこまで言うんなら、シャヤはマザーを信じてお任せしようよ!」
ネマは触覚をピョコピョコ動かしながら、話を続ける――
「――僕達はマザーに会った事も無いし、声も聞いたことが無い。 でも、マザーはこの世界に器械を生んだ神様なんだよ。 神様がシャヤを助けてくれるっていうんだから、間違いないよ」
ネマの説得にディー・ディーは「うーん……」と目のようなライトをチカチカと光らせて、腕組みをした……。
(……でも、何でマザーは自分でアラトロンに頼まずに、わざわざ……)
ディー・ディーは分からない事だらけであったが、これ以上、ファルサに疑問をぶつけると恐らくファルサが怒り出すだろうと思い、ネマの言う通り、ファルサに全てを任せることにした。
「……分かったわ。 ファルサ様の好きなようにすれば良い……けど、私達はこれからどうすれば良いの?」
ディー・ディーに問いに、後ろで三人の様子を見つめていたジャーベが「――私達もファルサ様と一緒にディ・リターへ行こう!」とペタペタと足を踏み鳴らす。 しかし、ファルサは首を横に振った。
「――いや、ディ・リターまでの道は凶暴なショル・アボルの住処がある。 それに、ゼルナーじゃない君達が地上に出る為には、出入り口にいる管理者達を何とかしなければならない……」
ファルサが否定的な意見を告げると、ジャーベは踏み鳴らしていた足をさらに激しくバタバタと動かし、地団太を踏んだ。
「――そんなの大丈夫ですよ! 管理者達はさっきの揺れで自分たちの家を心配して、出入り口の警備なんてそっちのけで自宅へ帰ってますよ!」
ジャーベはどうしてもファルサと一緒にディ・リターへ行きたいようだった……。 すると、ジャーベの様子を横目で見ていたネマが、ジャーベの希望通り、彼をディ・リターへ連れて行ってあげて欲しいとファルサに願い出た。
「解放同盟の仲間達には僕とディー・ディーが連絡を取って待機させておくから、ジャーベがいなくても大丈夫ですから」
ネマの意見にディー・ディーも頷いて――「ジャーベの能力は道中できっと役に立つから」とファルサを説得した。
「……うーん、分かった……そうしよう」
ファルサは不承不承、ジャーベを連れて行くことを了解した。 すると、ディー・ディーとネマの後ろから様子を見守っていたジャーベは思わず四つん這いになり、ピョンと宙返りをした。
「えっ、ホントですか――!?」
ジャーベはかねてから、ディー・ディーとネマに「地上へ行きたい」と夢を語っていた。 二人はジャーベに夢を叶えさせてあげたいという思いから、ファルサに無理をお願いしたのであった。
ジャーベは驚きのあまり思わず宙返りしてしまったが、シャヤが捕らわれの身となっている状況の中で明け透けに喜びを表現する訳にも行かず――すぐに立ち上がって飄々としたフリをした。
「ディー・ディー、ネマ! 私は君たちの期待に応えて、ファルサ様と一緒に必ず『あのバケモノ』を連れて来るから!」
ジャーベは二人に頼もしい事を言って、胸を張った……。
……
大海に憧れた井の中の蛙は、いよいよ大海原へ旅立つ事となった。
バハドゥルに住む多くの器械は、地上なんて興味も無かった。 バハドゥルにいれば、何不自由なく暮らす事が出来たので、ショル・アボルが闊歩する危険な地上へ行こうとするなど考えられない事であった。 ジャーベが仲間達に自分の夢を語った時も、彼は皆から酔狂な奴だと鼻であしらわれた。
『お前のような性能の低い器械が、わざわざ地上へ出たところでショル・アボルのエサになるだけだ――』
『アイツは頭のネジが外れて何処かへ飛んでいっちまってる――』
皆、ジャーベの夢を否定する者ばかりであった。 だが、ディー・ディーとネマは彼の夢を応援してくれた。 「いつかチャンスが来たら、地上へ行く事に協力してあげる」と約束してくれた。
――二人はその約束を果たす事が出来たのだ。 本当なら、ジャーベは二人に両手を付いて感謝したかったに違いない。 だが、シャヤが捕らわれの身となった時に、自分の夢が叶ったと言って喜ぶ訳には行かず、二人に目配せをして泰然とした様子を見せたのであった。
二人はそんなジャーベの気持ちを良く分かっていた。 二人もジャーベの夢を叶える事が出来たのを内心喜んでいた。
だが、二人は同時に不安も抱いていた。
ジャーベの体には何の武器も無く、一般器械としての性能も並みである。 彼一人では、ウサギのような小さなショル・アボル一匹ですら太刀打ち出来ないだろう……。 ジャーベ自身も自分の性能が低い事は百も承知であった。
しかし、彼はどうしても地上へ出たかった――それが、自分の夢であったから。
危険を顧みず、自分の夢を叶えようと大海原へ飛び出した井の中の蛙――危険に飛び込もうとする彼を無謀だと笑う者もいるだろう……。
しかし、無謀とは己の力も理解せず、危険に飛び込もうとする者の事を言う。 自分の無力さを理解した上で危険に立ち向かう者は無謀ではなく、勇気である。
……彼の勇気はいずれファルサを救う事になるかも知れない。 いや、ファルサだけでなく、ディ・リターのゼルナー達を救う事になるかも知れない。
その時、彼は紛れもない勇者となる事だろう。
――
ファルサはマザーの命令通り、ジャーベを連れてディ・リターへ旅立った。
ちょうどその頃、ディ・リターとハーブリムの連合軍がハギトを討伐したという衝撃的なニュースがバハドゥルの街を駆け巡った。
バハドゥルの出入り口には常に数十人の守衛が不審者を警戒していた。 ところが、彼らはハギトが討伐されたというニュースを聞いて警備をそっちのけで宿舎へ籠り、現地でスパイ活動をしていたシビュラから提供されたハギト討伐時の映像を、手に汗を握りながら食い入るように見入っていた。
その為、地上の出入り口には誰も守衛がいなくなり、ファルサとジャーベは難なく地上へ降り立つ事が出来たのであった。
ディー・ディーとネマは『機械解放同盟』のメンバーを密かに郊外の廃倉庫へ集結させ、そのボロボロの倉庫を新たな拠点として、シャヤとファルサの帰りを待った。
ファルサの話では、シャヤはマザーが救ってくれるはずだと聞いていたが、マザーの姿も声も知らない彼らは『一体、どうやってマザーはシャヤを救ってくれるのか』皆目見当もつかなかった。
「マザーは本当にシャヤを助け出してくれるのかしら……」
仲間と共に何やらチェスのようなゲームに興じているネマに向かってディー・ディーが心配そうに言うと、ネマは「大丈夫だよ! 神様が救ってくれるって言うんだから、必ず救ってくれるよ」と楽観的な事を言って、電子版に浮かび上がったホログラムの駒を睨みつけていた。
「……うーん。 マザーは、どうやって管理エリアに侵入するつもりなのかしら……?」
……
高層ビルが建ち並ぶエリアは、管理者として登録されたゼルナーでなければ立ち入る事が出来なかった。 その為、管理者達のみ立ち入る事が出来る『管理エリア』と市民には呼ばれていた。
市民や一般のゼルナー達がいる住居エリアと、管理者達がいる管理エリアとの境界は壁などで隔たれている訳ではない。 境界上にバハドゥルのゼルナーだけがデバイスを使用して視認できる透明なバリアが張られており、デバイスの無い市民がバリアの存在をうっかり失念して管理エリアへ侵入すれば、たちまち高圧電流が発生して市民の侵入を阻止した。 高圧電流はかなり威力があり、運が悪ければ侵入した市民はアニマが破壊されて爆発してしまう事もあった。
管理エリア内の巨大な高層ビル群は、先日の大地震で何棟かが煙を上げて損壊してしまったが、住居エリアの被害状況と比較して、甚大な被害状況では無かった。 ただ、ビルの至る所にジェットエンジンを背中に積んだ作業用機械が、外壁の修繕や建物の補強工事で忙しく飛び回っていた。
高層ビルの下、網の目ように敷設された道路にも多くの作業用機械が往来し、反重力装置が故障した部分を修理したり、資材や燃料を運搬していたりと混雑していたが、管理者達は全ての仕事を機械達に押し付けて自宅で寛いでいた。 管理者ではないゼルナー達は何もしない管理者に代わって、仕方なく管理エリアの警戒に当たり、地面から少し浮いた状態でスイスイとスケートでもしているかのように、やる気の無い態度で道路を滑るように行き来していた。
管理エリアには管理者達が住む高層ビルの他に、一際高い三本の塔が聳える教会のような白く輝くクリスタルガラスのような建物が建っていた。 この建物はバハドゥルにある建築物で最も高い建物であり、市民や一般のゼルナーが暮らしている住居エリアからでも良く見えた。
この水晶のように輝く建物こそ、管理者の長であり、マザーの『僕』を自称する『レヴェド』がいるバハドゥルの管理棟であった。
――
マザーのいる大聖堂は住居エリアと管理エリアの真ん中に位置していたが、その真ん中の大聖堂を南進むと飲食店街となっていた。 飲食店街を東に進むと場末の酒場が軒を連ねており、毎晩多くの市民が嬌声を上げたり、おだを上げたりしていたが、ハギトが引き起こした地震の影響でパッタリと人足が途絶え、現在は人気の無いうら寂しい様子であった。
そんな場末の酒場から小汚い裏路地を通ってさらに東へ向かうと、突然、キラキラと輝く青色の道路が目の前に広がる。 猫も跨ぐような異臭漂うゴミだらけの裏路地の先が、反重力装置の埋め込まれたタイル張りの美しい道に変わる異様な光景に、殆どの市民は『自分達とは住む世界が違うのだ』と立ち入る事を躊躇した。
しかし、それでも敢えて管理エリアに立ち入ろうとする者も少なからずいた。
つい最近では、酒場で酔っぱらった一人の器械が『度胸試し』と称して境界を越えて管理エリアに立ち入ろうとしたが、見えないバリアの強烈な電流で中央処理装置が破壊されるといった悲しい事故が起こった。
また、先日の地震の際には恐怖のあまり混乱した市民が数名、管理エリアに誤って侵入して大怪我を負うという痛ましい事故も起きた。
大怪我を負った者はまだ運が良い方で、運が悪ければバリアによってアニマが破壊され、木っ端みじんになる者もいたのであったが、性懲りもなく管理エリアへ立ち入ろうとする輩が後を絶たないというのは、やはり、ニンゲン……ではなく、器械のサガというものだろう。
――そして、ファルサとジャーベが地上へ旅立つ準備をしている間にも、一人の女性が場末の酒場を越えて、無謀にも管理エリアに侵入しようと境界へ向かっていたのであった……。
……
目の前に広がる青いタイル張りの道路の手前でジッと立ち止まっている一人の女性――彼女は透明なバリアの前で管理エリアの奥に聳え立つ管理棟を見つめていた。
その時、たまたま通りかかった二人の市民が、彼女の様子に不信感を持って立ち止まり、何やらヒソヒソ話をしながら彼女の様子を覗っていた。
「アイツ……もしかしたら、管理エリアに侵入するつもりじゃないのか? 見たところ、ゼルナーでは無さそうだし、ただの器械のようにも見えるが……」
ショル・アボルの皮で造ったボロボロの服を纏った男が、心配そうに隣の男に話しかけていた。
隣の男は全身が赤錆びた金属で出来ている器械であった。 まるで、骸骨のような不気味な外観であり、イヤらしい金歯をむき出しにした口に含み笑いを浮かべて女性を眺めていた。
「……いや、あの女は間違いなくゼルナーだ。 しかも、アイツはバハドゥルの器械じゃねぇ」
骸骨のような器械がそう断言すると、ボロを纏った器械は「――えっ!? 何で、分かるんだ?」と目を丸くした。
彼女は金色の長い髪の女性で黒色の修道服に身を包んだ地味な格好をしていた。 ただ、ケープは着けておらず、首に金属繊維で出来た白のマフラーを巻いており、フェイスマスクのようにマフラーを上げて顔の半分まで隠していた。 その為、彼女の表情までは分からなかったが、アメジストのような美しい紫色の瞳を宿す目に眉をひそめて管理棟を睨みつけているようであった。
彼女のような恰好をした器械はバハドゥルでもしばしば見かけた。
しかし、彼女の様子を覗っていた骸骨のような器械は、彼女が他の都市からやって来た器械であり、しかも、ゼルナーであると確信していた。
その確信には理由があった。
まず、彼女が履いている黒い靴が地面に接しておらず、反重力装置の無い高層ビルエリアの外にいるにもかかわらず、宙に浮いていた事であった。 恐らく、ファルサと同じく靴底に反重力装置を装備しているのだろう……。
もはや、これだけで彼女がゼルナーであるという事が判ったのだが、さらに、彼女が明らかにバハドゥルのゼルナーでは無いと思わせる点もあった。
彼女は背中に銀色の十字架を背負っていた。 この鈍く光る大きな十字架は先端が折れており、背中に背負う為のヒモなどがある訳でも無く、まるで彼女の背中に張り付いているかの様であった。
十字架を背中に背負う代わりに、首からは水晶のようなペンダントをぶら下げており、時折そのペンダントを握りしめては、目を閉じて何かを呟いていた。
「――あの背中にくっ付いている十字架を見てみろよ。 あんなモノ、バハドゥルでは見た事がねぇ。 先端が折れて破損しちまっているが、ありゃきっと高性能のデバイスに違いねぇぞ。
俺の予想に間違いはねぇ……アイツはエクイテス辺りから来たゼルナーに決まっている。だとしたら、アイツは管理エリアとの境界にバリアが張られている事を知らねぇ可能性がある……」
水晶のペンダントを握りしめて何やら呟いている女性を嘗めるように眺めている骸骨のような器械は「ククク……」と含み笑いを洩らし、隣の仲間に再度話かけた。
「――おい、相棒よ。 アイツが境界に踏み込んだ瞬間、アイツはあり得ねぇほどの超高圧電流を食らってCPUが破壊されるはず。 そうなったら、お前……管理者達に見つかる前にヤツを攫っちまおうぜ」
恐ろしい提案をする骸骨のような器械に対し、ボロ着を纏った器械は「――えっ!? そんな事……出来る訳……」と躊躇する様子を見せた。 しかし、骸骨のような器械は落ちくぼんだ目に真っ赤な瞳をランランと光らせながら――
「――何、マジメ腐ったふりしてんだ! あんな上玉をゲット出来るチャンスなんて、滅多にねぇんだぞ! しかも、あの女はゼルナーだ。 オメェも本音ではゼルナーの女を抱きてえんじゃねぇのか? えぇ、おい――」
と、醜い下心を声高に主張し、下を向いて懊悩するボロ着を纏った器械の脇腹をチョンチョンと突いた……。 すると、ボロ着を纏った器械は観念したかのように「……うん」と頷いて、顔を上げた。 そして、彼女の艶めかしい肢体をヤラシイ目で見つめると、如何わしい妄想を膨らませたのか、骸骨のような器械よりも鼻息を荒くし、興奮した様子を見せた。
「……クックック、オメェ、本当は俺よりスケベなんじゃねぇのか?」
ケタケタと悪趣味な金色の歯をむき出しにして笑う骸骨を、恥ずかしそうに横目で見ながらモジモジと手をこねるボロ着の器械……。
――この辺りは未だ地震の影響で人通りが少ない。 恐らく、この女性も管理エリアに侵入する為にあえて人通りの少ない場所を選んだに違いないと二人の器械は推測した。
「――女がバリアにやられてぶっ倒れた瞬間に出力をブーストさせて、管理者達が来る前に攫っちまおう。 その時、ヒトに見られたって構わねぇ……なにせ、こんなチャンスは二度とねぇからな」
二人は、女性が管理エリア内へ侵入しようとしているに違いないと確信していた。 そこで、彼女がバリアによって体内の部品が破壊され、気絶するのを根気よく待つことにしたのであった。
……
一般器械にとって、異性のゼルナーと関係を持つ事は滅多に無い。 ゼルナーが時々一般器械に惚れて関係を持つ事はあるが、その逆は皆無である。 一般器械がゼルナーと結ばれる事は玉の輿に乗るようなものであり、多くの器械達はゼルナーの伴侶となる事が憧れであった。
だが、バハドゥルのゼルナー達は管理者と同じく自尊心の高い者が多かった。 誰も下級市民などと結婚しようと思う者はおらず、バハドゥルにおいて、ゼルナーと市民との階級の差は絶対的なものであった。 したがって、もし、バハドゥルの市民がゼルナーに恋をすれば、その恋は永遠に成就する事が無い辛く苦しい恋になるだろう。
そう言った事情から、市民の中では故障したゼルナーや、アニマが破損して著しく性能が落ちたゼルナーを強引に自分のモノにしようという不届き者がいた。
もちろん、彼らの悪行がマザーにバレれば重い罰を受けることになる。 その為、彼らはゼルナーからデバイスを奪い、マザーとの通信を遮断する事でマザーの追跡を逃れようとするが、そんな猪口才なマネをしてもマザーは全ての器械を把握しているので、すぐにマザーの知るところとなり、彼らは捕まってしまう……。
……だが、それでも、欲に塗れた器械達の犯罪は後を絶たなかった。
彼らは、ほんの僅かな間でも自分の浅ましい欲望を満たすことが出来れば良いのである。 すぐにマザーの手の者がやってきて『矯正』されてしまう運命であるにも拘わらず、彼らは刹那の欲望に執着し、儚く消えていくのである……。
……ある意味、彼らが最も人間に近い感情を持っているのかも知れない。 その点、器械を人間に近づけようとしているマザーの思惑は成功したと言って良いだろう。 もちろん、マザーはそう思っていないだろうが……。
……
二人の器械達が緊張した面持ちで見つめる中、修道女のような女性は、青い床が敷かれている管理エリアへ侵入しようと足を一歩踏み出そうとした――。
(クックックッ……バリアに触れれば一瞬で体内の部品を破壊させる電流が流れ、アイツはその場で倒れるはずだ……。
そうすれば、俺がアイツを拉致して、好き放題出来る)
赤錆びた金属で出来た骸骨のような器械は、如何わしい妄想を全神経回路に集中させて出力を上げた。
(すぐに、女を拉致しないと管理者達が駆けつけてくる――。 幸い、今なら管理者達がいないし、通行人もいない……良いタイミングだ)
もう一方のボロ布を纏った器械は悪事に手を染める事に良心の呵責があるのか、それとも、単に意気地が無いだけなのか、骸骨のような器械より後ろに下がって息を飲んで女性の動向を見つめていた。
そして、女性が青い床に一歩足を踏み出した――。
「今だ――!」
骸骨のような器械がネズミのような俊敏さで、女性の傍へ駆け寄ろうとした――
――しかし――
「……はっ!?」
骸骨型の器械が駆け出した時には、すでに女性の姿が忽然と消えていた!
「はっ、ハァァァ――!?」
全出力を欲望へ向けた骸骨は、立ち止まろうと慌てて出力を抑えようとしたが、急な出力調整でレギュレーターが破損してしまい、そのまま勢いに任せてバリアを越える――
「トメテ、ヤメテ――! た、タスケテェ――!!」
空しく響く悲鳴と共にバリアを越えてしまった骸骨は、赤錆びた骨が金色に輝くほどの高圧の電流を全身に浴びた。
『バチバチ――』という悍ましい電気が迸り、青く輝く電流の中で真っ黒い骨のシルエットが映し出される……。
そして、骨の髄まで焼き焦がされた骸骨は、仲間が唖然とした様子で見守る中――
『ドカンッ――!!』
と小さいキノコ雲を上げて、薄汚い欲望と共に儚く散って逝った……。
……
住居エリアと管理エリアの境界の間で小規模な爆発が起きた事で、ゼルナー達が慌てて現場へやって来た。 ボロ着を纏ったムッツリ助平は、仲間が木っ端みじんになった事に恐れをなして一目散に逃げて行ったが、結局、監視カメラに一部始終が撮影されていたので、数日も経たず逮捕された。
監視カメラの映像では逮捕された器械の他にも怪しい修道服の女性が映っており、その女性は管理エリアの境界に足を踏み入れた瞬間にカメラからも忽然と姿を消した。 管理者達は騒然とし、ドローンやデバイスを使用して女の行方を片っ端から探したが、その痕跡すら見つける事が出来なかった。
ところが、この状況を管理者のゼルナーがレヴェドに報告したところ、レヴェドは慌てる風もなく「貴様らは引き続き女の行方を追え」と言い残し、シャヤが監禁されている地下牢へと向かって行った。
――
シャヤはファルサの自宅で泥のような怪物に捕縛された後、管理棟へと連れて行かれた。
そして、華奢な胴を鉄鎖で縛られて、レヴェドの前へ引っ立てられた。
レヴェドは大広間の真ん中で、玉座のような仰々しい椅子に座っていた。
後ろから管理者のゼルナーに蹴り飛ばされてレヴェドの前へ転がったシャヤは、薄っすらと青いライトを顔全体に光らせながら、怯えた様子で顔を上げた。
レヴェドは濃紫の法衣を着ている青年であった。 まるで刃のような細く鋭い目をしており、薄い唇に笑みを浮かべながらシャヤの姿を見下すように眺めていた。
額には雫のような刻印が刻まれており、刻印はボンヤリと青く輝いていた。
首からは金色の十字のネックレスをぶら下げており、法衣の下は金属繊維で出来ていると思われるラクダ色のシャツを着ていた。
両耳には瑠璃色のピアスを付けており、サラサラとした銀色の髪は先端へ行くにしたがって、ピアスと同じ瑠璃色に染め上げられていた。
彼の外観は一見すると目つきの悪い聖職者という様子であった。
だが、オイルに塗れた悍ましい棍棒を床に突き立て、杖のように両手で押さえながら、前のめりになって不気味な笑いをシャヤに向けている姿は、狂気に満ちた悪魔そのものであった。
――彼はシャヤに向かって「……鍵は?」と呟いた。
「カ……カギ……?」
シャヤには何の事か分からなかった。 それでも、レヴェドはしつこく「鍵は――?」と繰り返しながら、玉座からゆっくりと立ち上がり、怯えるシャヤへカツカツと靴音を鳴らしながら近づいて来た。
そして――
「鍵は――? 鍵……鍵ィィィ……
カギィは何処だぁ――?」
銀色の髪を振り乱しながら、手に持っている棍棒でシャヤの体を容赦なく打ち付けた。
「ヤ……ヤメテ……」
(ファルサ……サマ……タスケ……)
シャヤはココロの中で何度もファルサの顔を思い浮かべてはファルサに助けを求めた……。 しかし、声に出せばレヴェドが見せしめにファルサを標的にしないとも限らない。 あくまでも、ファルサとは単なる主従の関係である事を思わせる為に、ファルサの名前は一切口に出す事は出来なかった。
唾を飛ばしながら刃のような恐ろしい目をひん剥いて、シャヤに向かってひたすら棍棒を振り下ろすレヴェド……。 両手を折られ、両足を破壊され、顔を潰されたシャヤは、ファルサの顔を思い浮かべながら、やがて、意識を失ってしまった……。
「クッ、クッ、クッ……鉄クズの分際で随分と強情ですねぇ。 キサマが『あのお方』のお姿を再び蘇らせる『鍵』である事は、このワタクシはとっくに存じ上げているんですがねぇ」
シャヤはすでに意識を失い、レヴェドの言葉は聞こえていなかった……。 その事に気が付いたレヴェドは「――チッ!」と忌々しそうに舌打ちをした。
「――ちょっとでも折檻すればたちまちブッ壊れる……。 機械というのは鉄クズと言うよりも、むしろ、紙クズと言った方が良い程、脆弱でツマラナイ物ですねぇ……」
レヴェドは冷酷な言葉を吐き捨て、玉座の後ろに控えていたゼルナー二人を一瞥した。 すると、彼の目配せに二人のゼルナーは一礼をし、無残な姿になったシャヤの傍へと駆け寄った。
「このゴミを地下牢獄へブチ込んでおきなさぁい!」
良心の欠片もないレヴェドの命令に、二人のゼルナーは「ハッ!」と一礼をして畏まり、おもむろにシャヤの首に鎖を巻き付けた。
「――オラ! こっちゃ来い!」
二人のゼルナーは意識の無いシャヤに向かって罵声を浴びせ、首が捥げるほどの力で強引に鎖を引っ張り、そのままズルズルとシャヤを地下まで連れて行った……。
……
レヴェドは何故、シャヤに拷問を加えたのだろうか?
彼はシャヤの事を『あのお方』なる者の姿を蘇らせる鍵だと言っていた。
『あのお方』とは、他でもない、マザーの事である。
レヴェドはシャヤがマザーの姿を蘇らせる鍵となる部品を何処かに隠し持っているという情報を聞きつけて、シャヤにその居場所を吐かせようと執拗な拷問を加えたのである。
――ところが、レヴェドが聞いた情報は誤っていた。
実は、その鍵と言うのは物理的な部品ではなく、暗号化されたデータの解除キーの事であった。 そして、その暗号化されたデータはシャヤの記憶装置に格納されており、シャヤにある刺激を与えるとシャヤの体内に解除キーが生成されて閲覧する事が出来る仕組みであった。
暗号化もされている重要なデータを何故、シャヤのような作業用機械が記録しているのか?
その答えは簡単であり、実はレヴェドが思っている程、シャヤが格納しているデータは重要なものでは無いのだ。
そのデータは、単にマザーの真の名前と姿が記録されたデータであったのだ。
だが、そんなデータが何故、シャヤのような作業用機械の記憶装置に格納されているのか?
マザーの本当の名と真の姿は、ただ一人を除いては誰も知らなかった。 いや、誰の記憶からも消去されてしまったと言った方が良いかも知れない。 辛うじて、イナ・フォグと一部のマルアハは彼女の名前を思い出す時があるが、それも夢の中や一瞬の間であり、すぐに記憶は風のように散ってしまい、再び忘却の彼方へと彼女の名を置き去りにしてしまった。
マザーは別に自分の名前と姿が器械達の記憶から消されてしまっても構わないと思っていた。
ところが、世界中の全ての者の記憶が白紙となった厄災により、器械だけなく自分自身でさえも記憶が消去されてしまう恐れがあった。 したがって、マザーは自身の名と真の姿が全ての者の記憶から消去される寸前に、咄嗟に身近にいた作業用機械達の記憶装置へ自分についての情報を格納したのだ。
万一、自身の名前すら忘れてしまった時の為に、自身の記憶が消去された時を起動トリガーとして、作業用機械に格納したデータを自身の脳内に再転送させるようにプログラミングしたのである。
つまり、マザーが作業用機械に自分の名前と姿に関する情報を保存した理由は、自分自身の記憶が消去された時のバックアップの為であり、器械達に思い出して貰う為ではなかったのである。 (……だが、イナ・フォグとライコウに対しては、ココロの片隅では自分の事を思い出して欲しいという気持ちがあったようだ)
……こうして、マザーは身近にいた作業用機械に自身の情報を記録した。
という事は、つまり――
シャヤはかつて、マザーに仕えていた作業用機械であったのだ。
だが、マザーは初めからシャヤが自分に仕えていた機械であった事に気づいていた訳ではなかった。 シャヤがファルサによって助けられ、メイドとしてファルサに保護された時に、シャヤがかつて自分に仕えていた作業用機械であると気づいたのだ。
シャヤが部屋に飾っていたあの写真を見て――。
……
ちなみに、シャヤに関する誤った情報をレヴェドへ提供した者は誰なのか?
それは、レヴェドの主であるマルアハであった。
普段の彼女は精神錯乱しており、眷属であるレヴェドすらまともに会話が出来ない程であったが、時々正気に戻る事があった。 彼女は正気に戻った時にレヴェドともう一人の眷属を呼びつけた。 その時、レヴェドにマザーの本当の名前と姿を思い出したいので、マザーの傍にいた作業用機械からその情報を入手して欲しいと頼んだのだ。
だが、彼女はレヴェドに誤った情報を伝えた。
『――その作業用機械は「奇しきラッパ」を隠し持っており、そのラッパがマザーの名前と真の姿を全ての者の記憶から蘇らせる鍵となる』と……。
レヴェドは今まで下らない雑用を主から何度も頼まれており、主の頼みにはほとほと嫌気がさしていたが、今回の頼みに限っては鼻息を荒くして了解し、喜々としてその作業用機械の詳細を主から聞いた。
ところが、主は鍵を持つという作業用機械の型名を忘れてしまっており、その作業用機械がマザーに仕えていた時の『No.802』という俗称しか覚えておらず、相変わらずのいい加減ぶりでレヴェドを憤慨させた。
レヴェドは仕方なく『No.802』という機械を部下のゼルナー達に命令して世界中くまなく探すように指示したが、器械ならいざ知らず、データベースにも登録されていない個体が多い作業用機械から特定の個体を探す事は容易ではなく、一年経っても、二年経っても何ら手がかりを得る事も出来なかった。
しかし、先日、ファレグと戦っている時にファレグからある事実を聞かされた。
――『かつて、マザーの身の回りの世話をしていた作業用機械達は、皆、意思を持っている』と。
ファレグの話を聞いたレヴェドは、そういう機械に心当たりがあった。
(下級ゼルナーの自宅で飼われているシャヤという機械が怪しい……)
レヴェドはファレグとの戦闘を切り上げてバハドゥルへ戻るや否や、部下のゼルナーにシャヤに関する調査を命じた。
部下のゼルナーの話では、シャヤはただファルサという下級ゼルナーの自宅で『飼われている』だけでなく、あろうことか、ファルサはシャヤをまるで器械のように丁重に扱っているという……。
そして、噂ではシャヤはまるで意思があるかのように喜怒哀楽を表現し、臨機応変に振舞うとの事であった――。
ゼルナーからシャヤの報告を聞いたレヴェドは「ゴミクズなどに慈悲を掛けるとはムカつく野郎ですね」とファルサに対して不快感を持った。 そして、レヴェドの為に息せき切って報告しに来た部下を理不尽にも殴り飛ばし、怒りの溜飲を下げた。
「フハハハ――!! ついに、見つけた! ワタクシの愛するお方の真の姿を復活させる『鍵』が――!!
ヒヤァァ、ハァ――!! あの、夢にまで見た美しいお姿を、再びこの目で拝見する事が出来る『鍵』が――!!」
恍惚な表情を浮かべ、殆ど白目を剥いて天国へとイッてしまいそうな不気味な様子で身を捩るレヴェド……不気味な高笑いをし、矢庭に部屋を飛び出そうと駆けだしたかと思うと、扉を護るゼルナーを何の前触れもなく蹴り飛ばした……。
手当たり次第に目に入った部下たちに悉く暴力を振るいながら管理棟を飛び出したレヴェドは、マザーの素顔を夢想しながら目を輝かせて一目散にファルサの自宅へ向かった。
ジャーベはファルサが外出した時を見計らってレヴェドが来たと思っていたが、実際は、たまたまレヴェドがファルサの自宅に到着する寸前に、ファルサが外出したに過ぎなかったのだ。
そして、ジャーベと共に地下へ隠れていたシャヤを見つけ出し、彼女を拉致したのであった。
シャヤを拉致したレヴェドは、彼女の電源を切って眠らせた後――『奇しきラッパ』というキーワードでメモリ内のデータを検索した。 すると、そのキーワードに該当するデータが見つかったが、どうしても外す事が出来ないプロテクトによってアクセス拒否されたのであった。
それにより、レヴェドはシャヤがマザーの名を知る作業用機械である事で間違いないと確信し、シャヤに凄惨な拷問を加えてデータの暗号化を解除させて『奇しきラッパ』なる物の隠し場所を聞き出そうとしたのであった。
ところが、当のシャヤは、自分が暗号化されたデータを格納している事など身に覚えがなく、全く何の事だか分からなかった。 それにレヴェドが言う『あのお方』という者も、一体誰の事だか分からなかった。
シャヤは何度もレヴェドに『自分はそんなデータなど記録していないし、誰の事を言っているかも全く分からない――人違いではないか?』と拷問を止めるように懇願したが、レヴェドは「鉄クズの分際で汚い口を聞くものじゃありません」とシャヤの懇願を無慈悲に拒絶し『鍵』だ『ラッパ』だと狂ったように叫びながら、シャヤの体から煙が出て意識を失うまで、ひたすらシャヤの体を叩きのめしたのであった……。
――
レヴェドによって捕らわれたシャヤは、管理棟の地下にある牢獄に監禁されていた。
哀れなシャヤはレヴェドによって散々痛めつけられて、鉄格子で閉ざされた独房に横たわっていた。 体の至る所からバチバチと火花を散らし、天井から滴る水で中央処理装置の熱を冷やしながら、ファルサの無事を祈っていた。
シャヤは薄れ行く意識の中で、ファルサのはにかんだ笑顔を思い浮かべていた。 自分のような顔の無い機械を「愛している」と言ってくれたファルサ……。 彼女ももちろんファルサの事を愛してはいたが、出来る事なら自分の部屋に飾ってある写真の女性のような美しい顔になって、ファルサを愛したかった。
(……デモ、ソレモ叶ワヌ夢ノママ……。 モウ、ファルサ様ト、オ会イスル事モデキズ、私ハコノママ永遠ニ停止シテシマウ……)
レヴェドに執拗な拷問を受け、中央処理装置は暴走し、視覚カメラは壊れ、顔は凹み、両足はグシャグシャに破壊されてしまっていた。 それでも、顔の奥で薄っすら光るライトは、まるでファルサの事を思い出しているように淡いピンク色の光をぼんやりと称えていた。
(ファルサ……サマ……)
バチバチと体に火花を散らし、シャヤの意識がいよいよ途切れそうになる――
――すると、シャヤがいる独房の前に何者かが佇んでいる気配を感じた。 その気配は、あの忌まわしいレヴェドではなく――どことなく、ファルサから感じるあの温もりに近い気配であった……。
「……!? ファルサ様……?」
シャヤは渾身の力を振り絞って壊れた体を起き上がらせて、鉄格子の先の影を見つめた。
――シャヤの顔から期待を込めた微かなライトが放たれて、鉄格子の先の影を照らし出す――
「可哀そうに……。 酷い仕打ちを受けたものね」
……そう口に出した鉄格子の先に佇む者は残念ながらファルサでは無く、修道服に身を包んだ金髪の女性であった。
「ア……アナタハ……?」
シャヤが弱々しい声で修道服の女性に問いかけると、修道服の女性は人差し指を唇に当てて「シィ――」っと言って、シャヤに言葉を出さないように合図を送った。
「――体に障るから出力は上げない方が良いわ。 すぐに此処から出してあげるから、しばらく黙って体を休めていて」
修道女はそう言うと、鉄格子に向けて右手を斜めに上げて手刀を造った。
そして、その手刀をシュッと振り降ろす――すると、触れてもいない鉄格子が、真っ二つに切断され、カラン、カランと音を立てた。
独房に使われている鉄格子はただの鉄では無い。 ナ・リディリでラキアが監禁されていた独房と同じく、特殊な合金で造られている鉄格子であった。
並みのゼルナーでは曲げる事も難しい鉄格子を、その修道女は触れもせず手刀で切断して見せたのだ。
修道女の言いつけを守り、黙ったままのシャヤであったが、いとも簡単に鉄格子を破壊し、あっさりと独房の中へ侵入して来た修道女に対して、やはり、驚きを隠せない様子で力なく光るライトをピコピコと赤く点滅させていた……。
「怖がる事はないわ……。 すぐに貴方を修理してあげる……」
修道女はそう言うと、首から掛けているビー玉のような水晶のペンダントを握りしめ何やら歌を呟きだした……。
『キリエ――エ――レイソン――
――キリエ――エレイソン――
――クリステエ――レイソン――
――キリエ――エレイソン……」
修道女の美しい歌声は、微かな声で呟いているにもかかわらず、シャヤの集音機へ一句漏らさず響き渡った。
体に響く共鳴は、シャヤの焼き付いた処理装置を冷やし、体内のオイルを再び巡らせた。
そして、修道女の歌が終わる頃には、シャヤはレヴェドによって打擲された痛覚すら感じなくなり、折れた腕は不思議と再び動かせることが出来るようになった。
「……ナンテ、ステキナ歌声デショウカ……」
シャヤは感動のあまり、自分の体が再び動くことが出来るようになった事も気付かず、顔全体に喜びのライトを光らせた。
「この歌は、私の『主』が教えて下さったの……。 ほら、もう体は良くなったでしょう」
「――!? ソウイエバ……ワタシノ体ガ……」
シャヤは折れ曲がった両腕がすっかり元通りに動かせるようになった事に驚いて、ライトをチカチカと光らせながら不思議そうに両手を曲げたり、伸ばしたりしていた。 だが、潰れた両足や顔、破壊された視覚カメラは治すことが出来ず、目の前で自分を救ってくれた天使のような美しい声をした女性の姿を確認する事は出来なかった。
「――ア、有難ウゴザイマス――
――ソレト……」
シャヤは修道女に体の故障を治してもらった事よりも、彼女の美しい歌声が聞けた事が何よりも嬉しかった。
「……久シブリニ、コンナ美シイ歌ヲ聞カセテ下サイマシタ事ニ、感謝ヲ――」
シャヤの言葉に修道女は顔まで隠していたマフラーを首まで降ろして、健康的な小麦色の肌を見せた。 そして、驚いた様子で美しい紫色の瞳をシャヤの顔に向けた。
「……久しぶり? 貴方、もしかして……」
先端が少し内側に丸まった長い金色の髪は、口先が少し突き出したアヒルのような唇に掛かっており、言葉を紡ぐたびに微かな吐息でキラキラと揺らめいた。
「イエ、申シ訳アリマセン。 ワタシハ、コンナ美シイ歌ヲ聞クノハ初メテデス」
シャヤは確かに先ほど「久しぶりに歌を聞いた」と言った。 ところが、シャヤの言葉の間違いなのか、今度は初めて聞く歌だと言い直した。 いや、言い直した訳ではなく、恐らく、シャヤは自分が思わず口をついた言葉を記憶していなかったのだろう……。
「……久しぶり……ね」
修道女はそう言うと、立ち上がり――しゃがみ込んでいるシャヤに向かって手を差し伸べた。
「さあ、早く、こんな辛気臭い場所から出ましょう――」
修道女の差し伸べた柔らかい手を、シャヤの金属製のヒンヤリとした手が掴む。
すると、その時……
『……クックック……』
と不気味な笑い声が何処からともなく響き渡ってきた――。




